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帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】

侵略という思想

ここまで明治維新に関連する事象をいろんな視点で考察してきた(つもりである)。が、それでも「奇跡的」とも言えるこの近代化に、アジアに深い傷跡を刻み続けた西欧列強が直接的に介入してこなかった理由がいまいち合点がいかなかった。

帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥

過去のシリーズ内でも同じことを検証してきたが今一度「侵略する側の視点」で見直してみる。

アジアに西欧列強が侵略を始めたのは、新大陸と称されたアメリカが独立し(1778年:日本は徳川将軍第10代家治〜側用人田沼意次の時代)、そこで得られていた植民地利権を失うことによって他の地域に「植民地としての搾取対象を求めた」のが原因であった。

しかしそれ以前の大航海時代の頃から西欧とアジア諸国の公益は盛んになっており、種子島へのキリスト教・鉄砲の伝来もその一つの現われである。

鎖国:wiki
鎖国完成まで
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
・1612年(慶長17年)幕領に禁教令
・1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
・1620年(元和6年)平山常陳事件。英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
・1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
・1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
・1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
・1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
・1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
・1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
・1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[参考 8]。
・1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
・1637年〜1638年(寛永14年〜15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
・1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[参考 9]。
・1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
・1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
・1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
・1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
・1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
・1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

武士の時代。主従関係を中心とした価値観と体制を危うくさせる宗教や思想に対して絶対的な拒絶を行って鎖国を完成させたことがわかる。それは経済支配を含む西欧列強の進出を結果的に止め、清国の侵食をウォッチするに最適な環境でもあったとも言えよう。

1800年頃の植民地
※1800年頃の植民地(クリックで拡大)<画像元:植民地主義(wiki)>

西欧列強は新大陸発見と同時にアフリカに進出し黒人奴隷の供給地として一部支配していたが、部族社会で国家としての体をなさないアフリカ大陸の殆どの地域は産業革命後の近代化された欧米には未整備の広大な土地でしか無く、開発投資から入らなければならない「手のかかりすぎる土地」でしかなかった。すでに多大な投資をした挙げ句独立されてしまったアメリカの轍を踏むよりも、「既に完成された国家を乗っ取る」方がコストパフォーマンス的にも優れているわけだ。

アフリカ大陸に比べると文化的経済的に自立し民族・宗教・文化の集合体としての国家を形成していたアジア地域は、欧米列強の進出(侵略)対象として好適地であったことは間違いない。

1850年頃の植民地
※1850年頃の植民地(クリックで拡大)<画像元:マスコミに載らない海外記事>

体制が確立した他国を征服するには「軍事侵攻」が一番早い。経済進出し、そこで経済抗争を発生させ現地国側の蜂起を誘発すれば軍事侵攻の口実は手に入る。あるいは侵略国同士が現地で対立し戦争に発展させてその地での優劣を決すると同時に支配権を強奪、または戦勝国への依存体制を深める戦略がある。実質的な支配に至りさえすれば、もともとある体制を一部利用しつつ効率的に「侵略度」を深めることが出来る。

地図を見ればわかるが航空機がない時代、物資の輸送ルートは当然陸路と海路しか無い。つまり海路上の中東からインド、ベトナムやインドネシア、中国と大陸沿いの周辺国が軒並み植民地化されている。インドの綿花やスパイス、中国の茶・陶磁器・絹の輸送ルートは現在でも石油などの輸送ルートでありインド洋から南シナ海・東シナ海は交易の要衝と言える。日本は資源もなく、これらの国に比べて自給自足がやっとの貧しい小さい国であったため、貿易拠点を確保し他の西欧列強を排除して貿易を独占するような旨味がない。血を流してまで征服する魅力に欠けるという点もある。

あと、西欧列強が日本を手に入れるにあたって逡巡したとすれば、支配体制の分かりにくさだったかもしれない。

権威の最上位にある朝廷と軍事経済を牛耳って実質的支配権を有する幕府の二重支配構造は、西欧列強の近代的支配体制である立憲君主制に似てはいるものの、独裁的な実権を持つ将軍が天皇の勅許を得なければ、内政以外の政治課題(外交権・安全保障など)を処理できないという不可思議。日本的な体制故に最終的な実権がどこにあるのか不明瞭である。

だから日本の近代化を援助し、支配体制を西欧型に作り変えて(侵略しやすく変更させて)時間を掛けて慎重に進めていったようにも思える。なぜなら他のアジア諸国よりも複雑な体制と興味深くならざるをえないほどの国民の識字率の高さ(知的水準の高さ)、シンプルで独特の文化に支えられた美意識と好戦的な武装階級(武士)の数の多さ。

力攻めでは採算が合わず、上手く立ち回って経済支配を目論むほうが有利と考えたことだろう。

実際に、当時の日本の貴金属の価値基準(交換比率)が西欧とは異なったために貿易をして日本から「金銀」を入手したほうが単純に儲かったことも大きい。

幕末の通貨問題:wiki
外国人商人が1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んで4枚を小判に両替して、国外に持ち出し地金として売却すれば莫大な利益が得られることとなった。地金としての1両は4ドルに相当する。従って、1ドル(メキシコドル)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで利益を上げることができた。実際には、開港直前の1859年6月25日(安政6年5月25日)の触書の中で、その当時小判として最も多く流通していた天保小判は一分銀5枚の増歩通用と、は8枚から9枚と跳ね上がった。それでも一年間にこのような両替を5〜6サイクル程繰り返し、利益を上げることが可能であったという。結果、大量の金(小判)が海外に流出することになる。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしたことを、日記に記している。幕末の通貨問題

金の流出対策として通貨の改鋳なども行われたが、国内経済にはインフレの発生という副作用を伴うなど不平等条約とあいまって幕府を悩ませた。実際の金の流出量に関しては諸説あるが、金融業者にはこの上なくオイシイ話に違いない。金融や流通の社会インフラを有し、国民の知的水準の高い国ならば、外国人が入り込む余地はむしろ「知的な部分」が最もコストパフォーマンスが高い。つまり情報や資金・武器そして技術の提供で十分利益を挙げられる。自らの血を流して奪い取るよりもリスクが少ない。

生麦事件を機とした薩英戦争や下関戦争こそ外国軍と日本側の武力集団が交戦したものの、その後の戊辰戦争には直接介入しなかった点でも、直接的侵略から方針転換したと見るのが妥当だろう。

日本人だけが知らない戦争論:苫米地英人フォレスト出版(2015年)
日本人だけが知らない戦争論じつは、1864年から始まる長州戦争から1868年からの戊辰戦争の流れも、クロムウェルのイングランド内戦をひな型にして周到に計画されたのではないかと疑うだけの充分な材料があります。
 そのひとつは、資金源。

 薩州や長州で討幕運動が活発化し、戊辰戦争に至るまでの膨大な戦費は、イギリスの銀行家が提供していたと見られます。いっぽう、幕府は幕府で、フランスの銀行家からそれを受けていたと考えられます。
 このように書くと、戊辰戦争がイギリスとフランスの代理戦争だったかのように見えますがそうではありません。当時イギリスは第1次産業革命のさなかで、「世界の工場」と呼ばれ、世界中に綿製品などを輸出していました。幕府が買っていたのも当初は綿製品でした(後に武器が主になっていきます)。つまり輸出でお金を稼いでいる国でしたが、イギリス国家そのものは度重なる戦争による破産状態で、戦費を銀行家から借りている借金国家でした。
 ですから、薩長にお金を貸していたのは、イギリス政府ではなく、イギリスの銀行です。フランスも全く同じ状態で、幕府にお金を貸していたのはフランスの銀行です。もちろん、フランスもイギリスも銀行の株主は同じ人たちです。

つまり株主はそれぞれの国のロスチャイルド家一族ということになる。上述の薩英戦争や下関戦争は、尊皇攘夷思想に凝り固まった(反幕府的)外様の雄藩の起こした衝突だが、これらの藩で尊皇攘夷を藩の行動基準として主流派を形成したのは、藩上層部ではなく若い下級武士たちだった。

日本人だけが知らない戦争論:苫米地英人フォレスト出版(2015年)
 彼らは、脱藩という天下の重罪を犯してまで京に出て潜伏し、隙(すき)あらば敵対する浪士を殺傷しあうなど暴動を繰り返しました。これは、イングランド内戦やフランス革命のさいに、どこからともなく現れた得体の知れない民兵の存在を想起させます。
 日本の小説やテレビドラマは、彼らをさも国家の未来を憂える若獅子の群れであるかのように描いてきましたが、実態は必ずしもそうではないように見えます。むしろ、「世相の混乱を演出するために京の町に送られた傭兵」というほうがぴたりときます。
(中略)
 また、高杉晋作の奇兵隊も実態は同様だったようです。町の地蔵の首を切ったり、無銭飲食する輩などがかなりいたようです。ちなみに5000人以上いたとされる奇兵隊御楯隊遊撃軍などの諸隊の資金の出所は、一切の記録が残されていません。
 坂本竜馬の新政府綱領八策にみられる民主的な国家統治の視点は、イングランドやフランスの革命においても、改革の要諦とされた内容です。これは、竜馬に、おそらくグラバー(幕末に活躍したスコットランド出身のイギリス人の武器商人・実業家)達がレクチャーした知識をもとにしたものでしょう。議会政治を実現し、王から通貨発行権をもぎ取らなければ、いくら中央銀行の設立にこぎつけても、ヨーロッパの大銀行家が貸した戦費を回収し、さらに巨額の利益を独占することはできないからです。

他のアジア諸国には直接的な戦争を仕掛けたりしていた西欧列強が、日本だけ直接的な支配を実行しなかった背景が、「国家として西欧程ではないが成熟していた点」であるとしたら、イギリスやフランスのような内戦を誘発して経済支配を狙う<ロスチャイルド一族>の思惑が、「これ以上の戦費を出したくない英仏両政府側の意思と連動した結果」だとしたら、実に狡猾な手法によって日本は近代化させられたものだと言わざるをえない。

ロスチャイルド私に一国の通貨の発行権と
管理権を与えよ。
そうすれば、誰が法律を作ろうと、
そんなことはどうでも良い。


マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1790年の発言)
なぜ反ロスチャイルドなのか

国家が常にその繁栄と国民の幸福を希求し実現する上で、あるいは独裁者の絶対権力で欲望を満たす意味でも、必ず必要なのは資金である。産業振興であれ軍備であれ福祉政策であれ、その国の経済状況とは切り離せない。だからこそ下手な為政者よりも絶大かつ絶対的な影響力を行使できるのは、金を生み出せる権力者だけなのだ。金をコントロールできるものは戦争もコントロールできる。つまり世界をもコントロールできる。その意味で、明治維新に彼らの意思が無関係であるとは思えないのである。

彼らがレクチャーした近代化と帝国主義的世界観(倫理観)がその後日本をアジア唯一の近代国家ならしめたのは間違いないが、やがて朝鮮半島や中国大陸に目を向け始めたのもはたして純粋に国家の安全保障上の問題だったのかが疑問に感じてきた。つまりそこにも「西欧列強(ロスチャイルド金融財閥)に誘導された戦争」の可能性があるのではないかという疑問である。

少なくともその後、(対外戦争に勝利したこともあるが)日本が領土拡張主義に陥ったその原点とも思える文章がある。明治維新に大きな影響を与え、反幕府の姿勢を崩さなかったため刑死した長州藩の吉田松陰によるものである。

幽囚録:wikisource
吉田松陰日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。

※リンク先に原文記載あり<画像元:吉田松陰(wiki)>
幽囚録
<画像元:樹冠人蔵書目録>

ペリーの来航に刺激され、密航を企てるも失敗し、故郷の長州藩「萩城」内の野山獄に収監されたときに綴った事件を起こすに至った「思想の変遷」の記録である。後の大東亜共栄圏構想に通じる「西欧列強とは違う日本主導の新秩序づくり」が既に現れており、学問上の師であった佐久間象山の「海防八策」(海軍力を整備して西欧列強に対抗する国防論)以上に突出した膨張主義になっている。師の佐久間象山も吉田松陰も頭脳明晰ではあったのだろうが、人物的には問題の多い人格でその評価は賛否が激しく交錯する。

薩摩閥が減退し、長州閥が政権中枢を占める時期が続いたこともあって、松蔭の壮大な安全保障政策と未来へのビジョンが帝国主義と合流し、(他国から見て)日本の独善的な国際感覚の発露である「大東亜共栄圏構想」が芽吹いたといえるのかもしれない。

こうなると最早「侵略被害国予備軍=被侵略国」としての視点では捉えられない。対外的な形勢不利も飛び越えて、完全自主防衛独立のその後に、帝国主義的侵略国への脱皮にまで飛躍していたのだといたら、海外の金融資産家の調略を得なくても「近代国家とは対外膨張(侵略)国家」と誇大妄想的に解釈を膨らませていたようにも見える。

佐久間象山も吉田松陰も幕末期の英才であったが、西欧列強の帝国主義思想に染まり「自主独立と国威拡張」という「独善的侵略・支配」を「後進国に対する開化支援」の美名の中に覆い隠そうとしていたのかもしれない。それは尊皇思想から来る少中華主義ならぬ新中華思想(というか日本中心主義)的な自国の国益を最大限に希求して、周辺国もろともに近代化して西欧列強の侵略に対峙するという、ある意味でご都合主義的または強迫観念に支配された選民思想の発露と見えなくもない。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書

陰謀史観-戦前期日本の膨張主義-
十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけての帝国主義時代には、国家が生存するためには武力の行使や威嚇で領土や勢力圏を拡張するのは当然とするのが、国際社会の通念となっていた。食うか食われるか、という弱肉強食の論理である。
 ところが、長い鎖国体制を解いて開国はしたが、列強に植民地化されそうだという危機感のなかで幕末、維新の思想家や志士たちは早くも日本の対外膨張を夢想していた。清国・朝鮮など他のアジア諸国には見られない特異な現象だった。


上述の吉田松陰の幽囚録などは対外膨張を妄想したものとして代表的だが、秦氏の著作を読むと同様の膨張主義が開明派と呼ばれた名君や思想家によって提示されている。例えば吉田松陰の幽囚録(嘉永7年:1854年)に遡ること約30年前には、もっと壮大な膨張主義を掲げた人物もいる。

宇内混同秘策:wiki
佐藤信淵佐藤信淵が1823年(文政6年)に著した、日本国内の統治論および世界征服論を開陳した奇書である。混同大論、巻一、巻二、泉原法略説から成る。

<画像元:不二草紙>

「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也故モ能ク其根本ヲ經緯スルトキハ即全世界悉ク郡縣ト為スヘク萬國ノ君長皆臣僕ト為スヘシ」で始まる本著は、強烈な自民族至上主義と、国内の統治及び世界征服の方法に関する極めて詳細な記述が大きな特色となっている。
本著で佐藤信淵は、世界を征服するために日本国内を固めることが大事だと説き、江戸に遷都し、日本の政治機構を3台(東京〈江戸〉・西京〈浪華つまり大阪〉・京都)14省(駿府・名護屋〈名古屋〉・浪華〈大阪〉・膳所〈大津〉・高知・松江・萩・博多・熊本・大泊〈鹿児島〉・金沢・沼垂〈新潟〉・青森・仙台)に分けた統一国家を作り、八丈島や小笠原諸島を開発し、さらにフィリピンを取ってその資源を利用し、かつ東京の防衛に備えることを主張した。

海外征服について、彼は「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と書き、中国征服を世界征服の第一歩として捉えた。軍事的及び経済的に満州以北を征圧した後に、中国本土へ台湾と寧波から侵攻し、そして南京に仮の皇居を定め、明の皇帝の子孫を上公に封じて従来の祖先崇拝を認めた上で、神社や学校を建てて教育せよと彼は述べている。中国を征服した後は、周辺の国も容易に征服出来ると彼は考え、最後にヨーロッパへ侵攻せよと主張している。

いや〜「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也」「日本は歴史上最初の国家であり世界の根本になる国である」とは、韓国起源説同様のトンデモな主張であるが(爆)海外渡航経験もなく書物などの耳学問を昂じた結果の結論であるなら「井の中の蛙」でしか無い。これが自国愛(愛国)の結実点とするなら笑うしか無いのだが、それだけで済まないのはこの論説に一部符合するかのように江戸が東京と改名して首都になり、朝鮮半島を経て満州国の建国、日中戦争から仏印進駐、太平洋戦争へと繋がる流れは、正に佐藤信淵の世界征服路線をなぞっているかのように実現しているからだ。

そういう意味では、西欧の帝国主義を日本に導入した場合の侵略のグランドデザインを描いたとも言えるし予言したとも言えるではないか(^^;)
皇国が中心となった「八紘一宇」の源流となる考えも示されている点では、トンデモな学者というより先見性のある優秀な思想家と見るべきかもしれない。

他にも同じような思想を提示した書物が多数発表されていて、それらは多かれ少なかれ佐藤信淵の影響と無縁ではないと思えるのだ。

山縣有朋陸軍卿:外征三策(『陸軍省沿革史』)1874年(明治7年)
「三数万の兵を率い、江蘇を蹂躙し機に乗じて……天津を突き城下の盟を」

桂太郎中佐:対清作戦策(故桂公伝記参考書(三))1880年(明治13年)
「まず海軍が福州を攻略し、陸軍は3個師団が遼東半島より天津、ついで北京に進撃し、城下の盟を求める」

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書

城下の盟(じょうかのちかい)とは、春秋時代の中国の歴史書で思想家の孔子が加筆したとされる「春秋左氏伝」の中の一節で「敵に首都まで攻め入られてする、屈辱的な降伏の約束。」の意味。

上記の山縣有朋・桂太郎らの言葉に似たものが後年、日本を窮地に追いやることになる。日本の世界征服の陰謀を記述したとする「田中上奏文」である。

田中上奏文:wiki
田中義一昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書で、第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされ、内容は中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服する手順が説明されている。日本では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じたが、その後の日中関係悪化にともない1930年代に中国は反日プロパガンダにこの文書を利用し、日本は国連などでも答弁を求められるが各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し外交的に敗北することになった。1927年当時にはすでに死去している山県有朋が登場する等、事実関係の誤りが多いため日本の歴史家のほとんどは上奏文としては怪文書・偽書としているが、作者については諸説あり不明である。また、田中上奏文を本物と考える人は現在でも特に日本国外に存在している。
田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorial。


これらを見る限り、田中上奏文の作者は昔からつながる「膨張主義」の流れに沿っている点でこれらの著作物を参照・参考にしたことが考えられるし、史実に反する記述に関しては歴史的整合性や事実関係の把握が甘く、政策論文というよりも過激な思想を持つ人間が書いた不完全な思想論文を誰かが利用した可能性が高いと思う。ただし、これを書いたのが日本人である可能性は低くない気がするのだ。

しかし、秦郁彦氏によると田中上奏文を書いた真犯人らしき人物が指摘されている。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書
1980年頃のことだが、私は中国の大学に勤務する友人から王家禎(1899-1984)※管理人注:wikiが1960年に執筆し、北京の『文史資料集』に収録された「日本の二大機密文書翻訳の来歴」と題する回想記のコピーを入手した。王は慶応大学に学び、張学良政権の外交秘書主任をつとめ、三十代で国民政府外交部次長登用されたのち、中共時代には政治協商会議の委員になった人物である。
 その王は、1929年に日本の浪人や台湾系日本人の工作員(蔡智堪※管理人注:wikiが手に入れた材料に加工して上奏文を偽造し、政府部内へ配布した経過を記述していた。「真犯人」しか知らないはずの証言が含まれ、他の断片的記録とも符合するので信頼性は高いが、中国の歴史家でも知る人は一部に限られていたせいか、奇妙な現象が起きた。

本書では中国やその影響下にある国々(主に共産国家)では一時期、史実として扱われ、王家禎や蔡智堪は上奏文に関係する「上奏文否定派の一説」とされていたことが書かれている。被侵略国の中国を始めとして「日本を悪役に仕立てたい国には好都合な筋書きをまとめた田中上奏文」は、格好のツールでもあったのだ。ただ、これは少なくとも日本と西欧の歴史家では「偽書」として「怪文書」の扱いがされているし、最近では中国内でも偽書とする考えが主流となりつつあるようだ。

しかしそれでも、田中上奏文〜田中上奏文の来歴:wikiには他の説も網羅されているが、江戸末期から明治維新以降に継続して語られる誇大妄想的な膨張主義の一つの帰結点として秀逸であったとは思えるのだ。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書
 スケールがもっとも大きいのが佐藤信淵、ついで松平慶永で、後年の「八紘一宇」につながる世界制覇を夢想しているが、多くは列強の分割が未確定段階にあった朝鮮、清国を主目標とする東アジア大陸と南洋の一部にとどまる。
(中略)
 他にも、この種の勇ましい論調は珍しくなかった。林房雄が『大東亜戦争肯定論』(1964)で、「同じ意見は同時代の学者、政治家、志士の書簡や著書の中に見出すことができ、その数の多いのにびっくり」したほどだ。
 それを「日本の東亜侵略の第一歩」(井上靖)と見るか、「西力東漸(※管理人注 せいりきとうぜん:西の勢力が東の方へ押し寄せてくる意)に対する思想的反撃」(林房雄)とか「熱烈なる愛国心と民族的の自信からくる対外経綸(※管理人注 経綸-けいりん:国家を治めととのえること。その策)の萌芽」(『東亜先覚志士記伝』)と評するかは分かれるが、私にはどちらの指摘も当たってるように思える。

幕末期の武士たちの誇大妄想は、鎖国状態の事情に対する反動のようにも、「井の中の蛙」的な現実感の欠落にも見えなくはないが、自主独立を可能にする軍事力とは、当時においては帝国主義的拡張路線を現実化する点で切り離すことができないものだったのかもしれない。やるかやられるか、食うか食われるかの弱肉強食の戦国時代のような苛烈な環境に身を置く「自己陶酔的な高揚感」すら感じられるのである。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治に勃興した財閥と軍事産業

JUGEMテーマ:歴史



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帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】

本エントリは「帝国の功罪」第三期シリーズの始まりである。前回までと同様、不定期の更新となるが、今回は恐らくシリーズ内のエントリ更新は間隔が空くと思われる。
膨大な資料を読み込む時間と咀嚼してアウトプットする時間がこれまで以上にかかることが原因だが、いやはや、資料を片っ端から調べ始めると、歴史に関して特に明治以降の近代史に関しては、歴史の専門家ではないにせよ一般に比べれば結構詳しいつもりでいたのだが(^^;)その自信過剰をいとも簡単に打ち砕く情報の邂逅との連続で、これまでのエントリも少々怪しい部分が見え始めてきて(爆)筆が進まないことも予想されるからだ。

なので最初にお断りしておく。今後過去のエントリを含めて、事実関係の誤りや解釈の訂正・変更は随時行うものとする。結果的に自分の考えが最初とは変節してしまう部分もありうるので、「過去エントリと言ってることが違う」との批判は、新しいエントリのものを優先して「考えが変わった」とご理解いただきたい。


明治時代に勃興した財閥と軍需産業

陸海軍ともに明治維新後はしばらく海外からの武器輸入に頼っていた。国内で製鉄所や重工業を興しつつあっても、自力で武器を作り出す技術も知識もまだない時代、明治政府の方針により日本人の興した輸入商社から輸入する内達を行うと、それまで外国人の経営する商会の日本支社だった会社が、軒並み邦人企業として独立または元の商会の出資を得て新会社を設立、機械・船舶・武器などの軍需品の輸入商社として発展していく。

三井財閥:wiki
三井家の歴史は、太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという。
早川隆によると「三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない。」という。
三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(三越)を創業。京都の室町通蛸薬師に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け(ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。
三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳では無かったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていた。明治維新後、三井家は薩長主導の明治政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。幕末・維新期を通して、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていた。


富嶽三十六景
富嶽三十六景 二番:江都駿河町三井見世略圖

2015年度下半期NHK朝ドラ「あさが来た」のモデルとなった広岡浅子の実家であり、商売の手腕では昔から話しに聞く「近江商人」は、その時々の政府と強い結びつきを持ち、金融的に切り離せないような「癒着」を背景に激動の時代を生き残り、現在も存続している。政府と結んだことで政界とのつながりも強く、政治家を輩出したり支援したり、そのグループ全体の力は、今尚絶大な影響力があると言っても過言ではなかろう。

住友財閥:wiki
世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。
家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友(現在の福井県坂井市丸岡町出身)で、この人が武士から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けた。のちにこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を業祖と崇めた。政友には一男一女があり、一男・政以は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男・理兵衛友以を養子に迎え、ここで「家祖」と「業祖」が結合する。しかも理右衛門の妻は政友の姉であるという密接な関係だったが、この代でさらに両家の血が結合したことから、住友二代目は友以が継いだ。

別子銅山
※戦前の別子銅山

住友銅吹所発掘調査報告
以後、住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営むことになる。(現在の三井住友銀行事務センター(大阪市中央区島之内1丁目)が「住友銅吹き所跡」である。)

銅山経営で豪商となり江戸幕府〜明治維新を乗り切った住友は、経営を多角化させ巨大コンツェルンを形成する。

三菱財閥:wiki
岩崎弥太郎土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された(財閥解体)。

※画像は創業者岩崎弥太郎
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。

土佐藩は坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を弥太郎に1870年に任じた。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。これを機に西南戦争(1877年)のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。

商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない(ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らに肩入れして対抗していた)。

三菱も三井もある意味「インサイダー取引」「政官癒着」の構造で急成長し財閥となったわけだ。2010年度のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は創業者岩崎彌太郎の視点から坂本龍馬を描いていたが、ドラマの冒頭でアメリカ南北戦争が描かれ、それに使われた武器の転用が明治維新(戊辰戦争)で、ロックフェラー経由で三菱商事の前身九十九商会が新政府に武器を調達。その意味で言えば、この時既に三菱はアメリカの巨大コンツェルンの傘下に組み込まれていたとも言える。後に国策企業として軍需産業に成長した三菱は、大東亜戦争敗戦後GHQの占領支配時に財閥解体の命令で分割されるが、講和独立後占領政策から脱した時、他の財閥同様にグループ再統合の動きを見せ、現在の三菱グループを形成する。

安田財閥:wiki
安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。

みずほグループや東京海上火災、損保ジャパン日本興亜、明治安田生命など保険・金融業務をはじめ、沖電気など現存する企業は数多い。三井住友ほど派手ではないが実業としての堅実さは他の財閥と比べても遜色ない。金融業を中心とした産業育成に貢献し現芙蓉グループの中核となった財閥である。

古河財閥:wiki
古河財閥の源流は、明治8年(1875年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。
古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(大日電線と日本電線は合併し大日日本電線を経て現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。

鉱工業を中心に発展した財閥で、上記財閥と並んで日本の産業振興に多大な貢献をしてきた。機械・電機メーカーとして現存する企業も多数あり、PCメーカーでもある富士通とその系列の母体でもある。

Category:日本の財閥・コンツェルン(wiki)を見ると、庶民にはあまり知られていない(現存しておらず過去に隆盛を誇った)財閥がかなりの数掲載されている。それでもその片鱗を残し、富裕層として現在もお金持ちである一族も多く、現存する(ゆかりのある)企業名や一族の名前や著名人の出自を知ると少し驚くような人もいる。

鴻池財閥:wiki
鴻池財閥(こうのいけざいばつ)は、江戸時代に成立した日本の財閥。16世紀末、鴻池家が摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市鴻池)で清酒の醸造を始めたことにはじまる。その後、一族が大坂に進出して両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は江戸時代における日本最大の財閥に発展した。
(中略)
明治維新において、鴻池家は大名貸を帳消しにされて大きな損失を被ったとも、それほど大きな痛手は蒙らなかったとも言われる。しかし、鴻池家は維新後も、金融業から他の事業へ営業分野の拡大はあまり図らなかった。維新後のいろいろな起業の発起人には多く鴻池善右衛門(幸富)が名を連ねているが、同家の名声を利用するために誘い込まれたものも多い。明治以降の鴻池家の営業方針は堅実を旨としていたため、政商としての性格を色濃く持つ三井のように、藩閥政府の成長政策と歩調をあわせて急速に発展することはできなかった。1877年に善右衛門が設立した第十三国立銀行(のちに鴻池銀行)も他の諸銀行に次第に抜かれ、一地方銀行へと後退していった。
(中略)
第二次大戦後、財閥解体や農地改革によって鴻池家は甚大な被害を受けた。

三菱東京UFJの母体となった銀行の一つである三和銀行は本店を大阪に置く、三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行合併によって生まれた銀行で、その後度重なる銀行合併によって今は「鴻池」の名前は全く残っていない。

しかし東大阪市の「鴻池新田」と言う地名は、4代目 鴻池善右衛門 宗貞(むねさだ)が宝永2年(1705)、河内国若江郡(現 東大阪市)で石高一万七千石の新田を開発したもので、そのまま地名となって「豪商-鴻池」の名残を残している。

鴻池新田
鴻池新田:Googlemap

また、余談としては、つい最近知ったことだが(^^;)私の住む地域、それも徒歩圏にこの鴻池財閥ゆかりの建物が移築されていた。

みやけ1
みやけ2

みやけ 旧鴻池邸表屋
みやけ3
旧鴻池邸表屋は(鴻池善右衛門家の今橋本邸)大阪市今橋にあった建物で1837年大塩平八郎の乱で焼失するもののその後再建されました。広さは間口36間、奥行き20間、表屋造りの巨大な町家建築です。(1間は約1.8182mに相当)再建されることにより江戸時代の豪商の住まいの様子を後世に伝え、戦後は大阪美術倶楽部の会館として使用されておりました。
しかし、1979年に大阪美術倶楽部の改装に際して表屋が撤去される事になりました。歴史的建造物であることから保存を求める声が市民からあがったものの財政難を理由に拒否されます。そこで三宅製餡株式会社の二代目社長 三宅一真が「なんとか船場のシンボルを残したい」とこれを引き取り、奈良市鳥見町の所有地に移したのです。

その後は「資料館」として使用されてきましたが、より多くの人に歴史的建造物に触れてもらいたいという想いから、「和菓子屋・カフェ」として生まれ変わりました。

写真を撮影したのは平日の午後(2016年9月)だったが、それでも駐車場はほぼ満杯。近隣の人もこの館を見に来ただけの人、スマホで私同様撮影する人(^^;)など、立地を考えれば少し場違いなほど人通りがあった。(表通りから少し奥まった場所にあるため、たまたま偶然に人通りが多かったといえるような場所ではない)また、この場所周辺には「三宅姓」のお宅が数軒存在するので多分親族だろう。奈良県内のグルメ情報には結構出てくる和菓子店なので一度行こうとも思うのだが、平日午後でこの賑わい、しかも女性客多しなので少々敷居が高い(^^;)

大倉財閥:wiki
大倉喜八郎は天保八年(1837年)に越後国新発田に生まれ、18歳で江戸に出た。21歳で独立、大倉屋という乾物店を開き、その後鉄砲屋を開業。その後貿易事業へと乗り出した彼は、大久保利通、伊藤博文、山県有朋らとの親交を深め、一代にして大財閥を築き上げた。
進取の気性に富む大倉喜八郎は、1872年に自費で海外視察を敢行。1873年に帰国し、日本人による初の貿易商社大倉組商会を東京銀座二丁目に創立し、1874年には日本企業として初めての海外支店をロンドンに開設した。1881年には土木事業に進出、日清戦争を背景に軍需品輸入会社の内外用達会社を設立した。

現大成建設・ホテルオークラに名を残す大倉財閥も本体の大倉商事が1998年に自己破産し財閥としては解体され消滅している。系列企業は日清オイリオやサッポロビール、帝国ホテル、リーガル(靴)などかなり有名な企業もあるが、多くは他財閥の傘下に入ったり系列から独立している。

知る人ぞ知る存在としての財閥・戦前の巨大企業として、高田慎蔵その一つの雄が高田商会を興した高田慎蔵で、日清・日露戦争時に軍需品を含む武器:機械類の輸入商社として海軍省御用商社となり豪商にのし上がる。
また、彼はテレビタレントで音楽家:葉加瀬太郎の妻である高田万由子の高祖父(祖父母の祖父)にあたる。高田商会自体は高田慎蔵の死後、経営破綻して財閥としての系譜は立たれてしまうが、この時代はこういう政府や軍関連で勃興した企業人や財閥が数多い。

↓下は2016年9月に放映された高田万由子のファミリーヒストリーで、高田慎蔵から経営破綻した二代目高田釜吉の系譜をたどる内容となっていた。

ファミリーヒストリー
ファミリーヒストリー:NHK


たまたまこの番組を見たが、一部で知られている「お嬢様タレント」「高学歴タレント」の高田万由子にしては自分の出身一族の歴史は詳細を殆ど知らず、高田慎蔵のスケールの大きさ、当時の高田商会の富豪ぶりに素で驚いている姿が印象的であった(^^;)

また、当ブログで数回紹介している星一も明治時代後半から昭和初期(戦前)において、急成長と崩壊に至った代表的な企業家である。

星一星一:wiki
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、福島県いわき市出身の実業家・政治家。略称、ホシピン。SF作家星新一の父。写真植字機を開発した石井茂吉と森澤信夫が出会うきっかけとなった星製薬を築いた。また、星薬科大学の創立者。
それまでは輸入に頼っていた、外科手術に不可欠なモルヒネの国産化に成功する等、「東洋の製薬王」と呼ばれた。星製薬はチェーンストアという販売方式を日本で初めて確立した。野口英世やフリッツ・ハーバーのパトロンとしても知られる。なお、彼が発案した『三十年後』はSF小説であるため、それが長男の親一(新一)と関連付けて語られることがある。


第1次世界大戦の始まった翌1915年(大正4年)モルヒネ(麻酔薬)の国産化に成功した星製薬は、他にもキニーネ(マラリアの特効薬)などそれまで輸入に頼っていた医薬品の多くを国産化し巨大企業に急成長するが、モルヒネとはいわゆるアヘンの生成物質であり、医薬品であると同時に軍需物資である。

その後、国内の政治事情によって星製薬(というか星一個人)は徹底的に攻撃されることになるが、今後検証していく歴史の流れを見ると、(モルヒネに代表される)国際的麻薬ビジネスの流れに翻弄されたようにも見える。そちらは別の機会に言及することになるが、現在に至るまで脈々と存続している企業や廃れた企業、それぞれに「軍産複合体」としての役割を果たしてきたことが伺える。

経済の発展に多く寄与しているとはいえ、平和の顔をしている現存する企業の多くは、海外の(外資系)企業と同じく、少なからず血塗られた歴史とともにあることを忘れてはならないのだ。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

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Posted by soup2001 | -  -



テレビの時間【てれびのじかん】

私は昭和35年生まれだが、物心がついた時(つまり覚えている限りの幼児期の最初の頃)我が家にテレビがあったかどうかが定かでない(^^;)5歳頃まで住んでいた大阪府寝屋川市の借家時代(祖父はこの家で他界)、幼稚園やお絵かき教室の記憶、通園路の田んぼの畦道、貧血で卒倒した幼稚園の先生(^^;)、木の床の質感・・・が微かに思い出されるが、そこにテレビのイメージは浮かんでこない。
小学校から住んだ現在の奈良市(現住所)になってようやく白黒テレビの記憶が残る。ウルトラQやウルトラマンはこの白黒テレビで見たし、ウルトラマンの最終回、ゼットンに敗れてウルトラマンが地球を去る回はブラウン管の故障?で音声だけのラジオドラマになってしまい、幼い私は号泣してたらしい(爆)

しかしNHKの子供番組「ブーフーウー」の記憶はある。とすると寝屋川市時代に既にテレビはあったのかもしれない。自分で主体的に見たいと思ったのがウルトラQだったが、映画好きだった父が円谷プロを知っていて円谷プロ制作の特撮テレビドラマが始まるのを新聞で知り、私に「怪獣が出てくるテレビが有るぞ、見るか?」と尋ねてくれた記憶がある。当然「見る見るー!」と、初回放送「ゴメスを倒せ!」で夢中になり、その後日曜日の夕方は6時30分のサザエさんに始まり、7時からのウルトラシリーズ、7時30分からの藤子不二雄アニメ(おばけのQ太郎〜パーマン〜怪物くん)に続く私にとってのプライムタイムとなり(^^;)8時からはようやくチャンネル権を父に返してNHKの大河ドラマを見ていた(^^;)その後の私の「歴史好き」はその影響かも?(爆)



その当時、私の居住圏で視聴可能なTV局は6局(すべてVHF)NHK2局と民放4局は今のキー局とほぼ同じ。後発のUHF(地方局)が見られるようになったのは小学校高学年か中学生ぐらいの頃で、父が買った最初のカラーテレビでは確か選局できなかったように思う(ダイヤル式の選局だったのでVHFとUHFでふたつの選局ダイヤルが必要だがVHFのダイヤルしかなかった)その後、故障などでUHFが選局可能なテレビに買い換えたこともあったが、基本的にVHFのキー局放送を主に見ていたため、UHFに合わせるのは京都テレビが阪神巨人戦を放送するときぐらいで(^^;)VHFと違い、試合終了までやってくれたので見たぐらいだった(^^;)

その当時は集合アンテナではなく各戸個別のアンテナで受信していたため、立地によっては映りにくい局があったりしてそれで見る番組を決めていてこともあった(^^;)そうそう、奈良市内なのに地方UHFの奈良テレビは映らなかったのだ(爆)

BS放送(アナログ)がスタートした平成元年、九州に長期出張していた私がたまたま仕事柄得た情報でBSに興味を持ち、電気店で売られていた受信セットを購入し自力でチューニングして受信に成功した時、父が「エラい時代になったもんだ」と妙に感心していたのを思い出す(^^;)

街頭テレビが話題になった頃のテレビ黎明期、すでに40代だった父には、そこから四半世紀後に訪れた多チャンネル時代が全く想像できなかったのだろう。大して学業が優秀ではなかった息子(私)が1人でそのシステムを理解して受信できるように設置してしまったのも驚きだったのかもしれない(^^;)

BSアナログはNHKとWOWOWにBSラジオのSt.GIGAで映像放送は実質3局(NHKハイビジョンは当初放送されていなかった)しかなかったし、全部がペイテレビ(有料放送)だったため、一部の物好きしか加入しなかったようだ(爆)それでもスカパーやディレクTV(2年ほどで撤退)など、有料多チャンネル時代はその後も形態を変えながら更に拡散していく。

映像を供給するプラットフォームがあまり変わらないままにVOD(ビデオオンデマンド)化されインターネット対応していくうちに、映像版PODCAST的にあるいはテレビで鑑賞するYOUTUBEのような形態に変化し、それでも多種多様なVODサービスが出現する度に「少々うんざりしていた」私であった。

いくらたくさんあっても「見る時間」が無い上に沢山ありすぎて見たいものを探せない以上、無いのと同じなのである(^^;)

最近また新しい動画サービスが始まったらしい。PCでブラウザでも閲覧でき、もちろんスマホ対応(アプリ使用)で生中継(録画放送?)も行われて、有料課金ユーザーには放送終了後のオンデマンドサービスも対応。Amebaのサイバーエージェントが仕掛け人のAbemaTVである。AmebaではなくAbemaと言うのは登録名が使えなかった(先に登録されていた)とのことでAmebaを逆から読んだものにしたというなかなか砕けた発想のサービスだ。(^^;)ただ、同じ系列のFRESHという動画配信サービスも存在する。

AbemaTV

Fresh

何故似たようなチャンネルが別にあるのかがよくわからないが(^^;)テレビ朝日とタッグを組んだものとオリジナルを両方展開したということのようだ。

Abema TVとAbema TV FRESH。違いは何?:DateMegane

もう先々週になるが、8月17日このサービスを知ってスマホやらPCやらでふたつのサービスを試してみた。
きっかけはこのツイートをたまたま拾ったことにある(^^;)

紗倉まな

紗倉まな朗読LIVE

AV女優が官能小説を朗読するなどというのは民放各局や衛星放送でもなかなか難しい試みであろうし、さすがネットテレビ局ならではの企画である(^^;)

彼女は小説も書くし、こういうバラエティ的な企画にもきちんと適応するポテンシャルの高さを持っている。期待されるものをちゃんと表現し、アウトプットできるある種の「才能」の持ち主なのだろう。今度その小説とやらも読んでみようか(^^;)

他にも↓時事的なニュース系動画も配信されているし(爆)

竹田恒泰チャンネル

今このエントリを書いている時にスマホで流していたのは、FRESHでの陸上自衛隊による「平成28年度富士総合火力演習(そうかえん)」生中継である(^^;)

まさか総火演が生中継で見られる時代が来ようとは(爆)

自衛隊総合火力演習



天候が悪かったため空挺団の降下訓練は中止となったが、タイムスケジュールの空白は事前に用意していた自衛隊の短編プロモVTR(島嶼地域防衛編)が差し込まれるなど用意も周到(^^;)しかし、普段ミリタリーオタクでもなければ装備品の性能など知る機会もないのでこういうのはやはり興味深いし、陸上自衛隊が戦車隊や砲兵隊を駆使する戦いとなるのは、本土に敵が上陸された状況でもあるので実際の戦いは非常に激しくシビアなものになる。

一瞬で一定地域を制圧する散弾砲など結構えげつない兵器も展示され(^^;)やはりこういう(えげつない=非人道的にも思える)兵器を展示することも抑止力の一部なのだと実感した。

多チャンネル時代が本格的に到来したのがようやく体感できた気がする(爆)

携帯向けの動画配信サービスではなく、ニコニコ生中継などの独自配信の放送がビデオオンデマンドと合体してテレビ受像機にこだわらない視聴スタイルを確立する。電波を独占的に専有しているために放送法で制約を課せられる地上波や衛星放送など、もはやこれまでの「テレビ受像機」は必ずしも主役とは限らない時代が到来したということでもある。

<ワンセグ敗訴>受信料制度に一石 NHK、徴収にも影響:Yahoo!ニュース
 NHK受信料を巡り、さいたま地裁が26日、携帯電話のワンセグ放送だけでは受信契約を結ぶ義務はないと判断したことで、現行の受信料制度の限界が改めて明らかになった。

アンチ度がどんどん増してくるNHKだけにザマミロザマミロ(爆)と言うところではあるが、悔しいことに時々は良質の番組があるのも事実。とは言えいま定期的に見ているのは「英雄の選択」「大河ドラマ」くらいしか無い。昔ほどテレビ(地上波・衛星)を見なくなった今、AbemaTVのようなCSをネットでカバーした(再放送が豊富)局が増えてくると天下のNHKといえども安穏とはしていられないのも事実。

視聴者を軽視して破滅的低迷に陥ったフジテレビにNHKが続いてしまう危険性はないとはいえないのだ。その一端が早速晒されたのが「貧困JK捏造放送」である。

【炎上】NHKに自称「貧困女子高生」が登場するも豪遊発覚。同級生も怒りの告発:netgeek
NHKが特集した貧困特集に登場した女子高生の「うらら」さんについて、実はお金には全く困っていないのではないかと囁かれ始めた。当の本人が豪遊している証拠をネット上にたくさんアップしていた。
(中略)
その後、ネット上では同級生たちが貴重な証言をしてくれた。
・うららさんが生徒会長をやっているのは内申目当て
・生徒会長は「やりたくなかったけどやらされた」と言っている
・応援演説が得られなくて職員室前でごねていた
・ここぞというときに泣いて先生に言うことを聞かせる
・生徒会長としては全く仕事をしておらず、副生徒会長が仕事をしている
・皆勤賞は遅刻したのを先生に交渉してなかったことにしてもらったから
・ワンピースのイベントに親戚の結婚式と嘘をついて行った
・生徒会の友達も無理矢理「自分がお金を出してあげるから」と連れて行った
・無責任に生徒会活動をサボったので生徒会メンバーは総スカン状態
・神奈川県立横浜明朋高校は偏差値36のバカ高校
・進学できないのはお金の問題ではなく頭の問題
・NHKの取材が来たとき、一緒にお昼ご飯を食べる友達がいなくてNHKのスタッフが「誰か一緒に食べてあげて」
***
過去の豪遊について発掘している間、うららさんのものとみられていたTwitterアカウントとpixivアカウントは過去のデータを全削除。まんまと答え合わせをしてしまったのだ。

軽薄な女子高校生はもう社会的にも制裁されているようなものなので画像は出さないが、この件ではしっかりNHKの「捏造的演出」と取材対象に対する「利益相反」が確認できる点で、もはや朝日新聞と同レベルの「捏造メディア」と認定するしかなさそうだ。

【速報】貧困女子高生の姉が登場。明らかにした4つの真実:netgeek
この記事では結論は出さず、あとの判断は読者にお任せしたい。うららさんの家庭は母子家庭で平均的な所得を下回っているのは確かだろう。だが、会議でスピーチをして援助を求めるほどなのか、本当に無駄遣いはないのか、本人の自業自得な側面はないのか、という点については議論が起こりそうだ。
貧困JK捏造

NHK報道局の戸田有紀記者はこの貧困問題を扱う市民団体とつながっている上にその会合に「貧困JK本人」も出席している(^^;)

超貧困JKうららさん Twitter垢発見され豪遊人生を満喫してるのが発覚 NHKどうすんのっと:保守速報
874: アトミックドロップ(福島県)@\(^o^)/:2016/08/19(金) 12:16:14.09 ID:ERh9idWr0.net
>>15
124 (アウアウT Saa7-D2ET)[] 投稿日:2016/08/19(金) 04:05:36.52 ID:6ZsjIGeAa (2/2)
子ども貧困対策センター設立準備会
賛同人一覧
戸田有紀 NHK記者 東京都
http://khtcjp.blogspot.jp/p/sandou.html



かながわ子どもの貧困対策会議
出席者
戸田 有紀 (NHK報道局 遊軍プロジェクト 記者)
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p1048226.html


傍聴人にうらら

うらら

あ、出しちゃった(^^;)まぁ、他でよく出てきてるようなアップじゃないしいいか(爆)

自分が関係のある組織の利益を図るために内輪で事実を隠し捏造して公表する。朝日新聞の植村隆が義母が関わっていた慰安婦問題を援護するために記事を書いたのと何も変わらない。たとえどんなに公正な理由があろうとも、取材者自らが属している(関係のある)組織をネタに記事を書いた場合、それは純粋に「報道」とは呼べなくなる。

植村隆の時と同様に、自分が持ち込んだネタであっても自分が主体的に関わる組織に関連する以上、本人が記事にしては「報道人のモラル欠如」を責められても当たり前なのだ。「報道」を一個人の意志によって恣意的に捏造し利用した。もはや戸田有紀記者は報道人としての資格を失ったのである。

うららにしても私に言わせれば「浪費貧乏」ではあっても「貧困」ではない。むしろ浪費癖があるため生活の一部に支障があるけど「貧しさを楽しんでる」ようにも見える。つまり、
貧困ではなく貧楽の高校生にすぎない。

貧楽:コトバンク
貧乏であるために,気をつかうことも少なく,かえって気楽であること。貧乏ゆえの気楽さ。

本当に生活を優先する気があれば(貧乏状態を軽減したければ)、Twitterで自ら晒した浪費の数々を減らせば良いのであって、テメエの贅沢のために誰が支援するっていうんだよ!という他者の観点が著しく欠けている。

取材謝礼(お金)目当てで記者の言うままに演じたのだろうが、それによってバッシングされるのは自業自得でしか無く、どんなに誹謗中傷されても身から出た錆でしか無い。

テレビというメディアが、かつてのような一方的な洗脳メディアではなくなった今、映る側(被写体)になることの危険性を知るべきなのだ。そしてそれは映す側(放送者)もまた、市民の監視の目があることを知るべきであることは間違いない。

「双方向テレビの時代がやってきた」とは地デジ普及の時に叫ばれたフレーズだが、ネットというリアルタイムにリアクションが出てくるテレビ以上のメディアが市民の側にある以上、これからのテレビの時間は既存メディアの思い通りにはならないのである。

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顛末【てんまつ】

安倍総理の「消費増税延期とアベノミクス継続」を参院選で争点化し野党連合(?)の追撃をかわす戦略は、野党のお約束の「安保法制〜改憲への警鐘」という有権者受けの悪い対立軸への誘導を引き出し、当面は安倍総理の思惑通りに進行しているように見える。

野党側が「アベノミクス失敗」をいくら訴えようとも、アベノミクスがスタートした時点で実質的に景気は上向いになりかけた。それに水を差したのが「5%→8%への消費増税」だっただけに、再びの増税延期はそれ自体が「アベノミクス4本目の矢」にも思える「景気対策」と考えることも出来る。

消費税
<画像元:ハフィントン・ポスト>

財務省への説得工作も不思議と功を奏し(?)財政再建への道筋を先延ばしすることで景気の腰折れを防ぐとともに、増税による消費低迷に向かいかねない消費マインドを盛り上げる狙いだが、ある経済学者などによれば「消費税そのものが不要」と言う。

「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした〜それどころか…なんと2016年、財政再建は実質完了してしまう!(高橋洋一):現代ビジネス
借金1000兆円、国民一人当たりに直すと800万円になる。みなさん、こんな借金を自分の子や孫に背負わせていいのか。借金を返すためには増税が必要だ。……こんなセリフは誰でも聞いたことがあるだろう。財務省が1980年代の頃から、繰り返してきたものだ。

テレビ番組は時間も少ないので、簡単に話した。「借金1000兆円というが、政府内にある資産を考慮すれば500兆円。政府の関係会社も考慮して連結してみると200兆円になる。これは先進国と比較してもたいした数字ではない」

これに対して、番組内で、ゲストの鳥越俊太郎さんから、「資産といっても処分できないものばかりでしょう」と反論があった。それに対して、多くの資産は金融資産なので換金できる、といった。

筆者がこう言うのを財務省も知っているので、財務省は多くのテレビ関係者に対して、「資産は売れないものばかり」というレクをしている。鳥越さんも直接レクされたかがどうかは定かでないが、財務省の反論を言ってきたのには笑ってしまった。

借金が1000兆円あるのは確かだが、政府資産もかなりの量があると言うのはあまり語られてこなかった内容だ。「心配ない」と主張する楽観論の大半は「借金の殆どは国債で日銀や日本系の銀行が主に買っている。債権の回収権や基準となる売買は日本国内で行われ、海外に流出しているものは少ない。よって金融危機に遭遇し為替差損が起こっても海外投資家が投げ売りして最終的にデフォルトに陥るリスクは少ない」というものだった。

自分が借金してもそれは親に借金してるのと同じだから、真のリスクではないとの喩え話は、なんとなく合点の行くものではあったが、たとえ親でも借金は借金。甘く見てこじれたら一番厄介なのも家族・親族なので(^^;)それでも借金はないほうが良いよねぇ・・・というのは正常な感覚だろう。
だから元本返済だけじゃなく金利分も見据えた借金プラン(増税と言う名の合法的踏み倒し)と言うのは、普通に納得できる話ではある。しかし親に相当な額の借金をしていても、実は換金可能な株や預貯金に土地や高級車を持っていたなら、実質的な借財は少なく無いとはいえ最悪の場合でも元本に近い額は返済可能だ。親に金を借りようとする前に、贅沢を止めるなり政府資産の一部を処分して、少しは返済したらどうだ。・・・と言うのも真っ当な話に聞こえる(^^;)

記事の続きは有料会員用らしいので(爆)ヒントだけしかもらえなかったが、国の借金が実質的には言うほど多くはないし、それ(借金)を理由に増税云々は嘘をついて金をせびる「マスゾエ級の詭弁」であると(爆)言った内容が想像できる。

だったら増税も必要ないしむしろ減税も可能なはず・・・。と言うのは庶民の正直な感情だろうが、金の亡者(財務省)はそれを認めようとはしない。何せ東大出のエリート官僚の言うことに間違いはないのだ(爆)

消費税はそもそも社会保障費の財源としての目的税の性格を持っているし、増税延期は社会保障財源の確保も延期ということになり野党側が反発している通り「選挙対策で社会保障政策を弄んでいる」と言う批判はあながち的外れではない。
高橋洋一氏が言うように、まず財政の健全化を図るために肥え太った政府官庁の税金天国をダイエットしても良いのではないかと思うのだが、東大出のエリートはやはり東大出のマスゾエのように他人の金を自分のもののように使う事に躊躇がない(爆)

日本の最高学府は上手く税金泥棒を行う人材を育てているということになるのだ。

まぁ、社会保障費の財源を目的税化すれば撤廃しづらくなり、他から財源を振り当てる必要が出てくる以上、官庁がしっかり確保する特別会計予算と豊富な政府(及び官庁の)資産を切り崩すことは当該省庁の抵抗も強く困難だ。安倍総理の目的は「景気浮揚(アベノミクス)」「安全保障政策(安保法制〜憲法改正)」なのは明白なので、財政再建には腰が引けている。元々やりくりのうまい総理ではないだけに(^^;)次の内閣まで実質的な財政再建策は期待できまい。

消費税の増税で「社会保障費の財源確保は待ったなし」と言われていたが、どうやら国の借金の考え方で借財事態を見直すと
「な〜んだまだ大丈夫じゃん」(^^;)
ということになったのだろうか?まぁ、ある意味で官僚たちの蓄財(合法的な横領)を先延ばししたことと同義ならこれはまずまずの「新しい判断」とは言えるかもしれない(爆)

消費増税の延期が、以前のエントリで言及した「中国バブルとそれに依存した欧州の通貨危機」を睨んだものだということ以外にも「増税延期を考えるリスク要素」があったらしい。それがTPPである。

参加国
<画像元:原謙三国際特許事務所>

トランプがアベノミクスの息の根を止める? 米大統領予備選が「TPP反対」一色になってきた:J-CASTニュース
2016年が明けてからの大統領選の候補者指名争いで米国が沸く中、日米など12か国による「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)」発効の行方に暗雲が漂っている。TPP推進派だった民主党の最有力候補、ヒラリー・クリントン氏も含め、各候補は「TPP反対」で横並び状態になってきたためだ。

TPPは安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」の柱と位置づけられており、日本にとっての影響は大きい。
(中略)
TPPは16年2月4日、交渉参加12か国が協定文に署名した。この署名から2年以内に各国が国内手続きを完了すれば、その60日後に発効する。ただし、全12か国の手続きが終わらなくても、半数の6か国以上が手続きを終え、かつ、承認した国の国内総生産(GDP)が全体の85%を超えれば発効する。つまり、GDPの規模が大きい日本と米国が決定的に重要ということになる。日本政府は今国会で手続きを終える意気込みだが、米国での手続きが終わらない限り、発効しない。
(中略)
安倍政権はTPPを成長戦略の重要な柱と位置づけ、「TPPはGDPを実質で約14兆円押し上げる」との試算を示してきた。そんな貴重な柱を失うことになる。しかも交渉合意の立役者とも言われ、交渉内容を熟知している甘利明前TPP担当相が1月末、金銭授受問題で辞任した。年明け以降の世界的な株安と円高で、日本の経済も不透明感を増す中、「アベノミクスには黄信号がともってきた」(エコノミスト)との声も目立ちつつある。

ただ、米国が本当にTPPを承認しないかといえば、そんなことはないとの指摘も少なくない。特にクリントン氏については「当選すれば、TPP承認の方向にかじを切る可能性が高い」(エコノミスト)との見方が一般的。クリントン氏は元々、国務長官時代にTPP交渉に加わっており、「TPP不支持は選挙対策を踏まえた政治的発言」(同)と見られるためだ。

TPPは元々アメリカや日本以外の太平洋周辺諸国で自由貿易協定(FTA)の拡大版として構想されたもので、経済強国であるアメリカがそれに参加することによって「実質的にアメリカのルールで仕切れる」はずであった。ヨーロッパの安全保障体制(シリアやクリミア)での失策で評価を落としたオバマ大統領にとっては、アジアの安全保障(対中国戦略)とアメリカの景気浮揚の狙いを持つTPPは早期妥結すればするほど「自分の功績」として実績を残せる分徐々に本腰を入れてきた政策だ。

TPPはオバマの命綱−アメリカの陰謀とは:ステラ・リスクのレポート
オバマ大統領はアメリカの輸出を活発にして、アメリカでの雇用を創出したい。これはリーマンショックからの反省で、個人消費に頼りきった成長ではこれからは駄目だという結論に至っているからです。

それで、活路を目指すのが、輸出になるわけです。輸出を考えたときに、今後経済が発展できるのを期待できるのは成長率の高いアジア太平洋地域である。ここへの輸出を増やせば、アメリカの経済も発展する。これがオバマ大統領の一番の思惑です。。
(中略)
もうひとつの米国にとっての大きな目的があります。それは中国牽制です。

中国には、言うまでもなく自由貿易という意味からして、大きく他国と違い障壁、障害が多数あります。知的所有権でも、普通の製品でも模倣品も多く、ビジネスルールという意味では大きく遅れています。そんな中国にアジア圏にTPPという一定のルールを持つ経済圏を作ることでプレッシャを与えて、中国に間接的なプレッシャーをかけようというわけです。つまり中国市場を、よりアメリカの大企業が活躍したい市場にすることをアメリカは目論んでいます。
(中略)
もうひとつの中国牽制は、軍事、政治面からの配慮です。南シナ海に勢力を広める中国海軍の存在に対して、アメリカの太平洋艦隊を中心にした軍事的な抑止力があるわけで、TPPという経済的な結びつきを強めることで中国の軍事的な圧力に対抗しよという意図があるんです。つまりTPP圏対中国という図式を作ることで、総合的に中国にプレッシャをかけようとしているわけです。

この企業の詳細はステラ・リスクについてを読んでもらうとして、金融や経済・軍事や国際政治のパワーバランスまで見据えたTPP戦略であることは以前から言われてきたが、ここへ来てアメリカ内部から反発が起こってきている(^^;)どうやら日本を巻き込んだこととあまりに強引なルール付けをしようとしてTPP交渉妥結が遅れに遅れ、当初の目論見ほどにはアメリカに美味しい貿易協定ではなくなったと言うところだろうか。
安倍総理も「聖域なき関税撤廃には反対」とTPPには一部反対しつつ交渉を進め、日本側の条件をある程度飲ませて妥結しただけにいまさら停滞するのは痛手なはずである。

TPP、失効の公算に…批准手続き完了は全参加国中ゼロ、米国議会は審議すらせず:biz-journal
 TPP(環太平洋経済連携協定)は2月4日に12カ国で協定署名が行われ、各国は議会での承認手続きに入っている。TPPは基本的に2年以内に12カ国の承認手続きが済んだ段階で発効することになるが、さらに協定上特別の規定があり、各国のGDP総合計が85%以上になった段階で発効するとされている。全体に占める米国のGDP比率は60.4%、日本は同17.7%となっており、日米どちらかの国で承認されなければ、TPPは発効しないことになる。

TPP
<画像元:THE PAGE>

担当大臣だった甘利明の政治資金スキャンダルにアメリカ大統領選でのTPP不人気でいよいよTPPの発効が大幅に遅れていくことになれば、それを見据えて算段していた経済政策も狂う。あれだけ人と時間を掛けたTPPが失効の懸念すらあるわけで1〜2年先の経済動向があまりにも不確定な今、増税に踏み切るのはあまりにも冒険がすぎる。・・・だからこその増税延期であり、財務省抵抗勢力への牽制だったようにも思えてくる。

安倍さん結構慎重だね。国民の景気不安を少なくとも野党よりはしっかり汲み取っているし(^^;)どこかの馬鹿のように政策以上に自分の利益を最優先していない点では、さすが一国の宰相としての責任感を感じる所以ではある。

さて、参院選やアメリカ大統領選とTPPやそれに影響される特ア国家のリアクション。それぞれの顛末がはっきりするのは今年の年末から来年にかけてであろうか?

私個人としてはあまり期待できないし経済的にはしんどくなりそうだが(^^;)明日に希望の持てる状況をなんとか作り出して頂きたい。

まぁ、東京都以外にもそこら中に居る「東大出のマスゾエ級乞食」をしっかり駆逐することができれば、庶民的には公平感が出てきて景気は上向くような気がするんだがねぇ(^^;)

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帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】

日本海軍と軍内部の抗争

陸軍の初期戦力が支配する大名各藩の武士であったのと同様に、海軍の初期戦力は徳川幕府の海軍操練所や海軍伝習所を継承したものになった。古代の水軍を源流とする士族海軍もやがて明治近代軍の創設にあたり国民皆兵と徴兵による兵力補給を目指すが、陸軍とは決定的に違う特性があった。

陸戦部隊の陸軍は基本的に移動手段は馬・馬車・人力によるものであるが、海軍の場合は蒸気船を基本とした当時のハイテク兵器がそのまま移動手段を兼ねる。その兵器を当初こそイギリスなどに発注して装備を拡大していたが、国内の重工業の発展とともに自製率を高めて独自の開発も行うようになる。人間が兵器を携えて戦う陸軍に比して、兵器そのものに乗り込んで操る特性上、「巨大兵器産業とともに発展する」経緯をたどる。陸軍以上に開発・増強に時間と費用がかさむ点で、海軍力とはそのままその国の工業力を反映するものでもあった。

海軍の建設:帝国陸海軍の基礎知識
海軍省発足直後の明治5年(1872)年末の軍艦保有量は、明治元年よりも減って14隻、12000トンにすぎなかった。兵員も1700余名であって、陸軍の十分の一であった。

また、軍用船舶の運用には専門の施設・人材の育成機関が必要となり、全体のシステム維持には陸軍以上に費用がかさむ。しかし日本は海洋国家であり、外敵が侵攻してきた場合に最初に対峙する存在でもある。

国内での治安行動が収束し対外派兵を視野にいれる頃になると軍の予算配分は陸軍と海軍が逆転するようになる。

大日本帝国陸軍の歴史〜初期の予算配分:wiki
西南戦争に至るまでの軍の予算は、明治4年9月陸海軍定費が定められ陸軍100万両、海軍50万両となった。更に陸軍には定額外25万両が配分された、これは内乱鎮圧費として計上されていた。1872年(明治5年)からは官禄月給の支払いが陸軍定額予算から扱うようになった、それまで陸軍の官禄月給は大蔵省が支払っていた。1874年(明治7年)からは宮中御用金36,000円を年々兵備に充当し軍備増強に邁進していたが、実際には毎年の余剰予算を大蔵省に返還していた。しかし、1880年(明治13年)には政府の放漫財政支出を原因とする物価高騰により陸軍費が圧迫されていた。維新開始以来、政府は軍事費を優先的に割り当てていたが、開国以来それほど時間を経過せず西欧的資本主義体制を取り入れた明治日本の経済は近代軍備を整備維持するための経済基盤が発展途上で未成熟であった。

大日本帝国海軍:wiki
明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩藩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。

参謀本部が設立され、海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。またこの時期、軍艦は「常備艦隊」と「西海艦隊」に振り分けられていたが、これを統合し「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となる。

松島
※連合艦隊 初代旗艦「松島」<画像元:世界の戦争・歴史ブログ>

予算より見たる帝国海軍:近代デジタルライブラリー
第一 海軍の我財政上に於ける地位

議会創設時の海軍予算は大体総額約一千万円であって総予算の約一割を占めるに過ぎなかったが、日清戦争後のいわゆる臥薪嘗胆時代に於いてはその総額六七千万円に達し総予算に対する割合も明治三十年度には三割(軍事費は五分五分)にまで及んだのであった。

(中略)

第四 海軍と貿易

 海洋国日本の生命は大陸方面たると海洋方面たるとを問わず、今後日本の盛衰は一に懸って海外貿易の隆替(※管理人注 りゅうたい:盛んになることと衰えること)如何にありとも云われ、最近財政論者中には公債発行額如何は問題に非ず問題は国際収支の状況如何にありとして海外貿易の改善伸張を強調する者の少なくないのも故なきに非ずと思う。
 又我国民の間にはよく日本国土狭小にして各種重要なる資源に乏しく且(かつ)人口過剰であるからとて色々悲観論を唱える者があるけれども、東亜南洋に亘(わた)って存在する無尽蔵の資源は日本にとっては英米等よりも遥かに手近にあるのであるし海上運賃は陸上運賃の十分の一にしか当たらないと云う点よりして日本の海洋国たる特質を充分に発揮活用するならば此の悲観論は自然解消せられるべきである。但し海洋貿易と資源利用と海軍と云う三位一体の確立は富国強兵の定石であると云わるるが如く、これらの通商航路を安全にし海洋貿易を積極的に進出せしむるが為には其の背後に毅然として其の制海権を把持するに足る有力なる海軍を必要とすることは云う迄もない。而(しか)して此の海軍力を維持する為に要する数億の経費が数百億の資源を開発し数十億の権益を齎(もたら)すとしたならば一概に海軍費の過大を喞(※管理人注:かこ:嘆いて言う)つにも及ぶまい。


1937年(昭和12年) 海軍省海軍軍事普及部 出版
※原文は旧字に旧仮名使いなので当用漢字・現代仮名使いに変更。

予算比率
※クリックで拡大

総予算と軍事費
※クリックで拡大(管理人により着色)

 キャプション 
※クリックで拡大

軍の単一の予算としては国家予算一般会計の約30%の内、約半分が海軍に割当られた格好だが、関連軍需産業にも予算が配分されていることを考えると、決して低い水準であるとは言えない。

同じような性格の政府機関である「軍」で少ない予算を奪い合うと必然的に対抗意識や敵対心が芽生える。

兵士個人では軽装備な陸軍に対し、巨大な装備に守られつつ個人的には非武装の海軍兵士。野戦が主戦場のため食に関する環境(食事内容や調理度合い)や就寝時の環境(テントに簡易ベッド)が粗末である陸軍に比べて、艦が健在であれば温かく室内で食事が取れ、室内の固定ベッドで休める海軍は戦時においても優遇されているような印象がある。しかし常に閉鎖空間の中で生活しストレス度が高く、船底は鋼板のみで沈めば生存の可能性が著しく下がる海軍に比べて、陸上戦なので敵の攻撃さえかわせればサバイバルが可能で生還の可能性がある陸軍。

それぞれに相手の職務上の特性を自分の環境と比べては批判や中傷を加えるといった感情的な対立も起こっていた。

その原因のひとつは軍政・軍令のシステムの差にある。前回の帝国の功罪(18)「日本軍の黎明」のように陸軍では当初フランス式ではあったが後にドイツ(プロイセン)式に変更される。海軍はルーツを幕府の海軍操練所に持つため、オランダから始まりフランス(幕府の軍事顧問)を経て明治新政府ではイギリス式に変更された。

海軍省と軍令部
海軍省と軍令部<画像元:探検コム>

帝国陸海軍の基礎知識(熊谷直):NF文庫
イギリスの海軍士官は貴族であり、水兵は、古くは奴隷狩りのような形で町中から連れて行かれた若者や浮浪者であった。このため士官が水兵を殴るのは当然視されており、日本海軍の名物であった精神注入棒による制裁も、イギリスに起源を求める説がある。
(中略)
陸軍と海軍は、任務からくる体質的なちがいのほかに、その師であったドイツまたはイギリス伝統からくるちがいをもっていたようである。陸軍はそれでも旧武士社会的な日本の伝統を残した部分が多かったのに対して、明治の海軍は、徹底して英国化を図り、階級制度の上にも、それが強く現れているようである。

元々は文化の違いによる軍の慣習の違いが、丸ごと導入してしまう(あるいは形から入る癖が元々ある)日本の習性と相まって価値観の差にも影響してしまったのかもしれない。

精神注入棒
※旧海軍精神注入棒(陸上自衛隊 久里浜駐屯地・歴史館: 神奈川/横須賀)
<画像元:[依代之譜]よりしろのふ>

陸軍は日本の伝統の戦い方を残していたが、同時に日本人の慣習や価値観を多く残していた。それが帝国の功罪(4)国民病「脚気」と「結核」でも言及した「脚気」の病害に苦しめられる原因となり、海軍はイギリス式を徹底したため陸軍とは異なる食環境で「脚気」が蔓延することがなかった。

それぞれにメリットとデメリットが有り、どちらがいいとは言えないが、この明治時代に創設された日本軍の最大の問題点は、やはり陸海軍を統合して指揮できる役職がなかったことである。天皇が名目上は最高指揮官であるが、軍略の専門家とは言えず実務は各陸軍大臣や海軍大臣に頼ることになる。最終決断をする決定権だけの指揮官なので、国軍の統一的行動を指揮する上で陸海軍双方に通じた専門家が判断しなければならないが、基本的にそのようなシステムでは陸海軍による主導権争いが絶えなくなる。明治時代の「元勲」が割拠していた時代なら西郷従道(西郷隆盛の弟:陸軍と海軍両方の指揮官を経験)のような人物もおり、合議制でまとまっていたが、このシステム的欠陥は常に陸海軍の軋轢を生み、軍の行動に関して主導権争いは常に起こっていた。

軍令部:wiki
長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は海軍中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。
軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。
山本権兵衛設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、戦時大本営条例に基づき、大本営では本来陸軍の軍令機関であるはずの参謀本部の長官である参謀総長が天皇に対して帝国全軍の作戦用兵の責任を負うこととされた。これに対して海軍では一貫して陸軍と対等の地位を要求し続けた。

<画像元:山本権兵衛(wiki)>

そして日露戦争の直前に、山本権兵衛海軍大臣から海軍軍令部条例を改め、名称を「参謀本部」にしたい(すなわち陸海軍の参謀本部を同格にしたい)と上奏を受けた明治天皇は、1903年(明治36年)9月12日にこの件を元帥府に諮ることを命じた。しかし元帥府はこの上奏を受け入れず、10月21日明治天皇は徳大寺実則侍従長を通じて山縣有朋元帥陸軍大将に再考を促した。結局、陸軍が折れ、戦時大本営条例が改定された。(しかし軍令部の改名は受け入れられなかった)これにより、海軍軍令部長は参謀総長と対等の立場で作戦用兵に責任を負うこととなった。さらに伏見宮博恭王軍令部長の時には軍令部の位置づけが強化され、海軍の独立性がより高められた。

しかし、組織的には陸軍の方が圧倒的に大きく、海軍は常に陸軍への吸収と隣り合わせだった。実際、近衛首相の時には日米開戦を避けるために「アメリカ海軍に勝てない」と海軍に告白させようと圧力がかけられ、海軍の存在意義が問われる事態に陥ったことがあった。これに苦慮した海軍省は「海軍は無敵である」と盛んに宣伝し、海軍の存在意義を保とうとするが、軍令部はこれに困惑した。

海軍の場合、海外派兵しようがしまいが艦船の数は限られ兵力が急激に増えることはない。(せいぜい小型船舶を雑務用に徴用する程度である)しかし陸軍は多数の予備役を「備蓄」して小火器などの軽装備を用意するだけで大部隊を迅速に編成できる。海軍は整備ドックに入らないかぎり実働可能な艦船が常時待機しているため、最低限の人員以外を非番として休ませてはいても、戦時に突入した途端「通常編成に戻る」だけのことで、陸軍ほどに大量の増員ができない。

海軍のジレンマはその機動性の確保のために陸軍以上の権力や予算を必要としたことであり、陸軍に比して「見栄っ張り」(^^;)とも思える過剰な対抗意識が後年大きな障害となって立ちはだかることになる。

旧日本軍〜日本軍関連年表(明治期):wiki

明治 3年(1870年)兵制統一布告(陸軍はフランス式、海軍はイギリス式と定める)
明治 4年(1871年)薩摩・長州・土佐からの献兵による御親兵が編成される
明治 6年(1873年)徴兵令の布告
明治 7月(1874年)佐賀の乱、台湾出兵
明治 8年(1875年)江華島事件
明治 9年(1876年)熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
明治10年(1877年)西南戦争
明治15年(1882年)軍人勅諭発布
明治21年(1888年)陸軍参謀本部条例・海軍軍令部条例・師団司令部条例公布
明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布
明治26年(1893年)戦時大本営条例を公布
明治27年(1894年)日清戦争
明治28年(1895年)日清戦争終結。日本軍、下関条約にもとづき台湾を接収
明治32年(1899年)義和団事変
明治33年(1900年)軍部大臣現役武官制を確立、北清事変
明治37年(1904年)日露戦争
明治38年(1905年)樺太作戦、日露戦争終結

西南戦争(内戦)からわずか16年、憲法発布からたった5年。日本は大清国と初の対外戦争を行う。今は2016年だが、2000年から今に至る間に現代日本はどう変わっただろうか?それと比べると明治時代の国家の激変ぶりがわかろうというものだ。間違いなくこの間に大日本帝国は「富国強兵まっしぐら」に走っていったと言える。それは徴兵制による国民皆兵が確たる力となって、そして経済振興による国力の強化とともに、軍と政府それぞれがお互いを監視し、支配しようと葛藤する歴史の連続であるとも言える。そしてその軍内部では陸と海が最初から最後までせめぎあっていた。

現在の自衛隊は身分が同じ「公務員」であるせいか、陸海空ともに「隊内に派閥はあっても仲が悪いことはない」らしい。装備の割には法理的な立場や行動規範が軍隊らしくない軍隊だけに皮肉といえば皮肉である。

軍部大臣現役武官制:wiki
軍部大臣現役武官制は、軍部大臣の補任資格を現役武官の大将・中将に限る制度であり、軍部大臣の補任資格を武官の大将・中将に限る「軍部大臣武官制」より資格者の範囲をさらに狭めている。現役とは平時軍務に従事する常備兵役を指し、現役武官の人事は天皇大権の内統帥権に属し、国務を司る内閣の関与は基本的に不可能であった。
このため、軍部大臣現役武官制の採用によって、明治憲法下の内閣総理大臣が「同輩内の主席」でしかなく組閣に軍部の合意が事実上必要となっていたことから、軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。また、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことができた。このようにして、軍部の政治介入が可能となり、軍部の政治的優位が確立した。
日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。

元々この時代に「軍の文民統制(シビリアン・コントロール」と言う発想は大日本帝国においては存在していない。天皇の軍隊、天皇の国、その国を天皇の名のもとに統治する代行機関の政府、その政府の決定に関与する帝国議会には天皇の諮問機関とも言える枢密院や富裕層の代表の貴族院、高額所得者が参政権を得る衆議院。天皇の統帥権があるかぎり、文民統制など不可能、あるいは政治思想として語られるだけの絵に描いた餅でしかなかったのだ。

独立色を強めた軍が、政府の意向に従わなくなっていくのはある意味必然であったといえる。それを天皇がどう思っていたのかは分からないが、どちらも天皇にしてみれば同等の臣下でしか無く、「合議によって決せよ」としか言えない「権威としての国家元首」では、天皇に銃を向けさえしなければ「軍はそれぞれに無限の自由を得た」と言っても過言ではない。

日本の最大の弱点は、「一度決めてしまった根本的な部分は自分自身では変えられない」ということだろう。明治維新がそれでも(内戦を伴ったが)変革を成し得たのは幕藩体制という道州制にも似た地域の独立性があったからかもしれない。
であるなら今、現代の我々はこの国(せめて憲法)を変えるにあたって、地方からの変革をもたらすシステムを一つの選択肢として持つべきとも思える。例えば地方選出の議員という形以外の立法権を持つ地方自治体首長による連合議会とかで、民意を図る一つになるようにも思える。

大日本帝国の政府と軍の関係を見る限り、現在の政府と国民の関係を見る限りそんな気がしてならないのだ。

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