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天安門【てんあんもん】

6月4日はあの天安門事件のあった日。

天安門事件:ニコニコ大百科
中国の民主化を求める学生などの若者が連日にわたり天安門広場を占拠をしていたが、1989年6月4日に中国軍が武力行使を行い、多くの民衆を殺したとされている。具体的に何人が死傷したという数字すら判明しておらず、中国共産党は「一人の学生も殺してないし、流血事件は一切なかった」としている。

中国政府ではこの事件の起こる直前から海外メディアの締め出しなど隠蔽工作に躍起になり、この事件を無かったことにしようとしたが、BBCやCNNなどの取材班がこの惨劇を中継し全世界へ配信した。
この事件の際に戦車の前に飛び出して走行を阻止しようとした「無名の反逆者」の映像が最も象徴的なシーンとして、現在でも語り継がれていることでも知られる。

20年たった今でも、インターネットの検索サイトで「天安門事件」にかんする記述の閲覧を阻止したり、学校教育でこの事件のことを無かったことにするなど、中国共産党による徹底した情報規制を行っている(当時イギリス領及びポルトガル領であった香港・澳門を除く)。
欧米諸国からの真相究明の要求も拒否し続けており、真実は闇の中である。

「八九民运」「六四运动」も天安門事件を表現する言葉として規制されている。また「六四」などの隠喩されたワードも規制されており、中国人ネットユーザーの間では、この規制を回避するために「8×8」「82」「Eight Squared」「5月35日」「TSM」などの言葉で当局の規制に対抗するべく奮闘している。



あれから27年も経過していて中国人民の中でも若い世代はほとんど事件の存在を知らないようだ。しかし親など上の世代から話には聞くのだろう、ネットで検索するためか、中国のインターネットでは「検索しても結果が表示されない(ブロックされる)」と言う。

【中国】天安門事件から27年−中国ネットは?なんと大胆広告も?!【画像あり】:人民のつぶやき
中国の若者の大半は、事件をあまりよく知らないようです。学校でも習わず、また当時を知る大人たちもあまり話したがらないとか。微博(ウェイボー)のコメント欄にも若者からでしょうか、”何が起こったか教えて”と尋ねるコメントがあったりします。
(中略)
とは言え、当局の監視にも関わらず、微博(ウェイボー)にも事件を回顧したり、犠牲者を追悼したり、なんらかのメッセージを発信しようとする人々がいるようです。
(中略)


ナンバー

これ、コラだと思うんですが、写真のピントが微妙にぼけているあたり、妙に本物っぽく見えますし… 最初の「京」は北京ナンバーと言う意味。次の「BJ」は、英語(中国語のピンイン)の北京、即ちBeijingから来ていて、よく北京の意味で使われます。そして「8964」はおわかりの通り。このナンバープレートは、「北京89(年)6(月)4(日)」を意味しています。

1989年は衝撃と不安の年でもあった。

1989年:wiki
(抜粋)
1月7日 - 昭和天皇が崩御。日本での元号「昭和」の最後の日となった。
2月2日 - ソ連、アフガニスタンから撤退開始。
6月4日 - 北京で天安門事件が起きる。中国では1989及び64はネット検閲対象の数字になっている。
6月18日 - 1989年ポーランド議会選挙の2度目の投票の結果、「連帯」の地滑り的圧勝が確定。
11月10日 - ベルリンの壁崩壊。ブルガリアで共産党書記長のトドル・ジフコフが失脚。
11月24日 - チェコスロバキアでビロード革命。共産党政権が崩壊。
12月3日 - アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ最高会議議長がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言(マルタ会談)。
12月20日 - 米軍パナマ侵攻。
12月22日 - ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク政権崩壊(ルーマニア革命 (1989年))。

東欧の社会主義が崩壊。約2年後の1991年12月には社会主義国家の総本山(^^;)ソビエト連邦が解体するきっかけとなった年が1989年だった。

ゴルバチョフ
※ソ連崩壊時の大統領、ミハエル・ゴルバチョフ<画像元:空を見上げて、空から眺めて〜 -eaglei->

私の個人的な思い出は、当時福岡県に仕事で長期出張中の年初。帰省した奈良から職場に戻り、新年会を兼ねて職場の同僚と焼き鳥屋で一杯飲んでいた時に、そこの主人から新元号が「平成」になったと教えられたことだ。平成おじさんこと小渕官房長官(後の首相)のニュース映像は帰宅してからテレビで見たが、昭和世代の私にはその平易な漢字の並びに少し違和感を感じたのを覚えている(^^;)

昭和が元号でなければ使うことのない漢字の並びだったのに、「平成」は字の意味的にも「平静」に似たニュアンスに思えたので、もっと予想外の文字の組み合わせを期待していたからでも有る。

昭和天皇が崩御される前年は、ご病状の悪化に自粛ムードが蔓延し、車のCMで歌手の井上陽水が「皆さんお元気ですか?」と笑顔で問いかけたことさえ「陛下のご病状に当てこすっているようにも聞こえる」とかの、過剰な自粛が横行し閉塞感が充満していた。



天安門事件や欧州の動乱に、変化の乏しい日本に失望を禁じ得ない私がいたし、当時は今よりも「左寄り」の思想的状況にあった私は、劇的な変化を遂げる海外のダイナミズムに憧れのようなものさえ感じていたのかもしれない。

そこから約30年近く過ぎてしまえば、若き日の「左翼かぶれ」な幻想は消え去り、冷徹で時には非人間的でも結果として日本という国の「守るべき<歴史認識><文化・伝統><倫理観・道徳><民族としての特徴>」を阻害するものを排除することにためらいはなくなった。

今、日本のみならず世界に流れるニュースの多くが「事実を伝えているとは限らない」ことが広く認識されるようにはなったが、それは日本においての「右派」「左派」双方がそれぞれに都合の悪いニュースを封印することが露見したことでも有る。

ただ、既存のマスメディアによる偏向報道や報道されないニュースの存在は、まるで中国における天安門事件の情報封鎖に似ているようにも思える。ここ最近だけでも報道されないニュースはその存在意義とは別に、むしろカルト的にも思える注視を集め、隠蔽することへの「知らざる者たちのアレルギー反応」を呼び起こす逆効果をもたらしている。

もしくはその対策だったのかもしれないが、「フェイク・ニュース」は、その隠蔽を隠蔽に見せないため、隠蔽を隠蔽するためにこそ開発されたのかもしれない。朝日新聞によるヤラセ(偽事件)ニュースや世論誘導のためのプロパガンダとしての「フェイク・ニュース」が慰安婦関連報道や南京大虐殺であるならば、その背後に有るはずの「伝えるべき真のニュース」は彼等によって永遠の闇に葬られようとしているようにも思える。

もはやそれらを検証できる可能性は低いものの、いま進行中のことならば、報道されなかったニュースの中に、見出すべき意義を我々はおそらく見出すことが出来る。

なぜ前川喜平前文科次官は「出会い系バーで貧困調査」という苦しい釈明をしたのか:産経ニュース

■前川さんが「正義の告発者」になるまでの背景

 このように、とにかく獣医師を増やしたくない獣医師会が「獣医学部新設」の重しとしてすがっていたのが、自民党の「文教族」である。

 「獣医師問題議員連盟」にはこれまで森喜朗、麻生太郎、高村正彦、鳩山邦夫という文教族が文教族がズラリと名を連ねており、そこには前川さんの義理の弟で、森内閣で文部大臣を務めた中曽根弘文参議院議員も含まれている。

 ちなみに、中曽根さんの政治団体の収支報告書(平成23年分)を見ると、前川さんの実兄で、前川製作所の前社長を務めた前川昭一さんとご親族が、政治資金パーティーに計200万円を支払っている。前川さんと中曽根さんが文科官僚と政治家という立場を超え、「ファミリー」として強い結びつきがあることがうかがえよう。

 こういう事実関係をひも解いていけば、前川さんにとって「獣医学部新設」がどのような意味をもつかが見えてくる。獣医師会という業界もノー、文部省時代から諸先輩たちもノー、そして義弟もいる自民党文教族もノーということで、「文教ムラ」に生きる者として絶対に認めてはならぬタブーなのだ。本来なら、前川さんは歴代の事務次官のようにこの動きを未然に潰さなくてはいけないのだが、官邸が岩盤規制に穴を開けるためにつくった「国家戦略特区」の前になす術もなかった。つまり、官僚トップとしての「面子」が丸つぶれになった形なのだ。

 そうなると、自分をコケにした官邸に対して恨み節のひとつもぶちまけたくなるのは分からんでもない。おまけに、天下りのあっせんをしていたことが暴かれて、国会で吊るし上げられて「万死に値する」なんて謝罪をさせられただけではなく、辞めた後には追い打ちをかけるように「懲戒処分」まで出された。入省した時から「未来の事務次官」ともてはやされてきたエリート官僚の「面子」は、安倍官邸によってズタズタにされたのである。

 このように「獣医学部新設」と、前川さんが「正義の告発者」になるまでの背景を振り返っていけば、「行政がゆがめられた」という言葉を、そのまま素直に受け取ることはできないだろう。

前川喜平
<画像元:何か面白いことないかな>

もはや逆恨みなどという生易しいものではなく、文科省トップだった自分が受けた屈辱に対する報復の戦いではないか。

他にも色々出てきているが、テレビではほとんど報道されない内容だし、テレビしか見ない人には「存在しないニュース」になってしまうことを考えると空恐ろしくも有る。加計学園と前川喜平についてはもう一度エントリを挙げることになろうが、ここでは置いておく。

北海道が中国の“北海省”になる日も遠くない? 事態は逼迫:ZAKZAK
 昨年1年間で外国資本に買われた森林は実に“東京ディズニーランド15個分”−−4月28日、農林水産省が発表した調査結果が永田町や霞が関に衝撃を走らせている。

 同省が森林法に基づく市町村等への届け出情報などから全国の森林の土地所有者を調査したところ、昨年1年間で202ヘクタールもの土地が所在地を海外に構える外国資本によって買収されたことが判明したのだ。

 前年の同67ヘクタールと比べると3倍もの伸びを示し、調査を始めてから最大となった。かねて取り沙汰されてきた海外からの土地買収攻勢が、急激に拡大していることを窺わせる。

 国内に拠点を持つ外資系企業による買収事例も含めると、外国資本による買収面積は777ヘクタールに及ぶ。東京ディズニーランド(51ヘクタール)15個分にも相当する広大な土地が、わずか1年の間に外国資本に買い占められていたのだ。

 注目すべきは買収された森林のほとんどが北海道にあること、そして香港・台湾を含む中国系の土地取得者による買収面積が81%にものぼる点だ。中国資本が日本の土地を易々と手に入れることができる背景として「法制度の不備」を指摘するのは丸山穂高・衆院議員(日本維新の会)だ。

 「海外資本から国土を守る法制度は事実上ないに等しいのが現状です。だからこそ、今の森林法を改正して山林などの売買を事前届け出制にすることを求め、改正案の提出準備を進めている最中です。

過去記事検索をすると一応朝日新聞も日本の国土が外国資本に買収されている事実自体は伝えている。しかしそこに危機感を訴えるようなニュアンスは存在しない。他紙の報道を受けてのカウンターだったのかもしれないが、狡猾なFACT(事実)の隠蔽の可能性すら感じる。敢えて平易な書き方で「問題はないがとりあえずニュースとして出しておく」スタンスで、潜在する危機をぼやかそうという意図である。

これを彼等は「報道しない自由」と言うらしい。

朝日新聞大阪本社
※朝日新聞大阪本社<画像元:ROSSさんの大阪ハクナマタタ>

報道しない自由:ニコニコ大百科

日本国憲法第21条、国民の『知る権利』を満たす役割として報道機関に認められているのが『報道の自由』であるが、当然この世の事象を全て集約する事は不可能であるためメディアは報道する事象を選択もしくは要約をするが、「報道するのが自由なら報道しないのも自由」と言わんばかりに必要に切り捨てて扱わないこと或いは都合良く編集(偏向)することをスラングとして『報道しない自由』と呼ぶ。

例えば、「特定秘密保護法は国民の知る権利を脅かすのではないか」との一定の見解を示すのは報道する自由だが、見解だけ示して「なぜ知る権利を脅かすのか」「同法は何故必要なのか」を説明しないなどまさに報道しない自由の権化であると言える。

何をもって報道するかしないかは各メディアの思想と、収入源であるスポンサーの思想によるところが大きいと推察されている。広告代理店並びにスポンサーの意向に沿う番組作りを行う傾向にあり、同じ案件でも場合によって全く立場が変わるなど報道しない自由は保身や社益だけを考えて行われることが多い。

知る権利を守る報道の自由が報道をしないから知る権利を脅かすのか。あるいは報道しないことで事象を知ることができなかった為結果的に事実をまげていることにならないか(放送法第4条3項)決めるのは難しいところではあるが、『好き勝手報道する自由』が横行しているのは事実である。「報道しない自由は国民の知る権利を侵害している」という批判は当然メディアの報道しない自由によって報じられることはないだろう。

この辺の事情が、最近はどんどん暴露されていく流れが止まらない。その最大原因はインターネットの成熟と無縁ではないだろう。かつて、テキストと低解像度画像だけだったネットは音声や動画を含め多彩な表現手段を獲得し、SNSのような即時性で既存マスコミをも超えるスピードと圧倒的な人的動員力を得た一般市民は、既存メディアの情報を吟味し始めその偏向性や虚構性を晒し続けている。

新聞テレビが絶対に報道しない「自分たちのスーパー既得権」〜だから日本の報道は「左巻き」になる (盒 洋一):現代ismedia

一番ガバナンスがないのは、新聞社だった
世界基準で見てもこの日本のメディア構造は異常である。普通の国ではメディアも普通に買収される。経営者が代わることもあるので、これが会社としてメディアとしての緊張感につながるのだ。

たとえば2015年の11月に、日経新聞が米フィナンシャル・タイムズを買収したことは記憶に新しい。日経新聞が、米フィナンシャル・タイムズの親会社だった英ピアソンから株式を買収して自らのグループに組み込んだのだが、これはごく普通の企業買収と言える。しかし、日経新聞のほうは株式が譲渡できないから、決して買収されない仕組みになっている。

そんなものは商法違反でないか、と憤る人もいるかもしれない。この状態を商法の適用除外にしているのが「日刊新聞紙法」なのだ。

日刊新聞紙法はすごく短い法律で、正式には「日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律」という。名前に書いてあることがこの法律のすべてで、「株式は譲渡されない」ということしか書いていない。新聞の既得権の最大のものと言っていい。

閉鎖的な経営環境で強大な既得権益に溺れて保身に尽くす。政府や官庁が腐っている以上にマスコミ・既存メディアの方がよほど腐っているのだ。

天安門:wiki
天安門
現在の門は清の順治帝時代の1651年に再建されたもので、このときに現在の天安門という名に改名された。
この天安門という名称は「天上の平和の門」という意味にも取れるが、満州語の名称は「天命を受けて安定した(平和な)国を治める」の意であり、それを省略した形が「天安門」と考えられる。

既得権を持つものは、それが長く続くと「天から与えられた特権、安定して治める権利」と考える傾向がある。これは思想や主義にかかわらず頂上まで上り詰めた権力者に共通の傾向である。これを乱用・悪用して信用と権威を失う危険性は全ての権力者に有る。

少なくとも、その乱用・悪用が今一番感じられるのは、マスメディアとそれを利用し尻馬に乗りたがる野党勢力であろう。政治家なら選挙という権力を消滅させる手段があるが、メディアは利益を減じることは可能でも消し去ることはできない。公務員試験だけで入省しその後は内輪のフィルターだけをくぐり抜けてきた官僚もまた既得権者として国会議員以上の「特権意識の塊」であることが如実に見えたのが、森友や加計の両問題であった。

どうやら、少なくとも行政の中央官庁の門は、「天上の平和の門」とは似ても似つかぬ修羅の邪気が吹きすさぶ魔界の門だったようだというのが改めて示されて、若い頃のうんざりしたあの感覚を思い出している私なのである。

JUGEMテーマ:歴史



Posted by soup2001 | -  -



手抜き【てぬき】

時代考証というものがある。歴史再現ドラマや娯楽時代劇で時折話題になる「オーパーツ」まがいの(^^;)小道具の違和感が、またぞろ出現していた(^^;)

私の記憶ではドラマの中で歴史捏造(演出上の理由で史実を変更して作劇する行為)は枚挙に暇がなく、全て想像上の台詞回しなどは脚本家の創作である以上、細かい部分が歴史に合致する筈がない事は承知しているものの、あまりに稚拙なごまかしの場合、最近の視聴者は許してくれない(爆)

下は大河ドラマ「花燃ゆ」で話題になった幕末の書物に使われた「小塚明朝 Pr6N B」(^^;)

花燃ゆで使われたフォント
<画像元:はむすたー速報>

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で幕末の書物の表紙にAdobe社の明朝体フォントが使われるwwwwwwwwwwwwwwwww:はむすたー速報

印刷出版に絡む仕事をしたことがある人間なら、「明朝体」や「ゴシック体」という印刷用書体の存在は知っているはずなので視覚情報でマトモにこれが出てくるとものすごく目立つのである。残念ながらた現在放映中の大河ドラマ「おんな城主直虎」でも同じようなインチキが為されていた(^^;)

おんな城主直虎で使われたフォント
※放映画面をデジカメ撮影(トリミング済み)

手抜きが酷いのでエントリアップ以前にツイートで流したけど(爆)Wikipediaくらいチェックしなさいよ。ちょっと真似して「漢字二文字程度」の手書き文字書くくらい「手紙などの筆文字専門スタッフ」でなくても出来るでしょ(^^;)

孫子の兵法書
<画像元:孫子の兵法書(wiki)>

今年の大河は、記録・史料が極端に乏しい人物が主役なだけに、記録に出てくる史実に符合させさえすれば「脚本家の腕の振るいどころ」であるとは言え、アップになった俳優が時代劇なのにブランド物のメガネを掛けていたり、腕時計をしていたりという「映画のトンデモシーン」顔負けのインチキは興ざめも良いところだ。

ハリウッド映画のうっかりミス;NAVERまとめ

メジャーな大作映画でも編集ミスやらチェック漏れやら色々あるようなので一概には言えないものの、NHKのそれは明らかに「最初から手抜き」が見え見えすぎて流石に「質的低下」を思わざるをえない。

あんまり観客をなめないほうが良いと思うけどねぇ(^^;)

JUGEMテーマ:テレビ全般



Posted by soup2001 | -  -



帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】

自由民権運動の変節

明治維新を起こし突き動かした陰の力に外国勢力の意図があったことは否定できない。また、鎖国時代から海外の文献に触れ帝国主義や立憲君主制など近代的で(封建制に比べて)開放的な政治・統治環境に目を奪われる知識階級の武士も少なくなかったのも確かである。

その結果、一つの傾向としてシリーズ前エントリで言及した体制構築を飛び越えて将来の「膨張主義」に到達した者もいれば、「現実的な政治体制」「合議制による治世」を突き詰めた者は立憲主義や民本主義(民主主義)に近づいていく。明治維新の前後において幕府や倒幕派の若者が多数国外に学んでその思想を吸収して帰国したことは、結果的に内戦(戊辰戦争)を引き起こすことにもなるが、維新後の混乱(各地騒乱と西南戦争)を経て、自由民権運動に帰結していく辺りは「神道の最高司祭としての天皇が望む、民草の幸福および国家安寧」につながる大日本帝国憲法と帝国議会の創設を生み出し、外見だけではない思想的にも成熟していく「近代日本」の構築に貢献していく。

自由民権運動:wiki
自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。
従来の通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いた。

板垣退助明治六年政変(征韓論に敗れた西郷隆盛や板垣退助が政府から離れ下野する)で武装蜂起しなかった板垣らが「民権」の名のもとに政治参加を目指した点で本来の民主運動とは異なる部分がある。政府から見れば危険分子になりかねない反動勢力に過ぎなかった。それでも一方的に弾圧できなかったのは彼らが欧米を模した市民運動の形式を取りつづけ、言論での対決を迫ったためこれを弾圧してしまうと「近代国家」としての対面に関わったからであろう。また、板垣は当初征韓論に与するなど対外強硬派でもあった点で「膨張主義的思考」もまた当時の政治家として持っていたと思われる。

この時期、影響が強いのはやはりフランスの政治思想だろうが、フランスの代表的な思想家ルソーなどによる「社会契約論」的国家観では、絶対王政こそ否定はしても立憲君主制を「民意の反映として容認」する柔軟さが、日本には都合が良かったとも言える。

社会契約論〜内容:wiki

ルソーは人間の本性を、自由意思を持つものとして考え始める。自然状態では各個人は独立した存在として自己の欲求を充足させるために行動し、生存の障害が発生すればその解決のために各個人同士で協力関係を求める。こうして生じる個々人の約束は社会契約の概念として把握される。社会契約の枠組みに従って国家が正当化されるためには、人間の自由な意思が社会契約の中で保障されていなければならず、本書では個人のための国家の在り方を論じている。
社会における全ての構成員が各人の身体と財産を保護するためには、各人が持つ財産や身体などを含む権利の全てを共同体に譲渡することを論じる。人びとが権利を全面的譲渡することで、単一な人格とそれに由来する意思を持つ国家が出現すると考えられる。国家の意思をルソーは「一般意思」と呼んでおり、これは共同体の人民が市民として各人の合意で形成したものであると同時に、一般意思が決定されてからは臣民として絶対服従しなければならない。なぜならば一般意思とは、各個人の私的利益を求める特殊意思とは反対に、公共利益を指向するものであるからである。したがって一般意思をもたらす人民は、主権者として見直すことが可能となる。
しかし、人民主権の理念を具体化するためには、多くの実際的問題が認められる。人民は主権者であり、一般意思が公共の利益を指向するとしても、人民の決議が常に正しいとは限らない。人民全員が参政することは非現実的であるばかりでなく、非効率でもある。そこで人民に法を与える立法者の役割が導入される。立法者は制度や習俗を構築することで共同体を構築する。さらに、人民の習俗が維持するための監察官を用意することで、社会契約や法の絶対性を教義とする市民宗教を教育し、共同体を維持する。

「社会契約」とは生活共同体を作り共有するための共通認識であり、「一般意思」はそれによって構築された規律や義務でもある。
封建制度も社会契約の一形態であるし絶対王政もまたその一つ。江戸時代の天皇制と幕藩体制の両立も徐々に形成された社会契約と一般意思が身分制度と結びついて出来上がった体制と言えるが、権威と権力が必ずしも一致しない、あるいは(世襲制でありながら)一個人に権威や権力が集約されない、一部の階級それも特定の勢力に限られた合議型の独裁体制でもあった。

ルソーの言う社会契約は、人間の社会生活を構築する根源的な部分に戻ってから国家観を再構築する意味で「運命共同体としての原理運動」のようなシンプルさがある。幕藩体制を破壊したい倒幕派や「日本の原理主義」とも言える国学派には受け入れやすい考え方と言えよう。

伊藤大隈の確執S明治新政府内では「尊王思想」による「天皇親政を理想」とする勢力も少なくないものの、近代国家としての「国体」を欧米列強先進国をモデルにした時点で「君主・国権を縛る憲法」と「民意の糾合システムとしての議会と自由民権運動」を容認せざるを得なかった面も否定できまい。

維新後の騒乱を経て国内治安が安定してくると政治思想の衝突が新政府内で顕在化する。それは方法論の違いあるいは流儀の違いとも言える差ではあったが、天皇の立場を確定する「憲法」が存在しなかったこともあり、ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)イギリス憲法(議会内閣制を中心とする不文憲法)かで政争まで起こった。(明治十四年の政変:wiki)

<画像元:ジャパン・アーカイブス>※クリックで拡大


政府内でも確執は連続し、国家運営の最前線では激しい権力闘争が起こっていたわけだが、下野した分裂政府の残党もまた思想闘争に明け暮れ「激化事件」と呼ばれる蜂起まで頻発する。この時代の考え方の主流が、明治維新以来の「革新的国家改造を肯定する」ものであったこともあり、こうした急進的な民権運動もある種寛容であったとは言える。

一方で政府内で急進的過ぎる変革にブレーキを掛けつつ慎重に行う「漸進主義」派にとっては、反政府運動になりかねない「自由民権運動」自体は苦々しいものでもあり、治安の安定とともに激化する運動を沈静化する方策に頭を悩ませていた。

岐阜事件

板垣退助が襲撃された岐阜事件(↑画像はwikiより)や板垣・大隈が立ち上げた政党が相次いで解党するなど運動自体は盛衰の波を繰り返すが、帝国議会の開設と同時に政治闘争も国会内での討論に移行し、治安が安定するとともに民権運動は成熟を迎える。

やがて議会(議席)の過半数を掌握した第一党が政権(内閣)を形成し行政運営を行う流れになるが、行政権を持つ政府は増税の決定権を持っていなかった。帝国議会の衆議院が(貴族院よりも)優先的に審議権を持っていたために、緊急な歳出(戦争などに付随する臨時予算)に対応する帝国議会が発言力を増し、それに伴い政党そのものが政治的発言力を強めていくことになる。もちろん内閣に陸軍や海軍が政党とは独立して閣僚を送り出していた以上、軍務・軍事予算に関しては人質を取られていたとも言えるわけだが…。

政党の歴史〜政党政治の幕開け(明治時代):wiki
明治22年(1889年)大日本帝国憲法の公布とともに、衆議院議員選挙法が公布され、25歳以上で納税15円以上の男子に選挙権が与えられた。翌明治23年(1890年)7月1日第1回衆議院議員総選挙が実施され、立憲自由党、立憲改進党などの民党が議席の多くを占め、反民党勢力(結果的には親政府派となる)温和派(吏党)は少なかった。
選挙後、第一回帝国議会が開会された。政府は当初「超然主義」をもって対議会・政党に対する基本姿勢としていたが、大日本帝国憲法自体が議会の協賛なくして重要な決定が出来ない仕組みとなっていたため、この路線はすぐに行き詰まった。このことに気付いた政府側は選挙への大規模干渉や金銭・あるいはポストによる、政府に批判的な民党及びその幹部達の買収工作を行って懐柔に務めざるを得なくなっていった。また、条約改正などの論議から民党が政府支持に回り、吏党が反対に回るケースもあり、「民党・吏党」に替わって「与党・野党」と呼ばれていくようになる。

開設当初の帝国議会は多数派政党による首班氏名で総理大臣が決まるのではなく、元老による推薦に基づいて総理大臣が任命されていたため、政府(=少数吏党)と議会(=多数民党)の政治抗争を伴った。やがて多数党の党首が首班となって内閣を形成するようにはなるが、大正デモクラシー以降でも政府内で重臣会議が開かれて次期総理大臣を選定するなど「密室的」な政治も存在していた。

そういう「限定的な自由」に限界を感じたのか、民間出身の徳富蘇峰らが提唱していた平民主義は(藩閥)政府主導の近代化を批判していたが、徳富自身が後に国権論者に転向してしまう。

平民主義:wiki
当時の藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義や軍備拡張主義に対しても批判を加えるものであり、自由主義、平等主義、そして平和主義を特徴としていた。蘇峰の論は、1885年(明治18年)に自費出版した『第十九世紀日本の青年及其教育』(のちに『新日本之青年』と解題して刊行)、1886年(明治19年)に刊行された『将来之日本』に展開されたが、両者はいずれも熊本時代の研鑽の賜である[2]。彼の論は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設に沸きたっていた当時の日本社会に警鐘を鳴らすものとして世の注目を浴びたのである。

国権主義:コトバンク
明治時代のナショナリズム思想で,国家の独立維持に価値をおく主張。明治初年以来,政府,民権運動いずれの側にも日本の国権を確立し,独立を保持するという目標が掲げられていた。しかし 1890年代に思想界は分極化し,民権論を切捨てて帝国主義的発展を主張する「国権論」が登場した。その唱道者は,徳富蘇峰,山路愛山,竹越与三郎,上杉慎吉らであった。特に平民主義から転向した徳富蘇峰は,政党政治を否定し,軍事力の強化によって日本帝国主義の直面する困難な課題を解決せよと主張した。
出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

徳富蘇峰日本に帝国主義というか立憲君主制が根付き始めた明治中期。前回のシリーズで言及した「帝国主義的膨張志向」が円熟してきた明治の思想家たちに萌芽あるいは顕在化してきたとも言えるし、内政が充実してきた途端に外へ目を向け始めたとも言える。

徳富蘇峰(wiki)より

明治維新初頭において、福沢諭吉らが提唱した平民主義は、「新平民」となった非支配層に「国民」となるべく啓蒙と自覚を促すものであり、後の徳富蘇峰が受け継いだものは自由民権運動と同じ発言力を求めた「権利闘争」だった。徳富が去った後は幸徳秋水らが運動を継続したが、「無政府主義・社会主義」を標榜する辺りから政府と対立し、大逆事件(明治天皇の暗殺未遂事件)の罪を着せられ処刑される弾圧対象となっていく。

元々は同じ日本の近代化と西欧列強に対抗する国造りから始まった政治と思想の変遷は、やがて国権主義や帝国主義といった国家観を生み、対極として自由民権運動や武装闘争も辞さない社会主義・無政府主義へと変貌していったわけで、江戸時代の硬直した価値観から開放された日本は、世界標準の「思想の多様化あるいは混沌」に巻き込まれていく運命を回避できなかったわけである。

自由民権運動は初期の議会設置と憲法制定が実現した後、民族主義的な膨張主義に変化していく者と、反帝国主義的な平和主義に分裂していく。前者の代表的人物は徳富蘇峰であるし、後者はキリスト教徒の内村鑑三や後に日本共産党の生みの親となる堺利彦ら「非戦論」を唱えて日本の朝鮮半島への介入に反発し続けた者たちである。

今から見れば、帝国主義は侵略主義でもあるわけだし、共産主義は政体改造・武装革命を求める点で平和主義とは程遠い思想なのだが、少なくとも当時は国粋主義的国家観が帝国主義であり、非暴力非戦論は裏に暴力革命の因子を抱え込む好戦的な思想でもあった点で「どちらも一長一短のある、極論に陥りやすい思想」とも考えられる。

いずれにしても帝国主義、富国強兵政策で列強国の仲間入りと、反乱分子の一掃を目指していた明治政府には、「反政府的言動」や「社会主義思想」は危険なものにしか見えず、非合法組織として地下への潜伏を余儀なくされる。

社会主義協会 (1900年):wiki
前身は1898年から開催された社会主義研究会で、安部磯雄を会長とし河上清、片山潜、堺利彦、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎により1900年1月に結成された。上記メンバー(堺以外の6名)によって翌1901年5月に社会民主党が結成されたが、こちらは結党2日後に結社禁止となったため、社会主義協会の活動を強化することとなり、幸徳の平民社などとともに社会主義の紹介を行った。

平民社:wiki
小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助を行い、結成約一ヶ月後に「平民新聞」創刊に漕ぎ着けたが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会と共に社会主義運動の中心組織であった。

平民新聞
<画像元:コトバンク>

民主主義の原点でもあるこうした「自由民権運動」「反帝国主義」は、「社会主義」に傾倒することで皮肉にも反社会性を既に獲得していた。

考えてみれば大本の明治維新でさえ、反政府(反幕府)運動と捉えれば、国家反逆暴動の唯一の成功例と言えるかもしれない。かつての鎌倉幕府や室町幕府の滅亡も、武士階級での権力闘争だったわけで、武士ではあっても下級武士が中心勢力を形成し、天皇をも巻き込んで非常に狡猾に行動し、なおかつ倒幕以降の国家運営ビジョンを持っていたことが「単純な反政府内乱」と異なるし、その後紆余曲折はあっても近代化が軌道に乗った原因であった。

それが証拠に、彼らがかつて所属していた武士階級すら消し去るほどの大改革はやはり革命的変革であったわけで、それによってはじき出された異分子の受け皿として、近代国家の成熟を促進する「劇薬」としての社会主義的思想の発展が彼ら「自由民権運動」に加担した者たちの歴史的使命だったとは思う。

彼らの政府の圧政に抵抗する方法として過激な暴力的武装闘争を否定しないその性格は、現在の左翼過激派に受け継がれているものの、現在では反日的政策を行う、あるいは世論誘導を画策する外国勢力の工作員となっている場合も少なくない。明治以降の社会主義的活動の多くもこうした外国勢力の影響が全く無いとは言い切れない以上、行き過ぎた反政府運動は結局、その時代の政府方針を右傾化させるなどの硬直化を招きかねず、左翼活動家の目指す「理想の社会建設」とは真逆の結果をもたらしていると思えるのである。

少なくとも現在においては、広範囲な国民の同意なくして「左翼」の理想とする社会は出現しない。現在の左翼活動家の面々はその意味で国民の賛同や支持を集められるほどの実績も言論も築けていない。それが幸福なことなのか不幸なことなのかは、今後の歴史が証明することになるのだろう。

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●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
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帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

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帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】

侵略という思想

ここまで明治維新に関連する事象をいろんな視点で考察してきた(つもりである)。が、それでも「奇跡的」とも言えるこの近代化に、アジアに深い傷跡を刻み続けた西欧列強が直接的に介入してこなかった理由がいまいち合点がいかなかった。

帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥

過去のシリーズ内でも同じことを検証してきたが今一度「侵略する側の視点」で見直してみる。

アジアに西欧列強が侵略を始めたのは、新大陸と称されたアメリカが独立し(1778年:日本は徳川将軍第10代家治〜側用人田沼意次の時代)、そこで得られていた植民地利権を失うことによって他の地域に「植民地としての搾取対象を求めた」のが原因であった。

しかしそれ以前の大航海時代の頃から西欧とアジア諸国の公益は盛んになっており、種子島へのキリスト教・鉄砲の伝来もその一つの現われである。

鎖国:wiki
鎖国完成まで
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
・1612年(慶長17年)幕領に禁教令
・1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
・1620年(元和6年)平山常陳事件。英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
・1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
・1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
・1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
・1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
・1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
・1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
・1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[参考 8]。
・1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
・1637年〜1638年(寛永14年〜15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
・1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[参考 9]。
・1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
・1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
・1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
・1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
・1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
・1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

武士の時代。主従関係を中心とした価値観と体制を危うくさせる宗教や思想に対して絶対的な拒絶を行って鎖国を完成させたことがわかる。それは経済支配を含む西欧列強の進出を結果的に止め、清国の侵食をウォッチするに最適な環境でもあったとも言えよう。

1800年頃の植民地
※1800年頃の植民地(クリックで拡大)<画像元:植民地主義(wiki)>

西欧列強は新大陸発見と同時にアフリカに進出し黒人奴隷の供給地として一部支配していたが、部族社会で国家としての体をなさないアフリカ大陸の殆どの地域は産業革命後の近代化された欧米には未整備の広大な土地でしか無く、開発投資から入らなければならない「手のかかりすぎる土地」でしかなかった。すでに多大な投資をした挙げ句独立されてしまったアメリカの轍を踏むよりも、「既に完成された国家を乗っ取る」方がコストパフォーマンス的にも優れているわけだ。

アフリカ大陸に比べると文化的経済的に自立し民族・宗教・文化の集合体としての国家を形成していたアジア地域は、欧米列強の進出(侵略)対象として好適地であったことは間違いない。

1850年頃の植民地
※1850年頃の植民地(クリックで拡大)<画像元:マスコミに載らない海外記事>

体制が確立した他国を征服するには「軍事侵攻」が一番早い。経済進出し、そこで経済抗争を発生させ現地国側の蜂起を誘発すれば軍事侵攻の口実は手に入る。あるいは侵略国同士が現地で対立し戦争に発展させてその地での優劣を決すると同時に支配権を強奪、または戦勝国への依存体制を深める戦略がある。実質的な支配に至りさえすれば、もともとある体制を一部利用しつつ効率的に「侵略度」を深めることが出来る。

地図を見ればわかるが航空機がない時代、物資の輸送ルートは当然陸路と海路しか無い。つまり海路上の中東からインド、ベトナムやインドネシア、中国と大陸沿いの周辺国が軒並み植民地化されている。インドの綿花やスパイス、中国の茶・陶磁器・絹の輸送ルートは現在でも石油などの輸送ルートでありインド洋から南シナ海・東シナ海は交易の要衝と言える。日本は資源もなく、これらの国に比べて自給自足がやっとの貧しい小さい国であったため、貿易拠点を確保し他の西欧列強を排除して貿易を独占するような旨味がない。血を流してまで征服する魅力に欠けるという点もある。

あと、西欧列強が日本を手に入れるにあたって逡巡したとすれば、支配体制の分かりにくさだったかもしれない。

権威の最上位にある朝廷と軍事経済を牛耳って実質的支配権を有する幕府の二重支配構造は、西欧列強の近代的支配体制である立憲君主制に似てはいるものの、独裁的な実権を持つ将軍が天皇の勅許を得なければ、内政以外の政治課題(外交権・安全保障など)を処理できないという不可思議。日本的な体制故に最終的な実権がどこにあるのか不明瞭である。

だから日本の近代化を援助し、支配体制を西欧型に作り変えて(侵略しやすく変更させて)時間を掛けて慎重に進めていったようにも思える。なぜなら他のアジア諸国よりも複雑な体制と興味深くならざるをえないほどの国民の識字率の高さ(知的水準の高さ)、シンプルで独特の文化に支えられた美意識と好戦的な武装階級(武士)の数の多さ。

力攻めでは採算が合わず、上手く立ち回って経済支配を目論むほうが有利と考えたことだろう。

実際に、当時の日本の貴金属の価値基準(交換比率)が西欧とは異なったために貿易をして日本から「金銀」を入手したほうが単純に儲かったことも大きい。

幕末の通貨問題:wiki
外国人商人が1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んで4枚を小判に両替して、国外に持ち出し地金として売却すれば莫大な利益が得られることとなった。地金としての1両は4ドルに相当する。従って、1ドル(メキシコドル)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで利益を上げることができた。実際には、開港直前の1859年6月25日(安政6年5月25日)の触書の中で、その当時小判として最も多く流通していた天保小判は一分銀5枚の増歩通用と、は8枚から9枚と跳ね上がった。それでも一年間にこのような両替を5〜6サイクル程繰り返し、利益を上げることが可能であったという。結果、大量の金(小判)が海外に流出することになる。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしたことを、日記に記している。幕末の通貨問題

金の流出対策として通貨の改鋳なども行われたが、国内経済にはインフレの発生という副作用を伴うなど不平等条約とあいまって幕府を悩ませた。実際の金の流出量に関しては諸説あるが、金融業者にはこの上なくオイシイ話に違いない。金融や流通の社会インフラを有し、国民の知的水準の高い国ならば、外国人が入り込む余地はむしろ「知的な部分」が最もコストパフォーマンスが高い。つまり情報や資金・武器そして技術の提供で十分利益を挙げられる。自らの血を流して奪い取るよりもリスクが少ない。

生麦事件を機とした薩英戦争や下関戦争こそ外国軍と日本側の武力集団が交戦したものの、その後の戊辰戦争には直接介入しなかった点でも、直接的侵略から方針転換したと見るのが妥当だろう。

日本人だけが知らない戦争論:苫米地英人フォレスト出版(2015年)
日本人だけが知らない戦争論じつは、1864年から始まる長州戦争から1868年からの戊辰戦争の流れも、クロムウェルのイングランド内戦をひな型にして周到に計画されたのではないかと疑うだけの充分な材料があります。
 そのひとつは、資金源。

 薩州や長州で討幕運動が活発化し、戊辰戦争に至るまでの膨大な戦費は、イギリスの銀行家が提供していたと見られます。いっぽう、幕府は幕府で、フランスの銀行家からそれを受けていたと考えられます。
 このように書くと、戊辰戦争がイギリスとフランスの代理戦争だったかのように見えますがそうではありません。当時イギリスは第1次産業革命のさなかで、「世界の工場」と呼ばれ、世界中に綿製品などを輸出していました。幕府が買っていたのも当初は綿製品でした(後に武器が主になっていきます)。つまり輸出でお金を稼いでいる国でしたが、イギリス国家そのものは度重なる戦争による破産状態で、戦費を銀行家から借りている借金国家でした。
 ですから、薩長にお金を貸していたのは、イギリス政府ではなく、イギリスの銀行です。フランスも全く同じ状態で、幕府にお金を貸していたのはフランスの銀行です。もちろん、フランスもイギリスも銀行の株主は同じ人たちです。

つまり株主はそれぞれの国のロスチャイルド家一族ということになる。上述の薩英戦争や下関戦争は、尊皇攘夷思想に凝り固まった(反幕府的)外様の雄藩の起こした衝突だが、これらの藩で尊皇攘夷を藩の行動基準として主流派を形成したのは、藩上層部ではなく若い下級武士たちだった。

日本人だけが知らない戦争論:苫米地英人フォレスト出版(2015年)
 彼らは、脱藩という天下の重罪を犯してまで京に出て潜伏し、隙(すき)あらば敵対する浪士を殺傷しあうなど暴動を繰り返しました。これは、イングランド内戦やフランス革命のさいに、どこからともなく現れた得体の知れない民兵の存在を想起させます。
 日本の小説やテレビドラマは、彼らをさも国家の未来を憂える若獅子の群れであるかのように描いてきましたが、実態は必ずしもそうではないように見えます。むしろ、「世相の混乱を演出するために京の町に送られた傭兵」というほうがぴたりときます。
(中略)
 また、高杉晋作の奇兵隊も実態は同様だったようです。町の地蔵の首を切ったり、無銭飲食する輩などがかなりいたようです。ちなみに5000人以上いたとされる奇兵隊御楯隊遊撃軍などの諸隊の資金の出所は、一切の記録が残されていません。
 坂本竜馬の新政府綱領八策にみられる民主的な国家統治の視点は、イングランドやフランスの革命においても、改革の要諦とされた内容です。これは、竜馬に、おそらくグラバー(幕末に活躍したスコットランド出身のイギリス人の武器商人・実業家)達がレクチャーした知識をもとにしたものでしょう。議会政治を実現し、王から通貨発行権をもぎ取らなければ、いくら中央銀行の設立にこぎつけても、ヨーロッパの大銀行家が貸した戦費を回収し、さらに巨額の利益を独占することはできないからです。

他のアジア諸国には直接的な戦争を仕掛けたりしていた西欧列強が、日本だけ直接的な支配を実行しなかった背景が、「国家として西欧程ではないが成熟していた点」であるとしたら、イギリスやフランスのような内戦を誘発して経済支配を狙う<ロスチャイルド一族>の思惑が、「これ以上の戦費を出したくない英仏両政府側の意思と連動した結果」だとしたら、実に狡猾な手法によって日本は近代化させられたものだと言わざるをえない。

ロスチャイルド私に一国の通貨の発行権と
管理権を与えよ。
そうすれば、誰が法律を作ろうと、
そんなことはどうでも良い。


マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1790年の発言)
なぜ反ロスチャイルドなのか

国家が常にその繁栄と国民の幸福を希求し実現する上で、あるいは独裁者の絶対権力で欲望を満たす意味でも、必ず必要なのは資金である。産業振興であれ軍備であれ福祉政策であれ、その国の経済状況とは切り離せない。だからこそ下手な為政者よりも絶大かつ絶対的な影響力を行使できるのは、金を生み出せる権力者だけなのだ。金をコントロールできるものは戦争もコントロールできる。つまり世界をもコントロールできる。その意味で、明治維新に彼らの意思が無関係であるとは思えないのである。

彼らがレクチャーした近代化と帝国主義的世界観(倫理観)がその後日本をアジア唯一の近代国家ならしめたのは間違いないが、やがて朝鮮半島や中国大陸に目を向け始めたのもはたして純粋に国家の安全保障上の問題だったのかが疑問に感じてきた。つまりそこにも「西欧列強(ロスチャイルド金融財閥)に誘導された戦争」の可能性があるのではないかという疑問である。

少なくともその後、(対外戦争に勝利したこともあるが)日本が領土拡張主義に陥ったその原点とも思える文章がある。明治維新に大きな影響を与え、反幕府の姿勢を崩さなかったため刑死した長州藩の吉田松陰によるものである。

幽囚録:wikisource
吉田松陰日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。

※リンク先に原文記載あり<画像元:吉田松陰(wiki)>
幽囚録
<画像元:樹冠人蔵書目録>

ペリーの来航に刺激され、密航を企てるも失敗し、故郷の長州藩「萩城」内の野山獄に収監されたときに綴った事件を起こすに至った「思想の変遷」の記録である。後の大東亜共栄圏構想に通じる「西欧列強とは違う日本主導の新秩序づくり」が既に現れており、学問上の師であった佐久間象山の「海防八策」(海軍力を整備して西欧列強に対抗する国防論)以上に突出した膨張主義になっている。師の佐久間象山も吉田松陰も頭脳明晰ではあったのだろうが、人物的には問題の多い人格でその評価は賛否が激しく交錯する。

薩摩閥が減退し、長州閥が政権中枢を占める時期が続いたこともあって、松蔭の壮大な安全保障政策と未来へのビジョンが帝国主義と合流し、(他国から見て)日本の独善的な国際感覚の発露である「大東亜共栄圏構想」が芽吹いたといえるのかもしれない。

こうなると最早「侵略被害国予備軍=被侵略国」としての視点では捉えられない。対外的な形勢不利も飛び越えて、完全自主防衛独立のその後に、帝国主義的侵略国への脱皮にまで飛躍していたのだといたら、海外の金融資産家の調略を得なくても「近代国家とは対外膨張(侵略)国家」と誇大妄想的に解釈を膨らませていたようにも見える。

佐久間象山も吉田松陰も幕末期の英才であったが、西欧列強の帝国主義思想に染まり「自主独立と国威拡張」という「独善的侵略・支配」を「後進国に対する開化支援」の美名の中に覆い隠そうとしていたのかもしれない。それは尊皇思想から来る少中華主義ならぬ新中華思想(というか日本中心主義)的な自国の国益を最大限に希求して、周辺国もろともに近代化して西欧列強の侵略に対峙するという、ある意味でご都合主義的または強迫観念に支配された選民思想の発露と見えなくもない。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書

陰謀史観-戦前期日本の膨張主義-
十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけての帝国主義時代には、国家が生存するためには武力の行使や威嚇で領土や勢力圏を拡張するのは当然とするのが、国際社会の通念となっていた。食うか食われるか、という弱肉強食の論理である。
 ところが、長い鎖国体制を解いて開国はしたが、列強に植民地化されそうだという危機感のなかで幕末、維新の思想家や志士たちは早くも日本の対外膨張を夢想していた。清国・朝鮮など他のアジア諸国には見られない特異な現象だった。


上述の吉田松陰の幽囚録などは対外膨張を妄想したものとして代表的だが、秦氏の著作を読むと同様の膨張主義が開明派と呼ばれた名君や思想家によって提示されている。例えば吉田松陰の幽囚録(嘉永7年:1854年)に遡ること約30年前には、もっと壮大な膨張主義を掲げた人物もいる。

宇内混同秘策:wiki
佐藤信淵佐藤信淵が1823年(文政6年)に著した、日本国内の統治論および世界征服論を開陳した奇書である。混同大論、巻一、巻二、泉原法略説から成る。

<画像元:不二草紙>

「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也故モ能ク其根本ヲ經緯スルトキハ即全世界悉ク郡縣ト為スヘク萬國ノ君長皆臣僕ト為スヘシ」で始まる本著は、強烈な自民族至上主義と、国内の統治及び世界征服の方法に関する極めて詳細な記述が大きな特色となっている。
本著で佐藤信淵は、世界を征服するために日本国内を固めることが大事だと説き、江戸に遷都し、日本の政治機構を3台(東京〈江戸〉・西京〈浪華つまり大阪〉・京都)14省(駿府・名護屋〈名古屋〉・浪華〈大阪〉・膳所〈大津〉・高知・松江・萩・博多・熊本・大泊〈鹿児島〉・金沢・沼垂〈新潟〉・青森・仙台)に分けた統一国家を作り、八丈島や小笠原諸島を開発し、さらにフィリピンを取ってその資源を利用し、かつ東京の防衛に備えることを主張した。

海外征服について、彼は「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と書き、中国征服を世界征服の第一歩として捉えた。軍事的及び経済的に満州以北を征圧した後に、中国本土へ台湾と寧波から侵攻し、そして南京に仮の皇居を定め、明の皇帝の子孫を上公に封じて従来の祖先崇拝を認めた上で、神社や学校を建てて教育せよと彼は述べている。中国を征服した後は、周辺の国も容易に征服出来ると彼は考え、最後にヨーロッパへ侵攻せよと主張している。

いや〜「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也」「日本は歴史上最初の国家であり世界の根本になる国である」とは、韓国起源説同様のトンデモな主張であるが(爆)海外渡航経験もなく書物などの耳学問を昂じた結果の結論であるなら「井の中の蛙」でしか無い。これが自国愛(愛国)の結実点とするなら笑うしか無いのだが、それだけで済まないのはこの論説に一部符合するかのように江戸が東京と改名して首都になり、朝鮮半島を経て満州国の建国、日中戦争から仏印進駐、太平洋戦争へと繋がる流れは、正に佐藤信淵の世界征服路線をなぞっているかのように実現しているからだ。

そういう意味では、西欧の帝国主義を日本に導入した場合の侵略のグランドデザインを描いたとも言えるし予言したとも言えるではないか(^^;)
皇国が中心となった「八紘一宇」の源流となる考えも示されている点では、トンデモな学者というより先見性のある優秀な思想家と見るべきかもしれない。

他にも同じような思想を提示した書物が多数発表されていて、それらは多かれ少なかれ佐藤信淵の影響と無縁ではないと思えるのだ。

山縣有朋陸軍卿:外征三策(『陸軍省沿革史』)1874年(明治7年)
「三数万の兵を率い、江蘇を蹂躙し機に乗じて……天津を突き城下の盟を」

桂太郎中佐:対清作戦策(故桂公伝記参考書(三))1880年(明治13年)
「まず海軍が福州を攻略し、陸軍は3個師団が遼東半島より天津、ついで北京に進撃し、城下の盟を求める」

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書

城下の盟(じょうかのちかい)とは、春秋時代の中国の歴史書で思想家の孔子が加筆したとされる「春秋左氏伝」の中の一節で「敵に首都まで攻め入られてする、屈辱的な降伏の約束。」の意味。

上記の山縣有朋・桂太郎らの言葉に似たものが後年、日本を窮地に追いやることになる。日本の世界征服の陰謀を記述したとする「田中上奏文」である。

田中上奏文:wiki
田中義一昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書で、第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされ、内容は中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服する手順が説明されている。日本では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じたが、その後の日中関係悪化にともない1930年代に中国は反日プロパガンダにこの文書を利用し、日本は国連などでも答弁を求められるが各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し外交的に敗北することになった。1927年当時にはすでに死去している山県有朋が登場する等、事実関係の誤りが多いため日本の歴史家のほとんどは上奏文としては怪文書・偽書としているが、作者については諸説あり不明である。また、田中上奏文を本物と考える人は現在でも特に日本国外に存在している。
田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorial。


これらを見る限り、田中上奏文の作者は昔からつながる「膨張主義」の流れに沿っている点でこれらの著作物を参照・参考にしたことが考えられるし、史実に反する記述に関しては歴史的整合性や事実関係の把握が甘く、政策論文というよりも過激な思想を持つ人間が書いた不完全な思想論文を誰かが利用した可能性が高いと思う。ただし、これを書いたのが日本人である可能性は低くない気がするのだ。

しかし、秦郁彦氏によると田中上奏文を書いた真犯人らしき人物が指摘されている。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書
1980年頃のことだが、私は中国の大学に勤務する友人から王家禎(1899-1984)※管理人注:wikiが1960年に執筆し、北京の『文史資料集』に収録された「日本の二大機密文書翻訳の来歴」と題する回想記のコピーを入手した。王は慶応大学に学び、張学良政権の外交秘書主任をつとめ、三十代で国民政府外交部次長登用されたのち、中共時代には政治協商会議の委員になった人物である。
 その王は、1929年に日本の浪人や台湾系日本人の工作員(蔡智堪※管理人注:wikiが手に入れた材料に加工して上奏文を偽造し、政府部内へ配布した経過を記述していた。「真犯人」しか知らないはずの証言が含まれ、他の断片的記録とも符合するので信頼性は高いが、中国の歴史家でも知る人は一部に限られていたせいか、奇妙な現象が起きた。

本書では中国やその影響下にある国々(主に共産国家)では一時期、史実として扱われ、王家禎や蔡智堪は上奏文に関係する「上奏文否定派の一説」とされていたことが書かれている。被侵略国の中国を始めとして「日本を悪役に仕立てたい国には好都合な筋書きをまとめた田中上奏文」は、格好のツールでもあったのだ。ただ、これは少なくとも日本と西欧の歴史家では「偽書」として「怪文書」の扱いがされているし、最近では中国内でも偽書とする考えが主流となりつつあるようだ。

しかしそれでも、田中上奏文〜田中上奏文の来歴:wikiには他の説も網羅されているが、江戸末期から明治維新以降に継続して語られる誇大妄想的な膨張主義の一つの帰結点として秀逸であったとは思えるのだ。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書
 スケールがもっとも大きいのが佐藤信淵、ついで松平慶永で、後年の「八紘一宇」につながる世界制覇を夢想しているが、多くは列強の分割が未確定段階にあった朝鮮、清国を主目標とする東アジア大陸と南洋の一部にとどまる。
(中略)
 他にも、この種の勇ましい論調は珍しくなかった。林房雄が『大東亜戦争肯定論』(1964)で、「同じ意見は同時代の学者、政治家、志士の書簡や著書の中に見出すことができ、その数の多いのにびっくり」したほどだ。
 それを「日本の東亜侵略の第一歩」(井上靖)と見るか、「西力東漸(※管理人注 せいりきとうぜん:西の勢力が東の方へ押し寄せてくる意)に対する思想的反撃」(林房雄)とか「熱烈なる愛国心と民族的の自信からくる対外経綸(※管理人注 経綸-けいりん:国家を治めととのえること。その策)の萌芽」(『東亜先覚志士記伝』)と評するかは分かれるが、私にはどちらの指摘も当たってるように思える。

幕末期の武士たちの誇大妄想は、鎖国状態の事情に対する反動のようにも、「井の中の蛙」的な現実感の欠落にも見えなくはないが、自主独立を可能にする軍事力とは、当時においては帝国主義的拡張路線を現実化する点で切り離すことができないものだったのかもしれない。やるかやられるか、食うか食われるかの弱肉強食の戦国時代のような苛烈な環境に身を置く「自己陶酔的な高揚感」すら感じられるのである。

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帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

JUGEMテーマ:歴史



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帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】

本エントリは「帝国の功罪」第三期シリーズの始まりである。前回までと同様、不定期の更新となるが、今回は恐らくシリーズ内のエントリ更新は間隔が空くと思われる。
膨大な資料を読み込む時間と咀嚼してアウトプットする時間がこれまで以上にかかることが原因だが、いやはや、資料を片っ端から調べ始めると、歴史に関して特に明治以降の近代史に関しては、歴史の専門家ではないにせよ一般に比べれば結構詳しいつもりでいたのだが(^^;)その自信過剰をいとも簡単に打ち砕く情報の邂逅との連続で、これまでのエントリも少々怪しい部分が見え始めてきて(爆)筆が進まないことも予想されるからだ。

なので最初にお断りしておく。今後過去のエントリを含めて、事実関係の誤りや解釈の訂正・変更は随時行うものとする。結果的に自分の考えが最初とは変節してしまう部分もありうるので、「過去エントリと言ってることが違う」との批判は、新しいエントリのものを優先して「考えが変わった」とご理解いただきたい。


明治時代に勃興した財閥と軍需産業

陸海軍ともに明治維新後はしばらく海外からの武器輸入に頼っていた。国内で製鉄所や重工業を興しつつあっても、自力で武器を作り出す技術も知識もまだない時代、明治政府の方針により日本人の興した輸入商社から輸入する内達を行うと、それまで外国人の経営する商会の日本支社だった会社が、軒並み邦人企業として独立または元の商会の出資を得て新会社を設立、機械・船舶・武器などの軍需品の輸入商社として発展していく。

三井財閥:wiki
三井家の歴史は、太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという。
早川隆によると「三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない。」という。
三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(三越)を創業。京都の室町通蛸薬師に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け(ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。
三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳では無かったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていた。明治維新後、三井家は薩長主導の明治政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。幕末・維新期を通して、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていた。


富嶽三十六景
富嶽三十六景 二番:江都駿河町三井見世略圖

2015年度下半期NHK朝ドラ「あさが来た」のモデルとなった広岡浅子の実家であり、商売の手腕では昔から話しに聞く「近江商人」は、その時々の政府と強い結びつきを持ち、金融的に切り離せないような「癒着」を背景に激動の時代を生き残り、現在も存続している。政府と結んだことで政界とのつながりも強く、政治家を輩出したり支援したり、そのグループ全体の力は、今尚絶大な影響力があると言っても過言ではなかろう。

住友財閥:wiki
世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。
家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友(現在の福井県坂井市丸岡町出身)で、この人が武士から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、天正十八年(1590年)京都に銅吹所を設けた。のちにこの銅吹所が住友家の家業となったので理右衛門を業祖と崇めた。政友には一男一女があり、一男・政以は父の商売「富士屋」を継ぎ、一女は政友の姉婿にあたる理右衛門の長男・理兵衛友以を養子に迎え、ここで「家祖」と「業祖」が結合する。しかも理右衛門の妻は政友の姉であるという密接な関係だったが、この代でさらに両家の血が結合したことから、住友二代目は友以が継いだ。

別子銅山
※戦前の別子銅山

住友銅吹所発掘調査報告
以後、住友家は代々「泉屋」の商号で銅銀商を営むことになる。(現在の三井住友銀行事務センター(大阪市中央区島之内1丁目)が「住友銅吹き所跡」である。)

銅山経営で豪商となり江戸幕府〜明治維新を乗り切った住友は、経営を多角化させ巨大コンツェルンを形成する。

三菱財閥:wiki
岩崎弥太郎土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された(財閥解体)。

※画像は創業者岩崎弥太郎
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。

土佐藩は坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を弥太郎に1870年に任じた。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。これを機に西南戦争(1877年)のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。

商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通、大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない(ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らに肩入れして対抗していた)。

三菱も三井もある意味「インサイダー取引」「政官癒着」の構造で急成長し財閥となったわけだ。2010年度のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は創業者岩崎彌太郎の視点から坂本龍馬を描いていたが、ドラマの冒頭でアメリカ南北戦争が描かれ、それに使われた武器の転用が明治維新(戊辰戦争)で、ロックフェラー経由で三菱商事の前身九十九商会が新政府に武器を調達。その意味で言えば、この時既に三菱はアメリカの巨大コンツェルンの傘下に組み込まれていたとも言える。後に国策企業として軍需産業に成長した三菱は、大東亜戦争敗戦後GHQの占領支配時に財閥解体の命令で分割されるが、講和独立後占領政策から脱した時、他の財閥同様にグループ再統合の動きを見せ、現在の三菱グループを形成する。

安田財閥:wiki
安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。

みずほグループや東京海上火災、損保ジャパン日本興亜、明治安田生命など保険・金融業務をはじめ、沖電気など現存する企業は数多い。三井住友ほど派手ではないが実業としての堅実さは他の財閥と比べても遜色ない。金融業を中心とした産業育成に貢献し現芙蓉グループの中核となった財閥である。

古河財閥:wiki
古河財閥の源流は、明治8年(1875年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。
古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(大日電線と日本電線は合併し大日日本電線を経て現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。

鉱工業を中心に発展した財閥で、上記財閥と並んで日本の産業振興に多大な貢献をしてきた。機械・電機メーカーとして現存する企業も多数あり、PCメーカーでもある富士通とその系列の母体でもある。

Category:日本の財閥・コンツェルン(wiki)を見ると、庶民にはあまり知られていない(現存しておらず過去に隆盛を誇った)財閥がかなりの数掲載されている。それでもその片鱗を残し、富裕層として現在もお金持ちである一族も多く、現存する(ゆかりのある)企業名や一族の名前や著名人の出自を知ると少し驚くような人もいる。

鴻池財閥:wiki
鴻池財閥(こうのいけざいばつ)は、江戸時代に成立した日本の財閥。16世紀末、鴻池家が摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市鴻池)で清酒の醸造を始めたことにはじまる。その後、一族が大坂に進出して両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は江戸時代における日本最大の財閥に発展した。
(中略)
明治維新において、鴻池家は大名貸を帳消しにされて大きな損失を被ったとも、それほど大きな痛手は蒙らなかったとも言われる。しかし、鴻池家は維新後も、金融業から他の事業へ営業分野の拡大はあまり図らなかった。維新後のいろいろな起業の発起人には多く鴻池善右衛門(幸富)が名を連ねているが、同家の名声を利用するために誘い込まれたものも多い。明治以降の鴻池家の営業方針は堅実を旨としていたため、政商としての性格を色濃く持つ三井のように、藩閥政府の成長政策と歩調をあわせて急速に発展することはできなかった。1877年に善右衛門が設立した第十三国立銀行(のちに鴻池銀行)も他の諸銀行に次第に抜かれ、一地方銀行へと後退していった。
(中略)
第二次大戦後、財閥解体や農地改革によって鴻池家は甚大な被害を受けた。

三菱東京UFJの母体となった銀行の一つである三和銀行は本店を大阪に置く、三十四銀行・山口銀行・鴻池銀行の3行合併によって生まれた銀行で、その後度重なる銀行合併によって今は「鴻池」の名前は全く残っていない。

しかし東大阪市の「鴻池新田」と言う地名は、4代目 鴻池善右衛門 宗貞(むねさだ)が宝永2年(1705)、河内国若江郡(現 東大阪市)で石高一万七千石の新田を開発したもので、そのまま地名となって「豪商-鴻池」の名残を残している。

鴻池新田
鴻池新田:Googlemap

また、余談としては、つい最近知ったことだが(^^;)私の住む地域、それも徒歩圏にこの鴻池財閥ゆかりの建物が移築されていた。

みやけ1
みやけ2

みやけ 旧鴻池邸表屋
みやけ3
旧鴻池邸表屋は(鴻池善右衛門家の今橋本邸)大阪市今橋にあった建物で1837年大塩平八郎の乱で焼失するもののその後再建されました。広さは間口36間、奥行き20間、表屋造りの巨大な町家建築です。(1間は約1.8182mに相当)再建されることにより江戸時代の豪商の住まいの様子を後世に伝え、戦後は大阪美術倶楽部の会館として使用されておりました。
しかし、1979年に大阪美術倶楽部の改装に際して表屋が撤去される事になりました。歴史的建造物であることから保存を求める声が市民からあがったものの財政難を理由に拒否されます。そこで三宅製餡株式会社の二代目社長 三宅一真が「なんとか船場のシンボルを残したい」とこれを引き取り、奈良市鳥見町の所有地に移したのです。

その後は「資料館」として使用されてきましたが、より多くの人に歴史的建造物に触れてもらいたいという想いから、「和菓子屋・カフェ」として生まれ変わりました。

写真を撮影したのは平日の午後(2016年9月)だったが、それでも駐車場はほぼ満杯。近隣の人もこの館を見に来ただけの人、スマホで私同様撮影する人(^^;)など、立地を考えれば少し場違いなほど人通りがあった。(表通りから少し奥まった場所にあるため、たまたま偶然に人通りが多かったといえるような場所ではない)また、この場所周辺には「三宅姓」のお宅が数軒存在するので多分親族だろう。奈良県内のグルメ情報には結構出てくる和菓子店なので一度行こうとも思うのだが、平日午後でこの賑わい、しかも女性客多しなので少々敷居が高い(^^;)

大倉財閥:wiki
大倉喜八郎は天保八年(1837年)に越後国新発田に生まれ、18歳で江戸に出た。21歳で独立、大倉屋という乾物店を開き、その後鉄砲屋を開業。その後貿易事業へと乗り出した彼は、大久保利通、伊藤博文、山県有朋らとの親交を深め、一代にして大財閥を築き上げた。
進取の気性に富む大倉喜八郎は、1872年に自費で海外視察を敢行。1873年に帰国し、日本人による初の貿易商社大倉組商会を東京銀座二丁目に創立し、1874年には日本企業として初めての海外支店をロンドンに開設した。1881年には土木事業に進出、日清戦争を背景に軍需品輸入会社の内外用達会社を設立した。

現大成建設・ホテルオークラに名を残す大倉財閥も本体の大倉商事が1998年に自己破産し財閥としては解体され消滅している。系列企業は日清オイリオやサッポロビール、帝国ホテル、リーガル(靴)などかなり有名な企業もあるが、多くは他財閥の傘下に入ったり系列から独立している。

知る人ぞ知る存在としての財閥・戦前の巨大企業として、高田慎蔵その一つの雄が高田商会を興した高田慎蔵で、日清・日露戦争時に軍需品を含む武器:機械類の輸入商社として海軍省御用商社となり豪商にのし上がる。
また、彼はテレビタレントで音楽家:葉加瀬太郎の妻である高田万由子の高祖父(祖父母の祖父)にあたる。高田商会自体は高田慎蔵の死後、経営破綻して財閥としての系譜は立たれてしまうが、この時代はこういう政府や軍関連で勃興した企業人や財閥が数多い。

↓下は2016年9月に放映された高田万由子のファミリーヒストリーで、高田慎蔵から経営破綻した二代目高田釜吉の系譜をたどる内容となっていた。

ファミリーヒストリー
ファミリーヒストリー:NHK


たまたまこの番組を見たが、一部で知られている「お嬢様タレント」「高学歴タレント」の高田万由子にしては自分の出身一族の歴史は詳細を殆ど知らず、高田慎蔵のスケールの大きさ、当時の高田商会の富豪ぶりに素で驚いている姿が印象的であった(^^;)

また、当ブログで数回紹介している星一も明治時代後半から昭和初期(戦前)において、急成長と崩壊に至った代表的な企業家である。

星一星一:wiki
星 一(ほし はじめ、1873年(明治6年)12月25日 - 1951年(昭和26年)1月19日)は、福島県いわき市出身の実業家・政治家。略称、ホシピン。SF作家星新一の父。写真植字機を開発した石井茂吉と森澤信夫が出会うきっかけとなった星製薬を築いた。また、星薬科大学の創立者。
それまでは輸入に頼っていた、外科手術に不可欠なモルヒネの国産化に成功する等、「東洋の製薬王」と呼ばれた。星製薬はチェーンストアという販売方式を日本で初めて確立した。野口英世やフリッツ・ハーバーのパトロンとしても知られる。なお、彼が発案した『三十年後』はSF小説であるため、それが長男の親一(新一)と関連付けて語られることがある。


第1次世界大戦の始まった翌1915年(大正4年)モルヒネ(麻酔薬)の国産化に成功した星製薬は、他にもキニーネ(マラリアの特効薬)などそれまで輸入に頼っていた医薬品の多くを国産化し巨大企業に急成長するが、モルヒネとはいわゆるアヘンの生成物質であり、医薬品であると同時に軍需物資である。

その後、国内の政治事情によって星製薬(というか星一個人)は徹底的に攻撃されることになるが、今後検証していく歴史の流れを見ると、(モルヒネに代表される)国際的麻薬ビジネスの流れに翻弄されたようにも見える。そちらは別の機会に言及することになるが、現在に至るまで脈々と存続している企業や廃れた企業、それぞれに「軍産複合体」としての役割を果たしてきたことが伺える。

経済の発展に多く寄与しているとはいえ、平和の顔をしている現存する企業の多くは、海外の(外資系)企業と同じく、少なからず血塗られた歴史とともにあることを忘れてはならないのだ。

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テレビの時間【てれびのじかん】

私は昭和35年生まれだが、物心がついた時(つまり覚えている限りの幼児期の最初の頃)我が家にテレビがあったかどうかが定かでない(^^;)5歳頃まで住んでいた大阪府寝屋川市の借家時代(祖父はこの家で他界)、幼稚園やお絵かき教室の記憶、通園路の田んぼの畦道、貧血で卒倒した幼稚園の先生(^^;)、木の床の質感・・・が微かに思い出されるが、そこにテレビのイメージは浮かんでこない。
小学校から住んだ現在の奈良市(現住所)になってようやく白黒テレビの記憶が残る。ウルトラQやウルトラマンはこの白黒テレビで見たし、ウルトラマンの最終回、ゼットンに敗れてウルトラマンが地球を去る回はブラウン管の故障?で音声だけのラジオドラマになってしまい、幼い私は号泣してたらしい(爆)

しかしNHKの子供番組「ブーフーウー」の記憶はある。とすると寝屋川市時代に既にテレビはあったのかもしれない。自分で主体的に見たいと思ったのがウルトラQだったが、映画好きだった父が円谷プロを知っていて円谷プロ制作の特撮テレビドラマが始まるのを新聞で知り、私に「怪獣が出てくるテレビが有るぞ、見るか?」と尋ねてくれた記憶がある。当然「見る見るー!」と、初回放送「ゴメスを倒せ!」で夢中になり、その後日曜日の夕方は6時30分のサザエさんに始まり、7時からのウルトラシリーズ、7時30分からの藤子不二雄アニメ(おばけのQ太郎〜パーマン〜怪物くん)に続く私にとってのプライムタイムとなり(^^;)8時からはようやくチャンネル権を父に返してNHKの大河ドラマを見ていた(^^;)その後の私の「歴史好き」はその影響かも?(爆)



その当時、私の居住圏で視聴可能なTV局は6局(すべてVHF)NHK2局と民放4局は今のキー局とほぼ同じ。後発のUHF(地方局)が見られるようになったのは小学校高学年か中学生ぐらいの頃で、父が買った最初のカラーテレビでは確か選局できなかったように思う(ダイヤル式の選局だったのでVHFとUHFでふたつの選局ダイヤルが必要だがVHFのダイヤルしかなかった)その後、故障などでUHFが選局可能なテレビに買い換えたこともあったが、基本的にVHFのキー局放送を主に見ていたため、UHFに合わせるのは京都テレビが阪神巨人戦を放送するときぐらいで(^^;)VHFと違い、試合終了までやってくれたので見たぐらいだった(^^;)

その当時は集合アンテナではなく各戸個別のアンテナで受信していたため、立地によっては映りにくい局があったりしてそれで見る番組を決めていてこともあった(^^;)そうそう、奈良市内なのに地方UHFの奈良テレビは映らなかったのだ(爆)

BS放送(アナログ)がスタートした平成元年、九州に長期出張していた私がたまたま仕事柄得た情報でBSに興味を持ち、電気店で売られていた受信セットを購入し自力でチューニングして受信に成功した時、父が「エラい時代になったもんだ」と妙に感心していたのを思い出す(^^;)

街頭テレビが話題になった頃のテレビ黎明期、すでに40代だった父には、そこから四半世紀後に訪れた多チャンネル時代が全く想像できなかったのだろう。大して学業が優秀ではなかった息子(私)が1人でそのシステムを理解して受信できるように設置してしまったのも驚きだったのかもしれない(^^;)

BSアナログはNHKとWOWOWにBSラジオのSt.GIGAで映像放送は実質3局(NHKハイビジョンは当初放送されていなかった)しかなかったし、全部がペイテレビ(有料放送)だったため、一部の物好きしか加入しなかったようだ(爆)それでもスカパーやディレクTV(2年ほどで撤退)など、有料多チャンネル時代はその後も形態を変えながら更に拡散していく。

映像を供給するプラットフォームがあまり変わらないままにVOD(ビデオオンデマンド)化されインターネット対応していくうちに、映像版PODCAST的にあるいはテレビで鑑賞するYOUTUBEのような形態に変化し、それでも多種多様なVODサービスが出現する度に「少々うんざりしていた」私であった。

いくらたくさんあっても「見る時間」が無い上に沢山ありすぎて見たいものを探せない以上、無いのと同じなのである(^^;)

最近また新しい動画サービスが始まったらしい。PCでブラウザでも閲覧でき、もちろんスマホ対応(アプリ使用)で生中継(録画放送?)も行われて、有料課金ユーザーには放送終了後のオンデマンドサービスも対応。Amebaのサイバーエージェントが仕掛け人のAbemaTVである。AmebaではなくAbemaと言うのは登録名が使えなかった(先に登録されていた)とのことでAmebaを逆から読んだものにしたというなかなか砕けた発想のサービスだ。(^^;)ただ、同じ系列のFRESHという動画配信サービスも存在する。

AbemaTV

Fresh

何故似たようなチャンネルが別にあるのかがよくわからないが(^^;)テレビ朝日とタッグを組んだものとオリジナルを両方展開したということのようだ。

Abema TVとAbema TV FRESH。違いは何?:DateMegane

もう先々週になるが、8月17日このサービスを知ってスマホやらPCやらでふたつのサービスを試してみた。
きっかけはこのツイートをたまたま拾ったことにある(^^;)

紗倉まな

紗倉まな朗読LIVE

AV女優が官能小説を朗読するなどというのは民放各局や衛星放送でもなかなか難しい試みであろうし、さすがネットテレビ局ならではの企画である(^^;)

彼女は小説も書くし、こういうバラエティ的な企画にもきちんと適応するポテンシャルの高さを持っている。期待されるものをちゃんと表現し、アウトプットできるある種の「才能」の持ち主なのだろう。今度その小説とやらも読んでみようか(^^;)

他にも↓時事的なニュース系動画も配信されているし(爆)

竹田恒泰チャンネル

今このエントリを書いている時にスマホで流していたのは、FRESHでの陸上自衛隊による「平成28年度富士総合火力演習(そうかえん)」生中継である(^^;)

まさか総火演が生中継で見られる時代が来ようとは(爆)

自衛隊総合火力演習



天候が悪かったため空挺団の降下訓練は中止となったが、タイムスケジュールの空白は事前に用意していた自衛隊の短編プロモVTR(島嶼地域防衛編)が差し込まれるなど用意も周到(^^;)しかし、普段ミリタリーオタクでもなければ装備品の性能など知る機会もないのでこういうのはやはり興味深いし、陸上自衛隊が戦車隊や砲兵隊を駆使する戦いとなるのは、本土に敵が上陸された状況でもあるので実際の戦いは非常に激しくシビアなものになる。

一瞬で一定地域を制圧する散弾砲など結構えげつない兵器も展示され(^^;)やはりこういう(えげつない=非人道的にも思える)兵器を展示することも抑止力の一部なのだと実感した。

多チャンネル時代が本格的に到来したのがようやく体感できた気がする(爆)

携帯向けの動画配信サービスではなく、ニコニコ生中継などの独自配信の放送がビデオオンデマンドと合体してテレビ受像機にこだわらない視聴スタイルを確立する。電波を独占的に専有しているために放送法で制約を課せられる地上波や衛星放送など、もはやこれまでの「テレビ受像機」は必ずしも主役とは限らない時代が到来したということでもある。

<ワンセグ敗訴>受信料制度に一石 NHK、徴収にも影響:Yahoo!ニュース
 NHK受信料を巡り、さいたま地裁が26日、携帯電話のワンセグ放送だけでは受信契約を結ぶ義務はないと判断したことで、現行の受信料制度の限界が改めて明らかになった。

アンチ度がどんどん増してくるNHKだけにザマミロザマミロ(爆)と言うところではあるが、悔しいことに時々は良質の番組があるのも事実。とは言えいま定期的に見ているのは「英雄の選択」「大河ドラマ」くらいしか無い。昔ほどテレビ(地上波・衛星)を見なくなった今、AbemaTVのようなCSをネットでカバーした(再放送が豊富)局が増えてくると天下のNHKといえども安穏とはしていられないのも事実。

視聴者を軽視して破滅的低迷に陥ったフジテレビにNHKが続いてしまう危険性はないとはいえないのだ。その一端が早速晒されたのが「貧困JK捏造放送」である。

【炎上】NHKに自称「貧困女子高生」が登場するも豪遊発覚。同級生も怒りの告発:netgeek
NHKが特集した貧困特集に登場した女子高生の「うらら」さんについて、実はお金には全く困っていないのではないかと囁かれ始めた。当の本人が豪遊している証拠をネット上にたくさんアップしていた。
(中略)
その後、ネット上では同級生たちが貴重な証言をしてくれた。
・うららさんが生徒会長をやっているのは内申目当て
・生徒会長は「やりたくなかったけどやらされた」と言っている
・応援演説が得られなくて職員室前でごねていた
・ここぞというときに泣いて先生に言うことを聞かせる
・生徒会長としては全く仕事をしておらず、副生徒会長が仕事をしている
・皆勤賞は遅刻したのを先生に交渉してなかったことにしてもらったから
・ワンピースのイベントに親戚の結婚式と嘘をついて行った
・生徒会の友達も無理矢理「自分がお金を出してあげるから」と連れて行った
・無責任に生徒会活動をサボったので生徒会メンバーは総スカン状態
・神奈川県立横浜明朋高校は偏差値36のバカ高校
・進学できないのはお金の問題ではなく頭の問題
・NHKの取材が来たとき、一緒にお昼ご飯を食べる友達がいなくてNHKのスタッフが「誰か一緒に食べてあげて」
***
過去の豪遊について発掘している間、うららさんのものとみられていたTwitterアカウントとpixivアカウントは過去のデータを全削除。まんまと答え合わせをしてしまったのだ。

軽薄な女子高校生はもう社会的にも制裁されているようなものなので画像は出さないが、この件ではしっかりNHKの「捏造的演出」と取材対象に対する「利益相反」が確認できる点で、もはや朝日新聞と同レベルの「捏造メディア」と認定するしかなさそうだ。

【速報】貧困女子高生の姉が登場。明らかにした4つの真実:netgeek
この記事では結論は出さず、あとの判断は読者にお任せしたい。うららさんの家庭は母子家庭で平均的な所得を下回っているのは確かだろう。だが、会議でスピーチをして援助を求めるほどなのか、本当に無駄遣いはないのか、本人の自業自得な側面はないのか、という点については議論が起こりそうだ。
貧困JK捏造

NHK報道局の戸田有紀記者はこの貧困問題を扱う市民団体とつながっている上にその会合に「貧困JK本人」も出席している(^^;)

超貧困JKうららさん Twitter垢発見され豪遊人生を満喫してるのが発覚 NHKどうすんのっと:保守速報
874: アトミックドロップ(福島県)@\(^o^)/:2016/08/19(金) 12:16:14.09 ID:ERh9idWr0.net
>>15
124 (アウアウT Saa7-D2ET)[] 投稿日:2016/08/19(金) 04:05:36.52 ID:6ZsjIGeAa (2/2)
子ども貧困対策センター設立準備会
賛同人一覧
戸田有紀 NHK記者 東京都
http://khtcjp.blogspot.jp/p/sandou.html



かながわ子どもの貧困対策会議
出席者
戸田 有紀 (NHK報道局 遊軍プロジェクト 記者)
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/p1048226.html


傍聴人にうらら

うらら

あ、出しちゃった(^^;)まぁ、他でよく出てきてるようなアップじゃないしいいか(爆)

自分が関係のある組織の利益を図るために内輪で事実を隠し捏造して公表する。朝日新聞の植村隆が義母が関わっていた慰安婦問題を援護するために記事を書いたのと何も変わらない。たとえどんなに公正な理由があろうとも、取材者自らが属している(関係のある)組織をネタに記事を書いた場合、それは純粋に「報道」とは呼べなくなる。

植村隆の時と同様に、自分が持ち込んだネタであっても自分が主体的に関わる組織に関連する以上、本人が記事にしては「報道人のモラル欠如」を責められても当たり前なのだ。「報道」を一個人の意志によって恣意的に捏造し利用した。もはや戸田有紀記者は報道人としての資格を失ったのである。

うららにしても私に言わせれば「浪費貧乏」ではあっても「貧困」ではない。むしろ浪費癖があるため生活の一部に支障があるけど「貧しさを楽しんでる」ようにも見える。つまり、
貧困ではなく貧楽の高校生にすぎない。

貧楽:コトバンク
貧乏であるために,気をつかうことも少なく,かえって気楽であること。貧乏ゆえの気楽さ。

本当に生活を優先する気があれば(貧乏状態を軽減したければ)、Twitterで自ら晒した浪費の数々を減らせば良いのであって、テメエの贅沢のために誰が支援するっていうんだよ!という他者の観点が著しく欠けている。

取材謝礼(お金)目当てで記者の言うままに演じたのだろうが、それによってバッシングされるのは自業自得でしか無く、どんなに誹謗中傷されても身から出た錆でしか無い。

テレビというメディアが、かつてのような一方的な洗脳メディアではなくなった今、映る側(被写体)になることの危険性を知るべきなのだ。そしてそれは映す側(放送者)もまた、市民の監視の目があることを知るべきであることは間違いない。

「双方向テレビの時代がやってきた」とは地デジ普及の時に叫ばれたフレーズだが、ネットというリアルタイムにリアクションが出てくるテレビ以上のメディアが市民の側にある以上、これからのテレビの時間は既存メディアの思い通りにはならないのである。

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顛末【てんまつ】

安倍総理の「消費増税延期とアベノミクス継続」を参院選で争点化し野党連合(?)の追撃をかわす戦略は、野党のお約束の「安保法制〜改憲への警鐘」という有権者受けの悪い対立軸への誘導を引き出し、当面は安倍総理の思惑通りに進行しているように見える。

野党側が「アベノミクス失敗」をいくら訴えようとも、アベノミクスがスタートした時点で実質的に景気は上向いになりかけた。それに水を差したのが「5%→8%への消費増税」だっただけに、再びの増税延期はそれ自体が「アベノミクス4本目の矢」にも思える「景気対策」と考えることも出来る。

消費税
<画像元:ハフィントン・ポスト>

財務省への説得工作も不思議と功を奏し(?)財政再建への道筋を先延ばしすることで景気の腰折れを防ぐとともに、増税による消費低迷に向かいかねない消費マインドを盛り上げる狙いだが、ある経済学者などによれば「消費税そのものが不要」と言う。

「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした〜それどころか…なんと2016年、財政再建は実質完了してしまう!(高橋洋一):現代ビジネス
借金1000兆円、国民一人当たりに直すと800万円になる。みなさん、こんな借金を自分の子や孫に背負わせていいのか。借金を返すためには増税が必要だ。……こんなセリフは誰でも聞いたことがあるだろう。財務省が1980年代の頃から、繰り返してきたものだ。

テレビ番組は時間も少ないので、簡単に話した。「借金1000兆円というが、政府内にある資産を考慮すれば500兆円。政府の関係会社も考慮して連結してみると200兆円になる。これは先進国と比較してもたいした数字ではない」

これに対して、番組内で、ゲストの鳥越俊太郎さんから、「資産といっても処分できないものばかりでしょう」と反論があった。それに対して、多くの資産は金融資産なので換金できる、といった。

筆者がこう言うのを財務省も知っているので、財務省は多くのテレビ関係者に対して、「資産は売れないものばかり」というレクをしている。鳥越さんも直接レクされたかがどうかは定かでないが、財務省の反論を言ってきたのには笑ってしまった。

借金が1000兆円あるのは確かだが、政府資産もかなりの量があると言うのはあまり語られてこなかった内容だ。「心配ない」と主張する楽観論の大半は「借金の殆どは国債で日銀や日本系の銀行が主に買っている。債権の回収権や基準となる売買は日本国内で行われ、海外に流出しているものは少ない。よって金融危機に遭遇し為替差損が起こっても海外投資家が投げ売りして最終的にデフォルトに陥るリスクは少ない」というものだった。

自分が借金してもそれは親に借金してるのと同じだから、真のリスクではないとの喩え話は、なんとなく合点の行くものではあったが、たとえ親でも借金は借金。甘く見てこじれたら一番厄介なのも家族・親族なので(^^;)それでも借金はないほうが良いよねぇ・・・というのは正常な感覚だろう。
だから元本返済だけじゃなく金利分も見据えた借金プラン(増税と言う名の合法的踏み倒し)と言うのは、普通に納得できる話ではある。しかし親に相当な額の借金をしていても、実は換金可能な株や預貯金に土地や高級車を持っていたなら、実質的な借財は少なく無いとはいえ最悪の場合でも元本に近い額は返済可能だ。親に金を借りようとする前に、贅沢を止めるなり政府資産の一部を処分して、少しは返済したらどうだ。・・・と言うのも真っ当な話に聞こえる(^^;)

記事の続きは有料会員用らしいので(爆)ヒントだけしかもらえなかったが、国の借金が実質的には言うほど多くはないし、それ(借金)を理由に増税云々は嘘をついて金をせびる「マスゾエ級の詭弁」であると(爆)言った内容が想像できる。

だったら増税も必要ないしむしろ減税も可能なはず・・・。と言うのは庶民の正直な感情だろうが、金の亡者(財務省)はそれを認めようとはしない。何せ東大出のエリート官僚の言うことに間違いはないのだ(爆)

消費税はそもそも社会保障費の財源としての目的税の性格を持っているし、増税延期は社会保障財源の確保も延期ということになり野党側が反発している通り「選挙対策で社会保障政策を弄んでいる」と言う批判はあながち的外れではない。
高橋洋一氏が言うように、まず財政の健全化を図るために肥え太った政府官庁の税金天国をダイエットしても良いのではないかと思うのだが、東大出のエリートはやはり東大出のマスゾエのように他人の金を自分のもののように使う事に躊躇がない(爆)

日本の最高学府は上手く税金泥棒を行う人材を育てているということになるのだ。

まぁ、社会保障費の財源を目的税化すれば撤廃しづらくなり、他から財源を振り当てる必要が出てくる以上、官庁がしっかり確保する特別会計予算と豊富な政府(及び官庁の)資産を切り崩すことは当該省庁の抵抗も強く困難だ。安倍総理の目的は「景気浮揚(アベノミクス)」「安全保障政策(安保法制〜憲法改正)」なのは明白なので、財政再建には腰が引けている。元々やりくりのうまい総理ではないだけに(^^;)次の内閣まで実質的な財政再建策は期待できまい。

消費税の増税で「社会保障費の財源確保は待ったなし」と言われていたが、どうやら国の借金の考え方で借財事態を見直すと
「な〜んだまだ大丈夫じゃん」(^^;)
ということになったのだろうか?まぁ、ある意味で官僚たちの蓄財(合法的な横領)を先延ばししたことと同義ならこれはまずまずの「新しい判断」とは言えるかもしれない(爆)

消費増税の延期が、以前のエントリで言及した「中国バブルとそれに依存した欧州の通貨危機」を睨んだものだということ以外にも「増税延期を考えるリスク要素」があったらしい。それがTPPである。

参加国
<画像元:原謙三国際特許事務所>

トランプがアベノミクスの息の根を止める? 米大統領予備選が「TPP反対」一色になってきた:J-CASTニュース
2016年が明けてからの大統領選の候補者指名争いで米国が沸く中、日米など12か国による「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)」発効の行方に暗雲が漂っている。TPP推進派だった民主党の最有力候補、ヒラリー・クリントン氏も含め、各候補は「TPP反対」で横並び状態になってきたためだ。

TPPは安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」の柱と位置づけられており、日本にとっての影響は大きい。
(中略)
TPPは16年2月4日、交渉参加12か国が協定文に署名した。この署名から2年以内に各国が国内手続きを完了すれば、その60日後に発効する。ただし、全12か国の手続きが終わらなくても、半数の6か国以上が手続きを終え、かつ、承認した国の国内総生産(GDP)が全体の85%を超えれば発効する。つまり、GDPの規模が大きい日本と米国が決定的に重要ということになる。日本政府は今国会で手続きを終える意気込みだが、米国での手続きが終わらない限り、発効しない。
(中略)
安倍政権はTPPを成長戦略の重要な柱と位置づけ、「TPPはGDPを実質で約14兆円押し上げる」との試算を示してきた。そんな貴重な柱を失うことになる。しかも交渉合意の立役者とも言われ、交渉内容を熟知している甘利明前TPP担当相が1月末、金銭授受問題で辞任した。年明け以降の世界的な株安と円高で、日本の経済も不透明感を増す中、「アベノミクスには黄信号がともってきた」(エコノミスト)との声も目立ちつつある。

ただ、米国が本当にTPPを承認しないかといえば、そんなことはないとの指摘も少なくない。特にクリントン氏については「当選すれば、TPP承認の方向にかじを切る可能性が高い」(エコノミスト)との見方が一般的。クリントン氏は元々、国務長官時代にTPP交渉に加わっており、「TPP不支持は選挙対策を踏まえた政治的発言」(同)と見られるためだ。

TPPは元々アメリカや日本以外の太平洋周辺諸国で自由貿易協定(FTA)の拡大版として構想されたもので、経済強国であるアメリカがそれに参加することによって「実質的にアメリカのルールで仕切れる」はずであった。ヨーロッパの安全保障体制(シリアやクリミア)での失策で評価を落としたオバマ大統領にとっては、アジアの安全保障(対中国戦略)とアメリカの景気浮揚の狙いを持つTPPは早期妥結すればするほど「自分の功績」として実績を残せる分徐々に本腰を入れてきた政策だ。

TPPはオバマの命綱−アメリカの陰謀とは:ステラ・リスクのレポート
オバマ大統領はアメリカの輸出を活発にして、アメリカでの雇用を創出したい。これはリーマンショックからの反省で、個人消費に頼りきった成長ではこれからは駄目だという結論に至っているからです。

それで、活路を目指すのが、輸出になるわけです。輸出を考えたときに、今後経済が発展できるのを期待できるのは成長率の高いアジア太平洋地域である。ここへの輸出を増やせば、アメリカの経済も発展する。これがオバマ大統領の一番の思惑です。。
(中略)
もうひとつの米国にとっての大きな目的があります。それは中国牽制です。

中国には、言うまでもなく自由貿易という意味からして、大きく他国と違い障壁、障害が多数あります。知的所有権でも、普通の製品でも模倣品も多く、ビジネスルールという意味では大きく遅れています。そんな中国にアジア圏にTPPという一定のルールを持つ経済圏を作ることでプレッシャを与えて、中国に間接的なプレッシャーをかけようというわけです。つまり中国市場を、よりアメリカの大企業が活躍したい市場にすることをアメリカは目論んでいます。
(中略)
もうひとつの中国牽制は、軍事、政治面からの配慮です。南シナ海に勢力を広める中国海軍の存在に対して、アメリカの太平洋艦隊を中心にした軍事的な抑止力があるわけで、TPPという経済的な結びつきを強めることで中国の軍事的な圧力に対抗しよという意図があるんです。つまりTPP圏対中国という図式を作ることで、総合的に中国にプレッシャをかけようとしているわけです。

この企業の詳細はステラ・リスクについてを読んでもらうとして、金融や経済・軍事や国際政治のパワーバランスまで見据えたTPP戦略であることは以前から言われてきたが、ここへ来てアメリカ内部から反発が起こってきている(^^;)どうやら日本を巻き込んだこととあまりに強引なルール付けをしようとしてTPP交渉妥結が遅れに遅れ、当初の目論見ほどにはアメリカに美味しい貿易協定ではなくなったと言うところだろうか。
安倍総理も「聖域なき関税撤廃には反対」とTPPには一部反対しつつ交渉を進め、日本側の条件をある程度飲ませて妥結しただけにいまさら停滞するのは痛手なはずである。

TPP、失効の公算に…批准手続き完了は全参加国中ゼロ、米国議会は審議すらせず:biz-journal
 TPP(環太平洋経済連携協定)は2月4日に12カ国で協定署名が行われ、各国は議会での承認手続きに入っている。TPPは基本的に2年以内に12カ国の承認手続きが済んだ段階で発効することになるが、さらに協定上特別の規定があり、各国のGDP総合計が85%以上になった段階で発効するとされている。全体に占める米国のGDP比率は60.4%、日本は同17.7%となっており、日米どちらかの国で承認されなければ、TPPは発効しないことになる。

TPP
<画像元:THE PAGE>

担当大臣だった甘利明の政治資金スキャンダルにアメリカ大統領選でのTPP不人気でいよいよTPPの発効が大幅に遅れていくことになれば、それを見据えて算段していた経済政策も狂う。あれだけ人と時間を掛けたTPPが失効の懸念すらあるわけで1〜2年先の経済動向があまりにも不確定な今、増税に踏み切るのはあまりにも冒険がすぎる。・・・だからこその増税延期であり、財務省抵抗勢力への牽制だったようにも思えてくる。

安倍さん結構慎重だね。国民の景気不安を少なくとも野党よりはしっかり汲み取っているし(^^;)どこかの馬鹿のように政策以上に自分の利益を最優先していない点では、さすが一国の宰相としての責任感を感じる所以ではある。

さて、参院選やアメリカ大統領選とTPPやそれに影響される特ア国家のリアクション。それぞれの顛末がはっきりするのは今年の年末から来年にかけてであろうか?

私個人としてはあまり期待できないし経済的にはしんどくなりそうだが(^^;)明日に希望の持てる状況をなんとか作り出して頂きたい。

まぁ、東京都以外にもそこら中に居る「東大出のマスゾエ級乞食」をしっかり駆逐することができれば、庶民的には公平感が出てきて景気は上向くような気がするんだがねぇ(^^;)

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帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】

日本海軍と軍内部の抗争

陸軍の初期戦力が支配する大名各藩の武士であったのと同様に、海軍の初期戦力は徳川幕府の海軍操練所や海軍伝習所を継承したものになった。古代の水軍を源流とする士族海軍もやがて明治近代軍の創設にあたり国民皆兵と徴兵による兵力補給を目指すが、陸軍とは決定的に違う特性があった。

陸戦部隊の陸軍は基本的に移動手段は馬・馬車・人力によるものであるが、海軍の場合は蒸気船を基本とした当時のハイテク兵器がそのまま移動手段を兼ねる。その兵器を当初こそイギリスなどに発注して装備を拡大していたが、国内の重工業の発展とともに自製率を高めて独自の開発も行うようになる。人間が兵器を携えて戦う陸軍に比して、兵器そのものに乗り込んで操る特性上、「巨大兵器産業とともに発展する」経緯をたどる。陸軍以上に開発・増強に時間と費用がかさむ点で、海軍力とはそのままその国の工業力を反映するものでもあった。

海軍の建設:帝国陸海軍の基礎知識
海軍省発足直後の明治5年(1872)年末の軍艦保有量は、明治元年よりも減って14隻、12000トンにすぎなかった。兵員も1700余名であって、陸軍の十分の一であった。

また、軍用船舶の運用には専門の施設・人材の育成機関が必要となり、全体のシステム維持には陸軍以上に費用がかさむ。しかし日本は海洋国家であり、外敵が侵攻してきた場合に最初に対峙する存在でもある。

国内での治安行動が収束し対外派兵を視野にいれる頃になると軍の予算配分は陸軍と海軍が逆転するようになる。

大日本帝国陸軍の歴史〜初期の予算配分:wiki
西南戦争に至るまでの軍の予算は、明治4年9月陸海軍定費が定められ陸軍100万両、海軍50万両となった。更に陸軍には定額外25万両が配分された、これは内乱鎮圧費として計上されていた。1872年(明治5年)からは官禄月給の支払いが陸軍定額予算から扱うようになった、それまで陸軍の官禄月給は大蔵省が支払っていた。1874年(明治7年)からは宮中御用金36,000円を年々兵備に充当し軍備増強に邁進していたが、実際には毎年の余剰予算を大蔵省に返還していた。しかし、1880年(明治13年)には政府の放漫財政支出を原因とする物価高騰により陸軍費が圧迫されていた。維新開始以来、政府は軍事費を優先的に割り当てていたが、開国以来それほど時間を経過せず西欧的資本主義体制を取り入れた明治日本の経済は近代軍備を整備維持するための経済基盤が発展途上で未成熟であった。

大日本帝国海軍:wiki
明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩藩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。

参謀本部が設立され、海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。またこの時期、軍艦は「常備艦隊」と「西海艦隊」に振り分けられていたが、これを統合し「連合艦隊」を組織するという案を出した。これが連合艦隊編成のきっかけとなり、日清戦争開戦の6日後にはじめて連合艦隊が編成された。以降日露戦争など戦時や演習時のみ臨時に編成されていたが、大正12年(1923年)以降常設となる。

松島
※連合艦隊 初代旗艦「松島」<画像元:世界の戦争・歴史ブログ>

予算より見たる帝国海軍:近代デジタルライブラリー
第一 海軍の我財政上に於ける地位

議会創設時の海軍予算は大体総額約一千万円であって総予算の約一割を占めるに過ぎなかったが、日清戦争後のいわゆる臥薪嘗胆時代に於いてはその総額六七千万円に達し総予算に対する割合も明治三十年度には三割(軍事費は五分五分)にまで及んだのであった。

(中略)

第四 海軍と貿易

 海洋国日本の生命は大陸方面たると海洋方面たるとを問わず、今後日本の盛衰は一に懸って海外貿易の隆替(※管理人注 りゅうたい:盛んになることと衰えること)如何にありとも云われ、最近財政論者中には公債発行額如何は問題に非ず問題は国際収支の状況如何にありとして海外貿易の改善伸張を強調する者の少なくないのも故なきに非ずと思う。
 又我国民の間にはよく日本国土狭小にして各種重要なる資源に乏しく且(かつ)人口過剰であるからとて色々悲観論を唱える者があるけれども、東亜南洋に亘(わた)って存在する無尽蔵の資源は日本にとっては英米等よりも遥かに手近にあるのであるし海上運賃は陸上運賃の十分の一にしか当たらないと云う点よりして日本の海洋国たる特質を充分に発揮活用するならば此の悲観論は自然解消せられるべきである。但し海洋貿易と資源利用と海軍と云う三位一体の確立は富国強兵の定石であると云わるるが如く、これらの通商航路を安全にし海洋貿易を積極的に進出せしむるが為には其の背後に毅然として其の制海権を把持するに足る有力なる海軍を必要とすることは云う迄もない。而(しか)して此の海軍力を維持する為に要する数億の経費が数百億の資源を開発し数十億の権益を齎(もたら)すとしたならば一概に海軍費の過大を喞(※管理人注:かこ:嘆いて言う)つにも及ぶまい。


1937年(昭和12年) 海軍省海軍軍事普及部 出版
※原文は旧字に旧仮名使いなので当用漢字・現代仮名使いに変更。

予算比率
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総予算と軍事費
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 キャプション 
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軍の単一の予算としては国家予算一般会計の約30%の内、約半分が海軍に割当られた格好だが、関連軍需産業にも予算が配分されていることを考えると、決して低い水準であるとは言えない。

同じような性格の政府機関である「軍」で少ない予算を奪い合うと必然的に対抗意識や敵対心が芽生える。

兵士個人では軽装備な陸軍に対し、巨大な装備に守られつつ個人的には非武装の海軍兵士。野戦が主戦場のため食に関する環境(食事内容や調理度合い)や就寝時の環境(テントに簡易ベッド)が粗末である陸軍に比べて、艦が健在であれば温かく室内で食事が取れ、室内の固定ベッドで休める海軍は戦時においても優遇されているような印象がある。しかし常に閉鎖空間の中で生活しストレス度が高く、船底は鋼板のみで沈めば生存の可能性が著しく下がる海軍に比べて、陸上戦なので敵の攻撃さえかわせればサバイバルが可能で生還の可能性がある陸軍。

それぞれに相手の職務上の特性を自分の環境と比べては批判や中傷を加えるといった感情的な対立も起こっていた。

その原因のひとつは軍政・軍令のシステムの差にある。前回の帝国の功罪(18)「日本軍の黎明」のように陸軍では当初フランス式ではあったが後にドイツ(プロイセン)式に変更される。海軍はルーツを幕府の海軍操練所に持つため、オランダから始まりフランス(幕府の軍事顧問)を経て明治新政府ではイギリス式に変更された。

海軍省と軍令部
海軍省と軍令部<画像元:探検コム>

帝国陸海軍の基礎知識(熊谷直):NF文庫
イギリスの海軍士官は貴族であり、水兵は、古くは奴隷狩りのような形で町中から連れて行かれた若者や浮浪者であった。このため士官が水兵を殴るのは当然視されており、日本海軍の名物であった精神注入棒による制裁も、イギリスに起源を求める説がある。
(中略)
陸軍と海軍は、任務からくる体質的なちがいのほかに、その師であったドイツまたはイギリス伝統からくるちがいをもっていたようである。陸軍はそれでも旧武士社会的な日本の伝統を残した部分が多かったのに対して、明治の海軍は、徹底して英国化を図り、階級制度の上にも、それが強く現れているようである。

元々は文化の違いによる軍の慣習の違いが、丸ごと導入してしまう(あるいは形から入る癖が元々ある)日本の習性と相まって価値観の差にも影響してしまったのかもしれない。

精神注入棒
※旧海軍精神注入棒(陸上自衛隊 久里浜駐屯地・歴史館: 神奈川/横須賀)
<画像元:[依代之譜]よりしろのふ>

陸軍は日本の伝統の戦い方を残していたが、同時に日本人の慣習や価値観を多く残していた。それが帝国の功罪(4)国民病「脚気」と「結核」でも言及した「脚気」の病害に苦しめられる原因となり、海軍はイギリス式を徹底したため陸軍とは異なる食環境で「脚気」が蔓延することがなかった。

それぞれにメリットとデメリットが有り、どちらがいいとは言えないが、この明治時代に創設された日本軍の最大の問題点は、やはり陸海軍を統合して指揮できる役職がなかったことである。天皇が名目上は最高指揮官であるが、軍略の専門家とは言えず実務は各陸軍大臣や海軍大臣に頼ることになる。最終決断をする決定権だけの指揮官なので、国軍の統一的行動を指揮する上で陸海軍双方に通じた専門家が判断しなければならないが、基本的にそのようなシステムでは陸海軍による主導権争いが絶えなくなる。明治時代の「元勲」が割拠していた時代なら西郷従道(西郷隆盛の弟:陸軍と海軍両方の指揮官を経験)のような人物もおり、合議制でまとまっていたが、このシステム的欠陥は常に陸海軍の軋轢を生み、軍の行動に関して主導権争いは常に起こっていた。

軍令部:wiki
長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は海軍中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。
軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。
山本権兵衛設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、戦時大本営条例に基づき、大本営では本来陸軍の軍令機関であるはずの参謀本部の長官である参謀総長が天皇に対して帝国全軍の作戦用兵の責任を負うこととされた。これに対して海軍では一貫して陸軍と対等の地位を要求し続けた。

<画像元:山本権兵衛(wiki)>

そして日露戦争の直前に、山本権兵衛海軍大臣から海軍軍令部条例を改め、名称を「参謀本部」にしたい(すなわち陸海軍の参謀本部を同格にしたい)と上奏を受けた明治天皇は、1903年(明治36年)9月12日にこの件を元帥府に諮ることを命じた。しかし元帥府はこの上奏を受け入れず、10月21日明治天皇は徳大寺実則侍従長を通じて山縣有朋元帥陸軍大将に再考を促した。結局、陸軍が折れ、戦時大本営条例が改定された。(しかし軍令部の改名は受け入れられなかった)これにより、海軍軍令部長は参謀総長と対等の立場で作戦用兵に責任を負うこととなった。さらに伏見宮博恭王軍令部長の時には軍令部の位置づけが強化され、海軍の独立性がより高められた。

しかし、組織的には陸軍の方が圧倒的に大きく、海軍は常に陸軍への吸収と隣り合わせだった。実際、近衛首相の時には日米開戦を避けるために「アメリカ海軍に勝てない」と海軍に告白させようと圧力がかけられ、海軍の存在意義が問われる事態に陥ったことがあった。これに苦慮した海軍省は「海軍は無敵である」と盛んに宣伝し、海軍の存在意義を保とうとするが、軍令部はこれに困惑した。

海軍の場合、海外派兵しようがしまいが艦船の数は限られ兵力が急激に増えることはない。(せいぜい小型船舶を雑務用に徴用する程度である)しかし陸軍は多数の予備役を「備蓄」して小火器などの軽装備を用意するだけで大部隊を迅速に編成できる。海軍は整備ドックに入らないかぎり実働可能な艦船が常時待機しているため、最低限の人員以外を非番として休ませてはいても、戦時に突入した途端「通常編成に戻る」だけのことで、陸軍ほどに大量の増員ができない。

海軍のジレンマはその機動性の確保のために陸軍以上の権力や予算を必要としたことであり、陸軍に比して「見栄っ張り」(^^;)とも思える過剰な対抗意識が後年大きな障害となって立ちはだかることになる。

旧日本軍〜日本軍関連年表(明治期):wiki

明治 3年(1870年)兵制統一布告(陸軍はフランス式、海軍はイギリス式と定める)
明治 4年(1871年)薩摩・長州・土佐からの献兵による御親兵が編成される
明治 6年(1873年)徴兵令の布告
明治 7月(1874年)佐賀の乱、台湾出兵
明治 8年(1875年)江華島事件
明治 9年(1876年)熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
明治10年(1877年)西南戦争
明治15年(1882年)軍人勅諭発布
明治21年(1888年)陸軍参謀本部条例・海軍軍令部条例・師団司令部条例公布
明治22年(1889年)大日本帝国憲法発布
明治26年(1893年)戦時大本営条例を公布
明治27年(1894年)日清戦争
明治28年(1895年)日清戦争終結。日本軍、下関条約にもとづき台湾を接収
明治32年(1899年)義和団事変
明治33年(1900年)軍部大臣現役武官制を確立、北清事変
明治37年(1904年)日露戦争
明治38年(1905年)樺太作戦、日露戦争終結

西南戦争(内戦)からわずか16年、憲法発布からたった5年。日本は大清国と初の対外戦争を行う。今は2016年だが、2000年から今に至る間に現代日本はどう変わっただろうか?それと比べると明治時代の国家の激変ぶりがわかろうというものだ。間違いなくこの間に大日本帝国は「富国強兵まっしぐら」に走っていったと言える。それは徴兵制による国民皆兵が確たる力となって、そして経済振興による国力の強化とともに、軍と政府それぞれがお互いを監視し、支配しようと葛藤する歴史の連続であるとも言える。そしてその軍内部では陸と海が最初から最後までせめぎあっていた。

現在の自衛隊は身分が同じ「公務員」であるせいか、陸海空ともに「隊内に派閥はあっても仲が悪いことはない」らしい。装備の割には法理的な立場や行動規範が軍隊らしくない軍隊だけに皮肉といえば皮肉である。

軍部大臣現役武官制:wiki
軍部大臣現役武官制は、軍部大臣の補任資格を現役武官の大将・中将に限る制度であり、軍部大臣の補任資格を武官の大将・中将に限る「軍部大臣武官制」より資格者の範囲をさらに狭めている。現役とは平時軍務に従事する常備兵役を指し、現役武官の人事は天皇大権の内統帥権に属し、国務を司る内閣の関与は基本的に不可能であった。
このため、軍部大臣現役武官制の採用によって、明治憲法下の内閣総理大臣が「同輩内の主席」でしかなく組閣に軍部の合意が事実上必要となっていたことから、軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。また、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞職に追い込み、合法的な倒閣を行うことができた。このようにして、軍部の政治介入が可能となり、軍部の政治的優位が確立した。
日本では、明治時代の初め、当時の軍部大臣に当たる兵部卿の補任資格を「少将以上」の者に限っていた。その後、同様の規定は中断したり復活したりしていたが、1900年(明治33年)に、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を明確に規定した。これは、当時勢力を伸張していた政党に対して、軍部を権力の淵源としていた藩閥が、影響力を維持するために執った措置とされる。

元々この時代に「軍の文民統制(シビリアン・コントロール」と言う発想は大日本帝国においては存在していない。天皇の軍隊、天皇の国、その国を天皇の名のもとに統治する代行機関の政府、その政府の決定に関与する帝国議会には天皇の諮問機関とも言える枢密院や富裕層の代表の貴族院、高額所得者が参政権を得る衆議院。天皇の統帥権があるかぎり、文民統制など不可能、あるいは政治思想として語られるだけの絵に描いた餅でしかなかったのだ。

独立色を強めた軍が、政府の意向に従わなくなっていくのはある意味必然であったといえる。それを天皇がどう思っていたのかは分からないが、どちらも天皇にしてみれば同等の臣下でしか無く、「合議によって決せよ」としか言えない「権威としての国家元首」では、天皇に銃を向けさえしなければ「軍はそれぞれに無限の自由を得た」と言っても過言ではない。

日本の最大の弱点は、「一度決めてしまった根本的な部分は自分自身では変えられない」ということだろう。明治維新がそれでも(内戦を伴ったが)変革を成し得たのは幕藩体制という道州制にも似た地域の独立性があったからかもしれない。
であるなら今、現代の我々はこの国(せめて憲法)を変えるにあたって、地方からの変革をもたらすシステムを一つの選択肢として持つべきとも思える。例えば地方選出の議員という形以外の立法権を持つ地方自治体首長による連合議会とかで、民意を図る一つになるようにも思える。

大日本帝国の政府と軍の関係を見る限り、現在の政府と国民の関係を見る限りそんな気がしてならないのだ。

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帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
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帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
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帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】

日本軍の黎明

明治維新を実現するために薩長土肥の諸藩から徴集されたものが主力であった官軍は、北へ進軍する途上で恭順する各藩の戦力を吸収しながら拡大していったが、これは一時的なもので維新成就後に改めて薩摩・長州・土佐藩から中心部隊としての天皇直属の近衛隊(当時は御親兵と呼称)として明治4年に組織される。これが実質的な日本軍(陸軍)の創設になるが、その監督官庁として明治2年7月8日に設立された兵部省(ひょうぶしょう)は、明治5年2月27日に廃止され陸軍省と海軍省に分離・改組される。

明治への年号改元が慶応4年9月8日(旧暦)に行われたため、実質的には約4ヶ月の明治元年と明治2年7月までの約10ヶ月で軍務に関する役所が設立されたがこの間は「官軍」としての薩長軍の混成部隊のままであった。

この時期の日本軍の兵士は、士族出身者で国民皆兵を基本とする近代軍とはかなり隔たりがある。実際、御親兵の発足時には薩摩・長州・土佐藩の士族が中心になっており、それぞれが元々の出身藩から禄を得ている「出向兵士」であった。

「君が代」が初めて演奏される:「明治」という国家

伝習隊1870年(明治3年)9月8日、東京越中島に於て開かれた常備兵観兵式に臨席した明治天皇は、薩・長・土・肥らの四藩の兵を閲兵されました。

当時の錦絵にもあるように、各藩の兵何れも洋式の軍服に鉄砲を担いで整然たる練兵を行っていますが、あいにくと天候が悪く、時化のために玉座の近くまで潮が襲ってきて、御閲兵の事も急に取り止めになったのでした。

ここに記憶すべきは、この栄えある式場に、薩摩の伝習隊(軍楽隊)が初めて「君が代」の演奏をしたことになります。

ただし当時の君が代は軍楽隊の教官でイギリス人のジョン・ウイリアム・フェントンの作曲に成るものであまり評判は良くなかったようです。

ちなみに現在の奏唱する君が代は、宮内省の雅楽家林広守の作曲に成るものです。



※国歌「君が代」=旧バージョン(明治3年:1870)

君が代ver1.0とでも言うべき動画はおまけだが(^^;)あわや国歌にならんとする曲までが当初は外国人の作であったり、日本のカタチがまだまだ固まっていないことを伺わせるエピソードである。

御親兵:wiki
御親兵は名目上は兵部卿有栖川宮熾仁親王を長とし、公称は1万人であったが、実質は8,000人もしくはそれ以下であったと言われている。

だが、皮肉にも御親兵を維持するための財政的余裕が無く、早くも3月には宮内省の予算から10万両が維持費の名目で兵部省に移されている。それが、木戸・大隈の主張する地方行政組織と税制の改革着手の主張を後押しした。また、大久保・西郷の主張する維新功労者の登用の先駆けとして明治3年の大蔵省・民部省分離の際に、木戸・大隈派に楔をうつために大久保の推挙によって日田県知事から民部大丞に起用された松方正義からも財政問題の打開には最終的には地方行政組織と税制の改革しかないとする意見が寄せられると、大久保・西郷側も次第に木戸・大隈側に歩み寄りを見せた。7月14日の廃藩置県の断行には御親兵そのものの威力もさることながら、その整備を巡る諸問題の浮上があったのである。

御親兵は廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初の国軍として機能することになった。その後、徴兵令の施行とともにその役目を新軍隊に譲って本来の業務である皇居警護に専念することになり、明治5年(1872年)には近衛(このえ)と改称され、明治24年(1891年)には陸軍の近衛師団となった。

世襲制の職業軍人とも言える士族を特権階級から引きずり下ろし、四民平等を謳い文句にしたのは、政府が扶養する「職業軍人」から旧体制の藩籍や主従関係に縛られた士族を除外し「生え抜きの日本軍」を創設することでもあったはずだ。そこでの主君とは天皇だけであり、幕藩体制における二重支配を解消するとともに「国家としての日本が育て養う軍隊」が必要だったのである。

国家としての体制(王政復古:天皇親政)を支え守る治安軍としての御親兵=近衛兵でありそれらを中心とした明治新政府を守り明治新政府を信奉するもののために武力を振るう軍隊。

おおよそ、どこの国家でも似たようなものだろう。軍はそれを作った体制のためにまず存在し、それを破壊しようとする者たちを攻撃する。それが他国なら戦争となり、自国の反乱勢力であれば内戦となる。それは図らずも戦国時代の武将たちが保持した武力と同類の性格を有し、矛先は内にも外にも向かう諸刃の剣となりうる。

それが証明されたのは士族反乱(1874年:明治7年2月 - 1877年:明治10年9月)に対する政府軍の鎮圧行動だが、皮肉にも征韓論での政治闘争が戊辰戦争以来の歪みを顕在化させ火を吹いた格好である。

士族反乱:wiki
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し鎮圧したが、兵数、装備、兵站など、政府軍はあらゆる面で西郷軍より有利な条件を有していたにもかかわらず、同等の戦死者数、戦傷者が発生するなど、政府の軍事的な弱さを露呈する結果ともなった。この戦いは日本のその後の富国強兵政策の礎になった。また、いわゆる薩長土肥出身者による藩閥を生むことにもなった。

神風連の乱
<画像元:神風連の乱(wiki)>

日本陸軍発足当初尽力したのは長州藩の大村益次郎が有名だが、その意を継いだ山県有朋が実質的な「陸軍の顔」となっていく。帝国議会の成立とともに第1次伊藤博文(初代)内閣に内務大臣として閣僚入り(実質的な治安維持業務)してその後の陸軍を育てていくが、各段階ごとに国軍としての課題が表面化してはそれに対応する形で軍は整備されていく。

士族反乱も元々は西郷隆盛らの海外視察残留組による外遊組(岩倉使節団:岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通、山口尚芳、他留学生を含む107名)の帰国を待たずに李氏朝鮮に対し使節を派遣する外交上の政策論争が発端で、主戦論を説く西郷らが帰国した外遊組の強硬な反対で頓挫し、それに抗する形で下野したのをきっかけに次々と新政府に対し反旗を翻したものである。

明治新政府になってことごとく既得権益を失った士族の不満を解消する一つの策としての征韓(対外戦争に発展することも辞さず)である側面や、士族としての尊厳を取り戻す場所(あるいは死に場所?)としての海外出兵をも視野に入れた不平士族のガス抜き策の可能性もあるが、死活問題として声を上げずには居れなかったというところか。
時代は下って昭和16年。八方塞がりに陥った日本が起死回生を狙ってアメリカに戦争を仕掛けたのは暴発とも言えるし、自衛戦争だったとも言える。士族反乱の殆どは、士族にとっての自衛戦争だったのかも知れない。

いずれにしても国軍としての日本陸軍は上記のwiki引用の太字の部分にもあるように徴兵制による召集直後の内戦では、精強な士族部隊に苦戦を強いられた。それ以前に出兵したのは清国領の台湾に遭難後漂着した沖縄(琉球)島民が虐殺された事件に対応すべく派兵したぐらいで、この時も戦闘による死者よりも病死(熱帯地域の感染症に罹病)が大多数であるなど、ここでも兵站や健康管理など多くの問題をさらけ出している。

台湾出兵:wiki
台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の犯罪捜査などについて、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避したので、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵である。54人が殺害されという大規模な殺戮事件であるから、警察ではなく軍を派遣した。日本軍が行った最初の海外派兵である。
(中略)
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
管理人注:病死者 531人

とりあえずどちらの戦いでも「勝利」の格好はついたものの内容はとても国防軍として満足できるものではなかったろう。

明治維新初期の国軍は士族中心の兵であり、国民皆兵・徴兵制を推し進めようとした「日本陸軍の祖、大村益次郎」が反発する士族に暗殺された後、山縣有朋が継承してようやく形にしたものだったが、練度も不足し近代軍としての育成システムには圧倒的に知識と人材が不足していた。

竹橋事件:wiki
竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動ともいわれる。

竹橋事件

動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた。
(中略)
のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている。

西南戦争以降、不平分子は武装蜂起を諦め、言論による思想闘争へ方向を転換させていた。その急先鋒は土佐藩出身の板垣退助である。軍人の労働争議が事件の発端であることは、その後の「皇軍」思想とは随分かけ離れたものではあるが、五・一五事件(海軍)二・二六事件(陸軍皇道派)に通じる武装反乱が、明治期の西南戦争以降の混乱期にも起こっていたことは衝撃的である。具体的に政府を転覆させるクーデターと言う性格ではなかったものの、「国家のあり方を問う」と言う意見具申のための決起が身内の軍内部から出た点は、士族反乱の流れを汲むものとして政府内部を動揺させたことは間違いない。

軍人勅諭の意味:明治・その時代を考えてみよう
 はじめに「竹橋事件」であるが、一言でいえば 近衛兵による反乱事件である。当時は、徴兵制度が発足して間もない時期でもあり 制度が追いつけない状態だった。そういった時期に「一将校が自分の意思で部下を率いて上官を殺害する」という事件が発生した。これは、山県有朋らを困らせるのに十分な効力を発揮している。
 仮に、自分の上官が反乱を起こした場合 それまでの制度であれば上官の命令どうり反乱軍とならざるを得ない。逆に、上官の命令に反して(命令に従わず)反乱に参加しなかったら・・・。
 この見極めが非常に困難なのである。「どこまでの命令ならしたがわなくてはならないのか?どのような命令には従わなくてよいのか?」という相反する状況に対応する為、『軍人訓戒』が配布された。これにより、一軍人の個人的な意見による行動に ある程度の制限をつける事が可能になったのである。

 次に、「四将上奏事件」であるが 鳥尾小弥太谷干城三浦梧楼曾我祐準ら四人の将軍達が、黒田清隆らによる『北海道官有物払下げ』事件を知り、『このような不正がまかり通るような腐敗した政治を改善しよう』として、天皇に上奏してしまったのである。

北海道官有物払下げ事件は、2015年度下半期放送のNHK朝ドラ「あさが来た」で関西貿易商会の五代友厚が汚職事件として窮地に立たされる場面で描かれている。この上奏事件は軍人が政府の政策に意見したり、政府の要人でもない一軍人の意見具申先として天皇が目標にされてしまうこと(天皇の政治利用)が非常に問題視された。またこの四将軍は軍方式では反山縣派(フランス派)で、山縣(ドイツ:プロイセン派)に対抗する軍内部の派閥抗争の表面化でもあった。

この事態に陸軍卿の山縣有朋は慌てて「軍人訓戒」を発布、後の「軍人勅諭」に通じる「天皇の絶対神聖」「軍の政治的中立性」を規定して、軍内部の意識改革・思想統一を図る。

そして近代国家の軍隊における先進的な統率モデルとしてプロイセン(ドイツ)方式を採用し、教官を招聘する。

クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル:wiki
メッケル少佐陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はドイツに兵学教官派遣を要請した。ドイツ側は参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校(de)の兵学教官のメッケル少佐を派遣した。彼は1885年3月に来日した。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は望外の喜びであった。もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。

日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。


東條英教(とうじょうひでのり)は東条英機の父、秋山好古(あきやまよしふる)は日露戦争の奉天会戦で陸軍の騎兵隊を指揮しロシア軍のコサック騎兵隊を撃破して日本の勝利に貢献した人物。海軍の連合艦隊作戦参謀で日本海海戦に於いて奇跡的勝利を実現する作戦を考案した秋山真之(あきやまさねゆき)は弟。

師団の編制と編成の推移:帝國陸軍部隊[師団]総合インデックス
師団編成以前に、日本には6軍管に鎮台と歩兵連隊を置いて常備軍としていた。

しかし、沖縄や韓国を巡っての清との対立により、将来生起するであろう清国との戦争において兵力や戦備が不足されることが予想された。明治15(1882)年に陸軍は「軍備拡張計画」を立案し、十ヵ年計画で約2倍の兵力を整備することとした。また同年、鎮台条例を改正して歩兵連隊2個で旅団を編成する(これ以前は連隊は大隊に分かれて旅団に所属)し、更に21(1888)年に鎮台を廃して師団を編成した。
(中略)
この時の師団平時編制は、歩兵旅団2個(各2個歩兵連隊)、騎兵大隊、砲兵連隊、工兵大隊、輜重兵大隊
総人員は9199名(歩兵連隊は1721名)である。
この時に定められた[師団−旅団−連隊−大隊−中隊−小隊]という編制が、以降の陸軍編成の基本となった。なお、近衛都督(近衛兵)も、明治23年に師団編成となっている。明治27年からの日清戦争は、これら師団が戦時に増員充足され、戦時編成(戦闘序列)となって戦った。

組織がまだ小さく育成する人材がまだ乏しい時代の先駆的帝国陸軍の兵力は、軍予算の少なさもあってせいぜい総勢2万人以下の弱小軍だった。上記の台湾出兵でさえこの当時の軍の規模としてはかなりの兵力を割いたものであり、実質的に海外派兵する力は無かったと言って良いだろう。

年度歩兵砲兵・工兵・他合計人数
明治4年17大隊・19小隊計9隊14,249名
明治7年25大隊計11隊31,626名
明治10年16連隊計16隊33,544名

※参考:陸軍沿革要覧、(「歴史人」2014年11月No.50:KKベストセラーズ)

帝国陸軍の名が冠せられるようになった1889年(明治22年)以降、軍編成上の変更点が明確になる。それまでは国内治安維持部隊であった陸軍が、帝国主義的領土拡大路線へ組織的膨張を始める。

対外的な安全保障上のリスクを考えた日本は、明治維新当初より朝鮮半島の李氏朝鮮政府に開国と近代化を促し、南下政策を取るロシア帝国の脅威に備えようとしていた。それが一因となって西南戦争まで起こり、1882年(明治15年)の甲申政変が起点となって日本と清国の対立が激化したことが「軍備拡張計画」という帝国主義の軍事的展開を加速させる。

帝国主義を政体に取り入れた以上、この流れは不可逆でありその当時の国際感覚としては当然であった。帝国主義である以上、国益を最大理由とする武力介入は必然だが、実質的に現在の国際的倫理観と何も変わらない。その意味で、世界の覇権国家であったアメリカはその特徴を現代でも最もよく示していると言えるし、そのポジションを狙わんとする野望を抱く中華人民共和国は今や最も先鋭的な帝国主義的倫理観を有していると言って良いかもしれない。

これまでの当シリーズでも触れたように、この時期の日本の主要外貨獲得手段(貿易主力産物)は生糸と米そして人間(海外売春婦・人身売買)であった。

からゆきさん:wiki
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。
(中略)
こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。

ある意味で富国強兵政策の犠牲者と言えるかも知れないが、その当時の日本の安全保障を確保するためになりふり構わない方法を取らざるを得なかった点では、こういう「身を切る」痛みを当時の日本人は少なからず共有していたのではあるまいか。

現代では容認できそうもないこうした政策も、当時に残っていた主従の関係を重視する儒教的倫理観や、自然災害に対峙するための運命共同体維持の共有意識としての「公(おおやけ)」あるいは「同調強制」が、天皇制の神聖化とともに国家神道と結びついた「敬神崇組」「報恩感謝」「滅私奉公」の教育強化によって「必要悪」と言うよりは「国に尽くす誉(ほまれ)」として賛美された面は否定できまい。

他国を侵略して国と国民を富ませるために自国の民を売る。本末転倒のようなこの状況も当時の日本人には「国のために自分が役に立つ」という名誉意識、公共意識によって支えられたと考えれば、現代の疑心暗鬼に満ち満ちた国民意識に比べればなんと純粋でひたむきな楽観的共有意識だったのだろうか。

しかし、それがいずれ致命的な帝国崩壊の一因となっていくことを、この時の日本は全く気づいていなかった。

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●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
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帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】

「天皇」の冤罪

天皇家は日本において「天の王」を意味する通り古代より支配階級であった。現代の価値観や倫理観とは大きく異る時代を通し、常に日本という国の最大の権威であり幾つかの時代で権力者であった。西欧でも王家と呼ばれるロイヤル・ファミリーは統治した時代に莫大な富を得て、天文学的な資産を保有していた。

旧皇居
※旧皇居:京都御苑<画像元:写真の中の明治・大正(関西編)国立国会図書館>

日本でも大和朝廷が律令国家を形成し、直接支配している「領地」からの税(租庸調)を徴収したり臣下の豪族から寄進を受けては見返りに利権を分配するなどその構図は現在の政治とさほど変わらない。政治資金規正法など無い時代だから(^^;)天皇家に差し出す寄進に比例して利権を得やすい構造であったろうし、天皇に取り次ぐ役割のものにもそれなりの利ざやを認めていただろう。

古代史のロマンを見る場合、案外この辺りの生々しい経済事情は、表面上の史実に埋没して研究家でない限り深く掘り下げることはない。

支配者には必ずと言っていいほど「暗黒の歴史」が存在する。天皇家も類に及ばず、天皇親政の時代には天皇の皇子同士が皇位継承を争って殺しあったり配下の豪族を従えて戦争(内乱)を起こしたりしている。そんな特権階級ならばこそ、現代の倫理観では目も背けたくなるような非人道的かつ醜悪な行状があったとしても何らおかしくない。歴史の史実として記録されていないだけで倫理的に問題のある行為は存在していたと考えて不思議ではない。

ただ、天皇家自体は日本神道の最高司祭であり、キリスト教で言うところの「ローマ法皇」のような存在でもある。日本人の根源的な信仰心の最高権威が天皇であり、その系統を維持する為に存在するのが皇族である。世襲制である歴代の司祭を絶やさぬためのシステムが天皇制であり、そのために国家は最優先事項として天皇を中心とした政府(国体)を維持する様々な支配体制を試みてきたといえる。

天皇制に関しては、私も若いころ(左翼側に傾倒していた時期)にはその存在意義が理解できなかったし、存続させることに疑問を感じていた。この国の歴史を深く知ることもなく、その精神文化を省みること無く「史実をなぞるだけの理解」だけでは、単純に大昔から永続してきた特権階級としての天皇家・皇族に対する反発が大きく「天皇制反対派」の方に意識は傾いていた。

桔梗門
※皇居:桔梗門<画像元:写真の中の明治・大正(東京編)国立国会図書館>

学校で教えられる「日本史」の情報レベルと日本史教師の「日教組による洗脳」の組み合わせは、多くの日本人に「反天皇制」の芽を植えつけたとも言える。しかし両親や現代の皇室における「温和」で「慈愛」に満ちた活動や親の世代から受け継ぐ「親しみの感情」に加えて、1000年続く由緒ある血統の「ブランド的価値」(^^;)は、普通の日本人であればまず否定できず、認めざるをえないのもまた事実である。

ただ、歴史にのめり込み天皇一族に関する書籍を紐解いていけば必ず突き当たるのが「天皇家の人身売買ビジネス」と云う黒歴史の存在である。

西山澄夫以下は多くのブログで引用されているオルタネイティブ通信の当該エントリ全文である。なおオルタナティブ通信は「西山澄夫」という実在が確認できない執筆者によるもの(と言われている。尚最近のメルマガには「by SK」とのイニシャルだけだが署名入りの記事もあり、複数のライターやソースを元に書かれていると思われる)で有料メルマガを配信している「ディスインフォメーション(ネガティブな情報を配信する)サイト」でもありベンジャミン・フルフォードも真っ青の(^^;)「陰謀史観サイト」でもある。

<画像元:あの人検索spysee>※実在が確認できない割にはこういう画像が貼られている(^^;)同姓同名の別人の可能性はあるが・・・。

ちなみに私は有料メルマガを購読している(爆)信憑性はともかく、裏側から真実に迫ろうと言うそのスタンスは非常に好奇心をくすぐるからだ(^^;)

天皇=売春業者(2007年05月02日):オルタナティブ通信
1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立される。
明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。
そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。(福沢諭吉全集 第15巻)

ウサギたちが渡った断魂橋1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われた。日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。
天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。
大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていた。
その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。
その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。
天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。これが従軍慰安婦の原型である。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。

天皇裕仁こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。
戦争中、全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。
また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争は天皇の個人的蓄財のために行われていた。
この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

ニッポン日記1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は、この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。
この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)

徹底検証・昭和天皇独白録広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。
日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路アルゼンチン、スイス等に運び出していた。
天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)

ヒトラーの秘密銀行なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS※管理人注:戦略諜報局)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?
敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。
そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。
天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ 及び、濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)

徹底検証・昭和天皇独白録1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。
天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。
天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。


なかなか興味深い。福沢諭吉を始め外国のジャーナリストまでが天皇を研究し、その裏ビジネスや暗黒面を暴こうとしている。しかし、私はこれらが天皇の真実の全てを語ったものではないと考えている。天皇家そのものやこれまで日本というこの国を支配していた一族に全く非の打ち所が無いとは言えないはずだとも確信しているが、日本の原点であり精神文化の拠り所でもある「天皇」を貶めようとする意図を感じるものを鵜呑みにする気もないのである。

一つは戦後の自虐史観に代表される「日本は悪だ」の裏づけとしての「大日本帝国否定」から「国家元首の天皇否定」に繋がる点が感じられるからだ。

私がこのシリーズ以外でも普段から言及している通り「この世界に正義の味方など存在しない、それぞれの大義のもとに弱肉強食の抗争を繰り返しているだけなのだ」の考え方で言うならば、全てが悪。北野武の映画「アウトレイジ」(^^;)ではないが、善人の顔をした悪人、悪そうな顔をした悪人、正体不明な印象の悪人が存在し、勝者の主張が定説として残る、その繰り返しでしか無いのである。

そういう視点で上記に挙げられた出典をいくつか検証してみよう。

福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。(福沢諭吉全集 第15巻)

まずこの部分。明治期の偉人としても名高い福沢諭吉のイメージを損なわせる意図を強調している印象がある。賤業夫人とは売春婦のことで、「天皇が売春婦を輸出するビジネスを行った。それを福沢諭吉が勧めた。」と云うところなのだが・・・

「福沢諭吉と慰安婦」平山洋:apate dikaia
福沢諭吉が「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えた、という噂がネット上で広まっている。確認できたところでは、サイト「日本人が知らない恐るべき真実」中の二〇〇六年八月二五日付エントリ「天皇の蓄財 廚最初で、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ・上巻・日本キリスト教国化の策謀』(同年七月八日・成甲書房刊)からの引用の形をとっている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。

天皇のロザリオというのがその問題の部分だが、注意深く見てみると引用の末尾の一文は、最初の文を受けているわけではないことが分かる。その直前の引用文から引き続く、エントリでは省略されている部分を導いているのである。ちなみに出典が明示されていない「至尊の位と至強の力を合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」というのは、『文明論之概略』(一八七五年刊)からの引用で、この部分をより広く引くなら、実は次のように記述されているのである。すなわち、


人の天性を妨ることなくば、その事は日に忙わしくしてその需用は月に繁多ならざるを得ず。世界古今の実験に由(より)て見るべし。是即(すなわ)ち人生の自(おのず)から文明に適する所以(ゆえん)にして、蓋(けだ)し偶然には非(あら)ず。之を造物主の深意と云うも可なり。

この議論を推して考れば、爰(ここ)に又一の事実を発明すべし。即(すなわ)ちその事実とは、支那と日本との文明異同の事なり。純然たる独裁の政府又は神政府と称する者は、君主の尊き由縁(ゆえん)を一に天与(てんよ)に帰して、至尊の位と至強の力とを一に合(がつ)して人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定るものなれば、この政治の下に居る者は、思想の向う所、必ず一方に偏し、胸中に余地を遺(のこ)さずして、その心事常に単一ならざるを得ず。心事繁多ならず故に世に事変ありて聊(いささ)かにてもこの交際の仕組を破るものあれば、事柄の良否に拘(かか)わらず、その結果は必ず人心に自由の風を生ずべし。

(巻之一)

と、要するに福沢は独裁政府による「至尊の位と至強の力を合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」あり方を専制政治として批判していたのである。

実際の福沢は君主専制政治とは異なる立憲君主政治を理想としていて、その立憲君主政治のありかたが当時の天皇家に迎えられた、というのが本当のところである。もともと『天皇のロザリオ』の書き方が誤解を招きやすいものであったのを、さらに不適切な切り取り方をしたために、あたかも福沢が天皇に娼婦の出稼ぎを進言したかのような奇妙な内容のエントリができあがっているわけである。

このように天皇に進言した、という部分は否定されたのではあるが、この噂の前段をなす娼婦の出稼ぎそのものについての福沢の考えはどのようなものであったろうか。エントリ中で出典として示されている現行版『福沢諭吉全集』第一五巻(三六二頁〜三六四頁)にあたってみると、それが「人民の移住と娼婦の出稼」という明治二九年(一八九六)一月一八日掲載の『時事新報』社説であることが分かる。

この後リンク先では福沢諭吉の著作であるとされる論説が、弟子による代筆ならぬ「異なる思想の持ち主が福沢の名を騙って書いた」疑惑が検証されている。

第二節の全文からもはっきりしているように、社説「人民の移住と娼婦の出稼」の主張は、性風俗業に従事する女性が海外に出ることを許可するべきだ、というにきわまっている。理由は海外で現に働いている日本人男性に独身者が多いせいで、要するに現地の女性に迷惑がかからないようにするためである。どこにも強制の側面はなく、この社説がどうしていわゆる「従軍」慰安婦問題と絡めて論じられるのか不思議なのだが、ともかくそうなっているのである。

次の引用文<山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」>に繋がる従軍慰安婦問題と天皇家の陰謀を結びつける情報操作が行われる。もうこれだけで胡散臭さ満点である(^^;)

ちなみに「天皇家の犯罪」を記述する『天皇のロザリオ』の著者鬼塚英昭を調べてみると、中々香ばしい方である(^^;)まぁ、副題「日本キリスト教国化の策謀」とあるように陰謀史観+トンデモ系の匂いが強烈に鼻につく(爆)

[日本人奴隷]「日本人奴隷」について読んでおかなければならないテキストのメモ(日本語のみ):愛・蔵太の気になるメモ
 かなり「トンデモ度」が高いんですが、「50万人の日本人奴隷」説の大もとなので(というより、50万人説はこのテキスト以外に見当たらないので)目を通さないことには話がはじまらない。
つまるところ、本当の元ネタであろう、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」(本職は竹工芸家の人が書いた、「終戦当時に、マッカーサーとカトリック教会が、昭和天皇を改宗させ、日本をカトリックの国にしようという陰謀を企んだ」という本)を見てみないとわからないのですが、その本に「天正少年使節団の報告書」と本当に書いてあったのなら、著者は本当に天正遣欧使節記を読んだのかね、と思います。ヨーロッパ人が著者で、少年使節の対談の形式をとっている使節記を、使節団の報告書と思えるとしたら、相当変わった人ですね。
というわけで、質問者の方が見たネット上のネタは、『トンデモな人が、トンデモな本を読んで、トンデモな説を述べたのが、更にネットでコピペされていくうちに、トンデモ度が加わっていったもの』と思います。コピペはPCだけにして、頭の中ではしない方が無難ですよ。

教えて!goo 豊臣秀吉の「バテレン追放令第10条」と奴隷貿易をしていたキリシタン大名・天草四郎

鬼塚英昭は何者なのか:美しき世の面影
鬼塚英昭鬼塚英昭というノンフィクション作家がいる。精力的にいろいろ書いてはいるが、「天皇のロザリオ」上巻?での悪評がたたって、まともに評価されているとは言い難い。実際に「天皇のロザリオ」上巻を読んだ限り、以下のような印象がある。

<画像元:成甲書房>※管理人注:鬼塚英昭氏は2016年1月25日に死去

・史料をまんべんなく読んで書いている箇所と自説に都合良い史料中心に読んでいる箇所が混在
・天皇教という、普通の日本人なら使わない造語が何度も使用される(天皇教という言葉を使った著者の意図は、下巻の最後で判明する仕掛け)
・大本営を日本国最大の暴力装置と表現している(183頁)
・司馬遼太郎を熱烈な天皇教徒とレッテル貼りしている(348頁)
・共産主義者だったことが確定している、ハーバート・ノーマンの文書からの引用が多い
・歴史的記述、妄想あるいは願望的記述が混在している

(ノンフィクションとしては問題とはされない事ではあるが)歴史書としての要件をまったく満たしていないような感じなのである。著者本人は、ノンフィクション作家のつもりで書いているが、読む方は、テーマ設定などから、歴史書だと思って読むから、読む前から書き手、読み手にミスマッチが発生している。迂闊な用語使用、願望的記述があれば、手順的な事を重要視する研究者からは、歴史書を書くための基本が理解できていない人と評価される結果となるのは避けられない。


鬼塚英昭が書いたのは歴史書ではなくノンフィクション(^^;)つまり事実を元にした創作を含む著作であるということなので、その記述を事実認定する、あるいはその前提のもとに歴史的史実を検証するのはそもそも間違いである。まさに吉田清治の捏造本「私の戦争犯罪」と同様の虚構の可能性すらある。また、これは引用者の間違いかもしれないが、オルタナティブ通信の記述や引用元の歴史検証がずさんな点は他にも見て取れる。

1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社日本郵船が創立される。

ここからもう出鱈目(^^;)「日本郵船」は日本初の船舶会社ではない。日本郵船の設立経緯を知らないようだ。

廻漕会社(かいそうがいしゃ)〜日本大百科全書(ニッポニカ)の解説:コトバンク
民部省通商司の下にできた旧幕府所有船などによる明治政府初期の運送組織。1869年(明治2)12月、三井組を中心に廻漕会所が創立されたが、翌年正月に廻漕会社と改称、横浜―伊勢(いせ)間、東京―横浜間と大阪―神戸間の定期航路に従事した。

この後、三菱の創始者:岩崎弥太郎が出身元の土佐藩の廻漕業・九十九商会を基に海運業を起こし、西南戦争などで新政府軍の軍事輸送を請負い、政府から海運を一任され「郵便汽船三菱会社」が誕生する。その後、政治抗争の煽りで半官半民の「共同運輸会社」が設立され、双方の運賃の値引き合戦が元で両者共倒れの危機に陥り西郷隆盛の弟、西郷従道農商務卿のとりなしで1885年(明治18)郵便汽船三菱会社と共同運輸会社は合併し、新会社「日本郵船会社」が誕生する。

つまり「日本郵船」の設立に天皇家は関わっていない。だから

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性・・・
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」新日本出版社)

と言うのは、誤りであるし虚偽である。戦前において天皇家が日本郵船の大株主だったのは事実だが、社長でも会長でもない以上、経営者と同義に考えるのはおかしいのだ。大体戦前においても政治の些末な内容に口出しできなかった天皇が、一企業の運営に口を出せるはずもなく、もしそういう「意思」が伝えられたとしても陛下ご自身のものであるかは逆に疑わしい(宮内省から日本郵船に監査役が出ていた)。明治維新にまつわる政変劇でも「勅命」はそれを望む陛下以外の人間が画策したことであることを考えると、やはり「天皇が運営した」と言う言い方は不適当であろう。日本郵船をはじめとする当時の国策企業のほとんどの株を多かれ少なかれ天皇家は保有していたので、ことさらに日本郵船の経営にご執心だったはずがないのだ。

天皇家の財布:森暢平(新潮新書)
戦前、皇室が株を所有していた企業は、金融関係20社、鉄道関係16社、その他17社の53社だった。
(大沢覚『戦前期皇室財産統計』より)

そんな「歴史的な文献を精査すれば分かることを悪意を持って歪曲した記述をする」山田盟子と云う人物についても怪しさは満点のようだ(^^;)

山田盟子:wiki
山田 盟子(やまだ めいこ、1926年 - )は、日本のノンフィクション作家、ジャーナリスト。宮城県生まれ。
従軍慰安婦問題など女性哀史を中心に取材、執筆を続ける。慰安婦関連の著作においては、嘘や捏造が明らかとなった吉田清治や千田夏光の著作から度々引用しているなど、現在となっては問題があると言わざるを得ない内容のものが多い。1976年に『うはっきゅう』で第10回埼玉県知事賞受賞。

多くの作品を発表していながら、人物プロフィールに裏づけが少ない。数少ないヒントとしては、新日本出版社が共産党御用達の出版社であること(^^;)ん?NHK本もあるけど・・・(爆)NHKの正体まで見えるようだ(^^;)

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。
(中略)
また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。
エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

後年、「版籍奉還」「秩禄処分」「廃藩置県」で、徳川家を含む旧大名の資産をすべて奪い資産を増やした政府が、「西欧列強の王家に見劣りしない天皇家」を示すために過分な予算を天皇・皇族に分配したため天皇の収入は激増する。(※天皇親政時代は栄華を誇った天皇家も江戸時代の収入は最下層の大名と同様の1万石であった)

天皇家の財布:森暢平(新潮新書)
自由民権運動に伴う国会開設運動の高まりに対し、明治政府は、皇室財政と国家財政の分離を計った。予算審議を通じて、国会が皇室に口出しするのを防ぐためである。具体的には国家財政の外に収入を得るため、皇室が林業経営に取り組むことにした。いわゆる「御料林」である。
御料林は、北海道・夕張、静岡の大井川流域、岐阜・木曾など全国に散らばり「金のなる木」と言われるほど莫大な収益を上げた。この利益を元手に皇室は株式、国債の有価証券への投資にも乗り出した。
一応は国家財政からの予算もあった。国会開設前(1887年度※管理人注:明治20年)に250万円と決まり、1911年度※管理人注:明治44年に450万円と改定されて以降、敗戦の年まで据え置かれた。

御料林
「名山 大台ケ原 三津ノ川落より日出嶽及伊勢大杉谷御料林を望む 梢低き木に昇るは會長」
<画像元:奈良県立図書情報館>

ちなみに、明治期と現在の貨幣価値を換算すると、大雑把に言って約2200倍となる。

過去の貨幣価値を調べる(明治以降):リサーチ・ナビ(国立国会図書館)
(2)次に現在の日本円で何円に相当するのかについては、戦前基準企業物価指数、「明治以降物価推移」で換算します。

明治26年の指数=0.319  平成18年の指数=698.4 
698.4(平成18年)÷0.319(明治26年)=2189.3倍
7円(明治26年)×2189.3=15,325円(平成18年)

つまり明治20年の皇室予算が(現在の価値で)約55億円、明治44年は約99億円相当で、それ以外に林業収入が莫大にあったため株式購入など金融資産が増えたということになる。林業をやっていたなら木材の移動に鉄道や船舶など物流の企業に投資するのは当然だし、文句をいう人間を売買するよりモノ言わぬ「商品」を取引するほうが物量が管理しやすい点でも儲けを出しやすいのは自明の理であろう。

人身売買が「天皇家のため」「お国のため」の名目で業者によって行われたことが想像に難くないが、その言葉通りに天皇や国が直接関与したとは考えにくい。少なくとも国際社会の目を考えると「ハッキリわかりやすい形で人身売買に関与する愚」は侵さないと考えていいだろう。従軍慰安婦問題における慰安婦募集の実態と似たようなものだったことが想像できるのだ。


一方、経済の大激変で一般庶民の多くは困窮した。その結果「口減らし」「借財の形」に人身売買を行ったのは事実だろうし、海外へ出稼ぎに出た日本人(勤労男子や売春婦)を輸送するために運送業が利ざやを稼いだことはあるだろうが、本来貿易が拡大すれば海運業が大儲けするのは当たり前である。一方が貧困に苦しみ、一方は超富裕層に格差が拡大したために「受益者側の陰謀」として解釈するのは、短絡的であり被害妄想的と言っても過言ではなかろう(^^;)

からゆきさん
<画像元「虎に喰われるか、男に喰われるか?」歴史教科書には載っていない過去の日本人女性たちの存在:spotlight>

明治時代の人身売買に関しては娘子軍とよばれた「からゆきさん」があるが、明治維新直後よりも明治後半にかけて最盛期を迎えたとある。これは明治期の文明開化による厚生環境の改善で国民全体の寿命が伸び、嬰児死亡率が下がったため人口が急激に増えたことと無縁ではない。重工業が急速に発展したと言ってもまだまだ農業国であった当時、人口の伸びに比して経済発展や食糧増産が追いつかなかったことが穀物価格の高騰を引き起こして地方の貧困を加速させたし、二度の対外戦争で台湾・朝鮮を領有したため、インフラ整備や当該地域の軍備拡張に予算を食われ、日本本土への福祉的政策が後退したことも影響したと考えられる。

帝国の功罪(1)にも記述した人口統計を再掲する。

明治維新以降
明治 5年(1872年)3480万人(+ 192万人)
明治15年(1882年)3726万人(+ 246万人)
明治25年(1892年)4051万人(+ 325万人)※明治18年ハワイ「官約移民」
明治36年(1903年)4555万人(+ 504万人)
大正 3年(1914年)5275万人(+ 720万人)
大正13年(1924年)5888万人(+ 613万人)
昭和 9年(1934年)6830万人(+ 942万人)
昭和19年(1944年)7306万人(+ 476万人)

元のデータは国勢調査以前の日本の人口統計〜全国人口:wiki

70年ほどの間に人口が約2倍に膨れ上がっている。人身売買や海外移民で人口を減らしても、飢える国民を救いきれない。それは国際的に西欧列強に並び立つべく富国強兵という国家プロジェクトが、国民を犠牲にして初めてなし得るものであったことの証明でもあろう。

日本人の海外移住略史、1868年−1998年:国際日系研究プロジェクト
日本人の海外渡航は、明治維新(1868年)とともに始まりました。世界各地を結びつける国際経済、労働市場、交通網の一部となった明治日本は、近代化とそれに伴う急速な社会変化に見舞われました。特に農業形態や経済構造が変わっていくなかで、農村部を中心に余剰労働力が生まれ、国内及び海外へ移動する出稼ぎ労働者が現われたのです。

1868年、横浜在住アメリカ商人ユージン・バンリードは、およそ150人の日本人労働者をハワイの砂糖プランテーションへ、そのほか40人をグアムへ送りました。この出稼ぎ労働者の一団は一般に「元年者」として知られ、政府の許可や旅券を受けることなく日本を出国しました。近代日本最初の海外「移民」だった「元年者」は、渡航地で奴隷にも等しい取扱を受け、結局、国家の体面保持ということもあり、明治政府が救出に乗り出さなければなりませんでした。「元年者」の失敗もあり、政府はこののち二十年近く日本人の海外移住を許さず、かわりに北海道開拓を推進しました。

1885年ハワイ「官約移民」とともに、日本人の本格的な海外移住が始まりました。「官約移民」制度は、日本とハワイ王国(当時は独立国)の条約に則り、日本人労働者を3年契約で砂糖プランテーションへ送るというものでした。1894年までの9年間に、総計2万9千人ほどの日本人が、この制度のもとハワイへ渡航しました。同時に何千人もの日本人が、太平洋上の木曜島(英領)、ニューカレドニア、オーストラリア、フィージーなどへも渡りました。この時期の渡航者のほとんどは、海外への永住をめざした「移民」ではなく、数年間の契約労働を目的にしていた出稼ぎ労働者でした。

明治維新直後は自国民を奴隷扱いする西欧諸国に対する移民をやめていた。北海道開拓民としての移住が代替措置として取られ、余談だが私の祖先の曽祖父も出身元の秋田県から箱館(現函館)に移住している。海外研究者がこの辺りをどこまで正確に把握していたかはわからないが、実際に海外移民として出国した人々が中心になった「国際日系研究プロジェクト」の記述は信頼に足ると考えるべきだろう。

ただ、恒常的に日本には「余剰人員は売り飛ばす」という発想があったことは否定できず、エドワード・ベアその意味では、エドワード・ベア(リンク先:英語)の痛烈な批判は耳が痛いと言わざるをえないが、同じような人権無視や人種差別はむしろ西欧列強のほうが激烈であったことを考えると「どの口が言ってるのか」との反発も禁じ得ない。こういう批判的な論説は、日本側の問題以上に戦勝国の傲慢さがにじみ出ているように見えるのだ。

ちなみにエドワード・ベアは映画「ラスト・エンペラー」の原作者でもあるジャーナリストで、外交問題評議会(CFR)と関わりが深いとされるTimeやNewsweekの特派員であった。

外交問題評議会(CFR)は、「会員はアメリカ政府関係者、公的機関、議会、国際金融機関、大企業、大学、コンサルティング・ファーム等に多数存在する。知名度が高く、影響力が大きいことで知られる。」と書かれているように第二次世界大戦後に最盛期を迎え、戦後の世界秩序に大きな影響を与えたと言われている。これ以上は「トンデモ陰謀論」の範疇だろうが、このCFRの構成メンバーはシオニスト・ユダヤ・ロビーが多数を占め、イルミナティの下部組織とも言われている(^^;)つまり戦勝国アメリカの世界秩序維持のために、日本を悪役に仕立てておく必要がある連中だということだ。

マーク・ゲインは1945年FBIに極東問題を扱う雑誌の他のメンバーとともにソ連のスパイである容疑をかけられた。最終的に無罪となり釈放されたが、拘束されたものがいずれも不起訴や無罪、軽微な罰金刑で処理されたが、これも共産党員の工作によると言う見方がある。

天皇や日本を貶めるプロパガンダには注意が必要だ:MILLENNIUM
ディック・ラッセルはその著書『知りすぎた男(The Man Who Knew Too Much)』の中で、ゲインが将来ある時点で「二重スパイ」として働く代わりに自由を与えられたと記している。
http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/JFKgayn.htm
※リンク切れ

皇室(天皇)が経済活動を行い資産を増やし、戦局悪化とともに海外送金して「資産隠し」に走ることは、国家元首としてはあまり都合のいい話ではない。しかし、最近暴露されたパナマ文書における各国政府要人と同様に、自分や他の皇族(家族)の生活保障を考えれば安全策を取ろうとするのは自然な行為に思える。敗戦ともなれば自らは最悪処刑され、資産没収そして皇族は(生存できたとしても)経済的にも苦境に陥ることは容易に想像できたはずなので、批判されることは免れなくても特別に悪事を働いたと言う印象はない。貧乏だった天皇家が裕福になった以上、なんとか守ろうとするのは巨額である分印象は悪いが心情は理解できるのである。

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS※管理人注:戦略諜報局)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?
敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。
そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。
天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ 及び、濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)

そしてマクスウェル・クライマンは、ユダヤ人で日露戦争時に日本の戦費調達に協力したクーン・ローブ投資銀行の幹部であった。クーン・ローブ商会の頭取を務めたジェイコブ・シフはロスチャイルド家初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルドと同じユダヤ人居住区の同じ建物に住んでいた。世界最大とも言われるユダヤ金融財閥と無縁と考えるほうがどう考えてもおかしい。

クーン・ローブ:wiki
クーン・ローブ(Kuhn Loeb & Co.)はグローバルな金融財閥。クーン・ローブ商会とも。1867年に創業、ニューヨークに本部を置いた。戦後も1947年発行のオランダ国債や欧州石炭鉄鋼共同体債、オスロ市債、オーストリア国債、デンマーク国債、ジャマイカ債の引受代表となった。引受けた国債銘柄はモルガン・スタンレーよりもずっと幅広い。
1977年にリーマン・ブラザーズに統合され、クーン・ローブ・リーマンと称した。その後、1984年にクーン・ローブ・リーマンがアメリカン・エキスプレスに買収され、シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス(Shearson Lehman/American Express)に改名された際、クーン・ローブの名は消えることとなった。もっとも、ローブはリーマンの語源である。

明治維新でも関わった天皇家とロスチャイルド、遣欧使節で関わった徳川家とロスチャイルド。これらの金融財閥のバックアップ無しには、少なくとも明治維新以降は日本において統治する力は持てなかったのかもしれない。いずれにしても帝国の功罪(13)「明治維新の黒幕たち」および帝国の功罪(14)「明治新政府の統治能力と藩閥」でも登場したヨーロッパのユダヤ系財閥の名がやはり出てくる。世界に金融危機をもたらしたリーマン・ブラザース崩壊も流れを見る限り何らかの意図が考えられるのだがそれは別の話(^^;)

国際関係史の中の日米経済関係:井口治夫(PDF)
大恐慌の最悪期からなかなか脱却できない米国に対して、日本産業(日産)財閥の総帥で、国策会社満州重工業(満業)総裁でもあった鮎川義介や日本の経済界が米国に働きかけた修正門戸主義を米国が妥協して受け入れる余地があったとする期間は、三国同盟が締結された時期までであろう。日中戦争が予想外に長引いた結果米国の間接・直接資本を日本帝国に導入することは益々重要になっていた。第2次世界大戦勃発後、日本帝国にとって米国のみが必要な外資を供給しうる国であった。
 鮎川が、満州国を米国に事実上認めさせて米国から満州へ投資を流入させようとした構想と、日本が1938年2月以降に推進しはじめた満州国に欧州系ユダヤ人の安全地帯を創設するすることは政策面で関係していた。1938年彼は米国人マックスウェル・クライマンというクーン・ローブ投資銀行幹部と面識のあるニューヨーク市のビジネスマンの訪問を受けた。クライマンは、ユダヤ人の難民を受け入れる為に満州国を安全地帯として開放する代わりに、主にユダヤ系金融機関からの融資を斡旋できると鮎川に提案した。他の多くの日本人と同様に、鮎川はユダヤ人は経済に強く、日本の友人であると信じていた。日露戦争中クーン・ローブ投資銀行のパートナーであったジェーコブ・シフは、高橋是清による日本国政府の戦費調達を欧米の金融市場で行うことを支援した。シフは、ユダヤ人を迫害する帝政ロシアに敵意を抱いていた為、日本が戦争遂行上非常に必要としていた対外戦費調達の大部分を仲介した。

満州で欧州のユダヤ人の難民を受け入れる計画は日本側で策定されていた。

河豚計画:wiki
河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。1934年に鮎川義介が提唱した計画に始まるとされ、1938年の五相会議で政府の方針として定まった。実務面では、陸軍大佐安江仙弘、海軍大佐犬塚惟重らが主導した。ヨーロッパでの迫害から逃れたユダヤ人を満州国に招き入れ、自治区を建設する計画であったが、ユダヤ人迫害を推進するドイツのナチス党との友好を深めるにつれて形骸化し、日独伊三国軍事同盟の締結や日独ともに対外戦争を開始したことによって実現性が無くなり頓挫した。

鮎川義介1938年は日米開戦の3年前である。この時点で日本はアメリカを懐柔し利用しようとしていた。米国内のユダヤ人に働きかけて満州への投資と同時にソ連への牽制、他に中国大陸で関東軍が展開していた「麻薬ビジネス」も関連していたかもしれない。日本の軍隊は米国からの石油に依存していた。武器などの一部も米国から輸入していたし、その資金も米国の金融業者を利用して調達していた。

鮎川義介→
<画像元:平成の松下村塾>

戦争時に完全に敵対してみせるのは政府の上層部だけである。裏では多くの場合何らかの接点は維持する。戦争に疲弊し講和交渉するにもそういうチャンネルが必要になるからだ。

そういう意味で日本と米国が互恵関係を結んだり、政治的に優位に立とうと画策するのは当たり前だ。ヒトラーと資産隠しを共有するのも褒められた話ではないが、当時は軍事同盟国であったのだから国家元首同士の経済活動としてあっても不思議ではない。

国のトップの蓄財は、それが不正蓄財の場合、その権威権力が失墜した時にこそ糾弾される。独裁者なら、独裁権力に抗う勢力が台頭した時に初めてその情報が暴かれる。でなければ敵対する外国や国内勢力がプロパガンダとして曝露されるのが普通である。今話題の渦中のパナマ文書同様、その暴露によって利を得る勢力が、失墜させたい相手の情報を晒すのが戦略的にも常道なのだ。
であるならば、上記の「天皇の犯罪の暴露者」の多くが、反体制的共産主義者や反日的自虐史観を推進する側の人間であることを考えると、全てを鵜呑みにすることの危険さが見えてくる。

天皇家の財布:森暢平(新潮新書)
天皇家が独自の収入源を持った結果、敗戦当時、三井、三菱、住友などの財閥資産は3〜5億円だったが、皇室はそれを大幅にしのぐ37億円の資産を有していた。連合国軍曹司令部(GHQ)は皇室を財閥の一種とみなし、経済基盤の解体を目指した。
皇室自立主義に対するGHQの厳しい見方は、その後の日本国憲法に反映された。同88条は「……すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」と記す。天皇家の財産形成を厳しく制限し、皇室経済を国会の統制下に置いた。

同じ引用先にはこういう記述もある。

敗戦後の1946年3月現在、天皇家の財産は37億1563万円(財政税評価基準)だった。
(中略)
敗戦に伴い、天皇家は財産税33億4268万円を課税され、殆どは物納した。御料林は林野庁に、博物館は文部省に、学習院は財団法人(のちに学校法人)に移った。栃木県田母沢御用邸のように県に払い下げられたものもある。皇居などそのまま天皇家が使い続けるものも、国有財産へと移管された。天皇家の私有財産として残ったのは、金融資産1500万円のほか、美術品、宝石と身の回りの品だった。

なんと、皇居は借家なのだ。他の御用邸にしても国有であり、皇室専用ではあるが持ち家ではなかったのだ(^^;)

ちなみに上述の過去の貨幣価値を調べる(明治以降):リサーチ・ナビ(国立国会図書館)での換算によると、昭和25年時点の基準だと現在の約285億円相当らしいので一族の資産としては中々のものと言えるとは思うが、ロスチャイルドなどのユダヤ財閥に比べるべくもないレベルであるとも言える(^^;)

ただ、陰謀史観で考えると、天皇家の隠し資産・スイス銀行の偽名秘密口座とかがあっておかしくないということになろうが、これらは推測の域を出ず証拠は得られない。将来パナマ文書のようなものが公表され、天皇家の資産が暴かれる日があるかもしれないが、古代からの宝物(美術品など)で金額に換算できない財産を含めても、現在の天皇家の資産は部外者が思うほどは多くないと考えられるのである。

『詔勅』を連発する軍事利権の使い走り陸仁:全学共闘会議
天皇の財産 いかなる財閥も、さかだちしても追いつけない急激な膨張ぶりであった。
詔勅記事
動産・不動産からなる皇室財産は、明治維新以後に設定された。明治政府は皇室の経済的基礎を確立する必要に迫られ、1884年から90年にかけて莫大な皇室財産が蓄積された。つまり、政府所有の日本銀行、横浜正金銀行、日本郵船会社株の皇室財産への編入、佐渡、生野の両鉱山の皇室への移譲、350万町歩の山林原野の皇室財産編入などが行われた。

日清戦争で獲得した償金約3億円のうち2000万円が皇室会計に繰り入れられた。また皇室費は、日露戦争後、450万円に増額され、第二次世界大戦終戦時まで毎年支出された。

全共闘のページ(残骸?)を拾ったが、Tripodとはまた懐かしいサーバーを使っている(^^;)インデックスページから次に進むと目次ページがあるがそこにはこんな画像が。

藁のように
「君もまた覚えておけ、藁(わら)のようにではなく、ふるえながら死ぬのだ。1月はこんなにも寒いが、唯一の無関心で通過を企てる者を俺が許しておくものか」
※東京大学安田講堂内に記されていた落書き。東大安田講堂事件:wiki

破壊的で破滅的な意思が、実におどろおどろしい文字となって書かれている。これは檄文か詩か?と思ったら左翼過激派には有名な落書きだった(^^;)

彼ら(共産主義者)はこの国に何をもたらそうとしているのだろうか?明治維新とその政府が夢見た富国強兵。それは歪んだ夢だったかもしれないが、上記の檄文のような文章を奉じる彼ら共産主義者の夢は健全と言えるのだろうか?

支配者の階層は常に非支配階層の批判の対象になる。敵対する国家の標的にもされる。清廉潔白な支配者階級はこの世に存在はしないとも思うものの、そうであるなら、全ての国家の支配者は同様の不正蓄財の守銭奴ということになるし、庶民はそれらによって踊らされるタダの踊り子でしか無い。ブルジヨア(富裕層)の存在を否定した社会主義・共産主義でさえ、その支配者が権力を基に合法・非合法を問わず蓄財しているのは周知の事実なのだ。

だとすれば、庶民の側から行える評価の基準は、その国の国民にどれだけ親しまれ、尊敬され、尊重されているかということになる。現在確認されている(検証可能な)歴史的資料や証拠の上では、我が国の天皇家はその意味で世界的にも「問題の多い国家元首とはいえない」と私は思うのだ。

もし問題があるとすれば、それはそういう皇室を正しく評価しない国民の側にあるのではないだろうか。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】

大日本帝国憲法の本性

回数を重ねた割には急ぎ足で「明治維新」を検証していたために、大日本帝国憲法をしっかり検証していなかった(^^;)順序が逆かも知れないが今回は日本初の近代憲法である大日本帝国憲法について調べてみよう。

と言っても、近代法典としての憲法論などは専門家の領分であろうし、素人の私が文献をあさったところで真の理解に繋がるかは心もとない(^^;)なので、明治維新の一つの到達点としての大日本帝国憲法とそれに至る道筋を考えてみたいと思う。

明治維新の特色は、旧来の日本的政治体制を捨て全てを西欧列強の近代的方法論を日本へ適用すること(西欧の文明論や国家観のローカライズ)である。となれば、国内でいかに情報収集をしようとしても限界があり、幕末から明治維新後にかけて、有名無名の使節や留学生が絶えずヨーロッパや米国に渡って西欧列強のエッセンスを学んでいた。

●日本からの渡航者年表
和暦西暦渡航先内容参加者
万延元年1860年アメリカ日米通商条約
批准書提出
幕府使節団
小栗上野介、咸臨丸での随行者の
福沢諭吉、中浜(ジョン)万次郎
らを含む77名
文久元年1862年ヨーロッパ開港延期交渉
幕府使節団
福沢諭吉、寺島宗則ら38名
文久2年
※旧暦
1862年オランダ幕府留学生榎本武揚、津田真道、西周(日本人
最初のフリーメイソン)
文久3年1863年ヨーロッパ長州藩留学生
(長州五傑)
井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、
伊藤博文、井上勝
文久3年1863年ヨーロッパ横浜鎖港談判
幕府使節団
池田長発ら35名
元治元年1864年アメリカ密航新島襄
慶応2年1865年イギリス幕府留学生14名
慶応2年1865年ヨーロッパ薩摩藩留学生森有礼、五代友厚ら15名
慶応2年1865年ロシア樺太国境
画定交渉
幕府使節団
小出秀実、石川利政
慶応2年
※旧暦
1866年アメリカ薩摩藩留学生6名
慶応3年1866年ヨーロッパパリ万博出展
幕府使節団
徳川昭武(御三卿清水家 徳川慶喜
の実弟)、渋沢栄一
明治2年1869年ヨーロッパ軍備視察山県有朋、
西郷従道(西郷隆盛の実弟)
明治3年1870年アメリカ
〜イギリス
契約交渉など上野景範、前島密
明治3年1870年アメリカ
〜プロシア
普仏戦争視察大山巌、品川弥二郎、
中浜(ジョン)万次郎ほか
明治4年1871年アメリカ金融関係視察伊藤博文と
銀行家一行
明治4年1871年アメリカ〜
ヨーロッパ
明治新政府
岩倉使節団
木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、
伊藤博文、大久保利通など留学生
を含む107名

※慶応4年/明治元年(1868年)〜明治4年(1871年)にも明治の元勲達の子弟が多数留学。また、外国発注の船舶(蒸気船:軍艦)の買い付けや受け取りに向かった幕府使節がある。
※慶応4年/明治元年(1868年)〜明治6年(1873年)にかけての5年間に、500人以上が日本から海外へ渡り、1871年1年間のみで350人。うち150人が政府の公費留学生、120人が諸藩からの公費留学生、残りの80人が自費で渡航している。
参考資料:犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』 、宮永孝「万延元年の遣米使節団」、「幕末遣欧使節団」

表内のリンク日米修好通商条約は、安政5年(1858年)に調印されたが、ペリー以来の砲艦外交に加え、イギリス・フランスの清国侵略の現状を訴えて、外交上の時間稼ぎのためにも「友好的なアメリカと条約を調印することにメリットが有る」との救済的意味合いを幕府に吹き込んだため成立したらしい。

不平等条約と称されるほどに関税自主権がなく、領事裁判権をアメリカに握られた点が独立国家同士の対等な関係でない条約だったが、アメリカに上手く言い込められた印象は拭えない。

日米修好通商条約:wiki
条約
(堀田)正睦は自ら(岩瀬)忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京し条約勅許に尽力したが、3月12日(1858年4月25日)の武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。また孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、3月20日(1858年5月3日に勅許を拒否した。
一方のハリスも、アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856年 - 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。

老中首座堀田正睦をはじめとする幕閣の多くは色を失い焦っていたように見える。大老に就任した井伊直弼は腹の座った人物だったようで、最後まで勅許を優先する意向を示したが、勅許を得ないまま条約調印を下田奉行井上清直らに行われてしまう。

列強との条約調印もその後雪崩を打ったように調印してしまい、

安政5年(1858年)6月 日米修好通商条約(アメリカ)
安政5年(1858年)7月 日蘭修好通商条約(オランダ)
安政5年(1858年)7月 日露修好通商条約(ロシア)
安政5年(1858年)7月 日英修好通商条約(イギリス)
安政5年(1858年)9月 日仏修好通商条約(フランス)

安政7年(1860年)8月 日葡修好通商条約(ポルトガル) 
万延元年(1861年) 1月 日普修好通商条約(プロイセン) 
慶応2年(1866年)7月 日伊修好通商条約(イタリア)
明治2年(1869年)9月 日墺修好通商航海条約(オーストリア=ハンガリー二重帝国) 

と、西欧列強との不平等条約をほとんど明治維新までに結んでしまう。幕府の要人としては清国の惨状を知り、列強の武力に怯えきって「攻められないための安全保障」としての側面が強いわけだが、やがて留学生が多数西欧に留学して学ぶにつれ、差別的な待遇(不平等条約)である認識が深まり、対等な外交関係を求めて改正交渉が始まる。

開港延期交渉や横浜鎖港談判などがそれだが、結果は不調に終わり明治新政府に変わってからはその改正が大命題となった。その明治政府の最初の外交使節が岩倉使節団だが、長期間の渡航のうちに日本国内の実情と西欧列強との力の差を見せつけられ、急進的な改革(近代化)路線を模索することになる。その一環が大日本帝国憲法だった。

岩倉使節団

いわゆる「西洋かぶれ」によって「文明開化」と呼ばれる西欧文化の模倣が始まり、日本の文明国ぶりをアピールする鹿鳴館も作られて日本での西洋文明の習熟度を知らしめて「不平等条約の対象にするような野蛮国ではない」と思わせようと躍起になった。

鹿鳴館:wiki
鹿鳴館
鹿鳴館(ろくめいかん)は、国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。

鹿鳴館の建設と欧化主義を主導したのは長州ファイブの1人だった井上馨である。しかし本物を知る外国人の目には「まるでどこかの温泉街のカジノのようだ(ピエール・ロティ『江戸の舞踏会』)」程度の認識でしかなく、一部の渡航経験のある婦人たちが話題になったものの「猿真似」の汚名は中々消せない。大山捨松(大山巌夫人)井上武子(井上馨夫人)陸奥亮子(陸奥宗光夫人)などは今日までそのエピソードが伝わるほど評価の高かった人だが、さすがに彼女たちだけでは全体の評価を底上げするには至らない。

三婦人

この時の明治新政府の焦りあるいは欺瞞を描いたようにも見える文学がある。

三島由紀夫の『鹿鳴館』:うたかた日記
影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。
朝子:一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません、
影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子:世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい。
影山:だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。
朝子:それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。

明治時代、それまで着物に髪結いをしていた習慣を打ち捨て、ドレスに身を包んで宝石で着飾り、慣れないワルツを踊る。
まるで早く一人前の扱いを受けたいと背伸びする子どものように、西洋諸国の仲間入りをせんと身の丈を超えた涙ぐましい頑張りを続けていた日本。
どんなに馬鹿馬鹿しいと思おうとも、本音を隠す仮面をかぶって、自らの理想を演じ続ける…。
そうした国の有様が、美しく象徴的に描かれた場面です。

やがて不平等条約のなかの領事裁判権による日本側の不満を噴出させる事件「ノルマントン号事件」が起き、その顛末をめぐって井上馨は失脚、鹿鳴館に代表される欧化政策も見直される。

西洋に媚びを売る「媚態外交」とまで酷評されるに至って、全く真逆の方向性が土台となる「憲法創設」が脚光を浴びる。それ以前の不満士族の残滓を糾合した「自由民権運動」による私擬憲法草案作成が盛んに行われていたが、憲法制定に関する勅命が出たこともあり、政府内でも様々な憲法案が議論されるも乱立するばかりで収拾には程遠かった。やがて伊藤博文を中心とする要人が1882年(明治15年)に欧州の憲法を改めて研究するため渡航、帰国後には議会の設置の準備にも着手する。

大日本帝国憲法:wiki
憲法発布
大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法。明治憲法(めいじけんぽう)、あるいは単に帝国憲法(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けばアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、第73条の憲法改正手続を経て翌5月3日に日本国憲法が施行された。

維新を成し得た明治の元勲たちだが、それぞれ憲法(立憲君主制)に対する考え方は差があり、議論百出するもまとまる兆しが見えなかったことも「憲法研究のため」再渡航して専従チームに一任する形になったものと思われる。

wikiの記述を見る限り、草案作成には法律の専門家である外国人学者の監修も受けていたようで、戦後制定された日本国憲法同様「日本人だけで作成された」とは言いがたいものがあるが、唯一異なるのは、最終的な決定権を大日本帝国憲法の際は日本側が有していたことで、戦後の日本国憲法の際は「占領軍の意向が色濃く反映」されたものであったことだ。

そろそろ、日本人だけで「一から新しい日本国憲法を起草しても良い頃」ではないかとも思うのだが・・・。

明治維新当時、世界を支配していたのは激しい植民地争奪戦を演じ覇権争いをしていたイギリスとフランスである。幕末期にはそれぞれ薩長側・幕府側に肩入れするなど明治維新以降も影響が最も強くなりそうな両国だったが、何故か憲法のモデルとしたのはプロイセン(プロシア)王国だった。
理由としては諸侯国家だったドイツ〜ポーランドの国家群を統合し、統一ドイツとしてドイツ帝国の基礎となった国家だった点である。日本における幕藩体制を中央集権国家に改造する上での国の成り立ちに共通点が多い事や、君主国家であり民主的議会を持つ近代立憲君主制のお手本として、また強国と思われたフランス(この当時はナポレオン3世の第二帝政期)との戦争にプロイセンが勝利したこと(普仏戦争)が大きく影響したと思われる。
とは言え、プロイセンの憲法をまんまコピーしたものではなく、欧州各国の憲法から「いいとこ取り」したようなものに仕上がっているらしい。日本人の「新しもの好き」な感性と「極めようとする」求道的意識が反映されたものと見たほうが自然だろう。

イギリスは日本と同じく海洋国家であり、君主国家である。世界最強の海軍を擁し覇権国家としての地位を築いていたが、維新に至るまでに日本と接点が多すぎることもあって政治的侵略(介入)を警戒したのか憲法や政治のシステムについては影響が強いとはいえない。
ただ、薩英戦争以来の軍事部門の影響力は強く日本海軍はイギリスの影響が色濃く出ていると言われている。しかし陸軍は当初最強と思われていたフランスがプロイセンに負けると、プロイセンの陸軍を見習った。

日和見といえばそうかもしれないが、イギリスやフランスのようにすでに海外に植民地を多数持っていた覇権国家に対し、プロイセンのように急速に成長を続ける途上にある国家に自分たちの日本を重ねてイメージしやすかったのかもしれない。ドイツ人のような勤勉さを持つ日本人であるがゆえに、ドイツの祖先とも言えるプロイセンに同じ気質の存在を見ていたようにも思えるのである。

帝国憲法
<画像元:国立公文書館>

ポイントを抑えたつもりで見てきたが、憲法起草と成立に関しては上記のようなところだろうか。最後に法律論的な部分を少しだけ検証しておきたい。大日本帝国憲法の特徴的な部分は、天皇大権と呼ばれる国のあらゆる決定権であり、行政の執行官である内閣や総理大臣の権力を規定していないと言われるところである。
あくまで国の行うことは天皇に権力があり、内閣や議会は天皇の統治を輔弼(ほひつ)する機関であって天皇に変わってこれを執り行う権利を持たせないと云う考え方である。

これは旧幕府などの「天皇親政代替機関」に見られる「朝廷(皇室)軽視」や実権の委託による天皇の権威の形骸化を排除するためであったと思われるが、昔より天皇親政は事実上形骸化しており、時の権力(政治的・軍事的実力)者が天皇の権威を背景に立法・行政・軍事を仕切る体制が取られてきた。

明治新政府は「天皇親政代替機関」ではなく「天皇親政の補助代行機関」という位置づけと考えていいだろう。あくまでこれは「建前」ではあり、実際は内閣や政府内の要人が合議の上決定した政策を天皇の裁可を得るという部分での決定権でしか無い。天皇陛下自らが政治に関わり政策を提言して行政を管理し(指揮し)責任をもつと云う性格のものではなかった。

昔から日本における政治的権威の最高峰が天皇であり、その意思は尊重しても意見・立案・具申するのは臣下である。この形態は基本的に変わらなかったと見るべきだろう。第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記述されたのは天皇主権を明記したとも取れるが、「万世一系」という神話的な表現を取り入れた部分からも「天皇を最高権威と戴く思想的な表明」を謳ったものと考えるのが妥当なようだ。

昭和十二年五月に文部省が刊行した『国体の本義』(文献8)にも、「天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」とあり、当然のことながら帝国憲法の告文にも「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示」とあり、「祖法の確認」をしたのが帝国憲法である。これを「欽定憲法」と呼ぶが、「欽定」とは、天皇が憲法制定権力者(主権者)として創設したといふ意味ではない。「欽」とは、「つつしみかしこまる」といふ意味であり、皇祖皇宗の皇裔である明治天皇が皇祖皇宗に対して、つつしみかしこまつて遺訓を明徴して定められたといふ意味である。
南出喜久治:國體護持(こくたいごじ)第1章より抜粋

主権と書くとどうしてもそれが特定個人に向かう場合は「支配者」「専制君主」「独裁」的なニュアンスが出てくるが、大日本帝国憲法で書かれた「天皇主権」は少なくとも「暴君」を生み出す主権ではなかった。暴君になるのはいつの時代も「主権者の威光を笠に猛々しく主張する者達」なのだ。
デモ
<画像元:とろ速報>

大日本帝国憲法〜大日本帝国憲法の問題点:wiki
大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」とアドバイスした。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になった。これが後に日本に大変な災いをもたらすことになった。この欠陥に気づいた軍部が政府を無視して暴走しはじめたのである。「陸海軍は天皇に直属する」という規定をたてに政府の言うことを聞かなくなった。これが「統帥権干犯問題」の本質でもある。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。

どんなに美しい品物も人の目にさらされる場所では埃が溜まり汚れがついてしまう。汚れがつかないようにガラスケースに入れれば埃はつきにくいがその品物に触れることもメンテナンスすることもできなくなる。
行政に影響する立法は頻繁に行われ、短期間のうちに時代の流れに即して変化させ不具合を生じないメンテナンスが行われる。
しかし憲法は最初から最後までタダの一度もメンテナンスが行われず、放置されるがままであった。欠陥がありながらそれに手を付けず屁理屈をこね回して有名無実化してしまうあたりは、今の政権が解釈改憲で形骸化を促進したのと同じだし、「不磨の大典」と奉って改正を許さなかった考え方もまたその現実的対応を否定し、「骨董品的(理想主義的)価値」に思考停止した現代の護憲主義と何ら変わらない。

憲法は大日本帝国の時代も「磨かれること無く錆びるがまま」に捨て置かれた。現代もその点では変わりない。大日本帝国憲法はある意味で欠陥憲法であった。現日本国憲法も同じである。時代や世界情勢に合わせて、自国を法の精神において誠実であるように磨き続ける努力が必要なのだ。

世界の国々はその意味で勤勉に「憲法を磨きこんで改正することを恐れない」。我が国は「何を恐れて不磨の怠慢を貪っている」のだろうか?「本当に守るべきものを履き違えて」いないのだろうか?

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帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
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帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
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帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
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帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)

大日本帝国憲法と帝国議会の構成

1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された大日本帝国憲法と翌年の帝国議会の設立によって日本の近代化は、一応の決着を迎える。対外的にも(主に西欧列強に対して)また国際的に共通の価値観を持った近代国家としての体裁が整い、富国強兵のためのレールがようやく敷かれたということになる。

明治天皇日本の近代化は国内の増強はもとより、西欧列強に対等に扱われるための信用形成が主目的であり、そのためには民意をある程度汲む政治体制、絶対君主制ではない民主的な国家像を示す必要があったろう。
まず、近代化に伴い憲法を制定し、西欧列強に対等の立場に立つ政治思想の反映として立憲君主制を取る事を明示した。つまり国家元首である「天皇」の権限を憲法によって規制する法律である。

<画像元:wiki>

この憲法によって天皇の国政に係る位置づけを明確化し、直接的干渉を排除することになる。実際の歴史でも、天皇陛下が政治に干渉する場合は「戦争の開始と終わり」が主で、天皇が指揮して命令を下す形でなく、臣下の具申に承認を与える形での「権威としての天皇のあり方」を極力守ったといえる。満州事変から大東亜戦争での流れの中で陛下ご自身が政府や軍の対応に不快感を示すことはあったが、終戦の詔で天皇が直接的に政治に介入したのは最初で最後の例だったかもしれない。

ある意味で天皇は極力政治の表舞台に立つことを忌避され、政治的影響力を他者に利用されることを恐れた。結果的にそれは自身が最高指揮官でもある軍部によって「統帥権」を盾に利用され大日本帝国を崩壊させるきっかけにはなるのだが、富国強兵の制度設計の上で、軍部が暴走するリスクを計算できなかったことは欠陥であったと言えるし、明治維新そのものが薩長連合が主体となった武装革命である以上、「軍部が主体となって国を引っ張る思想」が切り離せなかったとも言える。

貴族院
※貴族院<画像元:ウィキメディア・コモンズ>

帝国議会は衆議院と貴族院の二院制が採られ、民主主義的議会政治の体裁を整えたが、貴族院は出自によって自動的に得られる身分上の特権でもあった。
皇族議員は満18歳以上の皇族男子に自動的に議員資格を与えるものであり任期は終身、定員がないため皇族男子が増えれば議員数も増えた。華族議員は旧士族・公家など幕藩体制での支配階級の家柄から様々な方法で選任されたし、公爵・侯爵の満30歳以上の男子も自動的に貴族院議員となる資格を持ち、伯爵・子爵・男爵も満25歳以上の男子をそれぞれの爵位を持つ者達の選挙で選抜される(任期7年)定員制であったが、一般の国民とは明らかに格差のある特権階級としての待遇を得ていた。
あと勅選議員という内閣の輔弼(ほひつ:助言・推挙すること)によって天皇が任命した議員は終身議員であり、内閣が推挙する上でそれ相応の学識経験者か国家に勲労ありと認められた30歳以上の男子というように特別待遇であった。また高額納税者を対象とした貴族院多額納税者議員というものも存在し、一部を除き非改選であることを含め、貴族院が特権階級や一部の富裕層を代表した議院(上院)であることを表している。

これに対して衆議院の被選挙権は男子満30歳以上で選挙人名簿調製の期日より前満1年以上その選挙府県内において直接国税15円(現在の価値で約30万円)以上を納め引き続き納める者であり、選挙権は同じく男子で年齢満25歳以上、直接国税15円以上を納め引き続き納める者という選挙権が国民に無条件に与えられる制度ではなかった。

明治政府
※画像クリックで拡大<画像元:wiki>

所得税など納税義務者が最終負担者と一致する税金の額が年間30万円を超えるとなると現代の所得税法では年収400万円以上になるが、低所得者層の意見は排除されるのと同じであり貧民に対する国政参加のチャンスはなかったといえる。大正14年(1900年)原敬)はらたかし)内閣で普通選挙法で納税資格がなくなり貧富の差で選挙権が左右されることはなくなったが、女性の参政権は昭和20年(1945年)まで認められなかった。

貴族院:wiki
第二次世界大戦前にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案は貴族院が否決することがしばしばあった。同様に普通選挙法も否決される可能性があったが、こちらは治安維持法とのセットにする事により可決した。
貴族院は保守的であるが、内閣に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。政権が政党に妥協した時には反政党の立場から政権と対立することもあった。1900年、伊藤の増税案に対して、貴族院は政友会の党利党略を理由にこれを否決した。手を焼いた伊藤は明治天皇に貴族院が法案成立に協力するよう求める勅語を出させ、従わせたことがある(貴族院はその性質上、勅語には従わざるを得ない)。

せっかくの立憲君主制だったが、天皇の権威を政策に利用する、あるいは法案の成立を天皇の権威に頼る点は「天皇という絶対権力者」を憲法で策定してしまった以上逃れられない宿命だったのかもしれない。

少なくともこの時代の日本における立憲君主制には、民主主義を阻害あるいは制限する二つの厄介な要因を抱えていた。

陸軍と海軍の軍部と貴族院がそれぞれ独立性が高く、その時折の政権に従順でなく、反発や対立が頻繁に起こっていた。国民の生活向上よりも国家の発展が優先(維新以降一貫して富国強兵政策なので当然といえば当然だが)されていたし、自由民権運動など野に下った旧士族など、武器ではなく言論で政府に対抗してくる勢力も、単純に薩長勢力の権力独占に対する反発や国家運営に対しての不平等に対する抵抗の意味もあり、近代日本をなんとか確立しようとしていた新政府の面々には内憂外患の思いだったかもしれない。

いつの時代でも政治とは、「税金で吸い上げた経済資源の再分配」を争うものであって、高尚な理念も先立つモノがなければ形にもならないのはどこの世界でも同じだったのだ。

だからこそ新政府は国家の歳入を増やすために産業振興に力を入れ、それによって得られた金(国家予算)をさらなる発展と国軍の充実に優先して分配した。少ないパイを奪い合うときに起こる争いは、文明開化に踊り国民の気分が高揚している時代には今以上に激しいものがあったかもしれない。

そしてさらに明治時代の議会政治にはもう一つ特筆すべき機関が存在していた。枢密院である。

枢密院:wiki
枢密院
枢密院(すうみついん、旧字体:樞密院)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。
(中略)
大日本帝国憲法第56条では官制の規程に基づき天皇の要請を受けて重要な国務に関し審議すると規定された。
(中略)
枢密院と内閣の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、1927年(昭和2年)には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。
(中略)
似たような問題として、1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府(立憲民政党濱口雄幸)と、枢密院、海軍の軍令部、鳩山一郎らを中心とする野党政友会が対立し、内閣が軍部の意向に反して軍縮を断行するのは天皇の統帥権を侵すものである(統帥権干犯)との非難が浴びせられ、加藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化した。
(中略)
これほどの対立には至らなくとも、明治から大正にかけて山縣有朋が枢密院を盾に反政党的な策動を行っており、山縣の死後も1928年(昭和3年)の不戦条約批准問題等において策動した。

いやはや、この時代の内閣はもう一つの難題も同時に抱えていたようだ。相手が「天皇のシンクタンク・ブレーン集団」のような機関だけに、政権担当者特に首相は相当にタフな精神の持ち主でなければ務まらなかったろう(^^;)

帷幄上奏:wiki
帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、君主制国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対して上奏すること。帷幄とは「帷をめぐらせた場所」のこと。
(中略)
1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法によって一般統治権と軍の統帥権の分離が明記されたが、同年の内閣官制第7条によりこれが制度化され、軍の統帥権は内閣総理大臣の国務上の輔弼事項の例外とされた。
本来、国務大臣は憲法上、帝国議会に対してその責任を負うが、権力分立の外側にあった統帥部(帷幄機関)はその責任がなかった。また、帷幄上奏が認められていたのは、軍事のうちの軍機・軍令に関する問題のみであり、残る軍政に関しては陸軍大臣・海軍大臣が国務大臣の一員として内閣総理大臣を通じて上奏すべき問題とされていた。
ところが、純粋たる帷幄機関の代表である参謀総長や軍令部総長のみならず、国務大臣である陸軍大臣・海軍大臣までもが、本来は内閣の管轄である軍政一般に関する問題までを統帥権の一部と位置づけて帷幄上奏を行った事や、両大臣が軍部大臣現役武官制によって現職の大将・中将に限定されていた事から、軍部が政府・議会を軽視する風潮を生み、結果的に軍部の暴走を招く一因となったといわれる。

帷幄上奏
↑帷幄上奏の取り決めに関する資料<画像元:近代日本のこんな歴史>

「帷をめぐらせた場所」が何故軍部を指すのかがピンと来ない人は、「帷」は幕のことであり戦国時代以降の戦における「陣」とその場所を特定する「陣幕」を想像すれば分かるのではないか?

軍が政府から独立性が高かった理由が大日本帝国憲法にあったことは知っていたが、直接的に軍を掌握する機能を内閣が持たされていなかったことに少々唖然としている(^^;)

アメリカ大統領のように政治・外交・安全保障の最前線に居る人物が軍の最高指揮官である場合は、矛盾は生じないが、立憲君主制を採用した日本にとっては、「政治・外交の責任は内閣が負うが、軍は軍自身が責任を負う」というのではシビリアンコントロールもあったものではない(^^;)軍の統帥権者が天皇である以上、いくらでも天皇の権威を傘に内閣に圧力をかけられるというものだ。

昭和に入って軍が暴走を繰り返していったのも根っこはここにあった。そしてそれを規定した大日本帝国憲法は昭和20年の敗戦で日本国憲法に置き換わるまで、タダの一度も改正(改憲)されることはなかった。

つまり既得権者である軍部の力をそぐような改憲は徹底的に潰しにかかったからでもある。日本国憲法もどうやら、「平和主義というお題目の下に」いま既得権を持ってる連中が「護憲」を叫んでいるといえば、タダの反戦が理由でないのもうなずける話である。かつては超好戦的な軍が国を滅ぼさせた。今度(現代)は超反戦的な左翼が国を侵略させる・・・なんてことにならなければ良いのだが(^^;)

明治維新から近代国家を建設する過程において、新政府の政策は概ね良好だったといえるだろう。しかしそれでもあとの時代から見てみると制度の欠陥がチラチラ見えてくる。心を一つに富国強兵を求めた時代を過ぎ、富国強兵を実現したようにうぬぼれた時が、大日本帝国の終わりの始まりだったといえるのかもしれない。

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帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節


JUGEMテーマ:歴史
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帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】

明治新政府の統治能力と藩閥

明治維新による中央集権体制の形成には、段階的な制度改革を必要とした。急進的で破壊的な制度改革よりも現実的で効率的な制度設計を模索していたとも言えるが、どうしても掬いきれない既得権益を喪失する層が出てくる。下級士族など失職し収入を絶たれた武士などは大いに混乱し、それにともなって庶民の生活(主に商業の形態)も変化を余儀なくされた。現代でも技術革新による業種の栄枯盛衰があるように、長らく変化のなかった江戸時代を過ごしてきた多くの日本人には、非常に激烈な「淘汰の時代」を迎えたことになる。

その一つが版籍奉還と廃藩置県による税収の収益構造の変化である。基本的に江戸時代は幕府に税金のような形で上納金を支払う制度は存在せず、幕府の行う公共事業への参加を義務付けられる「御手伝普請(おてつだいふしん)」を課せられた。幕府は工事を命令するが資金は命じられた藩が負担する。支配下の各大名に経済的な負担をさせることで謀反などの資金を蓄えさせない意味を持っていたが、収支決算報告書を幕府に出すわけでもなく、自国を富ませるために地域特産品や工芸品などの奨励、開拓・開墾による米の増産(実質石高の増加)で地域経済の振興を行っていたものの、どの藩も経営には苦労をしていて赤字経営から脱却できない藩も多数あった。

大久保利通像
※大久保利通像:鹿児島市<画像元:風景壁紙.com>

明治維新が天皇親政による徹底した中央集権化と近代的帝国主義体制へ移行する上で、国家税収を確実にするためには「版籍奉還」の名のもとに各大名が支配していたあらゆる既得権を奪う必要がある。名目上の支配権を版籍奉還で返上させても「知藩事」という政府から任官された「地方支配の長」には家禄としてその藩の石高の十分の一を支給され、実質的には「藩主時代に比べて窮屈」にはなったものの大名としての権威はとりあえず保たれるものであった。

秩禄処分:wiki
明治政府の中央集権化など改革を行うに際しての財源確保のため、禄制改革が課題の1つとなっていた。また、四民平等においては武士階級の身分的特権は廃止の必要があり、軍事的にも伝統的特権意識は軍制改革において弊害となっていた。

政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一が行われ、旧武士階級は士族と改められた。1869年(明治元年)には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄することとなる。1870年には公家に対する禄制改革が実施される。

廃藩置県:wiki
廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。

だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。

廃藩置県
<画像元:「だすだす」のぐんのび 中学社会 テストに出る時事問題>

それを抜本的に改革したのが廃藩置県であり、旧領主はかつての支配地域における特権をすべて失うことになる。大名家(知藩事)は華族となって政府からの金録公債を受ける。
言ってみれば明治政府が華族にその領地相当分を借り受け、金利を含めた配当を支払うことで生活資金とすることであり、明治政府が最初に作った国債ということもできよう。

華族はそれまでの所領による蓄えや新政府での任官など役職を得ることで安定して「名家」を残すことができただろうが、所領を持たない華族や役職につけない一部の華族は貧困救済のため特例として政府から支給を受けているなど必ずしも裕福ではなかったようである。

一例として当時の華族の収入額を推定してみよう。

明治,大正期の華族と庶民の収入を比較したい。:レファレンス協同データベース
『もういちど読む山川日本近代史』
・金録公債(p.35) 
 明治10年 金録公債 1人平均 華族64000円 士族500円 (当時の米価は1石約5円)
・労働時間と賃金(p.124)
 重工業の男性労働者、東京砲兵工廠や石川島造船所では、明治30年ごろ、1日10〜11時間労働で、日給30〜35銭(現在の3000円くらい)程度であった。当時の米価は、1升(約1.5圈烹隠粥腺隠義程度。

米1石は1000合=当時5円として現在の米価に換算すると1石=1000合=約150kg=6〜7万円(約14000倍)で

明治10年 金録公債 1人平均
・士族=500円(700万円)
・華族=64000円(8億9千6百万円)

となる。金額的にはこれが年収であれば一般士族は中堅企業のサラリーマン並、華族はその経営者一族あるいは成功途上にある企業家くらいとも言えるが数十年後に償還される債権である以上即時的な収入には程遠く生活は困窮したことが想像に難くない。地方の旧家で大地主も同じ程度の資産を持っていたことを考えると領主時代、または士族が江戸時代はその10倍の収入(資産)であるだけにかなり「屈辱的な待遇」であったことは想像できる。

一方庶民も日給3000円程度(現在の価値)は月額約90000円。米10kgが今の金額で約400円と考えれば裕福ではないにせよ、士族との格差は縮まっていたと考えていいかもしれない。(ただし官営の重工業施設の従事者は当時の労働者階級でもかなり上位の階層と思われる)

家禄制度は明治6年の徴兵制導入により士族のための支給を行う根拠がなくなり(武装維持のための費用支給)その後金禄公債支給に伴い完全に廃止されるが、これらは既得権の剥奪に等しく、これも後の士族反乱の遠因となる。

秩禄処分〜士族反乱と士族授産:wiki
秩禄処分によって武士の生活が苦しくなったのもまた事実である。金禄公債の金利(下級武士に充てられた7分付き公債の場合)の日割額は当時の東京の労働者の最低賃金の1/3であったとされており、金禄公債を売って生活の足しにする人も少なくなかった。それは、1882年に鳥取県より出された、全士族のうちの9割が既に金禄公債を売却してしまったという報告書に現れている。1883年の統計によると、全士族約41.8万人のうち現職官公吏(軍人含む)もしくは府県議会の選挙権を持つ有権者(地租5円以上で非官公吏)の合算が全体の37.6%であったという。逆に言えば全体の2/3が没落士族に相当すると言えるのであった。

支配者であった武士階級は新時代に適応できるものもいたが適応できずに没落していったものもおり、楽には行かなかったようだが、それは適応出来たものとて例外ではなく、新政府の重鎮でも大久保利通は私財をなげうって新国家建設に邁進し、紀尾井坂の変による暗殺後、残されたのは借財だけだったという。

時代を変革させたことにより困窮する元士族たちの事を思ったか、新政府で高位に居るといえども蓄財を考えることがなかったというのは早世した明治の元勲には共通する部分でもあったろう。

ただ、早世した元勲たちが薩摩閥に多く、長州閥が多数生存したことは、少なからずその後の明治政府の方向に影響を与えたとも言えなくはない。

藩閥:wiki
1871年(明治4年)の廃藩置県後に整った新しい官制で、薩長土肥の出身者が参議や各省の卿の大部分を独占したため、藩閥政府が形成された。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、特に最高指導者層は、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の独り勝ちとなった。薩摩閥は、特に中堅層ではこれに対抗するだけの勢力は維持したものの、幕末期をほぼ無傷で乗り切って維新を迎えたころの優位は失われ、やや劣勢に立たされる形となった(長州はこの間に多くの人材を失っている)。1885年(明治18年)に内閣制度ができたあとも、薩長出身者の多くが内閣総理大臣、国務大臣、元老となった。

現在の総理大臣安倍晋三も出身こそ東京だが山口県(長州)の系統だし祖父の岸信介、親族の佐藤栄作元首相も山口出身、なんとまさかの菅直人まで出身は山口(選挙区は東京)だ(爆)のべ97代中62人の首相経験者の内、9人が山口県に関係していて現首都の東京(13人)に準じる多さだ。鹿児島(薩摩)に関する首相は山本権兵衛以降いないのも面白い。

藩閥の内閣総理大臣
伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
黒田清隆(薩摩藩)2代目
山縣有朋(長州藩)3・9代目
松方正義(薩摩藩)4・6代目
大隈重信(佐賀藩)8・17代目
桂太郎(長州藩)11・13・15代目
山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
寺内正毅(長州藩)18代目
田中義一(長州藩)26代目

軍では薩摩・長州ともに終戦時まで藩閥の色が残っているがこれは別の機会に検証してみたい。

明治新政府での影響力は旧士族の中でも維新勢力であった薩摩・長州のほぼ独占で、他の藩に出番はなかったという印象だが、一昨年意外な系統が実は介在していたという痕跡が示されていた。

なぜ今「ロスチャイルド家と徳川家」なのか? 明治維新の真相とそれが導く明日の世界:yahooニュース
徳川+ロスチャイルド東京にあるコンサート・ホールで一風変わった演奏会が実施される。題して「徳川家・英国ロスチャイルド家 世紀を超えた奇跡のコンサート&対談」ということだ(主催:「世界平和コンサートへの道実行委員会)。

出演するのは我が国における徳川家の宗家を継ぐ立場にある徳川家広氏と、欧州系国際金融資本として知られるロスチャイルド家の中でも英国系のファミリーの一員であるバロネス・シャルロット・ドゥ・ロスチャイルド女史である。

(中略)

それほど事情に明るくない読者は「なぜ今、ロスチャイルドが?しかも我が国の徳川と?」となってしまうに違いなのだ。

だが、私自身はこうした企画が行われると偶然耳にした時、「なるほどな」と思った次第である。なぜならばかつて刊行した小著(「世界通貨戦争後の支配者たち」)の中で、史料の検証を通じ、次のように論じたことがあるからだ:

●一般に「幕末の志士たちによる偉業」として語られることの多い明治維新であるが、より大きなフレームワークで当時の為政者である徳川家が中心となって行った一大プロジェクトであったというのが事実である。グローバル・マクロ(国際的な資金循環)のシステム構築が米欧によって進められている現実を目の当りにした徳川幕府が決心をしてこれに適応し、我が国が生き延びていくためのプロジェクトであった

●具体的には1862年に派遣された文久遣欧使節がカギを握っている。福沢諭吉も参加したこの遣欧使節については、なぜか我が国においてその後語られることが少ない。だが、この時、使節団はロンドン・シティ(City of London)の金融街においてロスチャイルド家と面会し、世界の現実を知った経緯がある

●このことは当時から現在まで我が国において刊行された史料には一切記述がない。そのため、国史学の世界では完全に無視されてきた。だがロスチャイルド家がインターネット上で閲覧に供している歴史文書館(Rothchild Archive)ではこの時、徳川幕府から使節がやって来て会見した旨明記されているのである

●そしてこの会見において日本側が悟ったのは米欧によって構築されつつあるグローバル・マクロのシステムと、それまで我が国と華僑華人ネットワークが「日本=中国=東南アジア」にまたがって構築してきた資金循環システムとの間で「金銀の交換比率」を巡り大きな差が生じてしまっているということであった。このままでは前者が後者を押しつぶすことが明らかであったため、徳川幕府はそれ以外の国内諸勢力と語らって、国内外が「納得のいく」体制転換劇を演じることにした。それが明治維新の真相である

●「明治維新後、影響力を失った」とされることの多い徳川家であるが、そうした認識は決定的に誤っている。なぜならば戦前期の我が国が最も円熟し、新しい大国としての威信を持つに至った1913年から1933年までの実に20年にもわたる時期において、貴族院の議長を務めていたのは徳川家達だったからである(ちなみに徳川家達は最終的に「返上」することになる1940年夏季東京オリンピックの組織委員長であった)。当時の貴族院は現在の参議院とは大きく異なり、実質的に政治的な決定を下す機関として機能していたことから、その影響力は極めて大きかった。そして正にこの時期にロスチャイルド家は我が国に対して盛んに投資を行い、利益を上げていたのである

ちなみにロスチャイルド家は公開されている史料を見る限り、1930年代の前半で我が国に対する投資を止め、資金回収を完了させている。その後、我が国において吹き荒れたのは戦争への嵐であり、日中開戦(1937年)、太平洋戦争への展開(1941年)、そして二つの原子爆弾が投下され、終戦を迎えるという惨劇であった(1945年)。あたかもそうなることを見越してロスチャイルド家が動いたかのように見えてしまう。

何やら前回のエントリにも通じる明治維新の黒幕の1人が、外でもない徳川慶喜だった可能性まで出てきた(^^;)

地政的な部分以外で、商業(金融)的な見地でも内戦を起こすことの愚を察知して幕府(将軍である慶喜)が大規模な内乱を回避する方向で動いたのは、朝敵となり逆賊の汚名を着ることを恐れたのが主なポイントであるように言われていたが、統治者の現実的感覚を最大限発揮した場合、大政奉還も不戦・恭順の行動も「有り」だったのかも知れない。
結局は幕府側倒幕側の両方に居る武士たちがそれぞれの価値観をぶつからせた、新しい時代を迎えるための産みの苦しみとしての「淘汰」として戊辰戦争は北海道(函館戦争)まで継続されたが、支配層の一部はその国際的背景を認識していた・・・。

酷いといえば酷い話だが、裏側を聞いたとしてもその時代の武士たちはすんなりとは新時代に適応できないだろうし、やはりあの殺戮は不回避な戦争だったのかもしれない。

いずれにしても明治維新とその政府には、西欧列強の政治・統治システムを日本にローカライズして導入する意思を西欧列強の象徴たるロスチャイルドに吹きこまれていたと言う見方もできる。

いやはや歴史というものはつくづく奥深いものである。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】

明治維新の黒幕たち

明治維新は西欧列強の日本支配を防ぐために起こった自衛的政変であり内乱でもある。しかし、一方で幕府のような優柔不断な政治体制が永続したほうが西欧列強は侵略の口実が作りやすかったことも事実。

なぜ中国ほか東アジアで行ったような武力支配に出なかったかについて、日本に西欧列強が接触してきた時点で、列強は領土的支配は眼中に無く文化的素養の高い優良な消費者(貿易相手)としての経済的支配へ興味がシフトしていったように思えるのも確かである。

インドや中国、ベトナム地域では領土的支配権をめぐって列強同志が交戦するなど、不毛な戦争も起こっているが、結局のところ「自分たちが血を流す愚」を考え、武士という軍事専門職が多数存在する日本での武力による支配を忌避したというのが妥当ではなかろうか。なぜなら本国から恐ろしく遠く、武力支配するにはリスクの高い日本という国は特段に興味を引く産物も無く費用対効果の点で割が合わない。
ならば西欧列強への危機感を煽って武器を買わせ、内乱を起こして日本国内が疲弊した後にあわよくば武力侵攻して領有すればいい。

そうすれば時間はかかっても効率的に日本の経済資源を奪った上に領土支配も可能になる。武器やその他の産業インフラ機器で西欧依存の形を取れれば、少なくとも経済を牛耳ることは簡単である。

日本金融史9〜イギリスがプロデュースした明治維新〜:金貸しは国家を相手に金を貸す
植民地拡大→世界の覇権争いを繰り広げる列強諸国にとって、日本は極東に残された最後の標的でした。地理的には他国を牽制する要所、すでに近世の成熟した都市が形成され、商工業がある程度発達している日本を開国に導き通商関係を結び、実質支配することが各国共通の狙いだったでしょう。ただ、そこは西洋人が容易に理解できない不思議な国・・・日本でした。
(中略)
アーネスト・サトウらイギリス外交官の諜報活動が、西欧人には難解な日本人の共認風土を理解することを可能にし、思惑通り「日本人の手による政変」を実現しました。
坂本竜馬が薩摩・長州を結びつけて明治維新が実現した、と多くの日本人が信じていますが、イギリスが政変を誘導した事実を隠蔽するために操られたにすぎず、竜馬の新社会構想といわれる『船中八策』は、サトウの『英国策論』の焼き直しに他ならないのです。
この他、江戸城総攻撃を思いとどまらせる西郷隆盛と勝海舟の交渉を円滑に運ぶなど、日本史における重要な局面において、イギリス公使パークスとその部下たちが陰の力となりました。
一方で、“死の商人”グラバーによる武器供給が戊辰戦争勝利をもたらします。
政府外交官と商人の暗躍によりイギリスの日本支配戦略は着々と進行したのです。
彼らが親しく接した薩長の下級武士が明治新政府の首脳となったのは当然の帰結です。
そして、
明治維新後、日本が近代国家を作り上げていくモデルは、当然イギリスでした。その国力が最盛期に達していたイギリスは、政治・経済・社会制度等、あらゆる分野における模範国であり、重要な貿易相手国となったのです。
二院制による議会政治、鉄道(新橋・横浜間を最初に走った機関車はイギリスから直輸入されたもの)、都市における地下鉄、郵便制度(特に赤いポスト)等、今日わが国において当たり前のことのように通用している社会制度や施設の多くは、イギリスに倣ったものです。
結局イギリスが幕末日本の貿易シェアの75%を、明治日本では50%を支配することとなりました。新しい日本海軍・商船団へのイギリスの援助も継続的なものとなっていきます。

グラバー
※グラバー像:長崎グラバー園<画像元:ぶらり重兵衛の歴史探訪>

もちろん列強のそれもイギリスの思惑が全て当たったわけではない。エージェントとして活躍したグラバーは戊辰戦争で幕府の対応を読み誤りグラバー商会を倒産させてしまう(^^;)

明治維新の実像「幕末期に入った国際金融資本の魔手」:日本を守るのに右も左もない
薩摩−長州連合だけでは倒幕は無理です。
より本質的には、「グラバーの商社を仲介した薩摩への武器供給取引が本格的に成立した」という点が重要です。
英国等で生産された銃器弾薬は、マセソン商会の信用を通じて極東に輸出され、これをグラバー商会が買いつけ、薩摩藩に売却します。 この取引の仲介に加わった仲介者が海援隊だったと思います。薩摩藩はたまたま財政状態がよく、特に砂糖の密貿易で設けていたはずです。 当時は砂糖で成り金になれる時代でした。 この金を銃器に代えたわけです。
(中略)
薩摩−長州連合と幕府との本格的な内戦は回避されました。
この直後、グラバー商会は破産しました。
なぜグラバー商会が倒産したのか。
グラバーは、薩摩長州連合と幕府との内戦を予期し、多量の武器弾薬を上海経由で仕入れていました。 武器弾薬の多くは上海の倉庫に貯蔵され、輸出を待っていたはずです。 薩摩藩から武器代金を回収し、これによって仕入れ手形代金を決済する予定でした。
ところが、幕府は早々と降参してしまいました。 グラバーは武器の仕入れ代金を決済することができず、倒産してしまいました。
 
同じころ、幕府側にはパークス公使をはじめとする大陸勢力が接近し、武器供給を申し出ていました。
幕府がこの申し出を本格的に飲んでいれば、大規模内戦になったはずです。
この結果、グラバー商会は大儲けしていたはずです。
もちろん、明治政府は、グラバー商会への支払いと、幕府が降り出した手形の決済とを抱え込むことになったと思われます(国際慣行上は倒幕後の幕府の負債を明治政府が支払う義務は必ずしもないでしょうから、仮定の問題ですが)。
従って、明治政府は、出発時から超多額の外債を背負い込むはめになったはずです。
徳川慶喜は、おそらくこの事情を理解し、内戦を回避したのではないかといわれていますね。 彼は我々の恩人です。

このブログではこの後、イギリスの対日政策(大量の武器購入による内乱誘発の陰謀)を察知して内戦回避に奔走した坂本竜馬暗殺にまで言及しているが、グラバー商会の倒産は別の見方もある。明治新政府に深入りしすぎて(坂本龍馬が察知したように)イギリスの戦略を察知されないためにグラバーを政治的な表舞台から外したとも考えられるのだ。でなければグラバーが日本に対する貿易その他の考え方の違いからイギリスの意向に反抗したために切られたということかもしれない。(グラバー自身は日本国内の炭鉱経営のため残りその後、岩崎弥太郎の三菱財閥の相談役となるなど民間の事業家として功績を残す)なぜなら武器商人だったグラバーがその気であれば明治新政府軍やその後整備される陸軍・海軍などの軍備に関わる事業を継続できたはずである。些細な負債額で倒産させられたのはイギリス政府=マセソン商会(グラバー商会の上部組織)の意図によるものと考えられるのである。

「日本人が知らないニッポン」:THINKER

グラバーは、ロスチャイルド家の系列会社であったマセソン商会の社員として中国の上海に派遣され、その後、日本代理人として長崎に赴任し、グラバー商会を設立します。来日当初は、生糸や茶の卸売をしていましたが、幕末の混乱に着目して薩摩・土佐藩士など倒幕派を相手に、武器や弾薬を売り始めます。 

当時、幕府に敵対していた長州藩は、長崎のグラバーから武器を買うことを幕府から禁じられていました。そこで、龍馬はグラバーから分けてもらった武器を薩摩藩名義で、長州に流すことで両者を和解させることに成功したのです。

実のところ、これは龍馬を使って薩長を結びつけ、その後、両藩を支援して幕府を転覆させるというグラバーの計画でした。
また、それ以前にも敵対していたとされる薩摩藩の五代友厚や長州藩士の伊藤博文など、両者ともに交流のあったグラバーは、彼らにイギリス留学を斡旋し、当地で交流させます。

つまり、龍馬が両者をつなぐ前に海の向こうではグラバーの仲介で、薩摩と長州はすでに結びついていたのです。
薩長連合
(中略)
この幕末から明治維新にかけて、日本の背後では、イギリスが薩長倒幕勢力を通じて南方からの日本支配をもくろんでおり、フランスは幕府を通じて日本の支配をもくろんでいたのです。
またさらにその上には、それぞれ英・ロスチャイルド家と仏・ロスチャイルド家の存在がありました。
ロスチャイルドの関わり
戊辰戦争を振り返って見ると、以上のようになります。

英のロスチャイルド家と仏のロスチャイルド家が二手に別れ、薩長倒幕勢力と江戸幕府の両方を資金と武器で支援します。その後、両者を戦わせて、どちらが勝っても支配権と利益を手に入れます。
さらにこの後、明治政府を作らせた後に今度は、外国と戦わせます。

日露戦争です。
小国の日本が大国ロシアを相手に戦いました。
この戦争は、有色人種が白人相手に勝利した初めての戦争ということもあり、 当時の日本国民はおろか、白人の支配下にあった東南アジアをはじめとする植民地の国々は狂喜乱舞しました。

当時の日本は、この戦争の戦費を調達するために、増税に次ぐ増税を国民に 課しました 。
それでも足りず、ひいては国債まで強制的に国民に買わせる始末で、市町村は係員に一戸一戸、訪問させていたほどです。
(中略)
アメリカでは、ロスチャイルド家と血縁関係のある大銀行家ジェイコブ・シフから500万ポンドの国債を買ってもらいました。
国債を買ってもらうということは、後で利子をつけて返す、つまりお金を借りることと同じです。

同様にイギリスではロスチャイルド支配下の銀行団から500万ポンド、後にロスチャイルド本家からもさらなる融資を受けます。

このように戦費を調達した日本は、ロスチャイルド系列の軍需企業から主力戦艦・三笠(英・ヴィッカーズ社製:当時のお金で88万ポンド)などを購入し、ロシアと戦争をします。
日露戦争もロスチャイルド家の視点からみると、イギリスやアメリカのように、まだ支配下にない大国ロシアを、育て上げた日本と戦わせ、封じ込めるための戦争だったのです。

そのために日本に戦費を貸し付け、自分たちの会社の武器を買わせ、ロシアと戦わせ、ロシアを叩いた上で日本からも巨額の利子を取り上げるという構図です。

長々と引用したが、考えて欲しい。危機を煽りけしかけて武器を買わせ金を貸して戦争をさせる・・・。明治維新も日露戦争も同じような構図が見えてくる。いいように日本は西欧列強のダシにされていたわけだ。だとすると明治維新もそもそも本当に必要だったのか?徳川幕府体制のまま近代化を導入する選択肢もあったのではないかと思えてくる(^^;)

ロスチャイルドと明治維新を語れば当然フリーメイソンの陰謀説にも関連してくるのだが、この「フリーメイソン陰謀説」は、かなりトンデモな仮説であり「話としては面白いが証拠がなく信憑性に欠ける」のが大半である。曰く、坂本龍馬がフリーメイソンであったとかだが、欧米の秘密結社であるフリーメイソンが動乱期の日本で工作員を養成することは可能でも、フリーメイソンのメンバーとして勧誘したり東洋人をわざわざ加入させるのは正直考えづらい。

当時の民族差別を考えれば、現地のメンバーが推薦しても本国のフリーメイソン幹部が承認したとは思えないし、坂本龍馬の語学力でフリーメイソンの理念を理解し心酔することがあるかは疑問だからである。

明治維新八百長説 ―維新の群像―:懐疑論者の祈り
 次の写真は、フリーメーソン陰謀論者などの間で、幕末の志士から維新までを彩る人々が一堂に会したものであり、明治維新はフリーメーソンが背後で操っていたという陰謀の証拠写真とされている。しかし、巨大陰謀論のビリーバー以外は、それがただの与太話に過ぎないことを直感的に理解できるであろう。

フルベッキ写真

(中略)
薩長同盟だって大政奉還だって、もちろん写真が撮影されたとする慶応元年(1865年5月〜翌2月)にはシナリオが出来上がっていたという、巨大な陰謀の証拠写真になってしまったのだ。
 そう、何を隠そうフルべッキや坂本竜馬がメーソンであり、かつ維新はメーソンが企画したという陰謀論の根拠はこの写真によって裏付けられたのである。

 そもそも慶応元年とすると、人物の年齢と顔も微妙に厳しいところがある。撮影時期と撮影場所についての正確な情報はないが、手前の石畳(のある撮影場)から明治に入ってから、写真場で撮影されたものではないかと推定できるようだ。そうなると、当然だが竜馬も高杉晋作も登場することはない。
 さらに、竜馬メーソン説などは噴飯ものである。メーソンは入会にあたり、非常に長い儀式を全て英語で行うわけだが、竜馬は長い長い英語をきちんと発音できたのであろうか?しゃべることができたのだろうか?
 日本語で儀式ができるようになったのは戦後のことであるというから、当時の「秘密結社」フリーメーソンに入るためには、堪能な英語が必須だったのである。初代日本人メーソンが西周(実在、客観、哲学、などの訳語を作った人)だったことを思い返そう。
 こういった考証一つとっても「明治維新はメーソンの指導に行われた八百長である」という巨大陰謀論には不利に働くのだ。

幕末はそれまでの250年ほどの間、全くと言っていいほど外国の干渉を受けなかった日本が、西欧列強の交易に名を借りた侵略(経済侵略含む)の洗礼を受けた時代と言える。そしてその背後にはロスチャイルドに代表されるユダヤ金融や武器商人が暗躍していた。彼らが明治維新とその内戦状態を主導したと考えるのは行き過ぎだとしても、倒幕勢力に対し我々の想像以上に深く影響を与えたことは認めざるを得ない。

ペリー以降、ヨーロッパ人との外交関係を持った時点で、富国強兵という名の果てしない軍拡路線を歩むことになる日本の不幸は、長すぎる江戸時代の鎖国政策の弊害なのだろうか?未だに内向きで奇妙な潔癖性が生む葛藤を克服できない幼児性や未熟さの遠因が、最も日本らしさを生んだ「泰平の世」にあったのだとしたら、なんという歴史の皮肉なのだろうか。

西欧列強が最後に訪れたアジアの小国は、その後植民地を多く抱える列強に強烈なしっぺ返しをすることになるのだが、経済戦争という面で考えるなら、金融支配や武器商人の思惑に踊らされながらも、その戦いは今なお続いていると言えるのかもしれない。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】

約1年の充電期間を経て、本エントリから再び「大日本帝国」の成り立ちから現代に至る歴史検証の旅を再開したいと思う。例によって近現代史とは言え、あまりに壮大なスケールになると思われるのでこの再開がそのまま完結に至ることはなく(^^;)ある程度の区切りを持ってまた充電期間へ入ることをお断りしておく。

明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障

明治維新をドラマなどで見る限り、欧米列強のアジア侵略に日本の自主独立を保つ上で「国家体制としての不完全さ」に危機感を持った一部士族(薩摩・長州など)が、新政府樹立のための内乱を起こしたと言える。アジアにまで触手を伸ばしてきた帝国主義の魔の手に対する自衛でもあり当時における当然の安全保障対応であった。

帝国主義:wiki
帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。


それは日本の安全保障上の危機を実に喫緊の問題として捉え、日本史上稀に見る「大改革」を自ら生み出した奇跡の変革でもあった。北ではロシアによる外交使節の来訪、直接的には東京湾近辺にまで迫ってきたアメリカ艦隊によって日本は外国の軍事力の脅威を目の当たりにする。当時日本には太平洋を渡る船はもちろん蒸気船そのものを保有していなかったことを考えると、オランダ他の貧弱な情報から想像していた欧米列強との科学力の差をリアルに思い知らされたと言えるだろう。

1492〜2008年の植民地の変化
※1492〜2008年の植民地の変化(動画gif:5秒間隔)クリックで拡大+動画gif動作<画像元:「植民地」wiki>

現在で言うなれば、海上保安庁巡視船程度の武力しか持たない国に対し、イージス艦あるいは航空母艦を持ってきて「開国を強要」したようなものだろうか。

欧米列強にして見れば、東洋の小さな島国でしか無く、中国大陸のような巨大な領土がない分、特段に興味をもつ国でもなかったかもしれない。生糸ぐらいしか目ぼしい産物もなく、数十万人も居る武装階級が全土を支配する侵略するに面倒なだけでメリットの薄い国だったろう。せいぜい太平洋の制海権に関して重要な戦略的意図を持っていたアメリカが日本をあわよくば植民地化する意志があったかもしれないが、そのアメリカは日本を開国させたまでは良かったが、幕末動乱を迎えようとしていた時期に本国で奴隷解放の政治的争いから南北戦争(1861年 - 1865年)が勃発してしまい、日本に介入するタイミングを失ってしまう。この時日本は皇女和宮と徳川14代将軍家茂の婚姻(公武合体)が行われ、挙国一致の体制を模索していた時期。

この時期盛んに日本に接触してきたのは、ヨーロッパでの動乱(クリミア戦争)が終結し、幕末動乱期に下関戦争や薩英戦争で実際の日本と交戦したイギリスやフランスで、それぞれが薩摩側、幕府側に別れて武器取引や軍事顧問として影響力を示そうとしていた。

すでに植民地化していたインドや東南アジアでも支配権は確保しているものの、列強同士の領土の奪い合いや現地住民の蜂起・反乱など根強い抵抗は数年に一度は発生し、極東の日本に多くの軍事力を割けなかった上に、領土もさほど大きくなく農作物以外の有益な資源を持たない日本には極東での活動拠点づくり以上の魅力はなかったとも言える。

インド大反乱:wiki
インド大反乱(インドだいはんらん、Indian Rebellion)は、1857年(管理人注:日本では天保暦の安政3年12月6日 - 安政4年11月16日にあたる。翌年の安政5年から大老井伊直弼による「安政の大獄」が始まる)から1859年の間にインドで起きたのイギリスの植民地支配に対する民族的反抗運動のことである。かつては「シパーヒーの乱」、「セポイの乱」と呼ばれたが、反乱参加者の出身が広くインド社会全体に広がっていた事から最近では「インド大反乱」と呼ばれる様になってるが、いずれにせよイギリス側の呼称であって、独立したインド側からは「第一次インド独立戦争」(India's First War of Independence)と呼ばれている。

インド大反乱

つまり日本としては、欧米列強がそれぞれの支配地域で戦乱のリスクを抱えていたために、どの国も日本に積極的に侵攻する事ができなかったという歴史的な幸運があったことは否めない。

ヨーロッパが平穏で、それぞれが帝国主義を発展させて植民地を拡大していったのは、古くは14世紀の大航海時代に始まる。この影響でアメリカ大陸が発見され、日本には火縄銃が伝来する。その当時からヨーロッパはアフリカ・アジアに植民地化の侵略を開始していたが、実際にアジアが産業革命後の武力を持って蹂躙され始めたのは18世紀以降であり、地域的にヨーロッパに近く、部族社会で組織的に抵抗できる国家(国軍)を持たないアフリカ大陸よりは時間がかかっている。

1800年頃の各国植民地
※1800年の世界の植民地の地図(各本国を含む)、クリックで拡大。<画像元:「植民地主義」wiki>

1800年頃は大航海時代を制したスペイン帝国の植民地が多いが、その後産業革命で工業力を躍進させた大英帝国が世界中に進出、支配地域を塗り替えていく。スペインやイギリスから独立したアメリカが、約100年後に南北戦争をやっている間にスペイン領やポルトガル領だった南米諸国は独立を勝ち取り、かつての両宗主国は対照的に世界での影響力を失う。

1914年(第一次世界大戦前)の世界の植民地の地図
※1914年(第一次世界大戦前)の世界の植民地の地図(各本国を含む)。wikipediaの図に加筆。クリックで拡大。

歴史的にも国境線というものがいかに不安定で常に変動しているかがわかるが、第二次世界大戦後はそれ以前に比べて比較的安定してるといえるかもしれない。それでも全く不変とは行かず、東欧諸国の共産主義からの離脱とユーゴスラビアやソビエト連邦に代表されるその後の民族自立に伴う国家解体・戦乱などは記憶に新しい。

そういう帝国主義の最も激烈な時代に幸運にも日本は、ヨーロッパから一番遠い極東という地の利もあって、アジアでタイ王国と並んで独立を保持し得た数少ない国だったし、「欧米先進国並みの近代化」に挑んで成功させた唯一の国だった。それもこれも日本という共通の言語と文化を有した島国が欧米の植民地になることを回避するための抵抗・・・つまり安全保障上の絶対条件が近代化だったわけだ。

清国がアヘン戦争(1840年)などによってイギリスほか西欧列強に食いつぶされつつある時、日本は徳川幕府の天保年間で、ペリーのアメリカ艦隊がやってくるのはその13年後。そのアヘン戦争は18世紀に始まるインド侵略の結果、インド産の阿片を清国に持ち込んだのが原因であり、当初日本が鎖国体制を維持し「攘夷政策」を求めていたのも開国による貿易が、キリスト教の普及のリスクと併せ国家体制崩壊の引き金になりかねないとの恐れがあったことは否めない。

アヘン戦争
※アヘン戦争(1840−1842)イギリス海軍軍艦に吹き飛ばされる清軍のジャンク船を描いた絵<画像元:Wikipedia>

しかし、圧倒的な国力差を認識した当時の日本人は二度の小規模戦闘(下関戦争・薩英戦争)で力の差を実感し「攘夷」を捨て「侵略されないための近代化(グローバリゼーション)」をする英断を行って驚くべき短期間のうちに形にしてしまう。

清国と日本の差は何か?それは現実認識能力の差といえるかもしれない。清国はその当時の中華序列のトップに位置する国であり、当然自国が世界の中心であると思っていた。だから基本的に外国は朝貢国かそうでない蛮族の国の2種類しかなく、貿易を望む西欧列強とて「対等な関係ではない」つもりで対峙していた。
貿易相手として対等かそれ以上を望む西欧列強は既にインド他東南アジアの国を飲み込んだ後であり、いつまでも華夷秩序(かいちつじょ)における従属的な関係に甘んじるつもりはない。

清国は中華序列の最高位にいた分、本来それらと無縁な西欧列強の意図や要求を推し量ることも汲むこともしなかったために、武力による支配を受けたとも言える。インドやインドシナ(現ベトナム)がイギリスやフランスに侵略された背景には、こうした西欧列強との付き合い方を誤った面は否めない。華夷秩序の中にあったインドシナなどは、幕末の日本にも見られた「攘夷思想」によって「現実的でない感情的な反抗」によって滅ぼされたし、全域を支配する統一国家が滅んだ後の少国家群を形成していたインドは、列強同士の勢力争いに巻き込まれる形で植民地化された。

フランス領インドシナ:wiki
イギリス領インド帝国:wiki

ヒタヒタと迫ってくる西欧列強の足音に加えて、東から大海を越えてやってきたアメリカの出現に、江戸幕府の重臣たちは「ついに来る時が来た」との思いがあったことは想像に難くない。伊能忠敬らの測量による正確な日本地図作成事業(大日本沿海輿地全図)や同時に行われた日本史上最初の国勢調査(大日本地誌大系)などは迫り来る列強に少なからず備える意識はあったとしても、切迫した危機感を持たなかった幕府に対して大陸により近い外様の雄藩から反乱の狼煙が上がったのは必然だったのかも知れない。

その時最も大きな使命感として薩長連合軍が抱いていたのは、「旧態然とした幕府体制では欧米列強に対抗し得ない」だけでなく、「植民地化されて日本が滅びることを防ぐ」というものだったろう。内側から殻を破って飛び出そうとする昆虫のように、劇的な政体変革は外圧からの自己防衛本能が原動力であったと言っても過言ではあるまい。

現在においては、力を鼓舞して領有権を主張し勢力圏を拡大しようとしている中国に対し、安保条約と日米相互安全保障体制の強化、自衛権行使による戦闘行動の容認(改憲や自衛隊法の改正)に走るのはこの当時の自衛的反応と大して違わないのである。

本来、一国として他国に支配を受けない独立独歩を歩む国づくりを目指すのは、どこの国であろうが今も昔も変わらない当然の発想だ。敵に攻めさせないために敵の方法論を学び、敵の国力(軍事力)に近づける。それによってうかつに手出しができなくなり「抑止力」としての軍が機能する。もちろん戦闘になればなったで武装により一方的な損害を被ったまま敗退するリスクだけは避けられる。少なくとも相手にも相当の損害を与えることが出来るからだ。

この戦闘において、「無抵抗での服従」か、「頑強な抵抗の後の降伏」かは全く意味が違う。少なくとも支配を目論む側の視点にたてば、損害の大きい方法は忌避されるのが普通である。

江戸末期の日本が直接的な欧米列強の侵略を受けなかったのは日本の支配が武装階級であり、明治維新当時の人口3千万人の内、士族の比率が6%、兵として実働可能な人数は1.2%の最大90万人だったことも無縁ではなかろう。

上述したように既にアジアの国々を支配下に収めるために列強はそれなりの経済的投資と人的被害を被ってきた。各植民地での独立運動の鎮圧や西欧列強同志の植民地の奪い合いなど「植民地戦争」などのキーワードでググればいくらでも出てくる。日本のように「直接統治する必要性の薄い地域」であればこそ、優位な条件で貿易を行えれば経済的に支配することが可能であり、血を流すリスクを犯さずに済むわけである。

攻められる側の日本としては過剰に反応したとも言えるが、列強による直接支配は免れた。しかし経済支配という点で明治維新で西欧列強はしっかり日本に楔(くさび)を打ち込んでいた。

日本は明治維新によって近代化したしそれによって奇跡的な発展と躍進を遂げた。しかしそれには西欧列強の思惑に踊らされた面も少なくなく、明治維新そのものが実は日本の内部の不満分子を利用して西欧支配のきっかけに利用したという見方もできる。

以下、帝国の功罪シリーズの第2期は、世界的な背景から捉え直した明治維新と西欧列強の思惑、安全保障としての日本軍の成り立ちを考察してみる予定である。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
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帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
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帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
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帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
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●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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テスト【てすと】

世間様とは休日がずれてる私の秋の連休2日目(^^;)重い話題ばかりをネタにするのも最近億劫だ。そうでなくても11月は更新頻度が他の月より悪い(^^;)とりあえずエントリを上げて軽い話を増やそうということで実質手抜きネタ(爆)

「○○テスト」の類である。一時期盛んにやったこともあって此の処取り上げることがなかったが、やはりネットでは中々の人気コンテンツで新しい(?)ものも次々出てくる。検索上位に出てきたものを幾つか試してみた。


スピードテスト:igame.com
スピードテスト

回線速度ではなくクリックの反応速度である。やりながらでも下の速度比較の動物アイコンが目に入る。正解度が増えるに従って数値は上がっていくが、ハイスコアを狙ってペースを早くすると出題のタイミングもどんどん早くなるので要注意(^^;)

スピードテスト結果
ロボットチーター
あなたはベストです…更に良くなりました。あなたは鋼です。100%のスピード。何もあなたを止めることはできません。

2回めの挑戦が中々のスピードだったようだ・・・って、最後はもう「無」になってひたすらクリックの鬼になっていたが(爆)


目のテスト:igame.com
色覚テスト

目のテストと言っても視力検査ではなく色覚のテスト。異なる色のブロックをクリックすると次の問題に変わる。濃淡の違いが進むに連れて微妙になって行くので迷うこともしばしば。判定時間は15秒ずつあるので最初は余裕、難易度が増す最後の方はちょっと焦ったが・・・(^^;)

色覚テスト結果
タカ
おぉ、素晴らしい色覚です。木の上からミミズが見えるでしょう。

色覚だけでものが見えるというならそうかもしれないが、近眼に乱視が入った老眼というややこしい目なのでどこまで信用していいのやら(^^;)


性格診断テスト:16personalities.com

性格診断

色々面倒な評価が出ると予想した(^^;)テストだったが・・・。

性格診断結果
私は一日の中で変化する。朝起きた時はある人で、寝る時は確かに別人だ。〜ボブ・ディラン

ISFP型の人達は真の芸術家ですが、外で風景画を描くといった典型的な芸術家のイメージに当てはまるとは限りません。確かにこうした芸術家も多くいて、その能力は十分にありますが、むしろ、持ち前の美的感覚やデザイン力、そして自分の選択や行動さえも活かして、社会的慣習の枠を押し広げます。美の表現や行動を試みながら、従来の期待を覆すことを楽しみ、たぶん、これまでに「私を型にはめないで!」と何度も言ったことがあるでしょう。

あるがままでいられるのが幸せ

ISFP型の人達は、人々やアイデアとの繋がりに刺激を受けながら、色鮮やかで官能的な世界に住んでいて、こうした繋がりを再解釈しながら、自分自身や新しい視点を再発明したり実験したりして楽しみます。このような方法で探求したり試みたりする性格タイプは、他にありません。これにより、自発性が養われ、親しい友人や家族からさえも何をするかわからないと思われています。

こうした気質にもかかわらず、ISFP型の人達は間違いなく内向型(I)で、人前から姿を消し、一人になってリフレッシュすることもあり、さらに友人たちを驚かせます。しかし、一人になったからといって、何もしないでいるわけではありません。こうした一人の時間に、自らを振り返り、自分の本質を評価しているのです。過去や未来にこだわるよりも、自分のありのままの姿について考えます。そして、その修道院から再び人前に戻った時、その姿は変化しているのです。

ISFP型の人達は、自分の情熱を押し広げられる道を見い出すために生きていて、他の性格タイプよりも、まるでギャンブルや極限スポーツのような、より危険な行動が多く見られます。幸い、その瞬間と一体になり環境に溶け込めるため、大抵の人よりうまく立ち回れます。また、人との交流を楽しみ、ある種の抵抗できない魅力を持っています。

常に心が和むような賛辞だけを知っていて、これが、自らの危険な行動を無責任または無謀だと認める心の余裕になっています。

しかし、批判が押し通されると、無残な結末になることもあります。ISFP型の人達の中には、親切な批評の言葉を、別の視点として受け取り、新たな方向に突き進むきっかけにできる人もいますが、より痛烈で思慮に欠けたコメントに対しては、凄まじく激怒します。

ISFP型の人達は、他人の感情に敏感で、調和を重んじます。批判に直面した際には、一歩下がって、一瞬かっとなった気持ちを抑えるために十分間を置くことが、ISFP型の人達にとって課題といえるでしょう。しかし、ISFP型の人達の内面は、一瞬のうちに方向転換するので、議論で高まった感情がおさまると、大抵の場合、過去は過去と割り切り、まるで何事もなかったかのように前に進みます。

生活のあらゆる表現の中に意義がある

ISFP型の人達にとって最大の課題は、将来に向けて計画を立てることです。目標の土台となる建設的な理想を見つけて、前向きな原動力を生み出す目標を成就させるのは、容易なことではありません。番人タイプとは異なり、ISFP型の人達は、資産や退職の計画を立ることはありません。むしろ、自己の一体感を高めるための活動と行動を計画し、貯蓄ではなく、作品集となる数々の経験を積み重ねます。

これが尊い目標や原動力ならば、目を見張るほどの慈愛の心と私利私欲のない気持ちで行動します。しかし一方で、より自己中心的なアイデンティティを確立して、身勝手で巧妙かつ尊大に振舞う場合もあります。ISFP型の人達が覚えておくべきことは、なりたい自分になるために積極的に行動することです。新しい習慣を築き維持するのは、たやすいことではないかもしれませんが、毎日時間を作って自分の動機を理解することで、長所を活かしながら、気に入ったことをとことん追求できるのです。

ISFP型の有名人:

ボブ・ディラン ポール・マッカートニー マイケル・ジャクソン ケビン・コスナー ブリトニー・スピアーズ ジョン・トラボルタ エリザベス・テイラー クリストファー・リーヴ ドナルド・トランプ マリー・アントワネット ユリシーズ・S・グラント ミラード・フィルモア ウォレン・G・ハーディング

「色々面倒そうな評価」ではあったが物は言いようでポジティブに聞こえる(^^;)えー、つまり、内向型で無頓着で尊大で引きこもりでキレやすくて気まぐれな芸術家肌・・・あれ?全然ポジティブに聞こえない(爆)まぁ、計画性はあるときもあれば無いときは全く無いし(^^;)最初は親切に対応しても、無礼でしつこい奴は容赦なく切り捨てる非情さもある・・・。やっぱりネガティブな方向にしかまとまらない(爆)有名人の例も天性の才覚を思わせる人ばかりで自分に投影するにはあまりにもまぶしすぎる(^^;)
持ち上げて書いてくれてる分良くは聞こえるが、私の場合は悪い側面が色濃く出た例と言えるのだろう、はぁ・・(^^;)


前世診断:arealme.com

前世診断

だんだん怪しくなってきた(^^;)webのテストで前世がわかるなら霊能者なんていらないっつーの(爆)

前世診断結果
レオナルド・ダ・ビンチ
製没年月日:1452年4月23日〜1519年5月2日
幼い頃、自分がどのくらい芸術の才能があったか、憶えていますか。芸術だけではありません。飽くなき探究心と深い洞察力を持ったあなたの前世は、驚くなかれ、天才画家レオナルド・ダ・ビンチでした!不朽の名作《モナリザの微笑》や《最後の晩餐》に始まり、彫刻や音楽の作品も数多いダビンチは、数学や物理、天文学や地質学、生理学から建築学まで造形の深い、まさに万能の天才でした。才能を発揮する日があなたにも近づいています。自分が前世で誰であったのか、お忘れなく。

あのなー(爆)喜ばせようとするサービス精神はわかるが、例えるにしても大げさすぎる(^^;)まぁ、こんな天才に似た性質というだけで悪い気はしないがね(^^;)


2015年IQテスト:arealme.com

もう脳力も衰えてるし期待せずにやってみると・・・。

IQ診断

あれ?以外に高い。数字の問題は面倒になって後の方は「わからない」にしてパスしてたのに(爆)・・・コメント欄では200超えが多数でものすごくハイスコアになる設定だったようだ。」やはりなぁ、私がそんなに頭いいはず無いし(爆)


EQ測定:arealme.com

ああ、対人面ではどんどん「人間嫌い」になっている自覚があるのでこれも期待できない(^^;)

EQ測定

おお、ようやく納得できる評価が(爆)


精神年齢測定:arealme.com

歳の割に苦労はしてないのでこれも期待できないか?(^^;)

精神年齢

若返ってるというか、成長してないというか(爆)なんだかすべての答えに通じる「未熟者」の原点がここにあるような気がしてきた(^^;)

人間というものは進歩するだけではなく、後退することもあるのだなぁ・・・としみじみ感じた私であった(爆)

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程度の問題【ていどのもんだい】

シリア情勢はいよいよ混沌としてきた。フランスに加えロシアも空爆を始めたが、ロシアに関してはアサド政権に敵対している勢力のうち、IS(イスラム国家)を攻撃しているのか、反政府勢力を攻撃しているのかはっきりしていない。世界情勢に影響が大である超大国がにらみ合いの「三すくみ」状態に陥り、決定的な解決が図れない最悪の状況である。

かつてはユーゴ内戦〜ボスニア内戦とイタリア半島の真横で血で血を洗う民族紛争が巻き起こった時も国連を始め世界は無力であった。それぞれに主張はあるのだろうが、ISなどはイラクのフセイン政権の残党(バース党員)による非人道的軍事独裁政権であることは確実で、アサド大統領も反政府勢力もIS殲滅に協力しあえない手詰まり感がどうしようもなく「精神的疲労」となってヨーロッパから世界に蔓延しだしている。

この問題の私なりの分析はもう少し情報が蓄積し、自分なりの考えがまとまってからにしようと思うが、どういう結論に至るのか、そもそも結論なんて出せるのか不明なのでエントリとして上げる時が来るのか全くわからない。

安倍首相も国際会議では「難民支援に大盤振る舞い」の大見得を切ってみせるも「難民受け入れ」には消極的で、結局どの国も「ババは引きたくない」のが見え見えである。それでもドイツのように出来るだけ受け入れて難民の多くが移動先にドイツを選択するような国もあれば、フランスのように海外移民に差別的で「難民から嫌われる」(^^;)国もあり、当事者に一番近いヨーロッパでもその対応には温度差がある。

日本では安保法制騒動も一段落し、ようやくそれ以外の諸問題に目が向き始めているが、安保法制反対デモで名を売った「SEALDs」は反原発に矛先を向けるとかでいよいよ左翼臭が強くなってきた。そんな「志位るず」(共産党の志位委員長にもじって言い換えた皮肉)の奥田愛基クンがまたぞろエキサイトしていた。

オークダーキ
奥田愛基 aka オークダーキ@twitter


何とも刺激的なコピーとともに、シリア難民が侮辱されているかのような内容に最初は驚いた私だが、何度も見返すうちに「難民に対する侮辱」と言うよりも「別の意図」があるように感じてきた。

難民の少女
<画像元:viresattached.com>

元の画像も探しだされてイラストが「写真をトレース」した完全オリジナルでないものであることも暴露されている。はたして作者は「難民を攻撃する意図で描いたのか?」興味が湧いたので更に調べてみた。

はすみとしこ1

問題のイラスト(?)の作者はすみとしこFacebookのサイトには挑発的なコピーも踊るものの、「はすみとしこの世界」の写真のコーナーを見ると安保法制賛成派で嫌韓・反中、改憲論者と、私とほぼおなじ思想性を持つイラストレーター?のようだ。


 キャプション 

 キャプション 
※2点とも画像クリックで拡大

下のやつなどはちゃんと冷静さを失わないような抑制も利いている考えが出ていたりするので、タダの煽動者でもなさそうだ。

全体を見通してやや表現が過激な部分はあるが、現実からかけ離れた護憲論者や歴史認識の欠落した平和ボケ日本人への警鐘や憤怒。あるいは反日の朝鮮人や中国人(在日含む)への反感で「ヘイト気味」にも取れるイラスト、右翼系等の日本賛美モノもあり、私のような「左翼様の大正義をおちょくるのが好き」(爆)と同類の臭いがしてしようがない(^^;)

しかし、難民の少女をモチーフに、日本に寄生するように特権を貪る「在日(朝鮮人)ヘイト」に取れる皮肉を表現したというのならそれは面白がる類ではもはやない。誤解されるような表現を用いた表現者の責任において「非難されても仕方がない」と思うのである。
一言で言えば「やりすぎ」なのだ。

とは言え、リテラシー能力の無さか、あるいは表現者の「過剰な飛躍」で「非人道的」と言う攻撃ポイントを得て俄然やる気を出した「批判者」もあるいは「はすみとしこ」同様の「あえて(皮肉を)判らないフリで表面的な表現を責める」確信犯である疑いもある。

「どうせネトウヨだしバッシングして何の問題もあるものか」「炎上商法の手口を使った売名行為だろ」と極めてお気楽に非難轟々の嵐を浴びせている(^^;)

私も「はすみとしこ」のこの作品は狙いを外れてるような気もするし、炎上商法を狙ったのなら「売名行為」としては成功しているかもしれないが、正直支持はできない。SEALDsの若者や安保法制反対派、護憲派や日本に寄生する「不良在日」は苦々しい存在ではあるが、皮肉なら許されてもヘイトでは賛同する気はないのである。

自分だけ良い子になる気はないので(^^;)私なりの回答を提示しておく。
これが正解だと言うつもりもなくこれが芸術的に優れてるとは絶対言えないが、私の中で許容できる(権力者側でない人間に対する)「皮肉」はこのレベルまでなのだ。

オークダーキ
※画像クリックで拡大

申し訳ないがモデルは件の若者にさせてもらった。権力者でもない若者をおちょくるのは本意ではないが、未熟さの代表として最近では一番際立った存在だし、これもまぁ有名税ということで(爆)

若者の絵はネットで拾った画像をトレースしただけのものだし、国会議事堂の画像も適当に拾ったものだ。彼と彼と同じ考えの人間に対する皮肉を語るコピーとしても使えるのは拾いものだ(^^;)

他にもこの表現フォーマットは結構応用が利きそうだし(^^;)これは評価したいと思うのである(爆)

JUGEMテーマ:日常。
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帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】

日本軍の慰安所と慰安婦

世界がそうであったように日本にも歴史的に「体を売る」職業が存在していた。日本が近代化した時も、性の近代化は、世界的な「奴隷解放運動の一環〜廃娼運動」としてその精神は輸入したものの、実態はそれ以前の状況からは中々変化しなかったと見るのが妥当だろう。それでも規制や法令が整備され、犯罪性の強い「強制」は排除される流れになっている。

ここでの問題点は唯一つ。人身売買あるいは売春の廃絶といった問題解決がその主目的ではなく、「近代国家としての世界共通の倫理観を持つアピール」「世界へ向けて体面・体裁を取り繕う事」が最重要であって、実質的な倫理観の啓蒙や不遇な女性たちへの支援などが殆どなかったことである。

日本の慰安婦〜明治時代:wiki
朝鮮での遊郭業と日清戦争
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。
(中略)
娼妓取締規則と婦女売買国際条約
1900年には娼妓取締規則が制定され、娼妓の年齢を18歳以上とし(従来は15〜16歳),住居や外出に制限を加えた。翌年の1901年に軍医の菊池蘇太郎は「軍隊ニオケル花柳病予防法」を発表し、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している。
廃娼運動は国際条約に結実し、1904年5月に欧州12カ国で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が、ついで1910年5月に13カ国間で「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締約された。国際連盟では規約23条でこれら取決めの一般監視を行うとしたため、1921年9月の第二回国際連盟総会において婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約として再締約された(23カ国)。
(中略)
日露戦争と妓生制の崩壊
1905年の日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。(中略)日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、朝鮮の伝統的な売春業である妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。
日本統治下の朝鮮
1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。

法整備という形で極端な人身売買の非道を防いだとは言うものの、借財によって身柄を拘束し売春を強制する形は旧来の風習から変わっていなかったし、「人権」という概念が希薄な時代においては「賃金さえ支払えば奴隷ではない」と言った詭弁に近い理屈が通用していた事実は否定出来ない。

日本軍慰安所のモデルは中国人経営売春宿:反日勢力無力化ブログ
韓国が捏造した「日本軍の慰安所」は、朝鮮人女性が強制連行され、あるいはダマされて連行され、強制連行の途中で日本兵に強姦され、慰安所に監禁されて逃亡を謀れば拷問され、というのがハズせないポイントになっていますが、実際にそういうひどい目にあったのは、誘拐されて中国人経営売春宿に売り飛ばされた日本人女性たちでした。
明治時代、満洲の中国人売春宿に売られて行った日本人女性が逃亡を謀ったのち、連れ戻されて裸にされ、陰部に薪(まき)を差し込まれ、尻には切り落とした牛の尾を突き刺されて人目にさらされるというむごい殺され方をしました。
元従軍慰安婦らも、本当は中国人経営売春宿に売られ、中国人にされたことを「日本軍がやった」と証言しているのではないでしょうか?
(中略)

【中国では売春宿を「書庽(館)(しょかん)」という】
中国では売春を「密犬売」といった。アジアの売春宿が全部、日本軍の慰安所だったわけではない。
桃源書館
写真出典:1932(昭和7)年 岡村書店 鹿山鶯村著 「明け行く満蒙の透視」 381ページ 桃源書館 
<画像元:近代デジタルライブラリー>
(中略)

明治時代、村岡伊平治という人物がいました。村岡氏はアジアを放浪しながら日本人の前科者を更生させたり、中国人に誘拐された日本人女性を救出したりといったことをしていました。

1887(明治20)年、村岡氏は陸軍士官のお供として、満洲に商業視察に出掛けます。満洲には売られて行った日本人女性があちこちにいて、村岡氏はその女性たちの境遇を記録に残しています。


1960(昭和35)年 南方社 河合 譲著 「村岡伊平治自伝」 第一編 南支時代 第五章 上海 三 満洲視察

北票 ここにも日本人の女が七、八人おる。産物は阿片(アヘン)と大豆、商店もかなりある。上原閣下は専門のほうに熱中され、拙者は商業に熱中で、暇さいあれば外出。
市場で一人の女に出会う。その女は「ここに五年おりますが、日本へ手紙を出すことができず、お金を送ることもできず、連れだしてください。前の旦那が死んだのでお金は私のものになりましたが、帰ろうと思っても帰えられず、とうとうまた旦那を持ちました。それがお役人様だと思っていると、土匪(管理人注:山賊のようなもの)の頭ですからいやで、いやで、いやで」と話しておった。

周家屯 日本の女十人以上、いずれも旦那は七割以上が土匪、長いのは七年もおるが、たいがい一、二年であるという。

義州 この地にも女四、五人おる。一人の女がホテルへまいり、一人につき五百円ずつあげますから、わたしたちを連れだしてくださいと頼まれた。
この辺におる者は武士のお子さんが多いようです。旦那は役人ですが、手下はみな土匪だそうである。いちばん可哀そうなのは、子供を連れてきて二万円とか五万円とかをゆすり取ることで、その金を分けるのがいやでたまりませんと話しておった。

溝帮子 この地も大原野を控え、すべてがよろしい。当地には日本人女十一人おる。先日一人の女がむごい目におうたことをはなした。それは長崎の女で、逃げたのを連れ帰って裸にし、陰部に薪を差しこみ、尻には生々しい牛の尻尾(しっぽ)を突き差し、町の四つ角に数日さらして残酷な殺しかたをしたということである。
どの女も千や二千の金を持っておるから、金はいくらでもさしあげますから、どうか連れ出してくださいと泣きつかれた。
(中略)
黒山 当地にも女は七、八人おる由を聞く。いずれにおる奴も連れ出してやりたい思い、それが頭に残り不憫がると、上原閣下はお笑いになり、「君はよっぽど人に不憫をかける性だなあ」といわれた。

彰武 ここにも商店は相当にあり、広い原野を控え、実に愉快なところだ。ここにも女四、五人おり、いずれも監禁されておる。
(中略)
郭家店 日本人の女四人のうち一人がわれわれのところにまいり、日本へ帰れる方法を教えてくれと、泣いていった。六年前に支那人に連れられて八百円で売られ、子供一人おる。昨年その主人が死亡いたしたので、帰ろうとしても、どちらを指していけばよいのかわかりません。もっとも乗物なしで、ドンキ馬か、チョウツウよりほかにはないですといった。

翌明治21年、村岡氏は今度は厦門(アモイ)で、中国人に誘拐された日本人女性500人を救出しました。中国人は美形を好むので、日本人の手下を使って官吏、豪農、士族、商家の娘ばかりを誘拐させたり、「外国で働けば高い給料がもらえる」とだまして、中国に連れて来ていたのです。少女たちの年齢は14歳から19歳でした。

村岡伊平次はwikiでは売り飛ばす側の女衒と紹介されているので(^^;)上記の記述がどこまで真実を語ったものなのかは不明である。アジアを渡り歩き、いろんな事業を行って大陸を行き来し活躍したようなので、あるいは女衒になる以前の話かもしれない。ただ、女衒であるならば救出という名目で日本人の女を買い取って他へ転売した可能性もある。そして自伝にある「売り飛ばされた女性の悲惨な状況」は、商売上の経験を積む上で目にした、耳にした実話である可能性は高いと思われる。

日本の慰安婦〜第一次世界大戦:wiki
第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけての朝鮮京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった。

日本による朝鮮統治が進み、人口増加や産業振興が活発化すると経済活動も盛んになる。それと連動して娯楽や風俗産業が活性化するのは世の常でもある。そうした世情に人材補給が追いつかなくなってきたのか、花柳界(売春業界)で犯罪的な手口で売春婦を集める事例が増えてきたことをwikiの記述は伝えている。

突撃一番
<画像元:統一教会の裏真実>※陸軍で配布・使用されていたコンドーム

日本の慰安婦〜満州事変前後:wiki
上海慰安所
1932年には上海事件が起こり、満州国が建国宣言を行う。同じ1932年に長崎県の女性を「カフエーで働くいい仕事」と騙して中国上海の日本軍慰安所に連れて行った日本人斡旋業者が、婦女誘拐海外移送罪(刑226条)に問われ逮捕され、のちの1937年大審院判決(及び下級審・控訴院判決)で有罪とされた。

朝鮮における人身売買・誘拐事件
1930年代の朝鮮では10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝を行ったり、また路上で誘拐して売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1939年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買および少女誘拐事件については警察の発表などを受けて朝鮮の新聞東亜日報や毎日新報(毎日申報。現・ソウル新聞)、また時代日報、中外日報で報道されている。
(中略)

朝鮮総督府統計年報によると、略取・誘拐での検挙数は1935年は朝鮮人2,482人・日本人24人、1938年は朝鮮人1,699人・日本人10人、1940年は朝鮮人1,464人・日本人16人となっている。

この辺りに後に強制連行と言われる売春婦集めの実態が垣間見えるようだ。この種の犯罪に手を染めたのは圧倒的に朝鮮人が多く、日本人も皆無ではないものの実数では桁違いである。ただ、この日本人が「朝鮮人を使って略取・誘拐させた教唆犯」である可能性は否定出来ないのだが・・・。

日本の慰安婦〜支那事変(日中戦争):wiki
南京事件と日本軍慰安所
1937年12月の南京攻略戦の後、南京市を占拠した日本軍による南京事件が発生した。
事件当時、南京市内の安全区(難民区)の設置に関わり、被害にあうことを怖れて安全区内にあった金陵女子文理学院にやってきた女性難民の保護にあたったミニー・ヴォートリンの日記には、強姦事件の被害者からの聞き取り内容や、強姦目的で金陵女子文理学院のキャンパスに侵入した日本軍の兵士とのやりとり(追い払った、女性難民が拉致された、構内で強姦に及んだ兵士を制止した、など)が記録されている。
(中略)
陸軍が視察を依頼した精神科医早尾乕雄の論文である『戦場心理の研究』によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「皇軍に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長がいたと報告している。こうした強姦の多発により、慰安所の設置を急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長の日記』『上村利通上海派遣軍参謀副長の日記』『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる。また小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる。
日本軍慰安所設置は主に強姦対策のためになされたが、強姦は跡を絶たなかったともいわれる。

売春斡旋業者の取り締まり:1937-1938
日中戦争がはじまった1937年(昭和12年)から1938年にかけて売春斡旋業者の取り締まりに関する通達等が多数出された。1937年(昭和12年)8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」では「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」とある。
(※詳細は元リンクを参照)

日本の陸軍省による注意命令(軍慰安所従業婦等募集に関する件)
朝鮮で頻発する人身売買・誘拐事件に対し、陸軍省 兵務局 兵務課は1938年(昭和13年)3月4日に軍慰安所従業婦等募集に関する件』(陸支密第745号)を発令した。この通達では女性を「不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの」「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる」などに注意をせよと命じた。
2月23日の内務省発警第5号支那渡航婦女の取扱に関する件に応じて作成されたこの通牒が北支那方面軍及中支那派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠であると吉見義明が主張した。

(※元リンクにはその他誘拐・人身売買等の事件およびそれらに関する規制・政令発布の記述多数あり)

支那事変の経験より観たる軍紀振作対策
1940年9月19日、『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布。その内容は、以下に引用するように、軍慰安所は軍人の志気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために必要であると説いている。

慰安所
<画像元:国民が知らない反日の実態>

慰安婦を軍が必要としていたことは間違いがなく、彼らは頻発する兵士たちの性犯罪を何とか制御しようとしたことが伺える。兵士たちの暴走は朝鮮人や中国人など日本が支配した地域・民族への差別意識と無縁ではないだろうし、それらを統率する軍や政府の側にも少なからず「日本人以下の劣等民族」の感覚は持たれていたことは想像に難くない。

上述したように形式的に「賃金を支払う」ことで「奴隷的人権侵害を労働に偽装する手口」は多くの場合使われたと思われる。欧米における「奴隷制」と比較した場合、東洋における「奴隷的人権侵害」は、そうした理屈の上での抜け道を使った搾取の一形態として存在した。

ただ、それを現代の価値観・倫理観で断罪するのであれば、公的機関に依らない私娼を主に使った欧米型の性政策や、強姦などの性犯罪を容認していた事実も見逃すべきではないだろう。また、現代でも残っている過重労働の強制(いわゆる「ブラック企業」による強制的労働)なども人権侵害として非難されるべきである。

この辺りは当ブログでも以前エントリ「slave【すれいぶ】」で取り上げている。ブラック企業に関しては、ここ数年日本国内での非難が高まり一部の企業を業務改善に追い込んだ効果は上げるものの、日本的な職業観「滅私奉公」「勤勉の美徳」を利用した過重労働を強いる体質は相変わらず現存している。そういう意識が近代国家となった明治期以降も「報国」の概念と結びついて、現在よりも強く従事者にのしかかっていたことは間違いないと思えるのである。

日本の慰安婦〜大東亜戦争(太平洋戦争):wiki
朝鮮における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言
当時の日本で使用された「挺身隊」と「慰安婦」のことばはそれぞれ、まったく異なるものである。「挺身隊」は主に工場などでの勤労労働に従事する女性を指し、「慰安婦」は戦地内地等での公娼・売春婦を意味していた。しかし、戦中当時にも朝鮮社会ではすでに両者が混同されてパニックに陥っていた家族もあった。

米軍報告における慰安婦(ビルマのミッチーナーの慰安所)
1944年9月にインドのレドで作成された日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では、ビルマの戦いのミッチーナー陥落後の掃討作戦において捕獲された慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対する尋問内容が記録されている。この報告では「慰安婦」とは日本軍に特有の用語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower) と述べられ、1942年に日本の斡旋業者が東南アジアで「慰安奉仕」をする女性を募集した際には業務サービスの内容の正確な説明がなされないままに勧誘されたこと、署名による契約で前借金数百円が与えられたこと、応募した女性には娼婦もいたことや、ミッチーナでの生活環境は買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだこと。接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったこと。避妊用具が支給され、軍医による週1回検診などで彼女らの健康状態は良く、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安所経営者は借金額に応じて彼女らの総収入の50〜60%を受け取っていたこと。彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していたこと(当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円)。彼女達は十分なお金を持ち、衣服、化粧品、タバコといった嗜好品を購入できたこと。一方で、経営者は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を厳しいものにしたといったこと。日本軍が借金を返済した慰安婦は帰国することができるようにせよとの命令書を発行したために一部の慰安婦は帰国することができたことなどが記録されている。

ビルマのミッチーナーの慰安所の待遇は、これまでの奴隷的待遇の記述から見て少なくとも「天国のよう」に見える(^^;)一部不当な搾取もあるものの、この時代にしてはかなり良心的?(^^;)な慰安所だったのかもしれない。

慰安婦の真実
戦争中の出来事について私達は何を知っているのだろうか?
実際には何も知らないで、それは強制であったとか、強制でなかったとか、 商売であったとか、無かったとか言っているだけである。しかし、満州事変の暴走以来、軍の要求は何でも通ると相場は決まっていたのである。ゆえに多くの人達に とって、徴兵は強制的であったし、鉄が必要だと各家庭にフライパンなどを出させたり、朝鮮の農家には、割り当てとしてコメを出させたりしたが、これは全て強制であった。
この時代の軍の要求は、ほとんど全て強制だったのに、慰安婦だけが強制で無いなどと言う事があるだろうか?

Fight for Justice 日本軍「慰安婦」−忘却への抵抗・未来への責任
国際社会では、被害者の証言と歴史研究の成果をふまえ、「慰安婦 “comfort women”」と呼ばれた女性に対して、日本軍による慰安所で性行為の強制があったこと、即ち「慰安婦」制度とは「性奴隷制度 “sexual slavery”」であったこと、略取や誘拐、人身売買などによる強制連行があったことは明確になっています。

上記2つのサイトは、慰安婦問題に関してそれぞれ日本軍及び現在の日本政府の対応を批判するサイトである。目的がその時代の現実を直視し、日本の責任の明確化とそれら戦争犯罪への贖罪を意図していることは明白である。その部分に関して、私は反対はしないのだが、そこだけに着目して結果的に日本を貶めることにしか執心していないように見える点は極めて不満であり、不適切であると考えている。

今や軍による非人道的行為の象徴として一部の勢力に唱え続けられる「日本軍慰安婦制度」だが、前回までの検証で、その時代背景やそれに至る人類の歴史的事実に照らした場合、確かに酷い話ではあるのだが、戦争と言う国家の命令による殺人行為以上に糾弾されるべき事象ではないように思えて仕方がない。

強いて言うなら、前回の検証でも記述した連合軍兵士による戦地での性犯罪と比べても、そちらの犯罪性や人道上問題のある事象に対し、管理する側の姿勢として政策的に放置した責任がクローズアップされずに日本軍慰安婦だけが問題視されるのは、どう見てもフェアではない。

慰安婦
<画像元:ガールズちゃんねる>※画像は朝鮮戦争時のものと思われる。

一方で慰安所の実態に関しては貴重な証言がネットでも拾える。昨年亡くなった元陸軍少尉:小野田寛郎氏の寄稿文だ。(元記事は正論2005年1月号掲載のもの)

小野田寛郎小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」:悪の教典 永遠の謎 第四章
 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

<画像元:僕らの国、日本>

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。
(中略)
 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。
(中略)
 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
(中略)
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。


※是非リンク先の元記事を全文参照いただきたい。

結局のところ、どんな業種でも同一業種の職場環境が完全に一致することは珍しく、その場所ごとに明確な差が生じていたということなのかもしれない。待遇面や訪れる客層などでも従業員の職務内容と負担は変わってくる。慰安婦という職業上、その差が極端に現れたとも考えられるし、個々の慰安所の経営者の人格的な部分が大きく影響していたことも考えられるのである。


慰安婦問題に関して業務委託した軍や政府関係者の道義的責任は免れないが、慰安婦を集める際の強制的手段のすべてにおいて責任を追わせるのは適切で無い以上に反日煽動の類の悪意を感じる。

なぜなら慰安婦が日本軍に存在した事情の背景には、世界中にリアルに存在した売春婦たちの現実が切り離せない事は明らかで、軍の慰安所にかぎらず売春宿の人身売買の現実は、その強制的労働環境や搾取の酷さにおいて日本軍慰安所以上の苛酷さは珍しくはなかったからである。

日本軍の慰安所に不利と思われるのは、それらの私娼による売春と違い、より効率的に管理し(狡猾あるいは悪辣にと表現することも一部では可能かもしれないが)彼女たちを支配していたと言う一面が「政府・官権力」による強制性を強調している点だろう。

ただ、この問題をより複雑にしているのは、被害を訴えている元慰安婦のそのほとんどが韓国・朝鮮人であり、彼女たちの証言の信頼性・立証性が非常に低い事である。以下はその一部の検証である。

金 学順
金学順:wiki
金 学順(キム・ハクスン、김학순、1924年 - 1997年12月16日)は韓国人の元慰安婦。1991年に自ら元慰安婦として名乗り出て多くの証言を行った。各々の証言の真贋については議論のあるところだが、彼女が慰安婦であったことは確かとされている 。
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の原告の1人。判決を得る前に金学順本人は死亡、その後最高裁で原告の請求を退ける判決を受け、敗訴が確定する。

<画像元:いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から検証するサイト>

慰安婦問題の原点でもある彼女が求めていたものは、個人の(経済的・精神的)救済だったのだろうが、結果的には今の韓国が求めているものと同じような気がしてならない。完全なる日本の屈服とそれに伴う金の無心だ。そういう意味では彼女もまた反日勢力に利用された「二次被害者」と言えるのかもしれない。

被害者証言の検証:阿修羅
一番、最初に名乗り出た慰安婦被害者

金学順(キムハンスク)※原文まま「キム・ハクスン」の誤記と思われる。
1923年 中国東北(満州)の吉林省に生まれ
1991年8月14日、慰安婦被害者として初めて名乗り出る。
1991年12月16日、日本政府に対して謝罪と賠償を求めて提訴。
1997年12月16日死去

1)1991年8月14日の記者会見での最初の証言
 「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」
引用元)「ハンギョレ新聞」91年8月15日付

2)1991年12月16日、東京地裁に提出された訴状内容
 1923年、中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が死亡したので平壌へ戻った。母は家政婦などをしていたが、貧困のため学順は小学校を四年で中退、金泰元の養女となり、14歳から三年間キーセン(妓生)学校に通った。注釈)キーセン=芸者・公娼の意味

1939年、「金儲けができる」と説得され、一歳上のエミ子とともに養父に連れられ中国へ渡った。

 北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙元チャン)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。
 フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、2人の子どもを得て終戦の翌年、韓国へ帰った。
 朝鮮戦争中に夫は事故死、子も病死し、韓国中を転々としながら酒、タバコものむような生活を送った。
 身寄りのない現在は政府から生活保護を受けている。
 人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は悪かったと認め、謝罪すべきである。

3)いつの間にか、「親に売られた」が「日本軍に連行された」に変更
 金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言。「その日から将校の相手をさせられ、抵抗するとけられた。日に何十人もの兵隊が来て、そこにいると死ぬしかないと思った」と語った。半年ほど後に逃走し、日本の敗戦後に韓国に帰国した。
引用元)共同通信(夕刊) 1997年12月16日付
*もともと彼女は、キーセン出身であり、「親に売り飛ばされ、軍隊相手の売春をさせられていた」と語っていた。彼女の訴えは、「強制連行」に対するものではなく、「人生の不幸」に対する補償だった。

もう一人の被害者・文玉珠。実は、三年足らずで、莫大な蓄財を築いていた。
毎日新聞 1992 年5 月22 日の記事

第二次世界大戦中『従軍慰安婦』として強制連行されたミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事貯金の支払いを求めていた韓国・大邸市在住の文(ムン) 玉珠(オクス)さん(68 歳)が11 日、山口県下関市の下関郵便局を訪れ、預けた貯金の原簿があったことが分かった。(中略)文さんは『個人の請求権は消滅していない。
当時「日本人として貯金した個人のお金だから直ちに返して」と訴えている。(中略)
原簿によると43 年6 月から45 年9 月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円となっている。
(中略)
*強制連行され、強制売春させられたといいながら、わずか二年三ヶ月間で、陸軍大将の年俸の四倍近い額を稼いでいた。彼女が稼いだ額は、現在の韓国の貨幣価値に変換すると約10億WON。日本円では一億円相当に当たる。
(中略)
黄錦周(ファンクムジュ)
2)1995年7月24~27日(夕刊)に、朝日新聞に四回に渡って掲載された証言の矛盾点と嘘
1922年生まれと証言。しかし、彼女は過去に1927年生まれと称していた。
17歳(1938~39年)の時に、“国民徴用令”で軍事工場に動員され、慰安婦にさせられたと証言。しかし、朝鮮で、国民徴用令がしかれたのは 1944年であり、ありえない。
C羚颪竜販咾之海琉岼舵悗砲気譴燭半攜澄しかし、吉林は戦場ではなく、公娼制度が導入された歓楽街。わざわざ軍が慰安婦を設ける必要はない。
ぅリスマスの日は、一番客が多かったと証言。しかし、日本軍にクリスマスを祝う習慣はない。
参考)「戦争論2」 小林よしのり著書 幻冬舎出版 2001 第12章
*証言の度に、内容はおろか、年齢や生まれた年まで変わっている。

金順徳(キムスンドク)
1)2003年4月4日、高槻市立総合市民交流センターでの証言
 「日帝時代、『準看護婦』として韓国から連れられた」

2)朝日新聞 asahi.com 2003年6月12日付
 金順徳(キムスンドク)さんは1937年、17歳のとき、「日本の工場で働く娘を募集している」という言葉にだまされ、中国・上海の慰安所に連れていかれた
*これも証言が矛盾。ちなみに、内地(日本)の企業が朝鮮での求人活動が許可されたのは、国家総動員法が成立した1938年からである。


李 容洙2015年時点で生存している元慰安婦で、最も韓国人元慰安婦共通の特徴的な証言を行っているのが李容洙である。

李容洙:wiki
李 容洙(イ・ヨンス、이용수,1928年12月 - )は、韓国の大邱(テグ)生まれの韓国人女性。1944年に日本軍に慰安婦として強制連行され、1947年まで台湾の慰安所で日本軍から強姦・暴行・拷問を受けたと主張している。1992年から岡崎トミ子参議院議員らの支援を受けて、日本国の総理大臣と天皇に対して、誠意ある謝罪と賠償を求める政治運動を行っている。アメリカ合衆国下院121号決議の審議では法案反対派の米国議員たちの前で泣き叫ぶパフォーマンスを見せて圧倒し、法案成立の一助となった。現在は韓国京畿道広州市にあるナヌムの家に拠を構え、韓国や日本の市民団体などの招聘に応じて政治運動のパフォーマンスを行っている。

下はウィキ内記載の証言内容を当時の年齢ごとにまとめたもの。

李-容洙(イ・ヨンス)の証言の変化
※クリックで拡大
李容洙〜証言の内容について:wiki
●1993年、ソウル大学教授の安秉直ら「挺身隊研究会」が慰安婦と名乗り出た女性らに聞き取り調査を行った。安は慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいた事を記し、調査の対象となった40人のうち、19人についてはそうした事はなく証言の信頼性が高いことを以下のように書いている。
「調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した。」
<証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993年>

後日(2006年)に安は、「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない」と述べ、日本のケースでの「自発性」を強調し、現在の韓国における私娼窟における慰安婦をなくすための研究を行うべきであり、共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難している。<(朝鮮語)“教科書フォーラムの安秉直、「慰安婦は自発的」妄言で波紋 ”. デイリー・サプライズ (2006年12月6日). 2008年12月9日閲覧。>
(中略)
●秦郁彦は雑誌記事
[幻の「従軍慰安婦」を捏造した河野談話はこう直せ! 秦郁彦 諸君 [2007.5]]で李容洙の1992年挺身隊対策協議会への証言および2007年アメリカ下院公聴会での証言から、慰安婦になった経緯は民間業者の甘言、朝鮮人による騙しによるものであり官憲による強制連行ではないとし、家出が正しいとしている。また、週刊新潮の取材に対して、「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出た”と語り、米国の公聴会でも同じことを喋っているのですが、これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、家出と強制連行と、2つの話があるわけです」「連行された時の年齢が、14、15、16歳と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間(1944年-1947年)も強いられた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。」と、その証言に疑問を示している。<週刊新潮(2007年)4月5日号P.62>

どう見ても「必要以上に盛った話」である印象は拭えない。日本を敵視し、貶める連中の意向に沿った証言をしようとするから、記憶の内容が常に変化する。時期的なものや大筋の流れが多少揺らいだとしても「不変」であれば、実際の記憶に基づいた話として信用する気にもなろうというものだが、あまりにも振れ幅が大きすぎる。
ソウル大学教授の安秉直の2006年のコメントが如実にそれを物語る。冷静かつ問題解決の核心をついている・・・はずなのだが、糾弾する側は中々直近である現代の問題・課題に目を向けようとはせず、解決がほぼ不可能な過去の問題をことさらに責め立てるばかりである。

日本と慰安婦 — 売春婦はどこにでも:Michael Yon JP
この件について,いろいろな国で調べれば調べるほど(すぐにフィリピンに戻るが),このウサギの巣穴はどこまでも深く続いている.日本はアジアで数十万人をセックス奴隷にするために誘拐したと,韓国と中国は言っている — 20万人から40万人だ — しかし実際のところ,当時,日本軍や米国海軍が海を越えてやってくる前から,そこではどこを見ても巨大な売春婦産業が存在した.

カリフォルニア,グレンデールの慰安婦像に,そこには二度訪れたことがあるが,フィリピンとタイの国名がプレートに記載されている.さも日本に対して苦言を呈しているかのように.私はタイに住んでいる.ここで日本の慰安婦の件について調べているのだ.慰安婦についての文句を言う者などタイにはいない.

今月,フィリピンへの調査から戻った.今後,調査を続けるためにまたフィリピンに戻る.他の国にも調査に行く.

フィリピンは数百年に渡って売春婦で有名である.スペインなどは活気に満ちた売春婦ビジネスをフィリピンで展開していた.米国はそれをもっとでかくしたが,第二次大戦中は日本軍が数年間にわたって支配し売春婦を使役した.それからマッカーサーが戻ってきて米軍がもっとでかくした.そして多くの米国人が残ったが,あいかわらずフィリピンは売春宿で有名だ.

冗談はよしてくれ.日本は韓国人やフィリピン人をセックス奴隷にするために誘拐する必要なんて無かった.彼らは売春婦が入ってこないように基地をガードしなければいけなかったろう.アメリカの入国管理局は,2015年,韓国の売春婦が米国内で巨大な売春婦ビジネスを展開しないように目を光らせることで手一杯だった.

この学術論文は多くの説明と引用文献を含んでいる.
「植民地時代のマニラにおける売春婦」
http://philippinestudies.net/ojs/index.php/ps/article/download/974/961

「フィリピンにおけるアメリカの植民地支配は,その国の売春婦問題を一層悪化させた.1899年,フィリピンとアメリカの戦争がおこった.双方の戦闘部隊の焦土作戦ポリシーにより,多くの財産が失われ多くの人々の生活が極貧へと追いやられた.米国支配の初期の頃,タフトは,フィリピン人から得たこの状況の情報を報告した.」
つづけて
「アメリカン人によるフィリピンの占領に続いてやってきたのは日本人だ.道路,橋,軍事施設などを建設するために安い労働力が必要だった.
しかしマニラのおける日本人社会の占領で,最も繁栄したビジネスは売春宿の事業だ.日本人が経営していた35の売春宿のうち,32軒がマニラのサンパロックにあった.」

「米軍兵士のための売春婦の役割は「軍事上の必需品」であるとタフトは認識していた.」
終わりに,
「アメリが軍兵士の間に性病が蔓延するのを防ぐため,アメリカ軍当局は憲兵司令所を通じて,1901年,赤線区域を定めた.[脚注]」
===

ここにだれか清廉潔白な者はいるか?

戦後アメリカは、日本が周辺国と結託して反米に傾かないよう、周辺国との領土境界を曖昧にして将来の紛争の種を仕込んだと言われている。そう考えれば、あえて反日的な政権を承認し(韓国:李承晩政権)北朝鮮や中国共産党の躍進に目をつぶり、ソ連の北方領土への侵入も不介入としたのも頷ける話であるが、中東におけるイギリス・フランスもその地を植民地支配していたにも関わらず、現在に至るまで具体的かつ実際的な中東和平への活動はしないし放ったらかしの無責任ぶりだ。さすがにIS(イスラム国家)に関しては有志連合に加わり抑制に動いているが、これもアメリカが積極的に動かないためやむを得ず代行しているかのような消極的参加でもある。

そんなアメリカも自国内に慰安婦像が乱立する不快感に、ようやく腰を上げる人物が出始めた。当ブログでも以前紹介した軍事ジャーナリストのマイケル・ヨン氏である。

ヨーロッパ戦線で開放したフランス女性を襲いまくり暴虐の限りを尽くしたアメリカ人(^^;)に70年後に助け舟を出されるとは少し意外でもあったが、中韓の日本叩きの異常性にようやく気がつく人が増えてきた証でもあろう。

松井やよりが語ったフィリピンの米軍慰安所:続・慰安婦騒動を考える
米軍慰安所松井やよりの「女たちのアジア」から。この引用は初刷り(87年)ではなく94年発行の19刷からだが、87年の初刷りから変更がないとすれば、「慰安婦騒動」が始まる前に書かれたものである。(写真は現在のアンヘレスの売春婦たち)
(中略)
松井は、貧しいアジアの女性たちが家父長制や植民地主義の犠牲になり性的搾取を受けているとして、米軍も日本軍も区別なく糾弾していたのである。にも関わらず、平気で「性奴隷制を持っていたのはナチスと日本だけ」といったような伝説が作られていくのである。プロパガンダに利用されていたことを松井が知らなかったはずはないが、多くの「良心的日本人」同様、彼女は見て見ぬふりを続けたのである。


これは仮定だが、「女たちのアジア」の出版元である朝日新聞出版の恣意的な操作・誘導に松井やよりも出版と引き換えに沈黙させられたというのであれば、借金をカタに自由を奪われた慰安婦たちと根は同じではないか。

<2017年5月16日追記>
松井やよりはその経歴(wiki)を見る限り、反日左翼の典型たる家系に育ち一家諸共に「批判のための批判」を生み出した人物でもあるようだ。「見て見ぬふり」ではなく、元朝日の記者らしく「伝えない自由」を行使しただけだったようだ。
<追記終わり>

日本人が行う告発は「日本批判でなければならない」ということなら、朝日がもっと喜びそうな「自国批判」は別の人が別のところで書かれている(^^;)それが嫌韓本の中にあって、当の韓国人ブロガーが自国の欺瞞を暴くユニークな存在「シンシアリー」氏である。
新刊本も先ごろ発売されたが、その第1作でもこの問題に触れている。冷静さとは、こういう多面的に公平さを保って問題を検証する姿勢こそ言うのだろう。

韓国が主張する「日本軍慰安婦」の矛盾点:シンシアリー著「韓国人による恥韓論 」(扶桑社新書)第三章第一節
1.韓国は、朝鮮戦争で韓国軍も慰安所と慰安婦を運用していたのに、なぜそれを同じ慰安婦問題として扱わないのか。
2.韓国は、在韓米軍相手の慰安所と慰安婦を韓国政府が直接管理していたという文書まで公開されたのに、なぜそれを同じ問題として扱わないのか。
3.韓国は、過去の慰安婦にはそんなに気を遣うのに、なぜ借金漬けで性奴隷になっている現在の韓国人売春婦たちを無視するのか。

 ある主張に対して、肯定するか肯定しないかは、人それぞれです。しかし、その主張に明らかな矛盾があって、明らかなダブル・スタンダードがあって、そこを指摘するとなると、話は別です。

 韓国が主張している慰安婦問題には、“おまえが言うな”という美しい日本語で解決できる明らかな矛盾点が存在しているのです。この三つの側面は、それを明らかにしてくれるでしょう。

現代の問題という点では、日本においても状況は左程変わらない。実質的に「売春は絶滅していない」し、形を変えて現れる風俗産業の中でより隠された形で存続している。

【韓国の反応】 慰安婦を「自発的売春婦」と表現した朴裕河『帝国の慰安婦』、韓国で事実上の発禁処分となる裁判所決定:【韓国の反応】みずきの女子知韓宣言(´∀`*)

帝国の慰安婦裁判所「本『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』は従軍慰安婦の名誉を毀損」

いまどき発禁する国ですよ。事実上の発禁。
日本じゃ考えられません。
日本においては、いくら韓国側の肩を持つ本が出版されようが、発禁になることはない。

朴裕河さんはねー、、、、
私は正直いうと好きじゃない。好きじゃないけど一定の敬意は持ってます。
で、ぶっちゃけ「今の朝日新聞」にとって一番都合のいい話をしてくれるのが彼女のような方なんじゃないかなと思ってます。
それでも韓国はこの方の論を受け入れられないわけで、朝日的にどうなんでしょうね。


例によって過剰反応気味の韓国の司法である(^^;)出版社が「朝日新聞出版」なので本来は味方についても良さそうなものだが、朝日は韓国から見放されたのだろうか?(爆)

<2017年4月26日追記>
今頃の追記ではあるが、『帝国の慰安婦』著者・朴裕河教授に対する裁判が「慰安婦に対する名誉毀損」と言う理由で行われていたが2017年1月25日に結論が出ていた。

『帝国の慰安婦』著者・朴裕河教授に無罪 韓国の裁判所、名誉毀損を認めず:ハフィントンポスト
The Huffington Post | 執筆者:吉野太一郎
投稿日: 2017年01月25日 18時39分 JST 更新: 2017年01月25日 18時39分 JST
著書『帝国の慰安婦』が元慰安婦への名誉毀損にあたるとして起訴されていた朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授に、一審のソウル東部地裁は1月25日、無罪判決(求刑・懲役3年)を言い渡した。

朴教授は2013年8月に『帝国の慰安婦』(韓国語版)を出版。慰安婦問題の経緯を解説して韓国の支援運動の問題点などを指摘し、解決への道を提案した。この中で、旧日本軍に動員された慰安婦が、軍人と「同志的関係」にあった人もいたと述べた。また、文中で使われた「売春」などの表現を巡り、元慰安婦らから2014年6月に「名誉を傷つけられた」として刑事告訴された。元慰安婦側と朴教授の事前の調停手続きが決裂し、韓国の検察当局が起訴していた。

ハフィントンポスト韓国版によると、判決は「被告人が本で開陳した見解については批判と反論が提起されることも予想され、慰安婦が強制的に動員されたことを否定する人々に悪用される恐れもあるが、あくまでも価値判断を問う問題であり、刑事手続きにおいて法廷が追及する権限や能力を超える」とした。

さらに「公的な事案について表現の自由はより広く認められなければならず、名誉毀損について厳格に審査しなければならない」とする最高裁の判例を引用し「名誉毀損は認められない」「学問的表現は正しいものだけでなく、間違ったものも保護しなければならない」と結論づけた。

最早八つ当たり(あるいは言いがかり)に近い裁判だったが、法理論など二の次で屁理屈を捏ねてでも情緒的な判決を優先していた彼の国の司法としては珍しく(^^;)常識的な判断を下した。
<追記終わり>

世界に売春婦を輸出している韓国がやるべきことは日韓基本条約で解決済みの請求権を反則的に蒸し返すことではなく、自国の恥を輸出する現状を改善することである。かつて日本でも「からゆきさん」に代表される人身売買が国を支えた時代があった。根本解決ではなく体裁・体面を重視する形で日本はそれを激減させたが、同じことを最も早急に行い国家・民族のイメージを改善すべきは韓国なのである。

韓国政府が作り上げた米軍向け慰安婦制度、元慰安婦が国を告訴―英メディア:レコードチャイナ
基地村での売春従事者122人が「国が米軍相手の慰安婦制度を作った」と政府を告訴。1人あたり1000万ウォン(約107万円)の賠償を求めている。「国が強制したわけではないとはいえ、国が売春制度を作った」と責任を問うている。

韓国軍慰安婦:wiki ※洋公主(ヤンコンジュ、ヤンカルボ)
韓国軍慰安婦(かんこくぐんいあんふ)、または大韓民国軍慰安婦 (だいかんみんこくぐんいあんふ、한국군위안부、대한민국군위안부、Korean Military Comfort Women)とは、日本が大東亜戦争で無条件降伏した後における韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。現在も坡州市のヨンジュコル(용주골、en:Yong Ju Gol)などに存在している。

基地村政策沿革
1947.11.14 公娼制度廃止
1950-1954 韓国軍慰安婦設置

1961.11.9 淪落行為等防止法(ko:윤락행위 등 방지법)制定
1962.6 米軍基地近隣104ヶ所を特定(淪落)地域に指定し売春取締除外
1971.12.22 政府主導で基地村浄化委員会発足
1970-1980年代 強制性病検診、基地村女性人権侵害がひどい
1990-1991年 梨花女子大元教授の尹貞玉が日本軍慰安婦問題を新聞で初めて告発。
1992年 尹今伊殺害事件(米軍兵士が基地村女性殺害) 
1996年 性病管理所閉鎖(韓国政府による管理売春終わる)
1990年代後半 フィリピン等外国人女性に代替(民営化)
(中略)
強制連行
韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている。 韓国における慰安婦はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった。
国連軍による性暴力と強制連行
崔吉城は論文「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」において、朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたことや、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたことを紹介している。性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった。
北朝鮮人女性の強制連行
朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった。
韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた。
捕虜となった朝鮮人民軍女軍、女性パルチザンゲリラ、そのほかに朝鮮人民軍や中国の人民志願軍の占領地内の住民である朝鮮人女性のうちまだ疎開しなかった女性などが、共産主義者を助けたとの名目で強制的に性奴隷にされた。

最も特筆すべきは、公娼制度廃止の後に韓国政府自ら禁を破って慰安所を設置していることであるし、性病検査の継続を要求するなどそれをアメリカが望んだことも記録に残っている。
アメリカが積極的に韓国の日本軍慰安婦糾弾にコメントをしてこなかった理由がここにある。下手に言及すればかつて米軍が行った残虐行為・非人道的行為の存在を指摘されるからである。少なくとも韓国の主張に加担している者は、これらの事実を知らないか韓国人と同様「相手より大きい声で訴えれば自分たちの主張が通る」とでも思っているのだろう。この韓国軍や米軍の行為は数多くの著作で取り上げられ、日本軍慰安婦の事実立証とは異なり一次資料の多さでも信用性は高い。

朝鮮産・洋公主のヤミ歴史…朴正煕が設計した国家売春:東アジア黙示録
【朴正煕が作った赤線地帯】
1950年に朝鮮戦争が始まると、駐留米軍の急増にあわせて洋公主も膨れ上がった。記録によれば、激戦中の51年に釜山だけで慰安所の新設は74件にのぼっている。

洋公主の“活躍”は、朝鮮戦争が休戦しても終わらなかった。駐留兵士向け性産業が拡大する中、米軍は性病の蔓延に悩み始める。1957年にはOEC(米経済調整官室)も参加し、政府間協議が行なわれた。
米側の申し出によって南鮮政府は、社会保健部直轄の性病診察所を基地周辺に47ヵ所設置。洋公主を一定のエリアに隔離するなど国家による統制・管理を進めた。
米軍基地周辺の性病診察所付き隔離エリアは「基地村」と呼ばれ、東豆川やソウルに近い議政府(ウィジョンブ)は、急速に繁栄した。議政府は2002年に米兵の装甲車ひき逃げ惨事が起きた場所だ。

そして1961年、軍事クーデターで李承晩を追放した朴正煕は「基地村」の本格的な整備に乗り出した。朴正煕が制定した観光事業振興法は、ドルを稼ぐ洋公主を公式に認めるものだった。

この観光振興法は、売春を禁じた「淪落行為防止法」に抜け道をつくり、いわゆる「赤線地帯」に法的根拠を与えたのである。朴正煕は梨泰院(イテウォン)など全国36ヵ所の基地村を赤線地帯に指定した。
朴正煕は、セマウル(新しい村)運動の提唱で知られるが、それ以前に売春村を開発していたのだ。64年には米軍向け施設の売り上げは、900万ドルを超え、国家の外貨収入の10%に及んだという。

▼クーデター直後の朴正煕ら
クーデター直後の朴正煕ら

また70年代になると京畿地方だけで年間800万ドルの外貨が洋公主の収入になったという京畿道観光運輸課の公式調査も存在する。基地村は、南鮮経済を支える巨大売春産業であったのだ。
朴正煕は70年代に基地村浄化運動に取り組んだとされる。しかし、それは性病検査を徹底し、行政組織が洋公主の英会話教室を開くなど、性産業の発展に寄与するものだった。

この韓国軍慰安所は紛れも無く日本軍慰安所の影響を受けていた。伝統的な韓国(朝鮮半島)の性風俗の流れを汲んでいるものでもある。しかも最も激烈に日本に対して慰安婦問題を訴えている朴槿恵韓国大統領の実父が直接「韓国軍慰安婦」を組織していたのだから皮肉なものだ。
日本の陸軍師範学校出身でもある朴正煕元大統領の娘である朴槿恵現大統領は追求するならば自身の父親から断罪せねばならなくなるわけである。

また、今なお現存する自国の問題を放置して過去の他国の責任を追求する偽善は、この国の得意とするところではあっても容認することはできないし、日本軍の戦争犯罪を糾弾するなら、ベトナム戦争での韓国軍の行った戦争犯罪を封印することも許されない。韓国もさることながら、アメリカもまた日本のことを言う資格はないのだ。
上述のマイケル・ヨン氏の「ここにだれか清廉潔白な者はいるか?」とは、この事実をも暗喩しているのである。

多くの場合、(韓国・中国のように)他国に問題を押し付ける行為の殆どは、自国の問題の裏返しでしか無い。歴史認識問題で虚構を主張し続ける行為は、事実が暴かれることへの恐怖心でもあり、他国へそれを要求する行為は「隷属を強要」していることと変わらない。

特殊慰安施設協会:wiki
特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい)は、第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本政府によって作られた同軍兵士の相手をする売春婦(慰安婦)がいた慰安所である。

日本が政府レベルで直接関与した唯一の慰安婦施設もまた、日本軍慰安婦制度の延長線上にあったことだろう。それでも日本は(名目上の)軍備の解体とともにこうした慰安婦制度も順次縮小し撤廃に動いていく。売春防止法<1957年(昭和32年)施行>によって正式に「容認されていた売春行為」「公娼制度」が廃止された。現在では性風俗産業の一部で「売春的行為」が確認できるものの、公式に存在する国に比べれば「女性の人権保護」の観点では前進していると言えるだろう。


最後にもう一度書く。日本の帝国主義的政策に起因する日本軍の朝鮮や中国大陸の進出に伴い発生した「慰安所と慰安婦」に対する道義的責任は間違いなくあるだろう。しかしその「当時の朝鮮もまた日本の一部」であり、その売春婦集めに多くの朝鮮人が加担したこともまた間違いが無い。その当時の女性が享受せざるを得なかった過酷な運命には男性のひとりとして真摯な同情を禁じ得ないものの、その時代の女性たちの不遇・悲惨な人生に対するすべての責任と罪悪感を現在の日本人だけが背負うのはあまりにも不当・不公平であると。

また、当時の売春婦=慰安婦たちが「一定の抑圧的人権侵害状況にあった」事は認めても、それがすなわち「性奴隷」と言う極端な非人道的待遇を伴っていたかに関しては、「強制連行」を含めて個別に存在した可能性は否定しないが、それがすべてであったような主張は到底認められない。ということである。

大日本帝国時代の事実関係としての慰安婦検証は以上である。しかしこの問題をさらに複雑にしているのは慰安婦問題が顕在化した1980年代末期〜1990年代の日本と韓国の背景状況も加味しなければならない。

しかし、これは本項目の「大日本帝国」時代とは外れるので別の機会に再検証する予定である。その際のポイントとしてヒントを一つ出すとするならば、つまり、慰安婦が「問題」となることで色々メリットが有る勢力が居るということだ。

これら一連の話は、日本人としては「面白く無い話」のはずなのだが、裏話としてはソッチのほうが面白いかもしれないのが何とも忌々しく腹立たしい・・・とだけ今は言っておこう(^^;)

<2015年4月14日追記>
韓国側のダブル・スタンダードを指摘している動画があったので戦後の話が中心だが史料として追記する。



<2015年5月12日追記>
WJFの関連動画『慰安婦神話の脱神話化』全編を追記。現在従軍慰安婦問題で「最大の問題とされている強制性の部分」の事実関係を詳細に検証している。



<2015年7月28日追記>
工作員の黄昏【こうさくいんのたそがれ】慰安婦問題の原点とも言える吉田清治に関する考察

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】

職業売春婦と慰安婦

前回は、歴史的に貧困が人身売買と売春の最大原因足りえることを再確認したわけだが、ひとつの数値を思い出していただきたい。

大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について:Kousyoublog
「東京の下層社会」によると、大正末期から昭和初期の全国の公娼数は約五万人、それと別に酌婦と呼ばれる料理店で客に酒を注ぐ女性たちが十一万人おり、その酌婦のうちおよそ七万人は売春に関係があると推測され、さらに私娼やカフェーの女給のうち売春に従事していると思われる者などを含めて十万人、計十五万人が売春に関っていたとみられている。これは芸妓を省いた数で、実際はこれより多いと思われている。当時の女性人口は三千万人で十五歳から三十五歳の女性人口約千百四十万人なので、控えめに見積もっても女性の七十六人に一人が売春に従事していたことになる、という。

売女-ボルト古来より日本人はあまり処女性にこだわっていなかった一つの証拠でもあるのだが、近代になってからは一つのステイタスとしての処女性・貞操観念が美徳とされた時期があった。基本的に今もそれは変わってはいないはずだが、売春の代替?または性的欲求に訴える娯楽としてストリップショーやブルーフィルム・ポルノ映画を経て、今やAV(アダルトビデオ)は、モザイク処理などの加工を加える事で市民権を得て、堂々たる日本の一つの娯楽産業となってしまっている。
私も若い頃から少なからずお世話になっているし、死ぬまでにはやはり何度かお世話になるだろう(爆)

<画像元:ヘ短調作品34 「売女」ボルト>

映像として性行為を見せて収入を得る点では、直接的ではないにせよ幾人かの男優を相手に性行為を行うわけだから不特定多数を相手にした間接的売春と言えなくもないし、もっと直接的に客と接する風俗営業の従事者は、売春と見られる営業行為をすることはある意味避けられないだろう。

AV女優:wiki
AV女優(エーブイじょゆう)は、日本のアダルトビデオ(AV。内容はポルノビデオ)に出演する専門の女優である。非アダルト系メディア出演時にはセクシー女優と言い換えられることがある。
紗倉まな+上原亜衣
※左:紗倉まな、右:上原亜衣

現代のように多様な仕事を選べる時代において女性たちは健全な選択を行っているか・・・というわけではないが、巷にあふれるAV女優たちの映像やグラビアを見る限り、その数がどれくらいなのかが気になって検索してみた。

AVコーナーのれん
アダルト統計!68人に1人がAV女優・風俗・デリヘル・キャバ嬢をやっている!?:たにちゃんねる

●AV女優の人数
『週刊ポスト』(2011年12月23日号)で語られたアダルトビデオメーカーの社員によれば、「国内でのAV制作本数は、ネット配信や裏ビデオまで含めると、年間約3万5000本といわれています。

<画像元:ワロタニッキ>

単純計算しても1日100本がリリースされている。新人AV嬢も年間2000〜3000人は確実にデビューしており、業界ではAV経験者はすでに15万人を突破したといわれています。」ということだ。
ちなみに、この15万人っていう数字がどれだけ衝撃的なのか、その数字本位だけでは、実感出来ないだろうが、日本における19歳から55歳の女性の数は約3000万人ということから、その割合を割り出すと…
日本人女性の200人に1人はAV嬢。これはもう、私たちの業界では当たり前のようにいわれている“常識”です」ということだ。

●キャバ嬢・風俗嬢・デリヘル等の「夜の仕事」の人数
WebサイトBLOGSにおける『セックスワーク・サミット2012・風俗嬢の『社会復帰』は可能か? ―― 風俗嬢の『社会復帰支援』の可能性を考える』によると、「お店の数と平均在籍人数からざっくり計算した数字となりますが、夜の世界で働いている女性は最低でも29万人以上」という。
AV嬢のちょうど倍ぐらいになっている。ということは…
夜の世界で働いている女性、103人に1人 
(BLOGOSの29万人と言う数値に対して18歳から55歳の女性人口3000万人で割った場合)

20歳から40歳手前までと設定した場合、100人中2人となる。つまり、50人に1人の女性が夜の仕事をやっている想定になる。

●ということで、AV女優や夜の仕事のいずれかをやったことがある女性の割合は、なんと…

AV比率

68人に1人って…
これは全国で分配した平均値だから、東京、横浜、千葉などの関東圏、大阪、名古屋、仙台、福岡などの都心部になると、より割合がぐっと高くなってくるということになるから、恐ろしい。

少々乱暴な数値にも思えるのは私の認識が甘いだけなのか?実際には風俗産業に身を投じる女性はAV女優率は低くないと思うし、AV女優からストリップダンサーや風俗に転身していく女性も珍しくなく聞こえてくる。AVも風俗もこなす複合的に係る女性も居るだろう。つまり延べ人数としての数値なら実数はもう少し低い比率になってもおかしくないと思うのだが・・・・。男どものよく話題になるのは「あの元アイドルがAV初出演!」(^^;)というくらい、芸能界がAV予備軍化しつつあるようにも感じる今、この数字(比率)はどう考えればいいのだろうか?

もっとシビアに計算している人もいる(^^;)

[雑感]AV女優はなんにんいるのか?:にゃんこ先生の学習帳
すなわち、日本にAV女優は毎年1.2万人誕生する。
好奇心からちょっと出てみた素人や風俗からスカウトされたバイト感覚者が1万人。
それとは別にプロとして単体を張れるのは2000人。
そのうちA級アイドルと言えるのは200人。全体の1〜2%である。
(中略)
それにしてもこれは単年度女優のべき数なので、単味の女優数を考えるにはプロ女優を平均活動年数2年でわらなければならない。
すると答えは1.1万人、つまり約1万人となる。(現役プロだと100人?)
(中略)
ついでに考えると1回きりもふくめAV経験者は、AVが普及した90年代以降20年で概算しても、
プロ・・・2000人×0.5×20=2万人
アマ・・・10000人×20=20万人
22万人になる。
 
日本女子6000万人の0.4%である。
70年うまれ以降人口だと0.8%だ。
意外と多くね?
だって1000人クラスの中規模共学高校なら毎年4人はAVデビューしている計算だよ。
これを広義の風俗30万人に拡大すればもっとすごい。
こちらは勤続年数が長いだろうから毎年のデビュー数は6万人と推定したとして、経験者は120万人。70年生まれ以降だと4%だ。
あわせて5%。
つまり日本人女性の5%はAVを含めた風俗で働いた経験があるということ。
これを多いと見るか、少ないと見るか・・・`s(-・-;) エートォ...
 
追記)
ところで1936年時点
(※管理人注:昭和11年)の日本では、総人口8000万人に対して70万人の風俗嬢がいたことが226事件の遠因になった。(若い女性比率5%)
現代では総人口12000万人に対して30万人の風俗嬢。(同2.5%)
まあ、セックスを売る女性は平均2〜5%。その結果5〜10%の風俗経験者がいるというのが人類の定常状態なのかもね。

リンク先にはいろんな統計表からデータを抽出し、試算を試みているにゃんこ先生の涙ぐましい努力がある(^^;)

しかし、ちょっと待った!

5〜10%ということは、若い女性(18歳〜20代+アラサー+α)の
20〜10人に一人がAV・風俗経験者ということになってしまう。

前回のエントリでは、職業選択の自由がないために仕方なく売春婦になった者が少なくなかったことを書いた。現代のように職業の選択肢の多い時代において、その時代以上の経験者率とは、それが事実ならなんともショックである。

慰安婦求人広告ただ考えられるのは、現代の経験者は「若気の至り」の一つで一過性で常態化しない者の方が多く、戦前の売春婦たちはその逆で、常態化するしかなく、そこから脱する方法が奪われていたということだ。

売春婦(慰安婦)を集める際の強制性については、売春婦の募集広告をよく見かけるが、これなどは「職業」として売春婦が成り立っていた時代の証明だし、好条件での勧誘は(それが事実でない場合も多かったとは思うが)それで人が集まったことを意味する・・・と考えていいだろう。

<画像元:wikipedia「慰安婦」朝鮮総督府機関紙<毎日新報>広告(1944年10月27日付)>

要は借金をカタに女性たちにこういう職業を選ばせたり、女衒のような人買いたちがこの広告に乗って女性を売ったり、あるいは騙して連れてきた可能性は否定出来ない。


古い対談や手記などには、その当時の回想で「戦時(戦地)売春婦」の管理に関わった話などが載っている場合がある。


産経新聞社長と中曽根元首相が慰安所づくり自慢「女の耐久度、どこの女がいい悪い、3千人のための慰安所」(井上伸):Yahoo!ニュース
鹿内
出版当時の肩書きは、鹿内信隆(しかないのぶたか)氏が、サンケイ新聞社社長・フジサンケイグループ会議議長・ニッポン放送取締役相談役・フジテレビ取締役相談役・「彫刻の森美術館」館長で、櫻田武氏は日経連名誉会長・政府の財政制度審議会会長・国鉄諮問委員会委員長とあります。

鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
桜田 そう、慰安所の開設。
鹿内 そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。この間も、経理学校の仲間が集まって、こんな思い出話をやったことがあるんです。

【鹿内信隆・櫻田武著『いま明かす戦後秘史 上巻』(サンケイ出版、1983年11月30日発行)40〜41ページより】
陸軍経理学校において、「慰安所の開設」のノウハウを事細かく教え込まれていたことを、「産経新聞社社長」が証言しているのです。

中曽根上の画像は、松浦敬紀著『終りなき海軍』(文化放送開発センター出版部、1978年6月15日発行)の90ページと98ページの画像です。ここでは、中曽根康弘元首相が戦時中に23歳で3千人の総指揮官だったことを自慢した上で、その3千人の大部隊のために、「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と証言しているのです。

この記事自体は産経新聞の朝日新聞攻撃(^^;)に対する批判が主旨なので割とさらっと書かれているが、「朝日新聞の豹変や捏造をお前が批判できるのか」と、なんと産経グループの社長を引っ張り出し、中曽根元首相まで引き合いに出して、産経の「不都合に目をつぶる姿勢を批判」し、日本軍と慰安婦の関連性を指摘している。それにしても「耐久度」「消耗度」とはまるでモノ扱いである。当時の男女差別に加えて民族差別の意識が伺える話だ。

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」! 防衛省に戦時記録が:リテラ
 まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。
 タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。
「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

リテラはガチガチの左翼系メディアサイトなので(^^;)鬼の首を取ったように「軍の関与」を指摘し、強制連行を糾弾している。確かに軍の設営記録その他に、設置記録はあるものの、強制連行を匂わす資料は存在していない。ただ、通常募集して慰安婦が集まらなかった場合、朝鮮半島で行われたような「詐欺的手法」で女性を集めた可能性は否定出来ないし、一部ではそれを裏付ける証言をする者も居る。

インドネシアといえば白馬事件のように実際に戦争犯罪として日本軍自ら強制連行・強制売春を強要した事実を断罪された例もある。

白馬事件:wiki
白馬事件(しろうまじけん)とは、日本軍占領中のインドネシアで日本軍の軍令を無視した一部の日本軍人がオランダ人女性を監禁・強姦した事件のこと。「白馬」の由来は、白人を白いウマになぞらえていたことから。慰安所の所在地から、別名スマラン事件、オヘルネ事件。
1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所からスマランにあった慰安所に強制連行し強制売春させ強姦した容疑で、戦後、国際軍事裁判において(将官や兵站責任者の佐官などの高級将校を含む)当該軍人・軍属(請負業者)たちに有罪が宣告されている。

スマラン事件
<画像元:インドネシア人の本音〜「スマラン事件」−能崎清次中将の証言(インドネシア・テンポ誌「従軍慰安婦」特集号1992年7月25日)>

実際には、この事件以外にも歴史の中で埋没し、白日に晒されないまま存在そのものが抹殺された戦争犯罪もあったことは否めない。しかし、敗者である日本に対し戦後の東京裁判で過剰なまでの糾弾を行った連合国側にして、この白馬事件以上の「顕著」かつ「具体的」な慰安婦関連の犯罪として日本軍(人)が責任を問われたものはないのである。故に、朝鮮半島全域?で行われたとされる20万人規模の強制連行が現実である可能性は、非常に低いと考えられる。

こちらはもう少し後で検証するとして、今は軍にとっての慰安婦の存在意義を明治の時点からもう少し考えてみよう。

慰安婦と称される売春婦たちを見ると、慰安所は兵隊の福利厚生・精神衛生管理の一環として立案し、設置した後は人集めに関わった業者などに任せて時々チェックを行うと言った管理手法が見受けられる。要は慰安事業は、軍に委託を受けて外部事業者にアウトソーシングされていたわけである。それは江戸時代からの女郎宿・遊郭の事業者を利用して容易に実現できたし、公には「醜業」と蔑視される業種でありながら役人の依頼で堂々と商売できる業者側にとっても上客と言えただろう。

本来、軍隊は男を管理する組織であり、当時の日本軍には野戦病院の「従軍看護婦」はいても、他に女っ気といえば雑用や炊飯をこなす宿舎泊まり込みの用務員としての中高年の女性がいたくらいだろう。慰安所における「女の管理」はそもそも想定外・任務外のはずである。人数調整などの注文をつけたり衛生管理を指導したり「関与と言えば関与になる」関わりは持っていただろうが、本来そこで収益を上げるのが軍の目的ではない以上、全てを軍が取り仕切ったように考えるのは少し不自然である。

また、日本の近代化に際しては世界の影響を受けた以上、近代軍隊の維持管理のノウハウもまた輸入されていて不思議ではあるまい。

慰安婦〜公娼制(管理売春)と慰安婦・慰安所:wiki
国家による管理売春を公娼制度といい、慰安婦・慰安所も公娼制の一種として研究されている。日本軍慰安婦制度は公娼制の延長にあるが、その「公娼制自体が性奴隷制である」と主張されることがある。
(中略)

性病対策としての近代公娼制
近代公娼制は、性病対策と軍隊慰安によって設置され、フランスで確立し、その後ヨーロッパ、アメリカ合衆国や日本にも導入された。ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは娘子軍と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだとされる。1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった。18世紀末に梅毒が流行し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすんだ。プロシアでは一旦廃止されたあと1851年に性病予防のために公娼制度が軍によって再開され、風紀警察が特別に設置された。イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された。

日本の公娼制は年季奉公の一形態として発展し、徳川幕府に認可された遊郭が形成されていた。明治維新後の1873年(明治6年)に公娼取締規則、1900年には娼妓取締規則が制定され、娼妓の年齢を18歳以上とし(従来は15〜16歳),住居や外出に制限を加えた。翌年の1901年に軍医の菊池蘇太郎も、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している。
(中略)

植民地公娼制
1870年代になってジョセフィン・バトラーらの売春婦救済運動(廃娼運動)が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦、ヒックス、藤目ゆき)。イギリスは1921年の婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された。アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった。秦郁彦は、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している。
植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している。

wikiの「慰安婦」の項目をすべて読むと、さすがにうんざりするくらいに世界各国の軍人による支配地域の婦女に対する強姦・陵辱のオンパレードだ。

第二次世界大戦時、ヨーロッパでは戦勝国軍による敗戦国の婦女を襲うのは当たり前、アメリカ軍は連合国同盟軍のはずのフランス女性をパリ奪還後に襲いまくり、ロシアに至っては「戦利品」扱いをするなど少々吐き気をもよおすほどである。(3 戦時性暴力と戦地性政策4 各国の軍用売春を参照)

しかし一部の左翼馬鹿などは、「第2次大戦中「慰安婦」制度があったのは日本とナチスドイツだけ-侵略軍と「慰安婦」制度との密接な関係」とまで書くのだが、wikiの項目の「3 戦時性暴力と戦地性政策」「4 各国の軍用売春」を読めば、所詮建前論でしか無く、それ(慰安婦)を公的に持たなかった連合軍がどれだけの性犯罪を繰り返したかを隠蔽した論陣であることがわかる。

後年こうした軍用慰安施設の設置は、強姦・性病蔓延の防止には効果が無いとも言われるがその両方を問題視して積極的な対策を施したことが批判されるのであれば、実験的に行うすべての政策・対策は全て否定されてしかるべきだろう。

慰安婦〜第一次世界大戦時の性暴力と性政策:wiki
第一次世界大戦開戦直後にはドイツ兵によるフランス人女性への強姦が発生し、妊娠した女性の堕胎を認めるべきか論争が起こった。また、第一次世界大戦敗戦後のドイツではライン河左岸を占領した連合軍兵士のなかにモロッコ、チュニジア、アルジェリア、マダガスカル、セネガルなどの植民地兵がおり、1920年代にはアフリカ系兵士によるドイツ人女性の強姦が問題とされた。
(中略)
第一次世界大戦時の米軍ではアメリカン・プランが推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない。

アメリカ・プランなど、(冤罪である)日本軍が行ったとされる強制連行より悪質に感じるのは私だけだろうか?

慰安婦〜第二次世界大戦当時の戦地性政策の三類型:wiki
秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス)、レイプ型(ソ連、朝鮮)の3つの類型があった。
自由恋愛型とは英米軍が該当し、私娼中心で公娼制度を公認しないもので、その理由は世論とくに女性からの批判によって公娼制を公認できなかったためとされる。その代わり、現地の娼婦の利用を黙認したが、性病が蔓延したともいわれる。(バトラーらのフェミニズムによる批判や廃娼運動については前述#近代公娼制を参照)。植民地においては慰安所が存在し、また英米軍が占領後に日本軍慰安所を居抜きで使用した場合もある。アメリカ軍もフィリピンなどの植民地慰安所をのぞくと慰安所を設置しなかったが、ノルマンディーに上陸したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性行を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためル・アーヴルでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している。

パリ解放
<画像元:独破戦線〜パリ解放 1944-49>※パリ解放後、ドイツ軍に協力した女性を拘束し、丸刈りにして市中で晒しものにする行為が行われた。

「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」:AFP通信
 ロバーツ教授は、当時の米兵が勇気ある青年たちであり、その勇敢で英雄的な行為がフランスから感謝されている事実についても忘れずに触れている。一方で、米軍が未知の国で戦う若者たちを鼓舞する即効策として、意図的に米兵たちの性欲に訴えかけるプロパガンダを行ったとみられる点も指摘している。

 例えば、写真ジャーナリズムの草分けである米誌「ライフ(Life)」は、フランスを「快楽主義者4000万人が住む巨大な売春宿」と表現した。また、米軍機関紙「星条旗新聞(Stars and Stripes)」は、フランス女性を口説くためのフランス語フレーズを連載。「きみ、とても可愛いね」「たばこをあげようか」「ご両親は今、家にいるの?」といった会話の糸口を紹介していた。


 ロバーツ教授は「米兵の性欲は、いったん火が付くと手が付けられなかった」と記している。

 さらにロバーツ教授の著書は、当時レイプ事件で訴えられた米兵は、黒人兵士が圧倒的に多かった事実にも踏み込んでいる。1944年10月の資料によれば、米兵が絡んだ強姦事件152件のうち130件で黒人兵が訴えられている。これについてロバーツ教授は、米軍内の根深い差別を示していると指摘した。フランス人も、すぐに黒人米兵を指さして非難するようになったという。

戦争を早期集結させ戦死者を減らす効果があると称し、ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下したアメリカの正義。ヨーロッパをナチスから開放するためと称し、フランス女性を性的犠牲に供したアメリカの正義。そんなアメリカに主導された「戦勝国連合軍の正義」とやらを少なくとも私は全面的に認める気はないのだが、この世にはそれを「軍国主義からの開放」として有難がって手放そうとしない人々が多い。確かに日本は狂信的な軍国主義からは開放されたが、欧米列強戦勝国連合の「帝国主義的支配」に組み込まれたということでしかあるまい。現在は当時の「帝国主義」こそ廃れたものの、各国の利害によってのみ国際関係は混乱し戦乱が絶えないのは何も変わってはいない。

いやむしろ、戦勝国連合のばら撒く「偽善」「欺瞞」こそが、この世の戦争の災禍を増幅しているようにも思えるのだが、ひょっとしたらアメリカ大陸各地に設置されている「慰安婦少女像」は、この時のアメリカ兵の非人道的行為への負い目があるために拒否しづらい心理的状況があるのだろうか?(^^;)

お前らにそんなヤワなメンタリティなんてあったのかい?アメ公よ(爆)

いずれにしても近代国家と称される帝国主義に代表される国体を持った国家とそれによる支配を受けた時代は、女性はどこも等しく弱く「性犯罪・性的被害」の対象になりやすかったと言う事だろう。

それが現在の倫理観や価値観から見た場合、どれほどおぞましく否定したいことであっても当時としては日常の「ありがちな」社会悪であり、人道主義的に将来克服すべき目標ではあっても、この時代では遥かに遠い道のりであったことは間違いない。それは明治〜大正時代の女流詩人与謝野晶子の言葉としても残っている。

与謝野晶子は売春地帯を廃止せよと叫んだが現実に敗北した:ブラックアジア
「一婦を守らずに娼婦に戯れることは男の理性の不明、意志の弛緩として男みずから恥ずべきことであるのみならず、その妻の愛と貞操を凌辱するものであり、子孫の徳性と健康とを破壊するものである」

ところが興味深いことに、与謝野晶子はなかなか男の性質を知っている。男とは「一婦との接触に甘心しておられないような性欲の過剰がある」と述べており、現実はどうなのかをこのように吐露している。

「廃娼説を実行に移そうとすると、娼婦の発生するいろいろの原因から先ず絶滅して掛らねばならないことに何人も気がつく。そうしてそれらの原因が現在の文明程度において一朝一夕に絶滅し得られるものでないことを実証的に知る時は、何人も甚だ遺憾ながら娼婦の存在を或程度まで寛仮せねばならないことに一致する」

彼女の言いたいことを分かりやすく言えばこういうことだ。

(1)売春は堕落しており、社会の悪だ。廃止すべき。
(2)でも、男の性欲は非常に激しい。
(3)売春を廃止するというのは現実には難しい。
(4)残念ながら、ある程度は認めないといけないかも。
(5)でも、それは男が悪い。

人類が知恵を獲得し、文明と呼ばれる社会生活を営むと同時に生まれたと言われる犯罪がある。殺人・窃盗であり、貨幣経済が発生した時から実質的に醜業と呼ばれた淫売や賭博が定着した。売春婦や慰安婦が悪いというのは簡単だが、人類の背負ってきたその大きな歴史。言い換えれば「男という種を保存する性の持つ業(ごう)」によって人類という種族の営みは、その「ある種破滅的な発展」を継続してきたと言えるのかもしれない。

それを踏まえた上で、次回は日本(軍)の慰安婦たちを更に掘り下げてみようと思う。

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●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
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帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
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帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
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帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

JUGEMテーマ:歴史
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帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】

売春婦と人身売買

明治維新は主に支配階級の革命であったとはいえ、武家政権の交代による動乱以上に庶民生活も激変した。直接的な生産活動は変化が比較的緩やかではあったが、納税方法が米を直接納める「年貢」から「租税」に変更される。現在の固定資産税の原点である。地租として実質増税されたことで農民の負担は増し地租改正反対一揆まで起こる事態となる。

地租:wiki
地租改正によって明治政府は秩禄処分や常備軍設置、殖産興業の行うための安定した財源を確保したものの、農民の負担は従来と変わらず、むしろ小規模農家の没落による小作農への没落と一部富農による地主制の形成、小作農の子弟や離農者の低賃金労働者化の促進など、国家及び一部階層の資本蓄積と低廉な労働者・小作農形成によって日本の資本主義発展の基礎を築いた。この傾向は松方財政によるいわゆる「松方デフレ」によって一層進むことになった。

いわゆる格差の拡大によって底辺層の困窮は以前以上に増すこととなり、極貧農家では人身売買などで口減らしを行い家計を支える場合も出てきた。こういう方法は古来よりしばしば行われ、農家出身の婦女子が全国のみならず海外にも売られたことは多くの文献が示している。

人身売買〜日本:wiki
日本での人身売買に関する最古の記録は『日本書紀』676年(天武天皇5年)の売買許可願いである。下野の国司から凶作のため百姓の子どもの売買の申請が出され、不許可となっている。しかし、この許可願いの存在から、それ以前の売買の存在が推認されている。大宝律令・養老律令でも禁止はなされていたが、密売が行われていた。また奴婢の売買は公認されていた。人買いの語が多く見られるのは鎌倉時代、室町時代である。
山椒大夫「撰集抄」には幼童、青年、老人さえ金で売られることが記され、「閑吟集」には「人買船は沖を漕ぐ、とても売らるる身ぢやほどに、静かに漕げよ船頭どの」という歌がある。謡曲では「隅田川」「桜川」などが、古浄瑠璃の山椒大夫とともに有名である。戦国時代、安土桃山時代には、多くの日本人が、大名やポルトガルを始めとするヨーロッパ商人たちによって、奴隷として世界中に売り飛ばされていた。これが豊臣秀吉によるバテレン追放令や、江戸幕府による鎖国体制の原因の一つになったとも言われる。


<画像元:映画「山椒大夫」ポスター:溝口健二監督(wiki)>※説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説。騙されて人買いに売られた姉弟を虐待し、姉を殺された弟の山椒大夫への復讐を描いた物語。


からゆきさん:wiki
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。代表的な女衒として長崎出身の村岡伊平治がいる。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。
こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍(じょうしぐん)」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。
(中略)
からゆきさんの労働条件
からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する。(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)
普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。
現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

【予告篇】サンダカン八番娼館 望郷 投稿者 Rui_555
※「からゆきさん」を世に知らしめた山崎朋子『サンダカン八番娼館』を原作とした映画の予告編。

女衒:wiki
女衒(ぜげん)は主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業である。歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、現在でも国や地域によっては半ば公然と行われているところもある。

村岡伊平治:wiki
18歳で朝頼丸で、香港に渡り、中国各地、シンガポール、カルカッタ、香港、ハノイ、台湾、東インド諸島を転々とし、さまざまな仕事、事業を経験した。宿屋、理髪店、女郎屋、行商、真珠貝採取、通訳、食堂、労務者の周旋、野菜栽培、製菓など。その後旅館や製紙、製菓などの事業を手がけ、その傍ら遊郭で働くからゆきさんと関わるうちに、自らも女衒となり若い女性を言葉巧みに騙して海外に売り飛ばす側となる。さらに遊郭経営にも乗り出す。彼の悪行は明治から大正初期までは隆盛を誇ったが、1919年(大正8年)に廃娼制度開始、1937年(昭和12年)に海外売春婦廃止令が出されてからは立ち行かなくなり、日本に引き上げ、神戸に住んだ。

今もなお「悪党」として名を残すくらい、悪どい仕事をしたということだろうが、この手の手配師は少なからず裏稼業(地場のヤクザ:暴力組織)と無縁ではなかろう。現代なら就労条件が募集要項と極端に異なる場合、法に訴えることもできるが文明開化期にあるとはいえ、警察権力はもっぱら「治安維持」が最優先だし、民事的な訴訟案件に対応できる廉価なシステムもなければ、その案件処理にかかる費用・報酬を払うだけの経済力が被害者たちになかったことは明らかである。さらに相手がヤクザ絡みともなれば、いくら話が違うと思っても報復を恐れ、泣き寝入りせざるを得ない場合も多くあったと思われる。

大正末期のある女郎の実態:はてな匿名ダイアリー
300円の借金で難儀している実家を救おうと1,350円で身を売っただが、そのうち周旋人に250円、実家の借金返済したあと残った800円が家に残った金。6年の年季の間に1,350円は返せると考えていたが、とんだ誤算
朋輩の多くがいつまで経っても一向に足を洗うことができないのを不審に思ってが謎はすぐに判明。客から入った10円のうち7割5分を楼主に取られてしまい2割5分が玉割と称して娼妓の手取りだがその中から1割5分が借金返済のたけ天引きされ残り1割(1円)だけで生活。彼女の稼ぎは月に300円程度、手元に残るのは僅か30円、これに対し呉服代、化粧品代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、銭湯や病気の際の治療費に至るまで諸掛一切が娼婦の負担。
これが月に40円をくだらないので、楼主から追借をせざるを得ず借金は減らない仕組み。さらに、特定の日を「しまい日」と称して割高の金を客かた取れるが、この日に客がつかない娼妓には1日2円の罰金が課せられた。売れっ子でない普通の娼妓では到底抜け出せない仕組みになっていた。

人身売買は純粋に奴隷労働と変わらない。人間をモノ扱いして人権(と言う意識・概念すらない時代)など最初から存在せず、それが借財の形としての専属労働者と言う扱いだったとしても、極端な制限を伴う「奴隷的隷属」を伴うものだったのは間違いない。はてな匿名ダイアリーの記述は出典が明記されていないが、紀田順一郎著「東京の下層社会」の中の一節のようだ。

大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について:Kousyoublog
例えば、女工に比べれば娼妓は好きな着物来て、性欲にも不自由せず楽なもんだろうと偉そうに見下して言ってくる客に対しての痛烈な返し。

妾(わたし)達を御覧なさい。出られないのは牢屋と一寸も変りはありませんよ。鎖がついていないだけよ。一寸出るにも、看守人付で、本なんかも隠れて読むんですよ。親兄弟の命日でも休むことも出来ないで、どしどし客を取らせられて、尊い人間性を麻痺さして、殺して了(しま)う様なものじゃないの。罪人よりか酷いと思うわ。そんな所で、どんな立派ななりをしたって、チットも嬉しいとは思いませんよ。仕事が楽ですって?寝ていればよいのだって?殺されるかも知れない医者のメスを横になって待つ病人は、寝ているから楽でしょうよ。何?苦労も、怖しさも、心配ないでしょうよ。性慾に不自由ないなんて、まさか、蝮や毛虫を対象に、性慾は満足出来ないでしょう。却って妾なんか女工の方が、羨ましいと思っているのよ、女工にでもなって、婦人運動の中にでも入れてもらって、うんと働きたいわ。呪わしい世の中ね。(P220-221)

男はぐうの音も出ず、「君は仲々の雄弁家だね。誰にそんな理屈を教わったんだ」と負け惜しみを言うのが精いっぱいだったらしい。女工は女工で非常に苛酷な労働環境に置かれており、女工は娼妓に憧れ、娼妓は女工に憧れ、しかしどちらもが地獄という袋小路にあった。

「からゆきさん」の労働条件の項目を見ても売れっ子でない普通の娼妓では到底抜け出せない仕組みと言う記述は大げさではないように考えるのが妥当だろう。リンク先の後半部分はその当時の女性の社会進出状況も紹介され、男尊女卑思想の残る中、女性の就労場所が極端に限られていたことなどを挙げ、必然的に「女性にしかできない職業としての売春婦」が挙げられている。

「東京の下層社会」によると、大正末期から昭和初期の全国の公娼数は約五万人、それと別に酌婦と呼ばれる料理店で客に酒を注ぐ女性たちが十一万人おり、その酌婦のうちおよそ七万人は売春に関係があると推測され、さらに私娼やカフェーの女給のうち売春に従事していると思われる者などを含めて十万人、計十五万人が売春に関っていたとみられている。これは芸妓を省いた数で、実際はこれより多いと思われている。当時の女性人口は三千万人で十五歳から三十五歳の女性人口約千百四十万人なので、控えめに見積もっても女性の七十六人に一人が売春に従事していたことになる、という。

これは当時の女性の職種が非常に限定されていたことにも要因があり、同時期紡績女工が百六十万人で、同じく十五〜三十五歳女性の七人に一人が女工であり、一方で「事務員」や「バスガール」などが憧れの職業であったが、これはごく限られた人々が選ぶことが出来る狭き門であったため、文字通り「女工か女郎か」という選択肢の低さであった。

公娼制度は明治五年(1872)の娼妓解放令に基づき、「個人の自由意思」を前提として人身売買の防止を目的としたものだったが、その実態は人身売買そのものだった。上記の通り、楼主と娼妓との間で貸借関係が結ばされ、しかもそれは返済が非常に困難な契約であった。廃業は所轄の警察署の事務管理下にあったが、せっかく逃亡して警察に廃業を申し出ても、借金を踏み倒す者として楼主に連絡が行ってしまう。警察と遊郭との癒着も見られていた。紀田によると

昭和の初期にあって自由廃業に成功した娼妓は全廃業者の〇・五パーセントにすぎなかった(P187)。

これらは文明開化の名のもとに制度や社会認識が激変していた時代でも、こと女性に関する認識が中々開放的に変化しなかったことを表している。それを現代の倫理観でとやかくいうのも少々傲慢だと思うのだが、現代の(特に左巻きの)人権主義者はそうは思わないらしい(^^;)ましてや現代にも残っている悪癖とも言うべき風俗産業の欺瞞には目をつぶって、取り戻すことのできない過去ばかり問題にしている部分などは最終的に何がしたいのか理解に苦しむばかりだ。

・・・それはさておき、一方で江戸時代からの伝統的遊郭に関しては、少し違う見方もある。

恋愛は究極の贅沢品だった!? 男性が高いお金を払ってでも吉原に通い続けた理由:マイナビ・ウーマン(堀江宏樹)
花魁江戸時代前期の男女比率は男性:女性が7:3で、複数の女性を妻にする男性もいるため、4割以上もの男性が生涯の伴侶を見つけられないわけです。また、複数の妻がいるからといって、彼女(たち)が身も心も惹かれ合う「運命の相手」というわけでもないのですね。

<画像元:花魁(wiki)>

江戸初期の吉原のお客は、もっとも金まわりもよければ、地位も高かった武士たちです。彼らは政略結婚中心で正妻とは結ばれます。側室も持てますが、それは正妻の公認した女性に限られ、しかも「自分の好み」で選べるというより、政治的なかけひきで部下や上司の関係者の女性に来てもらう……というイメージが強いのですね。つまり男女生活もビジネスの延長線上だった、と。

だからこそ、そういうのとは無縁の純粋な恋愛をしたい!……と思うのなら、男性同士のシリアスな愛である衆道(男色)に走るか、あとは吉原で大金を出して、愛の幻想を買うしかなかった……のであります。実にしょっぱい。

江戸時代、恋愛は普通に生きていたら手に入らないものでした。究極の贅沢品=恋愛なのです。だからこそ、吉原で恋愛の幻想を買う。悲劇の愛の主人公を演じたいと思ったのでしょ。それゆえ吉原に通う男性のことは、「風流な人」なんて意味で数奇者(すきもの)と呼ばれたりしました。現代のように「エッチな人」という意味ではありません!


婚姻が「家」の縁結びであり、家系を継続させる目的を再優先させたため、自由恋愛には程遠い男女の恋愛事情があった。そういう日本の場合、男性の性欲の発散場所という以外にも「仮想恋愛」「恋愛の疑似体験」を遊ぶ場所として売春業者の存在意義があったわけではあるが、吉原はいわば「ブランド化された歓楽街」であり、そういう為政者公認の「遊郭」以外にも単純に性行為を売っていた私娼は少なからず存在していたので、吉原が江戸時代の「人身売買」「売春」を代表していたとは言い難い。また有名遊郭の場合、特有のルールはあったにせよ制限された居住空間・労働環境内でのことであり、やはりそこには不遇過ぎる女性の存在は否定出来ないのである。

公娼〜日本の公娼制:wiki
明治時代になって、遊郭はさらなる発展を遂げるようになった。横浜では外人目当ての遊郭の港崎遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに築地鉄砲洲遊郭の設置をした。

世界的にも国軍の性病羅漢の危機管理を目的に、国家奨励による管理売春業者の制度化と保護を行っていた時代、副産物として「欲求を処理する施設の設置」により強姦などの性犯罪の予防効果もあるとはいえ、その就労に関する部分はいつの時代でも「人権侵害」と切り離せないグレーゾーンであることは疑いがない。

そして一度その道に入ってしまえば、自力で抜け出す術が殆ど無いという点では「監獄同様の人権制限」があり、一般企業の就業規則以上に「強権・強制的な人格の支配」が行われる。上記の大正末期の無名の娼妓の話などは如実にそれを物語っている。

現代の就業環境も程度こそ人に優しくなったとは言え、ストレス性の心身症などが蔓延する状況は、かつての「野蛮」「非人道的」とされた時代と「個人の尊厳や人間性が否定される部分において」大差無いようにも思えるのである。

それでもこの人身売買に関しては表向きにでも改善の方向が出てくるのも明治時代の特徴だ。

売春〜歴史(日本):wiki
転換点となったのは1872年(明治5年)である。この年、マリア・ルーズ号事件が発生し、日本政府はペルー船籍の汽船船内における中国人(清国人)苦力に対する扱いを「虐待私刑事件」として日本の外務省管下で裁判を行ったが、この裁判において被告側より「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」との主張が為された。この主張に対して、特命裁判長を務めた神奈川県権令大江卓は「日本政府は近々公娼解放の準備中である」と公娼廃止の声明を発し、1872年10月2日、芸娼妓解放令が出された。これにより、女衒による遊女の人身売買は規制されることになったが、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。また、この時期に数多くの女性が女衒の斡旋により日本の農山漁村から東アジア・東南アジアなどの海外に渡航し、遊郭で働いた。こうした海外渡航した女性たちはからゆきさんと呼ばれた。このように海外への渡航を手配した女衒として有名な人物に村岡伊平治などがいる。
戦後の1946年(昭和21年)、日本の軍政を担当していたGHQは公娼廃止指令を出し、女給による売春を行う赤線を除いて遊郭は廃止されることになった。また、上記「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」を批准するための国内法である売春防止法が1956年(昭和31年)5月に公布、1958年(昭和33年)4月1日に施行され、これによって赤線も廃止されることになった。

まず「体裁有りき」な法改正であったため、実質的な性風俗産業の改革とはならずむしろアンダーグラウンド化を促進した部分は否めないが、一番大きいのは売春そのものがこの時代はまだ公的に必要と思われていたことであり、むしろ民間業者などに公権力が衛生指導を行うなど「半ば公認」されていた部分は否定出来ない。

芸娼妓解放令:wiki
1872年(明治5年)、マリア・ルス号事件(マリア・ルーズ号事件)が発生。人権問題の解消を促す流れの中で、芸娼妓解放令が出された。
同令、および、同年10月9日(11月9日)の「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)より、前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放された。ただし、両令は売春そのものを禁止しておらず、また、元遊女たちの次の就職先が用意されてあったわけではないため、私娼になったり、貸座敷として届けた妓楼で自由意思に基いて個人的に契約をして遊女に戻ったりすることに障害は無かった。
強制的な年季奉公の廃止など、公娼制度を大規模に制限する法令であったが、準備期間が全くないまま唐突に発せられた点は否めず、解放された女性の転職、収入面の補償などのケアは個々の地方に任される状態であった。このため、法令としてはあまり機能せず、女性がおかれた状態はあまり変わらなかったという。
芸娼妓解放令は直接的に機能したとは言い難い状態であったが、同令がきっかけとなり、貧農の娘の身売りを防ぐために、女性に対して教育や軽工業に対応する技能習得の場が設けられた地方もある。これらの中には、明治時代中期以降に女性労働力に着目した工場制手工業の基盤を形成したものも多い。

さらに上述のKousyoublogのエントリによると、1931年(昭和6年)国際連盟が「東洋に於ける婦人児童売買の実情調査」の調査団を派遣するなど、売春婦が存在している欧米よりも日本における借金をカタにとった人身売買あるいは売春宿への就労の強要が酷かった(と国際的には認識されていた)ことを物語っている。

「東洋ニ於ケル婦女売買実施調査ノ件(国際連盟『ジョンソン報告書』関連文書)へのアクセス:はてなグループ*Stiffmuscle@ianhu

アジア歴史センター

アジア歴史資料センター


ジョンソン報告書について:市川房枝の解説
国際連盟婦人児童問題1931年(昭和6年)5月、国際聯盟から派遣されて婦人児童売買実状調査団が来日した。一行のジョンソン団長は米国社会衛生協会の役員で弁護士、ピンドール委員はポーランドの東洋通の外交官、サンクエスト女史はスウェーデンの医師で性教育の権威、廃娼運動にも参加している。国際聯盟社会部のシュミーデン氏とマーシャル秘書、ジョンソン夫人の6人である。前年9月にジュネーブをたち、シンガポール、バンコック、サイゴン、マニラ、中国、朝鮮を調査して日本に到着した。調査団の来日は、民間の廃娼運動家たちには激励となり、政府には廃娼への緊張感を持たせ、遊廓側には警戒心を強めさせた。一行は救世軍や矯風会を直接訪問して事情聴取し、関係官庁を調査訪問、新橋の芸妓学校、吉原の妓楼、吉原病院の見学などを行なった。廃娼運動家たちは歓迎会を開き、同じころ開かれた第6回全国廃娼同士大会も意気あがり、「婦女禁売条約*1の適用地域より帝国が今尚朝鮮、台湾、関東州、樺太等を除外し居るは条約の効果を減じ帝国の体面を損するものにつき、政府は速やかに之を廃止すべし」と決議して政府におくり、合わせて決議と大会資料の英訳を調査団に提出した。1ヶ月の滞在中、一行は各地を視察したが、大阪では婦人ホームで、その朝駆け込んだ娼婦2人を見舞い、飛田遊廓を視察、レスキュー・ミッションでは収容中の自由廃業娼妓の手内職を見学するなど的を射た視察をしている。
 調査団の報告書の、日本に関する部分が六−32*2である。調査団の主目的は国際的婦女売買の調査にあったから、国際売買被害者としての国外醜業婦、接待婦が最初にとりあげられ、次に国内状況に及んでいる。「日本には醜業婦のための特別紹介業が法律で許可されている。・・・・・この周旋業者を通して支那の妓楼にも紹介される。故にこれら周旋業者は何ら非合法、又は秘密な方法を用いる必要はない」「妓楼の存在は人身売買を激化するものである。故に国際人身売買を撲滅せんとせば、公認妓楼を廃止せねばならない」と、報告書にあり、日本は世界に公娼国たることを喧伝されたことになり、政府に対してはよき警鐘になったと思われる。この報告書の発表が機縁となって官民合同の売笑禍防止協会が組織され、内務省は警察部長会議で廃娼断行を積極的に討議している(六−34*3)など、廃娼の気運は盛り上がっていった。
市川房枝 編集・解説『日本婦人問題資料集成〈第1巻〉人権 (1978年)』ドメス出版、1978年、60〜61ページ


1931年(昭和6年)は満州事変が勃発し国情が不安定な時期である。翌年には五・一五事件が起こる。その遠因として昭和恐慌による金融崩壊と農村部の極度の困窮が挙げられている。青年将校たちは有効な施策の打てない政党政治に強い不満を持っており、事実、裁判においては民衆から事件の首謀者たちの助命嘆願運動が巻き起こるなど腐敗した政治に対する抗議として評価を得ていた。

どんな境遇であろうが進んで「汚れ仕事を望む」者はいない。しかし現実的に選択肢がない場合、そこに活路を見出すしかなかった女性たちがいた。明治時代という革新的な変革を伴った時期でも、悲しいかな彼女たちを社会は救えなかったのである。自分を含めた家族を襲う一方的な不遇を救済するもの。情けないことだが唯一の方法が「一家の犠牲となり売られ(売春)て金を得ること」だった。

「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著:Kousyoublog
江戸幕府が倒れ明治時代になっても借金でがんじがらめにされて自由を奪われた娼妓・女工たちの存在が社会問題として残り続けたし、帝国政府が焦土とともに瓦解しても、例えば売春防止法など戦前の人身売買に関連する諸々の職業の禁止や未成年者略取・誘拐罪など本人の意思に反して自由を奪う罪の禁止はなされても人身売買そのものは禁止されなかった。

いわば日本は「身売り」の伝統を堅持し続けてきたといえる。人身売買が法的に禁止されるのは2005年のことだ。2004年に米国務省が「人身売買白書」を作成して日本をレベル2監視対象国に認定したことを受けて、2005年に遅ればせながら国連の「国際犯罪防止条約」の人身取引補足議定書・密入国議定書を批准、刑法改正し人身売買罪を新設・直ちに施行した。律令制以来慣行として残り続けていた身売り(人身売買)が法として初めて禁止された。とはいえ、例えば外国人研修生の問題など、人身売買は現代日本社会に未だに存在する問題である。

法整備がこれほどまでに遅かった点はおどろくべきことだし、現在にも残る日本の問題であることは間違いないが、同時に、世界の問題であることも間違いない。職業としての売春婦が存在するのは、公認・非公認の区別なくほぼ全世界に存在するからだ。

売春〜各国の状況:wiki
近年、世界的に売春は合法化の流れがあるとされる。アジアでは、タイ、台湾で合法化され、中国でも合法化が検討されている。欧米では、売春自体は合法である国がほとんどである。ただ、斡旋を違法としている国も多いが、2000年にオランダが斡旋を含む売春行為を完全に合法化したのを皮切りに、デンマーク、フランス、スイス、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなども斡旋合法化に踏み切っている。ギリシャ、ハンガリー、チェコなどにおいても合法で、オーストリアなどでは外国人が働くために売春ビザで滞在許可を得ることができる。

合法化の理由
合法化の理由としては、性病対策、性犯罪対策などがあげられる(各国の合法化については各節を参照)。タイや中国などアジアでは、現在でも、特に地方での貧困から、少女・少年が都市部の闇で売春をするケースが多いといわれ、エイズなどの性病が蔓延し、大きな社会問題となっている。タイでは、性病の蔓延を防ぐため、衛生管理を徹底し、かつ税収を確保する目的で昨今、国の許可の下での管理売春が合法化された。ドイツでは斡旋を伴う売春を完全に合法化し、売春地帯を一定の場所に隔離し、政府が性病管理をすることによって性病が減少したとされており、タイはドイツを参考にしたといわれる。

売春の合法性に関する世界地図
売春の合法性に関する世界地図
緑:合法であり公認売春宿が存在する 青:合法だが公認売春宿は存在しない 
赤:非合法

※クリックで拡大

これほどまでに世界は日本人並みに建前と本音を使い分けている。日本の近代国家が女性を救えなかったのも無理は無い。世界中が救おうとしていなかったし、今も救おうとは考えていないのかもしれない。

しかし、現在でも風俗産業に自ら身を投じていく女性は後を絶たない。貞操観念が弱く、金銭欲の旺盛な女性ならば「割のいい仕事としての売春」と割りきって勤労に励んでいるのかもしれないが、すべてが全て「女性が被害者ではない事例」も実際はいることだろう。「借金の形に女郎屋へ身売り」という図式は「風俗産業に就労」と形を変え生き残っては居るかもしれないが、過去の女性たちに比べて少なくとも今、女性の選択肢は増えているからである。

個人的には、私が成人し就労した業界は男女差の非常に少ない業界だった。フリーランスや独立起業する女性もたくさん見てきたし、発注する大企業側にも女性管理職は少なからず居た。男女差といえば初任給に若干差があったり、出世のスピードや仕事の評価で多少は不利だっかたも知れないという程度で、そんな実力主義・能力主義の業界においては「ダメな男性社員」の方がよほどしっかり冷遇されていた(^^;)

現在の私のように、非正規の職場は女性の天下と言っていいくらいである(爆)彼女たちが正社員の身分と引き換えに、それに見合う責任を負わされても十分やっていけるであろうことは私が十分実感している。要は男社会の中に自ら望んで入っていくバイタリティ溢れる女性がいるかいないかの違いであって、残念ながらその点で女性の多くに「弱者のままでいたほうが都合がいい」と思ってるようなフシが伺えるのである。

売春も人身売買も始まりは貧困である。格差社会が今再び過去の様に広がっていくのなら、貧困から派生してくるあらゆる社会不安の種は尽きることはないのだろう。

明治という大転換の時代、戦後という「民主主義と人権」の時代においても根っこは同じ。貧困の嵐が再びこの国を覆うならば、人権を侵す悲惨な状況がはっきり出現する恐れは、今この現代においても存在するのである。

次回は関連して「戦時売春婦」いわゆる「慰安婦」について検証を試みる予定である。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】

廃仏毀釈と士族の冷遇

明治維新直後に顕著だったのが廃仏毀釈と言われている。実際にはキリスト教などの外来宗教を公式に認めただけでなく、外国文化を広く受け入れた時期だけに、旧来の神仏習合的な日本文化への冷遇は想像できるとはいえ、この時期の廃仏毀釈はそれを超えて極度に仏教が攻撃されたらしい。

私の住む奈良県は仏教寺院が多く残っているものの、明治時代には有名寺院でさえこの廃仏毀釈の被害のため廃寺となったものもあったようだ。

内山永久寺:wiki
奈良県天理市杣之内(そまのうち)町にかつて存在した寺院である。興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。

内山永久寺
<画像元:奈良に住んでみました>

富士登山道の破壊された仏像
富士宮ルート山頂にあるトイレ付近には、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、首や顔が破壊された仏像がその信仰の歴史を語り続けています。
<画像元:日本一詳しい富士登山の服装・持ち物・装備 初心者向け準備ガイド>

奈良のようなある意味「仏教伝来の原点の地域」や、「民間信仰の対象としての頂点でもある富士登山道」にも痕跡が残る廃仏毀釈。

神道が天皇家に由来する国家神道として保護された分、それらの保護対象から外れた仏教寺院が多く廃棄・破却されたのは、元来信仰心の厚い江戸時代の日本人のメンタリティとは少し違う気がしたのだが、どうやら教科書には載らない背景状況があったようだ。

菊池寛『明治文明綺談』昭和18年:国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』
徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
 そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
 しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 
 僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
 そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。

江戸時代は実質的に戸籍と同様な住民管理システムが寺社によって構築されていた。新政府における役所の仕事をアウトソーシングされていたとも言えるが(^^;)江戸時代の仏教がある種の特権階級化して、利権集団の陥りがちな腐敗と堕落の温床となった背景があったことと天皇を中心とする国家を形成する上で、天皇に結びつかない仏教を神道から分離する形で保護対象から排除したことが遠因となって庶民からの反発や報復を受けたというところだろうか。そして旧幕府が保護していた仏教寺院を倒幕した明治新政府が守らなかったという点でも「幕藩体制に繋がった寺社政策」をガラリと転換させた理由があったようにも思える。

廃仏毀釈〜明治期の神仏分離と廃仏毀釈:wiki
一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

本来政府管轄の利権を寺社から奪い、寺社の権限を制限することが目的だったとしても、仏教的価値観を根底から否定することはしなかった。それは日本人の精神文化の否定にもつながり、道徳観・死生観に大きく影響することを懸念したのかもしれない。形の上では、一般平民は武士という特権階級に仕える代わりに、天皇陛下を中心とした「御国の為」の忠誠と勤勉・誠実さを求められたわけだから、その「善良な精神規範の一部」となっている仏教の教義を否定するわけには行かなかったことがあるだろう。

結果的にそれまでの既得権益を失った寺社は地域及び民心の求心力を失い、経済的にも疲弊して文化財の破却や喪失が起こった。儒学的清廉潔白(過ぎる)価値観に急激に晒されて民間信仰の対象としては残っても、それ以前の宗教自体への畏敬・尊崇の念は薄れていたと考えられる。そしてその中心にあった思想として、江戸時代それも後期に盛んになった「国学」がある。

国学:wiki
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。
(中略)
国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。
(中略)
儒学に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた。この古道説の流れは、江戸時代後期の平田篤胤に至って、復古神道が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて、復古思想の大成から尊王思想に発展していくこととなった。


国学の四大人(しうし)
※国学の四大人(しうし)荷田春満賀茂真淵平田篤胤本居宣長

江戸時代における「日本原理主義」あるいは「discover japan(日本再発見)」もしくは「日本のルネッサンス」でもあるわけだが、武家が中心となった幕藩体制よりも強固な国家のとしての求心力を求めた時、征夷大将軍よりも大きく古くから続く権威である「天皇陛下への回帰=尊王思想」に行き着くのはある意味自然な流れだったのかもしれない。

幕藩体制下、それぞれの藩(家)が思考や価値判断の基準であったものが、国学では天皇を中心として発展してきた日本の歴史や文化全体を意識させ、日本の中心にあるべきものが幕府ではなく天皇であることへゆるやかに変更されていく。そして攘夷論から開国論への鮮やかな転換が行われた時、近代的中央集権国家としての社会的変革のエネルギーが生まれた。倒幕と近代化、国家神道の復権と古い価値観の一部否定が激動の渦となって日本を包んだのが明治維新だったと考えるなら、大東亜戦争敗戦後に訪れた価値観の転換以上にその思想的なギャップは大きかったかもしれないし、この転換こそが後の国粋主義的暴走を呼んだ遠因であるとするならば、中華至上主義(中華序列の中でしか国際情勢を捉えない)思想に染まった中国大陸の政権と同様の病巣を既に内包していたといえるのではなかろうか。

そして昭和20年の価値観の転換が幕末と違っていたのは、その転換に「罪の意識」「負の感情」を含んでいたことなのではなかったか?

庶民にとっての劇的な変化は、生活様式に加えて身分制度の変革があるだろう。実質的に旧士族でも裕福な資産家以外は平民化され、生命の尊厳さえ身分によって支配される不平等から開放されたことだ。その一端として「苗字の使用」を明治新政府が推奨したことだ。

平民苗字必称義務令:wiki
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層や、庄屋・名主など一部の有力な庶民に限られ、一種の特権とされていた。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が定められた。この布告では初めて「平民」の語を用いて、平民に「苗字」の使用を許した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した。
本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。

明治時代にこの苗字を名乗ることが平民の間で始まった・・・と、私もこのことを調べるまではそう思い込んでいたが実際は違ったらしい。

江戸時代の庶民に苗字はなかったか?:苗字の読み方辞典
苗字の起源についてはさまざまに言われているが、ここでは一つの誤解を正しておきたい。それは、日本人の大半は明治維新まで苗字を持たなかったという誤解である。確かに、江戸時代に苗字を名のることをおおやけに許されたのは一握りの人であった。しかし、だからといって、それ以外の庶民に苗字がなかったと考えるのは、ある時代にある法律が出されたからという理由だけですべての人々がそれを守ったと考えるのと同じ間違いである。実際には江戸時代にも、庶民が苗字を持っていることのほうが普通であった。ただ幕府の政策のため、それを大っぴらには名のれなかっただけの話である。寺や神社への寄進帳などでは、農民の名前にも苗字がついていることが多い。江戸時代より前の室町時代の文献には農民などの苗字が記されているが、その苗字が同じ地域に今も残っている例も多い。

リンク先の記述を見るとその辺りの疑問の説明がある。確かに、明治維新で平民のほとんどが苗字を使い出したとするなら、今のDQNネームまがいの「珍苗字」が全国に数限り無く存在してもおかしくないのだが、そこまで無軌道な事にはなっていない。

没落した貴族や武家の末裔、あるいは低い身分の者でも資産があれば名籍を買って自分の名字にしたり、血縁はなくても「家名」を残そうと養子の形で身分を超えて縁組をしたりと、身分の区別なく苗字が下層の人々にまで広がっていったことは想像に難くない。



明治維新が士族による階級破壊的なクーデターであったことの意味も、この平民への待遇改善に現れているといえるだろう。国民皆兵の富国強兵策の一環として、国を挙げての国策強化を図るための「国民意識の啓蒙」の一つとして捉えることができる。
しかし、そこで有能な兵士となりうる士族を排し、大名クラス以下のものの殆どを平民と同様に扱い(大名の内「華族」として貴族的に扱われた士族もあるが限られた数しか無い)、冷遇したのは少々疑問が残るところではある。

士族:wiki
士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として録を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。
(中略)

士族の解体
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。
士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。

四民平等となった時点で旧支配階級の武士の多くがその既得権益を奪われる。それは新政府の主たる部分を占めた薩摩藩、長州藩の武士たちも例外ではなく後にそれぞれが新政府に対し武装蜂起している。

つまり新政府にしてみれば、「従順ならざる武力集団」などは、獅子身中の虫に化ける危険性のほうが大きく、新政府の革命的な政治改革への反対勢力に簡単になってしまう。
ひょっとすると士族への冷遇は、武力によって暴発する危険分子を顕在化させ排除しやすくする一つの策であったのではないか?そして国民皆兵による創設軍の黎明期、農民出身の兵士に実戦の経験を積ませる最高の相手として設定したのではないのか?

事実、時を経ずして武装蜂起する士族が続出し、その最大かつ最後の抵抗が西南戦争であったが、これによって新政府に武力で反抗する士族はほぼ殲滅され、残ったのは時代の変化や自らの不遇に耐え、新しい時代に前向きに生きようとする者たちだけであった。
農民出身の兵に鎮圧された反乱士族たち。時代が確かに変わったことを告げるスケープ・ゴートとして新政府は非情にも彼らを捧げたのかもしれない。あたかも明治維新の戊辰戦争時、旧幕府側に属したために徹底的に攻撃され壊滅していった会津藩や旧幕府勢力連合軍が新時代への変革のスケープ・ゴートとされたように。

そして生き残り、新時代に対応しようとした士族でさえ、「士族の商法」と揶揄されるほど、慣れない商売や激変する価値観に対応できない者はやはり淘汰されていく流れから脱却できない。

それでも、明治期の勃興した企業群のかなりの数は、これら士族出身が少なくないし三菱財閥を起こした岩崎弥太郎は下級武士であり、他にもその知的生産性の高い階級に属していた者の中から、新しい時代に適応した企業人として再生したことなどを考えると、旧支配階級の士族を新時代に適応させるべく「乱暴に篩(ふる)いに掛けた」と言えるのかもしれない。

真に時代を切り開くことのできる有能さを持つものだけが生き残る。身分や家柄ではない能力主義の洗礼を最も激しく受けた階級が士族だったとも言えるのではないだろうか。

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電脳戦争【でんのうせんそう】

数日前になるがあるニュースが私の心の琴線に触れた(^^;)

『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』実写版、草薙素子役にスカーレット・ヨハンソン:yahooニュース

以前当ブログ「LUCY【るーしー】」でなんとなくイメージしていたことが実現してしまった。誰しも考えることは同じということか(^^;)少なくともアクションをこなし、冷徹な表情でハードなアクションをこなす女優が日本国内には見当たらない今(まぁ唯一近かったのが「パシフィック・リム」の菊地凛子くらいか)、ハリウッド主導で実写化されるなら妥当な選択だったとは思う。思うのだが、やはりこれは既存の攻殻機動隊シリーズとは「異次元の世界」の別物として見るのが正解だと思う。



つまり黒澤明監督の「七人の侍」をハリウッドで「荒野の七人」としてリメイクした時と同じに考えればいいのだ(^^;)

仕上がりが余り期待できないと考えるのは、あの独特の世界観はやはり日本人のメンタリティの中に潜む「死生観」と無縁ではないし、決して「単純なハッピーエンドにならない」苦々しさを伴ったストーリー性をどこまで残せるのかが読めないからだ。

原作レイプになる可能性大なのだが(爆)どうせパチもんを作らせるなら韓国や中国映画じゃなく本家以上に莫大な金をかけられるハリウッドの方がはるかにマシなものになるのだろうが・・・(^^;)

まぁ、日本は日本で「新劇場版」が作られるらしいのだが、士郎正宗の原作はとうにネタが尽き(爆)新作も表されていないので、S.A.CシリーズやARISEシリーズのように完全オリジナルストーリーなのか、25年目のリメイク版になるのかは不明だ。



ハリウッド映画といえば、先ごろ北朝鮮の独裁者金正恩を茶化した作品でSONYがネット攻撃を受けたことが話題となったが、そういう電脳上の攻撃に対しイメージしやすいように可視化する試みがいくつかなされている。

公開中止から一転、映画「ザ・インタビュー」公開へ:NAVERまとめ




情報通信研究機構 DAEDALUS





説明されても正直ちんぷんかんぷんであるが(爆)これらの映像を見る限り、日本のアニメ「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の影響力の強さが改めて認識できる。25年間電脳世界の映像表現でトップクラスに居ることの凄さは中々ピンと来ないかもしれないが、少なくとも「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」とは全く系統の異なる映像表現を中々お目にしない。それだけ先駆的であり前衛的な美しさを持っていた証でもあるだろう。

上記のような専門的なシステムでなくとも、漠然とであるが、世界のネットにおける攻撃の度合いを表現しているサイトがこの所人気である(^^;)

Cyber Threats Map
カスペルスキー

NORSE
NORSE

驚愕!サイバー攻撃を可視化できるサービスがすごい:NAVERまとめ

だんだんITの進化スピードについていけなくなってる自分がそこにいる(^^;)冒頭で書いた映画版の攻殻機動隊が「現実版」になって現れる日も案外遠くないのかもしれない・・・。

サイバー義体者のオリンピック「サイバスロン」開催へ:WIRED



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帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】

沖縄県民の歴史と感情

先の沖縄県知事選挙では、辺野古への普天間飛行場移設反対派の翁長雄志(おなが・たけし)氏(64)が当選。その結果、辺野古の地元名護市と併せて当該地方自治体の両方が反対に回り、政府の移設工事を了承させる工作が一層難しくなってしまった。

政府の沖縄への対応の不味さは、古い自民党時代に始まり、政権交代後の民主党によって更に拍車をかける形になった。当時民主党代表で首相でもあった鳩山由紀夫の「非現実的な政策」が、却って日本や沖縄の相互理解と協力関係を遠ざけ、問題を複雑化してしまったように私は思っている。ことの重大性や現実性を無視して「勝手なことを言いまくった」民主党(中でも重症だった鳩山由紀夫のリップサービス的外交政策)の幻想がもたらした不幸ではある。

ただ、この一連の動きを含めてこの流れの中で沖縄人が決定的に「本州人(ヤマトンチュ)」への信頼を減退させたことは事実だし、その火に油を注いで回ったのは左翼系の反日(反政府)活動勢力であることは間違いない。

普天間飛行場
※普天間飛行場 Googlemap

辺野古移設反対派の沖縄県知事が誕生 それでも民意を無視する日本の民主主義とは――沖縄タイムス記者 福元大輔:DIAMOND on line
 沖縄の保守の代表格、西銘順治氏が1962年、40歳で那覇市長になった。革新の代表格だった2代前の市長、瀬長亀次郎氏が米軍に徹底的に抵抗し、被選挙権を剥奪された時代だ。西銘氏は市街地にあった米軍住宅の金網をブルドーザーで破った。金網があることで市民が遠回りしなければならなかったからだ。米軍に了承どころか、通告さえしなかった。米軍司令官は西銘氏の考えを理解し、金網を開け、基地内の道路使用を許可した。
 座喜味さんは「理不尽なことは許さない。権力とけんかしてでも県民のために働く。それが沖縄の保守だ。辺野古移設も、西銘さんだったら許さない」と語る。国土面積の0.6%にすぎない沖縄に全国の米軍専用施設面積の74%が集中する現状で、耐用年数200年とされる辺野古の新基地を造らせるわけにはいかない。戦後70年近く苦しめられ、さらに子や孫、ひ孫にまで基地被害を引き継ぐことはできないからだ。

この沖縄人の不公平感や被害意識は、本州人の私が批判する資格すらないだろうが、もし沖縄がいまだ琉球王国の流れをくむ独立国であったとしても、外国軍の駐留を含む周辺大国のいずれかのこういった「力の支配による弊害・影響」は、必然であったと思っている。

まず、その辺りを検証してみよう。

二重支配の国

首里城

沖縄人(琉球民族)は、前回エントリした北海道のアイヌ族とは違い、室町時代前半には独立した国家を運営していた。その独立国家が後年、日本(薩摩藩:島津氏)の侵略によって従属させられたのが歴史的には鮮明に見えるが、実は古代の大和朝廷の時代から琉球の支配者は日本に対し朝貢を行っていて、位階を受けたりしている。

当然、すぐ隣りの中国大陸の王朝にも同様の朝貢を行い、この地域の支配権を保証され、これらの大国とアジアへの海洋貿易によって琉球王朝を形成していた。地域的に特殊だったその影響は太古から現在に至るまで変わることがなかったのだ。

「日本の多様性としての沖縄--歴史・文化の視点から」(高良倉吉・琉球大学教授) :外務省
琉球王国という存在

(12)考古学者の研究によると、今から数千年前の時代から沖縄と日本本土の文化は強い共通性を持っていました。それについては言語学者の見解も同じであり、古い日本語を話す人々が、沖縄の歴史を形成する主体だったことが判っています。つまり、文化や言語の面で、沖縄と日本本土は始発駅が同じだったのです。

(補足)
・日本語は大きく「日本本土方言」と「琉球方言」に分けられること。
・日本本土方言はその下位分類として、東北方言・関東方言・関西方言・九州方言などに分けられること。
・琉球方言はその下位分類として、奄美(あまみ)方言、国頭(くにがみ)方言、首里(しゅり)・那覇(なは)方言、八重山方言などに分けられること。
・日本全体の人口は約1億3千万人、沖縄県の人口は130万人、その1パーセント。しかし、言語としては99パーセントの人々が話す日本本土方言と僅か1パーセントの人々が話す琉球方言は対等であること。
・この問題を時間を遡らせると、古い日本語、つまり「日本祖語」が始めにあって、そこから長い時間をかけながら二つの方言、つまり「日本本土方言」と「琉球方言」に分離した、と多くの言語学者は推察していること。言い換えると、古い時代に二つの方言は共通の祖先を持っていた、と理解されていること。

(13)しかし、同じ駅を出発していながら、走行距離が増えるごとに歴史という電車はしだいに違うレールを走ったのです。14世紀末から15世紀初期にかけて、沖縄の島々には琉球王国という独自の国家が出現し、日本本土の国家とは異なる動きを始めたのです。琉球王国は沖縄の島々をテリトリーに置き、首里城を統治拠点とする支配体制を整備していったのです。

(14)琉球王国は、それから500年ほどの歴史において、中国を始め日本・朝鮮・東南アジアの国々と外交や貿易を展開し、東アジアを代表する海洋王国としての発展を遂げることになります。その間に、アジア諸国の文化を吸収し、みずからの文化的なアイデンティティを発揮しながら、沖縄文化あるいは琉球文化と呼ばれる独自の文化を形成したのです。このような歴史および文化の蓄積を持つ地域は、日本の他の県にはありません。つまり、近代以前において、沖縄は日本本土とは異なる独自の歴史を形成し、文化を発展させたユニークな地域なのです。

(補足)
・アジア諸国との交流の中で、中国との関係は特別なものだったこと。琉球の国王は外交的に中国皇帝の臣下であり、その主従関係に基づく信頼関係を前提に、琉球は対中国貿易で常に優位に立つことができたこと。
・そうした中国との関係は500年も続き、この期間に公式ルートを通じて中国に渡航した琉球人の数は5万〜6万人に達すると推定されること。
・アジア諸国との交流は、日本文化を基礎とする沖縄の文化に周辺アジアの影響が強く加わり、独特の文化形成を促したこと。
・特に、エリート層の間で発展した文化は、音楽や芸能を中心に独特の美意識を含みながら展開したこと。
それらの王国の時代の文化が、現在の沖縄において「伝統文化」として継承されていること。


古琉球/統一王朝の成立「為朝伝説」:沖縄の歴史
源為朝 琉球王府の正史『中山世鑑』に記される舜天(しゅんてん)王は、源為朝(みなもとのためとも)の子であるという伝説があります。
 保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され、運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁(ナキジン)でした。それでこの港を運天港(うんてんこう)と名づけました。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。
(中略)
 これはたんなる伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏(しまづし)によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したのです。


実質的には日本(薩摩藩)の勢力圏に入り、徳川幕府幕藩体制の一部として「琉球王国自治区」とも言うべき間接支配を受けていた。中国の王朝にはそれを隠蔽した形で朝貢を重ね、冊封体制の中にいるように見せかけていたので、二枚舌外交というか両方に「いい顔を見せて」琉球王朝を存続させていたともいえる。それは日本側の都合での形態ではあったが、現実的に琉球王国の存続を考えたならばやむを得ないことだったろう。

今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も、そろそろ関が原合戦の時期に入ってクライマックスを迎えるが、この当時薩摩の大名だった島津義久(兄)島津義弘(弟)は義久が黒田官兵衛の九州の西軍方大名の攻略戦に対応し、義弘は関ヶ原で敗色濃厚の中、敵中を中央突破しての退却戦を演じるなど武名を轟かせたが、西軍に組したにもかかわらず、この義弘の子忠恒が家督を継ぐ形で存続し、琉球王朝への侵攻を幕府から承認される。

本来敵方のはずの島津家が存続したのも、西軍方にあって少数部隊で参戦した義弘とは異なり、島津義久の主力部隊は温存されていて大規模な戦闘になることが懸念されたことや、幕府が運営を始めた薩摩〜琉球を通じた南蛮貿易の途絶による経済的損失を回避したことがあげられる。また、この時琉球王朝の三司官、謝名親方(じゃなうぇーかた)が、琉球の漁民が漂流し仙台に漂着した際、家康の計らいで移送されたが、以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたことに反発したために、ほとんど無傷で温存されていた島津軍主力部隊の攻撃を受けることになる。

琉球王国という存在が何故必要だったか?薩摩藩に併合して日本国の一部になってしまうと中華序列の中において意味のある「交易権」「中華序列の中にある琉球王国の信頼感」が機能しなくなる。ましてや中華帝国の傘下に位置するがために交易を許可されている部分もあるわけで、日本が新たに中華序列の中に入るためには中国の王朝に対し使者を送り属国としての朝貢を行う必要が出てくる。日本は平安時代の頃に既に中華序列から脱し、独立路線を歩んだがために直接的な中国王朝との交易が廃れていた。今更他国の臣下に身を落とす気もなく貿易がしたいだけなので、名目的に琉球王朝を存続させたと考えるのが自然だろう。

おそらくそれまでも、そういう高圧的な外交的要求が薩摩や幕府からされていたため琉球王国内でも「反日的気運」が高まっていたと見られる。しかしその割には、軍事侵攻に際しては早々に全土の制圧を許すなど、防衛構想としては少々甘い認識があったことやそれに対する備えが不足していたことは否めない。

皮肉なのは、幕府が承認し運営していた交易を利用して、薩摩藩が密輸を行い藩財政を再建させたのみならず、最終的には倒幕活動の軍資金となったことだろう。いずれにしても半植民地化状態の琉球王国は、よくも悪くも徳川幕府とともに存続できた。

しかし間接的に支配していた薩摩藩が長州藩らと共同で起こした戊辰戦争で日本の政治体制が激変すると、実にあっけなく琉球王国は解体されてしまう。

琉球王国:wiki
1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、琉球語(琉球方言):ルーチュークク)と称した。
(中略)
外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。

尚泰王琉球処分
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族とした。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。     ※画像は最後の琉球国王尚泰
琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の現役軍人も存在している。しかし、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、琉球処分が無効である根拠も明らかではない。


「日本領琉球」という言い方こそが妥当にも思える明治維新後の沖縄。現在沖縄には日本からの独立を模索する動きすら存在する。

もう爆発寸前…“日本からの独立”を沖縄のウチナーンチュは本気で考え始めている!:週プレNEWS
知念ウシという人の『シランフーナーの暴力』という本があります。シランフーナーというのは『知らないフリ』という意味で、日本人は日米安保を守るために、その犠牲や過剰な負担をずっと沖縄に背負わせ続けてきた。日米関係維持とか、安全保障とか、その時々の理屈をつけては、見て見ぬフリを決め込んできた。そうした現状は日本という宗主国による植民地支配としか言いようがないと思います」

軍事的にはさらに日本はアメリカ抜きでは立ち行かない以上、沖縄はかつての中国と日本の2国に支配されたように今も日本とアメリカに支配されていると言えるのかもしれない。実際、沖縄が日本に返還されたのは戦後27年が経過してからである。この間沖縄はアメリカだったのだ。

沖縄返還:wiki
第二次世界大戦の講和条約で、1951年に署名された日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)では、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年4月28日に発効した。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。
1950年6月25日に北朝鮮が韓国に軍事侵攻したことにより朝鮮戦争が、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことでベトナム戦争がおこるなど、1950年代から1960年代にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカは施政権下においての自治から、ソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性の方向に変わっていく。
アメリカ軍はその間にも施政権を元に各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し県民の死傷者も相次いだ。このころから県民はアメリカの施政に落胆し本土復帰(日本復帰)を訴え、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、ベトナムへの軍事介入を拡大したジョン・F・ケネディ大統領や、ケネディを継いでベトナム戦争を泥沼化させたリンドン・B・ジョンソン大統領は、エドウィン・O・ライシャワー駐日大使などによる沖縄の本土復帰についての助言を受けたにもかかわらず、沖縄返還を全く考慮しなかった。
日本の第3次佐藤内閣は1970年に予定される日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約延長と共に本土復帰を緊急の外交課題としたが、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は本土復帰を訴えつつも、安保と同列の沖縄返還論に反発した。さらに一部の新左翼や学生運動、各種労働組合は反安保・反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。
1970年12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、アメリカ軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃からアメリカ軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

沖縄県民の征服者アメリカに対する独立への戦いがここにある。現日本政府がこのまま沖縄県民が抱き続ける不公平感を放置し、自分の利益のみを求め続けるならば、「日本からの独立戦争」も大げさな話ではなくなる可能性があるわけだ。

では、このような中途半端な状態を脱し、完全に日本の支配下にあった大日本帝国時代はどうだろうか?

沖縄県の歴史〜近代化政策:wiki
正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10〜25年遅れて施行した。
(中略)
戦前の沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、昭和時代に入ると道路整備の発達により、新たにバス会社が参入すると、鉄道の輸送人員は減少し、1930年代後半に次々と廃業、さらに追い打ちをかけるように、沖縄戦によりレールなどの鉄道の全施設が破壊された。そして、戦後になっても2003年に沖縄都市モノレールが開通するまで復旧することなく消滅した。


嘉手納駅(沖縄県営鉄道嘉手納線)
<画像元:沖縄県の鉄道〜昭和時代戦前 嘉手納駅(沖縄県営鉄道嘉手納線)>

時期的には差はあるが、沖縄にも近代化の波は訪れ、政府主導による交通機関や各制度の整備が行われていた点では「日本国内」として平等に遇されていたように思える。

宮古島島民遭難事件:wiki
日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。
(中略)
日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。

清国領内であるにもかかわらず無責任な回答に思えるが、当時の清国が欧米列強の侵略に疲弊し、外交トラブルにかなりずさんな対応をせざるを得なかったようにも思える。彼らにとっては台湾は日本における沖縄のような土地の認識だったのかもしれない。早い話「原住民が勝手にやったことだから、清国の意思とは関係ない」ということなので、日本側としては「そちらが対処しないならこっちで勝手にやっていいんだな?」とばかりに出兵したわけである。

台湾出兵:wiki
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
(中略)
当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある。

日本側にも出兵の事情はあったにせよ、「国内の不平不満をかわすために国外に敵を設定するやり方」は、今の特亜国家たちとやることは同じである(^^;)結局、台湾のような明らかな自国領での紛争責任を回避したツケは、新興の日本によって武力行使の理由になり、その後の顛末として「沖縄を日本領として認める」ことにつながったのは、清国にとっては上策であるとは言えなかっただろう。

ただ、その結果沖縄が「日本化」「皇民化教育」という日本民族への同化政策を余儀なくされたことは、後の大東亜戦争時の沖縄戦の悲劇につながったことは否定出来ない。

現在のようなミサイル攻撃が主流に考えられる時代とは違い、辺縁の島々が次々と攻略されていく中で、小笠原諸島の硫黄島の戦いで甚大な被害を出したアメリカ軍が、より遠方の沖縄から北上する戦法に切り替えた理由に、日本人の沖縄に対する「冷遇ぶり」を見破られていたという説も存在するほどであった。

硫黄島の激戦は、小笠原諸島を北上すればそのまま東京に行き着く以上、激烈な抵抗を伴うことを肌身に感じて「より直接的でない地域から攻め上がることで精神的重圧を強めて行く」狙いがあったというものである。

沖縄戦
<画像元:星の金貨プロジェクト>

遺骨
※戦後発掘された沖縄戦戦没者の遺骨<画像元:世界遺産・白神山地で暮らす>

硫黄島での抵抗戦があまりに激しかったために、沖縄ではアメリカ軍は徹底的に島を焼き払った。日本側もあくまで本土への進行を食い止めるべく、皇民化政策により沖縄県民を皆兵化する国土防衛の最前線にした事は否定出来ない。こんな地域は他に無く、「沖縄県民が捨て石にされた」と後年思われても不思議ではない。

唯一の救いは、沖縄戦の最終局面で打電された沖縄根拠地隊司令官:大田実中将の海軍次官宛の電報での一文であろう。

大田実大田実:wiki
米軍の攻撃により司令部は孤立し、大田は豊見城にあった海軍壕内で拳銃で自決した。死後海軍中将に特別昇進する。自決する直前の6月6日に海軍次官宛てに発信した電報は広く知られている。当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。
人物
穏やかで包容力に富み、小事に拘泥せず責任感の強い人物であった。いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するような言動はなかったといわれる。
・辞世の句
大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり
・11人の子供がおり、長男大田英雄は社会科教師で平和運動家。湾岸戦争後の自衛隊ペルシャ湾派遣の際の指揮官である落合完貪海佐(当時)は3男。大田豊一等海佐は4男。3女板垣愛子はパーフェクト リバティー教団(PL)の教校長。


海軍次官宛の電報
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電??次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ?中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ????与ヘ?コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形?一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

※「?」は判読不能文字


電報の現代語訳
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

大田実中将は、共に戦った沖縄県民を日本人として認めていたし、沖縄県民による特攻とも言える戦いぶりに謝辞と謝罪の念を感じていたとも思える。それはこの地にあって彼らと生死を共有したからであって、これほど直接的に「沖縄の悲劇性を知る人物」もいなかったのではなかろうか。

近代史をおろそかにする今の日本史教育では、こうした沖縄の歴史すらロクに知らされて(教えられて)いない。加えて本州を含む主要4島に住む我々は、地域住民や親兄弟からの伝承すら無いわけである。沖縄県民とは「歴史認識が完全に違う」のだ。

国際情勢における現状を考えた場合、沖縄の抱えた問題を解消するのは困難と言わざるをえない。

この場所に沖縄があるかぎり、アメリカでなくてもいずれかの国が戦略的要衝として軍事基地を作らないはずがないからだ。アメリカ軍の規模を縮小させたり基地使用の土地を減らしたりすることは可能だが、代替としての国防力(抑止力)の増強は必須となる。少なからず自衛隊の基地に置き換わることも覚悟しなければならないし、そういう意味で「沖縄から軍事基地を完全になくすことは現実的に不可能」だからである。

しかし我々が少し沖縄の基地問題をかじって理解できる現実以上に、沖縄県民の抱える不遇に対する不満もまた理解しなければ問題解決には絶対に至らない。沖縄の基地問題を語る上でも、今後の沖縄県民(ウチナーンチュ)と本州人(ヤマトンチュ)の相互理解を進める上でも、この歴史は日本人がもっと深く知るべき内容だと思うのだ。

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帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】

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北海道開拓使の時代

蝦夷共和国:wiki
江戸時代後期、慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。徳川慶喜の静岡下向を見届けた海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組や彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷地全島を支配下に置いた。

戊辰戦争の最後の残り火が蝦夷共和国であった。旧幕府の残党による独立地域政権ではあるが、wikiにもあるように具体的な政権が日本最初の入札(選挙)で確立されたのは明治新政府より早く、皮肉というべきかもしれない(^^;)

開拓使:wiki
開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県・函館県・根室県が設立された。

北海道から樺太までを想定した大規模かつ広範囲な開拓事業であったが、あまりにも広大な土地と厳しい自然の前に明治8年(1875年)ロシアと千島樺太交換条約を結び樺太を放棄、領土を確定することになる。この際樺太に居住していたアイヌ族は半ば強制的に北海道内に移住させられた。本土からも広く居住者を募り、北方の国土防衛兵力確保と開拓の労働力の供給という2つの目的を持つ屯田兵が配備された。

余談だが、戸籍(除籍簿の写しによると)私の先祖、曽祖父の代に函館に移住した記録が残っていた。詳細な書類が紛失状態でうろ覚えなのだが、その地で祖父は生まれ、祖父の代に本土に帰着(関西地方)し、父が生まれているようだ。一般の開拓民としての入植だったとは思うが、ひょっとしたら曽祖父は屯田兵の一人だったかもしれない。その確認をしたかったが、残念なことに肝心の記録書類がどこにしまいこんだのか誤って廃棄してしまったのか不明である。(後日発掘できればここに追記する場合があるかもしれない)

北方警備と開拓の両立を考えたのは明治新政府だけではなく、坂本龍馬なども明治維新以降、失業した士族の雇用対策として考えていたようだが、国民皆兵を意図する新政府では当初こそ「屯田養子」と呼ばれる「士族身分を与えることで意欲・責任感の向上」を図っていたものの、後に開拓移住者として北海道に渡る者も増え有名無実化していったようだ。

国全体が「新しい国家としての高揚感」を持ち合わせていた時代ならではのことだとも言えるが、同時に移民によるアイヌの同化政策としての側面も有り、必然的に北海道における彼らの生活圏は縮小させられることになる。

開拓の風景:明治の礎 北海道開拓
「開墾は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売りに出します。その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根でおこしていきます。樹齢100年以上と思われる桂の木や、楢の木が何のためらいもなく次々と薪にされていったのです。やっとの思いで拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えましたが、斜里岳下ろしの強風にあおられ、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。(中略)卵を得るために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっていまいます。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」

「家といっても、小さな拝小屋でした。板、柾、釘等何もないので、やちだもの木の皮をむき、ぶどう蔓でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。真ん中に炉が切ってあり、大きな丸太んぼを常時くべ、火種を絶やさないようにしていました。くべる木は、なら、いたや、しころ等で、おんこや松ははねるので使いませんでした。何にしろ、寝るところが笹の葉をしきつめ、ムシロをしいていましたので、火がはねると大変なのです。(中略)海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんがんを持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」
開拓移民
「ストーブもなく、川辺に石を積み、かまどを作って天気の良い日には外で食事、雨天はやむなく家の中で、煙突もない、かまどなので煙が家の中にたちこもり、天窓はありましたが開けられず、飯川さんの仏像が燻製になるのではと思いました。雨もりにも悩まされ、濡れては困るものを抱えて、一晩中逃げ回ったこともたびたびでした。ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)を捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。肉も大切な栄養源でした。初めは、浜から拾った貝殻を食器替わりにしていました」(以上斜里女性史をつくる会発行『語り継ぐ女の歴史』より)。

これらの手記は昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録ですが、昭和時代でさえ、開拓民は縄文時代さながらの暮らしを強いられたことが分かります。明治の開拓民の厳しさはおそらく今の私たちの想像をはるかに超えるものであったと思われます。

昭和20年代ということなので、終戦後の飢餓のリスクが最も高かった時代、政府の支援は受けられず、さらに北海道沿岸にはソビエト軍が北方4島を占拠し住民を追い出した時期で、いつ彼らが上陸してくるかもわからない時期である。明治時代よりも移民自体が楽であったはずはないのだが、明治時代でもやはり生活の基盤となる集落や耕作地の開墾から全てやらなければならないわけで、状況はあまり変わらなかったかもしれない。

そして何より、移民たちが苦しめられたのは、北海道の土壌が作物を育てるには不向きな特殊土壌(泥炭土・重粘土・火山性土)だったことである。開墾はもちろんだが土壌改良も行う必要がある土地が多く、収穫を得るまでには想像を絶する労働力と時間の消費が必要だった。

このような自然環境があったために、この北の大地は長らく開拓されず、近代まで原始時代の自然が温存されたと云えるのだろう。

「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士を頂いた札幌農学校では、この厳寒の地で日本人のアイデンティティでもある稲作への挑戦が繰り返されたが、結果が出せずにいたものの中山久蔵によりようやく厳寒地に適した品種の開発に成功、明治10年(1877年)には第1回内国勧業博覧会に出品し、大久保利通内務卿より褒章を受けるほどになっている。

第1回内国勧業博覧会〜殖産興業のために:博覧会・近代技術の展示場(国立国会図書館)
1877(明治10)年の8月、西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会の開場式が行われた。本会は、日本が参加した1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたものである。

博覧会と銘打ったものは、以前にも存在したが、そのほとんどが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的であった。この博覧会は、特に「勧業」の二文字を冠していることからも明らかなように、出品物の中から殖産興業推進には不必要な"見世物"のイメージを厳格に否定し、欧米からの技術と在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を前面に押し出している。

リンク先の記事中にもあるが、北海道の土壌は本州に比べても土地の性質が異なり、どこでも稲作ができるという土壌ではなかった。それを乗り越えて肥沃な土地へと土壌改良と品種改良を繰り返すことで、実に日本人らしい技術開発によって北海道の発展が始まるわけだが、光がある所必ず影もある。不毛の大地が肥沃な大地へ変わった時、これもまた日本人らしい「暴走」が始まったようだ。

明治型開発の終焉:明治の礎 北海道開拓
明治期における北海道開発の特徴は、資源略奪型の開発であったと言えるでしょう。水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による荒廃が増えてきました。肥料もやらない略奪的農業により、地力の衰えが農地としての維持が困難になってきたのです。畑は有機物の分解が早く、栄養分は作物に吸収される一方で、雨水とともに流亡しやすい傾向があります。地道な土づくりを怠って収穫を続ければ、地力が減退し、やがて不毛の地と化します。略奪的な土地利用は、古代文明衰退における大きな要因のひとつと考えられています。こうした事態を避けるために、外国の畑作地帯では古くからそれぞれの国に応じた土地利用、農法が発達してきた。しかし、日本では畑作を主体とした大規模な土地利用型農業は未熟であり、(耕地が狭いこともあって)畜力の利用すら未発達でした。土地利用とは、人間と土地(環境)との相互関係性とも言えます。開拓者は当初、圧倒的な自然の営みの前に叩きのめされました。しかし、人間が増え、人力でそれを制御できる段階になると、今度は自然に対して無制限な収奪を続けるようになります。そして歳月を経て、再び土地(環境)から強烈なしっぺ返しを受ける。また、開拓事業によって森林の伐採、原野の開墾が進むと、河川の決壊が増えてきました。移民は大正9年をピークとして減少しはじめます。

どうも日本人という種族はイノシシのように猪突猛進し、何かにぶつかるまで暴走に気づかないものなのかもしれない。近代化も開発も災害復興もやり過ぎるぐらいの爆発的スピードと情熱で成し遂げるが、そこから先を読む能力はなく、失速気味に停滞した途端崩壊へと突き進む。

急速な近代化の後に国粋主義や全体主義が蔓延し倫理観を麻痺させ、戦後復興の後に公害や人災で多くの国民を苦しめ、高度成長の後にバブルに踊らされ経済を疲弊させる。数十年ごとに繰り返されるジェットコースターのように荒れ狂う繁栄と崩壊。

北海道の開発にはそんな日本民族の特徴が見えるような気がしてならないのだ。

そしてもう一つ。北海道開拓の歴史には忌まわしい暗部も存在することを記述して置かなければならない。

もうひとつの北海道開拓史へ:月形歴史物語
 日本が近代国家として欧米列強と肩を並べていくためには、まず北海道の天然資源が必要でした。そしてロシアからの北の脅威にそなえるために人口を増やし、農業を広め、工業を起こすことが急務とされました。北海道の開拓は、近代日本が直面したいくつもの課題を解決するために、喫緊(きっきん)の大問題として進められたといえるでしょう。
 今日ふり返ってみると、開拓の形態もまた、大きくいくつかに分けられます。まず、先に述べた移住民による「移住民開拓」。そして、開墾のほかに北方防衛の役割をも担った、屯田兵による「屯田兵開拓」。そしてもうひとつ、重罪人として服役する囚徒をインフラ整備の労働力とした「監獄開拓」です。
 中でも囚徒による開拓は、移住民や屯田兵が入植できる基盤を作るために、人跡未踏の奥地に通じる道路を開削し、橋を架け、森を拓いた過酷で困難きわまりないものでした。滝川、深川、旭川といった、大河石狩川沿いに作られていったまちも、あるいは道東の拠点のひとつである北見なども、囚人たちの凄惨な労働によって作られた道路ができてはじめてうまれたまちなのです。こうした囚人たちを収監したのが、集治監と呼ばれる特別な監獄でした。

開設当初の樺戸集治監
※開設当初の樺戸集治監


北海道集治監の誕生と網走監獄:博物館 網走監獄
征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。

広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。


網走集治監

後に網走番外地と呼ばれる流刑地としての北海道もまた開拓の歴史には欠かせない事実である。リンク先の歴史を読み進むとこの明治時代の刑としての囚人への強制労働の苛酷さ、人権無視の実態は唖然とするものがある。

一般の移民でも過酷な環境であったのに、それが囚人(政府に反逆した国事犯)ともなれば「使い捨ての労働力」としてひどい扱いを受けたことはある意味では当然だったかもしれない。それでも、それほどの無茶な労働力を投入することで成し遂げる「国家事業を完遂する消耗材としての囚人」の思想は、その後の「国家優先」「人命軽視」を既に内包していたといえるだろう。


<関連記事>
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帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】

今回から数回、江戸後期〜明治初期にかけて最後に日本になった2つの地域、北海道と沖縄を検証してみることにする。

北海道の光と影〜先住民族アイヌ

五畿七道明治以前、この地に最も近い首都を持つ国である日本の一部でありながら日本の統治が完全には及ばない地域があった。当時蝦夷(えぞ)と呼ばれた北海道である。そもそも沖縄と同様、古代に呼称された五畿七道と呼ばれた行政区画に北海道は入っていないことからもわかる。図にあるように東山道と呼ばれた中部地方と東北地方の圏外に位置する蝦夷地は、首都から遠いことも有り、時の権力者にとってはどうでも良い地域だったとも思われる。

そして蝦夷地には、樺太、千島を始め、ロシア領内にも共通する種族、先住民のアイヌ族がいくつかの部族に分かれそれぞれが集落を形成していた。

アイヌ:wiki
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族である。母語はアイヌ語。19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が当該国に編入されたが、アイヌも同様の運命をたどった。現在、日本とロシアに居住する。

アイヌ


しかし社会体制が確立し、食料需給が安定すると人口が増え食料が不足する。おのずと生活圏の拡大を図るが、諸部族が同様に自分たちの優先的生活圏を拡大しようとすると必然的に争いが起きる。主権領域の争い、その領域内の収穫物の争い、生活資源と食料の奪い合いとなり、アイヌ部族同士が争ったこともある。この図式は古代から現代に至っても何も変わらない。生活資源と食料の争奪戦は殆どの場合戦争になっている。現代においても産業資源や食料はもはや戦略物資となっており、その確保のために各国は血眼になって世界中をあさっているわけだ。

日本人(和人)との接触は古くからあり、アイヌ部族との戦いも起こっているが、まず気をつけねばならないのは各時代の中央政権がこの北の地を正確に把握していないことにある。その理由は正確な地図の不在や交流・情報の少なさがすべてであろうが、あまりにも辺境にあったためそれらを改善する意味も理由もなかったのが大きいと思われる。

しかし古代においてはアイヌ族もしくはその関連部族が関東〜東北地方一体にも居住していた可能性があり、総じて蝦夷(えみし、えびす、えぞ)と呼ばれて辺境の異端種族として中央政権に追われるように生活圏が北上していった可能性がある。つまり日本の先住民である縄文日本人の血統を残す民族だったかもしれないのだ。

いずれにしても海洋系または大陸系・半島系の渡来人たちとの混血によって日本人のルーツが形成されていく過程において、彼ら日本人は辺境に押しやられていった可能性は否定出来ない。また同時に縄文人と弥生人との入れ替わり時点でその文化性や慣習の違いで民族間抗争などが頻発し、はからずも民族移動が起こったのかもしれないが・・・この辺りは、稲作の伝来ルート等と併せて確立された定説が存在しない。ただ、アイヌ族のDNAの特徴が現在の日本人(本州人:和人)よりも沖縄人に近いと言う説がある点でも、アイヌは日本人が太古に行った侵攻あるいは民族(人種)的同化に影響されて北端へ追いやられた種族であると思われるのである。

近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人の次に和人で、アイヌ人個体の3分の1以上に和人との遺伝子交流が認められた。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本人(アイヌ人、琉球人、和人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している。アイヌ人集団にはニヴフなど和人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ人集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる。

縄文人と弥生人
<画像元:successのブログ「【遺伝子解析】 アイヌと琉球が遺伝的に最も近縁−縄文型」>

この地が不毛の大地であることこそが古来の原日本人の末裔を温存し、ロシア・ツングース系の交流と合わせて独特の文化を持った民族を生み出した最大要因だったと思えるのである。

稲作文化も北端のこの地には伝わっていただろうが、寒冷地のため明治以降でなければ本格的な農作(米作)も行われず、漁・狩猟と野草の採取など、縄文時代の生活スタイルが長く続いたことが、米の収穫が収入に直結していた古代からの日本の価値観において、米作ができない不毛の大地に対する関心が高くなかったことは容易に想像できるし、生活のすべてが厳しい自然環境との戦いである北の蝦夷地であることに加え、津軽海峡で海に隔絶されたことが本州の支配権力が及びにくかったことがあげられる。

そのため日本人(和人)との争いも主に当地の領有もしくは交易権を認められた代官・領主との争いで、アイヌが国家ではない部族社会であるため、地方行政官である支配・管理者による争いは戦争というよりは地域紛争の規模であったと思われる。しかし当時のアイヌ人口がかなり多かったのか、日本側の記録に残されるほどの大きな衝突も有史以来かなりの数で起こっている。

蝦夷征討:wiki
蝦夷征討(えみしせいとう)とは、日本の古代において蝦夷に対して朝廷が行った征討である。中央史観の強かった時代には蝦夷征伐と呼ばれた。
(中略)
年表
景行天皇40年 : 蝦夷の謀反、日本武尊が征討(伝説)。
仁徳天皇55年 : 蝦夷の反乱、上毛野田道が派遣されるが伊峙水門で敗死(伝説)。

敏達天皇10年(581年) : 蝦夷の寇。
舒明天皇9年(637年) : 蝦夷反乱し入朝せず、上毛野形名が妻の活躍により征討に成功。
大化3年(647年) : 渟足柵設置。
大化4年(648年) : 磐舟柵設置。
斉明天皇4年(658年) : 阿倍比羅夫が遠征し、降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応する。
斉明天皇5年(659年) : 阿倍比羅夫蝦夷を討ち、一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏(いぶりさえ)の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
斉明天皇6年(660年) : 阿倍比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められ、粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。同年、比羅夫は夷50人余りを献じる。
和銅元年(708年)頃 : 出羽柵設置。
和銅2年(709年) : 蝦夷が良民を害し、巨勢麻呂、佐伯石湯、紀諸人らが征討に出発。諸国の兵器を出羽国に送る。
和銅5年(712年) : 出羽国設置
養老4年(720年) : 陸奥国の蝦夷の反乱、按察使上毛野広人殺害。多治比県守征討。
神亀元年(724年) : 海道の蝦夷の反乱、陸奥大掾佐伯児屋麻呂殺害。小野牛養、出羽の蝦夷を征討。大野東人が多賀城築城
天平5年(733年) : 秋田城(出羽柵を移動)設置。
天平9年(737年) : 牡鹿柵設置。
天平宝字3年(759年) : 雄勝城・桃生城築城。
神護景雲元年(767年) : 伊治城築城。

宝亀元年(770年) : 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇賊地に逃げ帰り、道嶋嶋足ら派遣。
宝亀5年(774年) : 紀広純、大伴駿河麻呂派遣、桃生城に侵攻した蝦夷を征討(〜宝亀6年)。(三十八年戦争の開始)
宝亀7年(776年) : 陸奥国、蝦夷征討。志波村の蝦夷反逆、佐伯久良麻呂投入、胆沢地方の蝦夷征討。
宝亀8年(777年) : 出羽において戦闘継続、出羽国軍蝦夷に敗れるも翌年までには一旦反乱収束。

宝亀11年(780年) : 陸奥国長岡郡に蝦夷侵入。覚鱉城(かくべつじょう)築城。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)勃発、牡鹿郡大領道嶋大楯、紀広純殺害。多賀城炎上。藤原継縄、大伴益立、紀古佐美、大伴真綱、安倍家麻呂ら投入。百済王俊哲投入。出羽国府後退とする説あり。
天応元年(781年) : 藤原小黒麻呂投入。戦果を挙げ征夷軍一旦解散。

延暦8年(789年) : 紀古佐美、佐伯葛城らによる蝦夷征討。大規模な対蝦夷軍事行動はじまる。巣伏の戦いで征夷軍大敗。巨勢野足投入。
延暦10年(791年) : 文屋大原、大伴弟麻呂、百済王俊哲、多治比浜成、坂上田村麻呂投入。
延暦13年(794年) : 征夷副将軍坂上田村麻呂による蝦夷征伐。
延暦16年(797年) : 坂上田村麻呂、征夷大将軍に任官。
延暦20年(801年) : 坂上田村麻呂、閉伊村まで平定。
延暦21年(802年) : アテルイ、モレら降伏、処刑。胆沢城築城。
延暦22年(803年) : 紫波城築城。
延暦24年(805年) : 藤原緒嗣、蝦夷征討と平安京造営の中止を奏上。
弘仁2年(811年) : 幣伊村征討。和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置。文屋綿麻呂蝦夷征伐終了を奏上。

貞観11年(869年) : 貞観地震
元慶2年(878年) : 出羽の夷俘反乱(元慶の乱)
天慶2年(939年) : 出羽の俘囚反乱(天慶の乱)
永承6年(1051年)-康平5年(1062年) : 安倍氏征討(前九年の役)。
延久2年(1070年) : 延久蝦夷合戦
永保3年(1083年)-寛治元年(1087年) : 清原氏征討(後三年の役)。
康和6年(1104年)-永久元年(1113年)頃 : 藤原基頼が「出羽常陸并北国凶賊」を討つ。
文治5年(1189年) : 奥州藤原氏征討。(奥州合戦)
文永5年(1268年) : 津軽の蝦夷反乱。安藤氏討たれる。
元応2年(1320年)-嘉暦3年(1328年) : 安藤氏の乱(蝦夷大乱)。

このおびただしい紛争の跡を見ると、辺境の種族、蝦夷の民(ほとんどがアイヌ系と思われる)による蜂起、内戦が数年〜数十年に一度起こっていたことがわかる。如何に先住民と新興の和人たちが紛争を繰り返しながらアイヌ族たちを追い詰めていったか・・・。まるでアメリカ大陸でインディアンたちを蹂躙していくヨーロッパ人たちのようではないか(^^;)

ただ、これほど頻発した辺境における内乱が日本史の中でも目立たないのは、やはり中央政権に与える影響が殆どなかった点が大きいかもしれない。「文治5年(1189年) : 奥州藤原氏征討。(奥州合戦)」とは当初匿っていた源義経を討ちとった藤原泰衡を鎌倉幕府に対する反乱勢力として討伐した戦いである。「前九年・後三年の役」とともに日本史に比較的詳しくない人でもわかる歴史がこの2つぐらいしかない事でもわかるように、多くは政権運営に支障の出る反乱勢力でなければ歴史の表舞台には出てこない。アイヌが部族社会であり、勢力を統一して日本の王権(政権)を脅かすことがなかったために歴史に埋もれたと思われる。

その意味では元々琉球王国という他国だった沖縄は別にしても、この北の辺境には支配の徹底をするだけのために武力抗争が行われ、アイヌ族たちを圧迫していったようにも見える。

コシャマインの戦い:wiki
応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。

シャクシャイン像シャクシャインの戦い:wiki
1669年6月にシブチャリ(現北海道日高振興局新ひだか町の静内地区)の首長シャクシャインを中心として起きた、松前藩に対するアイヌ民族の大規模な蜂起である。

シャクシャイン像<画像元:明治以前の北海道 ―明治の礎・北海道開拓 ―水土の礎>

クナシリ・メナシの戦い:wiki
1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。


室町時代の頃には和人に対するアイヌ族の反乱という記述が出てくるが、和人たちが彼らを蝦夷という曖昧な呼称でなく民族(種族)名を使っている点で「異国の文化を持つ民族」としてようやく認知した証拠かもしれない。

アイヌの歴史:wiki
年表(抜粋)
1604年 - 松前慶広、江戸幕府からアイヌとの交易独占を認められる。以後、和人(本州)との交易窓口が一本化されて必需品輸入の生命線を握られたため、アイヌの松前藩への従属が強まり、不平等な交易によるアイヌの不満が、和人に対するアイヌ蜂起の一因ともなった。

1786年 - 最上徳内択捉島と得撫島を探検。幕吏として最初に択捉島・得撫島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。

1800年 - 伊能忠敬が蝦夷を測量。

1807年 - ニコライ・レザノフの部下、ニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)らが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う(フヴォストフ事件:文化露寇)。幕府は東北諸藩の兵で警固を強化。西蝦夷地(北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料(幕府直轄領)とし、樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成されるようになる。箱館奉行を松前に移し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。

1809年、間宮林蔵が樺太が島であることを確認し、それまで属した西蝦夷地から北蝦夷地として分立する。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。

1821年 - 日露関係の緩和を受け、幕府は蝦夷地を松前藩に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。

1854年 - 日露和親条約締結、北海道が日本領、得撫島以北の千島列島がロシア領に決まる。ただし、樺太方面の国境はこれまでどおり未確定とすると決められた。

1867年 - 日露間樺太島仮規則調印。樺太全域が日露雑居とされる。


独自の生活様式・言語を持ったアイヌ族だったが、何故か文字を持とうとしなかった。すべて口述と実技指導による伝承で民族の文化を保ってきたことはある意味で驚きでもあるが、ロシアや日本などの近隣の強大な力による支配に対抗できるはずもなく、それぞれの文化圏に取り込まれ、同化されていく。

西欧列強の帝国主義にさらされた幕末から明治初期、アジアの大半の国は列強に飲み込まれアイヌも例外ではなかったわけである。かろうじて幕末に日本が北海道の地を日本領として確保したのは、その多くが現地住民(アイヌ)の存在によるものであることは間違いないが、その代償に彼らが得たものは極めて不利なものだったに違いない。

今アイヌの子孫たちは現存するものの、アイヌ語の話者は極めて少なく、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」な消滅の危機にあると分類された。支配者の都合で民族的多様性を消されつつある彼ら少数民族。明治維新と大日本帝国は、彼らの大地・北海道をどう開拓していったのだろうか。

アイヌ語
↑※歴史的にアイヌ語が使用されたと考えられている範囲

次回は明治維新以降の北海道開拓時代について検証を試みる予定である。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】

国民病「脚気」と「結核」

音で聞くと何やら「しりとり」のようにも聞こえるこの病気。現代ではとっくに根絶された病気のようにも思えるが「ジャンクフードの蔓延」「耐性菌の登場」で未だに患者は居るらしい。

明治時代になって劇的に変わったことと言えば医療もその一つにあげられる。古来日本では漢方医が中心に医療行為を行っていたが、江戸時代中期には蘭学という西洋医学の影響を受け始め、明治維新を待たずして文明の光を浴びていたとも言えるだろう。

江戸時代〜明治時代に特徴的な疾病といえば「脚気」がある。栄養学が未発達だった為、原因が特定できず、西洋医学が入ってきた明治期にもその原因は特定できずにいた。単純に言えばビタミンB1欠乏症でしか無いのだが、経験則として「蕎麦」「麦飯」が効果がある程度にしか理解されず。文明開化(機械化)による恩恵で精米技術・速度が向上して一般庶民でも白米が普通に食べられるようになるとともに、全国的に蔓延した。

脚気1
<画像元:アリナミン〜元気の雑学>

古くは平安時代から上層階級などを中心に発生し、江戸時代は江戸の白米食の普及とともに町人にも流行したが、玄米食が中心の地方では発病することが少なく「江戸患い」と呼ばれた。

日本の脚気史:wiki

明治期
明治期には、1870年(明治3年)とその翌年から脚気がはやった。東京など都市部、陸軍の鎮台所在地、港町で流行し、上層階級よりも中・下層階級に多発し、死亡率が高かった。『人口動態統計』(1899年(明治32年)開始)、『死因統計』(1906年(明治39年)開始)によれば、明治末期までの国民の脚気死亡者数は、最小6,500人(1900年(明治33年))〜最大15,085人(1909年(明治42年))であった。ただし当時は、乳児脚気の知識があまりなかったため、「乳児脚気死亡」が大幅に見落とされており、毎年1万人〜3万人が死亡していたと推測されている。

大正期以降
大正期以降、ビタミンB1(チアミン)をふくまない精米された白米が普及するとともに安価な移入米が増加し、副食を十分にとらなかったため、脚気の原因が解明された後もビタミンB1の純粋単離に成功した後も、多くの患者と死亡者をだし、「脚気」は「結核」とならぶ二大国民病といわれた。ちなみに統計上の脚気死亡者数は、1923年(大正12年)の26,796人がピークであり、1915年(大正4年)から日中戦争の拡大と移入米の減少によって食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで年間1万人〜2万人で推移した(翌1939年12月1日、「白米」禁止と7分つき米の強制)。ようやく1千人を下まわったのは、アリナミンとその類似品が社会に浸透する1950年代後半のことであった(1950年(昭和25年)3,968人、1955年(昭和30年)1,126人、1960年(昭和35年)350人、1965年(昭和40年)92人)。しかし、1975年(昭和50年)頃からジャンクフードの普及により、脚気が再発してきた。アルコール依存症患者にも多く、高齢社会(超高齢社会)をむかえた今日では、ビタミンB1を含まない高カロリー輸液での発症も問題視されている。

wikiにもあるように当時は脚気の原因がわかっておらず、色んな病原説が出現したものの西洋医学に傾倒していた明治初期の医学会は伝染病説を有力視し、見当外れな研究をしていた。そのため重要なヒントを提示していた一部の医師たちの主張は無視され、せっかく海軍の練習艦「筑波」で行われた脚気予防試験で予防食としての新兵食(洋食)が成果を上げたにも関わらず、その後の脚気の蔓延を呼ぶことになる。

真田山陸軍墓地(5)@大阪:Para Bellum
※管理人注:当該ブログサイトが「引用禁止」とのことなので、引用文を省略しました。詳細はリンク先でご確認ください。

近代史研究をテーマにブログを書いておられる奇特な方がいた(^^;) wikiでも記述のある陸軍と海軍の脚気に対する考え方の違いがあり、極めて官僚的な対応(結果が出ている対策を取らず建前を押し通す)に終始したため甚大な犠牲者を出すことになる。

元気の雑学:アリナミン
明治時代になるとますます精白米の利用が盛んになり、脚気は国民病とまでいわれるようになりました。軍隊の間でも脚気は深刻な問題でした。過剰な白米の摂取とタンパク質不足が脚気の原因と考えた海軍の軍医、高木兼寛(かねひろ)は、パンと肉を中心とした洋食に切り替え、脚気を激減させました。しかし、白米主義に徹していた陸軍は、日露戦争下での脚気による死者が戦死者の半数を超えるという大打撃を受けました。もし、海軍が白米主義を通していたら、日本は日露戦争を勝利に導けなかったかもしれません。
脚気2

日清戦争
<画像元:日清戦争−wiki>

日清・日露戦争と脚気:内田正夫 所員/総合文化研究所助手(PDF)
和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007


日清・日露戦争における脚気被害
日清戦争(1894〜5)における脚気被害は、陸軍省医務局の公式記録『明治二十七八年役陸軍衛生事蹟』(1907)でさえ、「我軍ノ脚気患数ハ総計4万1431名...全入院患者ノ約4分ノ1」を占め、「銃砲創1ニ付キ実ニ11.23」、戦死者977人に対して脚気による死亡者は4064人、「古今東西ノ戦役記録中殆ト其ノ類例ヲ見サル」と書かざるをえない惨状であった(数字は算用数字に改めた)。
(中略)
動員総数約20万の日清戦争において、(公式に認定された者だけで)兵員の約2割が脚気患者だったのである(戦死傷者数、戦病者数などの統計数値は史料によって少しずつ異なる。また、上記の数には日清戦争に続いた台湾征討戦争も含まれる。)

日清戦争からちょうど10年後の日露戦争は、当初の日本政府の目論見に反して、世界史上はじめての大規模な戦争になった。戦闘の規模、期間、死傷者数は日清戦争の数倍、そして脚気の惨禍もまた数倍の規模で繰り返された。
これも史料によって数値は異なる(というのは、陸軍省医務局の公式記録である『明治三十七八年戦役陸軍衛生史』(1924)では、脚気の統計すべてが、「軍事上ノ関係ニ因リ」という理由によって比例値で表され、実数が分からないからである)。そうではあるが、多くの論著が依拠する史料(『医海時報』1908年10月)によるならば、全傷病者35万2700余人中、脚気患者は内輪にみて21万1600余人、他病に算入されているとみられるものを含めて推定すれば少なくとも25万人に達する。戦病死者3万7200余人中脚気による死亡者2万7800余人(約75%)であった。死亡者が2万7800人ということは、通常の致死率から逆算すれば患者数は30万人を超えていたとみてよいだろう。日露戦争の参戦総兵員約108万8000人、屍の山を築いたといわれる旅順戦などを含めて戦闘による死者総数約4万6400人という数字と比較するとき、脚気の犠牲がいかに大きなものであったかがわかる。


日露戦争
<画像元:日露戦争−wiki>

当時の陸軍の軍医には後に作家となる森林太郎(鴎外)がいた。伝染病説支持者であった彼の意見奏上により上司である石黒忠悳(日露戦争時は小池正直)が白米主義を貫き陸軍は甚大な被害をうけることになるが、彼は「脚気研究者」ではなく単純に栄養学上及び兵站運用の都合上、大量の麦の確保が困難であったため麦飯食を取り入れることに反対していたという話もある。いずれにしても彼が軍籍にあった時期は未だその原因が究明されていないことを考えると、彼一人に批判の矛先を向けるのもどうかとは思うが、陸軍全体の「建前重視・融通の利かなさ」はこの辺りからも見て取れる。

ところが意外なことにヨーロッパで伝染病説を覆す研究結果がでてくると日本国内でもあっさりと新しい学説に飛びつく研究者が続出(^^;)大正10年(1921年)にビタミン欠乏説がほぼ確定すると脚気病研究会などにより薬効成分としてのビタミンB製剤の開発がスタートする。

現代ほど成分抽出の技術が進んでいないことも有り、当時は薬剤としてのビタミンは高価であったり発病後の摂取にも難点があるなど国民病の早期の克服には至らなかった。
戦争の時代を経て、昭和29年(1954年)の武田薬品工業の「アリナミン錠」の発売に至るまで日本人は脚気に苦しめられることになる。

漢方や臨床実験の有効性から「理屈はともかく実効性を求める」方策が最優先で取られていたなら、また、漢方の「医食同源」思想が西洋医学に対しもっと理解されていたら少なくとも「脚気」による死者は相当数減らせたはずである。

丸山ワクチン:wiki
1944年に皮膚結核の治療薬として誕生した医薬品。タンパク質を除去したヒト型結核菌青山B株から抽出したリポアラビノマンナンおよびその他のリポ多糖 (LPS) を主成分とする。
がんに対して予防・治療効果があると支持者によって主張されているが、薬効の証明の目処は立っておらず、2013年現在がんに対する医薬品としては未承認である。

丸山ワクチン・オフィシャルサイト
1964年の暮れ、丸山は実際のガン治療にワクチンを用いることを決意し、知り合いの医師にワクチンを使ってみてくれるように依頼しました。そのうちに、あちこちの医師から「ガンの縮小がみられる」などの報告が届くようになります。なによりも驚いたのは、ワクチンを打った末期ガンの患者さんの中に、ガンと共存して何年も元気に暮らす人が現れるようになったことです。


効果があると言われても中々ガン治療の主流にならなかった丸山ワクチン。それは治療・治癒というよりも「延命効果」「ガン増殖抑制による共存」「副作用がない」という改善療法的な効能が西洋医学的でない面で西洋医学的検証方法では証明できない部分があるようにも感じる。

なにやら「脚気」治療の臨床データからの治療法と丸山ワクチンに、似たものを感じてしまう私なのだ。


その丸山ワクチンは皮肉というか歴史の偶然というか「皮膚結核」の治療薬として誕生した。国民病と言われた「結核」の一種である。結核の治療は抗生物質ストレプトマイシンの登場(昭和23年:1943年)を待つまで特効薬はなく、「死病」と言われ多くの歴史上の著名人の命を奪った。

いずれにしても「脚気」「結核」共に明治時代から昭和前半、大日本帝国の時代は国民を苦しめ続けた病気であったが、我々は未だ駆逐できていないのである。

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帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】

江戸〜明治時代の教育レベル

明治維新というのは基本的に「支配階級から起こった革命」「国体を変化させるクーデター」とも言うべきもので、士農工商と呼ばれる身分制度の中、武士以外の一般庶民のほとんどは、彼らほどの国家的な問題意識もなければ対外的な危機感も持ちあわせておらず、従順に「お上」からの布告に従って生活様式を変化させたに過ぎない。

江戸時代の教育といえば英才教育がされていた武士階級以外では「読み書き算盤」が中心で、生活に支障をきたさない程度に「文字が読め」「言伝(ことづて)の手紙程度は書き」「算盤で最低限の計算能力」を修得することで、むやみに感情に踊らされず「打算」「理性(慎重さ)」を保持し、あるいは「宗教的な倫理観」などは現代よりは強く身につけていたと思われる。また江戸の庶民には「草紙」と呼ばれる読本(よみほん)が売られ、流行作家や人気絵師(イラストレーター)も評判を取るなど文化的素養は高かった。

ドクター月尾・地球の方程式 第283週「改めて考える読み書き」:TBS
江戸時代、簡単な読み書きに限って言えば、江戸の識字率は70%を超えていたと言われています。一方で同時期のロンドンの識字率は20%、パリの識字率は10%未満ですから、江戸の識字率の高さが分かります。その背景となったのが、教育機関の普及でした。
特に庶民のために開かれた寺子屋は、今の識字率の高さを支えていると言えます。

地域別識字率
江戸時代の教育施設

トロイの遺跡を発見したドイツ人考古学者のシュリーマンも江戸時代末期、14代将軍:徳川家茂の時代に日本を訪れ、その文化レベルの高さに驚いた一人だ。
その著書「シュリーマン旅行記 清国・日本」の中で、明治10(1877)年から13(1880)年まで東京大学で生物学を教えたエドワード・S・モース(大森貝塚の発見者)の話として、

 外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は、日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くべきことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於いて道徳的教訓の重荷になっている善悪や品性を、日本人は生まれながらにして持っているらしいことである。

 衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりしていて魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり・・・これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。

シュリーマン旅行記 清国・日本

とまで言わしめている。我々日本人の精神文化の源流は間違いなく天下泰平の江戸時代に醸成され、現在に続く確固たる倫理観・美意識を育んでいた。

アジア、いや当時でも世界的に特筆すべきその教育レベルは、案外日本人も知らない場合が少なくない。文明開化というからには西欧のほうが全てにおいて文化的で理性的、民度も高いであろうと言うのは「西欧コンプレックス」以外の何物でもない。本来日本人は好奇心が強い民族であり、勉学の意欲が高かった。新しいものが好きで「良い」と思ったものは何でも取り入れてあっという間に自分たちの生活様式になじませて改良し、オリジナルなモノまで生み出す。現在の技術大国の根っこは古来からの日本人の習性が大きく影響したと考えるのが自然であり、絶対的支配階級の「武士」が行った民間教育が如何に「文化・民度の向上」に貢献していたか計り知れない。

寺子屋
<画像元:日本の初等教育:寺子屋から小学校へ〜ξ  Joseph murmured  ε>
この絵を見る限り、各自勝手なことをやっていて必ずしもお行儀のいいガキ子供ばかりではなかったようだが(^^;)・・・まぁ、それは今でも変わりないか(爆)

ただ、なぜここまで日本人の教育レベルが高度だったのか。また庶民・農民にまで一般的な教育が行われたのか少々不思議な気もするが、戦国の世から天下泰平の世に移り、荒々しく野蛮な「力の支配」から穏やかで理性的な「知の支配」、「力ではなく徳の高いものが社会を収める」文治政治の普及により、全国の諸藩で朱子学を中心とした学問熱が高まった事が大きいようだ。

現代における高校卒業は当たり前、大学進学が珍しくなくなっていったように、江戸時代にも学問で他に秀でることが出世の近道であり、武士階級の「キャリア官僚化」とも言うべき知の集積が行われたというところか。

上層部の流行は時を経ず下層の人々にも伝わっていく。公家の言葉遊びだった和歌や茶の湯が庶民レベルに降りてきて、それぞれが独自の文化として花開いたようにそれら文化の素養や教育は「何やら新しくて面白いもの」であり、娯楽の少ない昔なら「学問」すらが娯楽たり得たかもしれない。なぜならどちらも「生活に余裕があればこその嗜み」だからである。

そうした武家出身の子女や野に下った浪人、あるいは学者となって研究者の人生を歩く者達がその豊富な知識を切り売りして生計を立てるケースが出てくる。あるいは寺院の僧など人望を集めた人物などが奉仕として学問を人々に教える仕組みができた。寺子屋と称される民間の学問所で、「手習い」と言う名の「読み書き算盤」教育を始め基本的な倫理教育も施されたわけで、全ては戦乱のない安定して平和な長い期間が存在したことが日本にとっては非常に幸運なことだったわけである。

和算 …江戸時代の数学…:水のほとり
江戸時代の文化の特徴は何でしょう? あの時代の日本文化の特徴は, 人々が 数学を趣味として楽しんでいたことです. 文化の歴史のなかで, 世界にまれな, きわだった特徴だと思います. 日本民族の世界に誇れる歴史です. 鎖国していた江戸時代には, 西洋の影響をほとんど受けずに 日本固有の数学が発達しました. そして, 当時の日本の数学は実用であるとともに道楽でもありました. それが和算です.

庶民から殿様まで, あらゆる階層の人々が数学に親しんでいました. 数学の問題や答を額にして絵馬のように奉納する「算額」の習慣がありました.

道楽であるとともに, 田を作り水を引く土木工事や 天体を観測して暦を決める暦法, そして商業にも役立って, 世の中をゆたかにしてきました. いまの私たちも いろいろな意味で和算の恩恵を受けています.

神社に奉納された算額
<画像元:田代神社奉納算額〜養老町(岐阜県養老郡)の歴史文化資源)>

趣味と実用を兼ね備えた知的ゲームを楽しむ庶民。世界が戦争や民族同士の闘いに血道を上げている間に、まるで山にこもって修行を繰り返した僧侶のように、独自の学問を追求し成熟させていったイメージが近いだろうか。

もちろん産業革命がイギリスで発生して以降は、日本は文明の進歩から取り残されてしまうわけだが、基礎レベルおよび国民の総合レベルでははるかに西欧を凌ぐ実力を秘めていたわけである。

だからこそ、日本を訪れた西欧列強の人々は少なからず驚き、地の果てにあった見知らぬ国の西洋文化と異なる流れを持つ文化に感銘をうけたのだろう。当時の中国(清國)や他の国々にも決して見られない民族の精神性があればこそ、明治維新前後の混乱期でも日本が欧米列強の侵略を防ぎ得た最大の理由ではないかと思うのである。

それが証拠にもう一つ、面白いコメントを引用しておこう。以下には反日が色濃く根付いてしまった韓国人の本音が現れている。

我々韓国人が日本を理解できない大きな理由の一つは、江戸時代から明治にかけての歴史を知らないことです。(中略)日本が江戸幕末までに、相当の経済、技術、教育、文化水準に達していたことを知りません。豊かな庶民文化も、産業交通の発達も知りません。日本は19世紀後半に、西洋のまねをして運よく近代化し、韓国を侵略した。韓国は運悪く、狡猾な日本にやられた、と韓国人は思いたいのです。
道上尚史著『日本外交官、韓国奮闘記』文春新書 P86

韓国で外交官をやっていた人物の日韓文化比較論(というかレポート)だが、上記の言葉は韓国を代表する新聞社の論説委員の言である。日本の近代化の成功の理由を知らない(教えない)韓国人が、西欧人たちのようにそれを尊重することがないのも頷けるではないか(^^;)実際に「リアルな日本と近代史」を学んだものなら、韓国が主張する「悪逆非道な日本」「日本こそが諸悪の根源」のその多くが無知の産物であることを理解しているからである。

ところが、日本人自身もしっかりとこの特異性を認識してはいない。太古の昔中国から新しい文化や技術はやってきた。それと同様に文明開化は欧米からやってきた。だから「外国(西欧列強)のものは皆、日本のものよりはレベルが高い」と言う舶来コンプレックスが、後の大東亜戦争の敗戦も相まって長く続いたように思うのである。

それは戦後の「自虐史観」にも利用され、近代化以降〜戦前の日本の過小評価につながっているとも言えるのだ。

上述のように江戸時代から元々素養の高い国民が、明治維新で政府の直接的援助によって均一で高レベルな教育を受ける環境が整うと伸びるのもまた早いことは容易に想像できる。

明治6年(1873年)にフランスに倣って「学制」を定めた後に小学校が義務化され、明治22年(1889年)には大日本帝国憲法が発布され、近代国家としての格好がようやく整う。翌明治23年(1890年)には帝国議会も招集され、政府の主導に民意が加味される立憲君主制が確立する。
この憲法の中で第9条に法律の執行、公共の安寧秩序の保持、臣民の幸福の増進のために必要な命令を発することを天皇の大権事項として定めていたことから、その一環として教育に関する法令を「勅令」によって定めるのが定例となり、明治23年(1890年)に明治天皇によって教育に関する勅語が下賜(かし)される。現代では「軍国主義に繋がる思想教育の象徴」にも言われることの多い「教育勅語」である。

教育ニ関スル勅語:wiki
「教育ニ関スル勅語」(教育勅語)は、1890年(明治23年)10月30日、宮中において、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語である。翌日付の官報などで公表された。その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。また、外地(植民地)で施行された朝鮮教育令(明治44年勅令第229号)、台湾教育令(大正8年勅令第1号)では、教育全般の規範ともされた。
さらに、紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)および1月1日(元日、四方節)の四大節と呼ばれた祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿に納められて、丁重に扱われた。
しかし、1945年(昭和20年)に第二次世界大戦の敗北によってGHQの占領下に入ると、1946年(昭和21年)には、「勅語及び詔書等の取扱いについて」(昭和21年10月8日文部事務次官通牒)と題する通達により、教育勅語を教育の根本規範とみなすことをやめ、国民学校令施行規則も改正して、四大節の儀式で教育勅語を読み上げることも廃止された(昭和21年10月9日文部省令第31号)。


以下原文と現代語訳は教育勅語:雑学資料室からの引用である。

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
  御名御璽

教育勅語
<画像元:はげしく学び はげしく遊ぶ−石川康宏研究室>

参考:現代口語訳
 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。

 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。

 このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。

明治二十三年十月三十日
(天皇陛下の署名と印)


「皇祖起源の伝統を重んじる」が天皇を神格化し、「皇国の繁栄に尽くせ」と言うあたりが軍国主義に繋がるという点は、この時代の思想的な部分が現れていると思うが、それ以外は本来「道徳として普遍的なことを言っている」だけである。「憲法を重んじ」というのは、現代では別の意味でやたら「護ろう」とはしているのだが・・・(^^;)

ただ、現代にこの時代の教育勅語を復活させても意味は無い。現代の天皇は国民に影響を与える「思想的・政治的発言」はできないので、一般論あるいは平均的価値観・個人的希望の発露として言及するだけである。

いや、むしろ日本人の象徴たる天皇であればこそ、「日本人としてあるべき理想像の個人的希望を述べる」談話が存在してもいいような気もする。

少なくともツマラン政治家の不完全で奇妙な談話よりは余程日本人には良い影響を与えるだろう。(爆)

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●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
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帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】

明治維新初期の産業と貿易

明治維新直後の日本の総人口は約3480万人。事実上鎖国状態だった江戸時代には貿易はゼロではないにせよ一般の国民がその恩恵をうけるほどの量はなく、対外貿易を許可された上層部の権力者(各地の大名)が主に利益を独占していた。

八幡製鉄所明治維新を経て開国し文明開化の波に晒されても日本が輸出できるものは生糸(絹)・茶などの農産物であり、輸入したものも綿糸・織物など日本で収穫・加工できない素材・衣料品であった。
下に挿入したグラフでは、貿易総額がまだ低いため輸入品などの構成比はかなり激変しているが化石燃料の輸入が激増するのは、大日本帝国が存在しない1950年代以降である。これはこの時代前後からエネルギーの主流が石炭から石油に転換し、中東地域での油田開発が活発化したからだ。

→官営八幡製鐵所(1900年撮影)
<画像元:明治日本の産業革命遺産>

それまでの日本は自国で生産できる石炭や鉱物資源で自給に近い生産サイクルを保てたのがわかる。しかし、欧米の産業革命に倣って取り入れた重化学工業の拡大、増えてくる人口を養うための食料も一部はやがて自給できなくなっていく。

工業の躍進とともに生糸から絹織物など加工品の輸出が増え、明治維新から約70年後の昭和初期には機械・機器及び部品の輸出が急増する。国家百年の計がようやく結実し結果を出しつつあった時期である。

図説のグラフに人口増加の線と歴史上の事柄を追記してみたのが下図だ。※各グラフはクリックで拡大


図録▽主要輸入品の長期推移
主要輸入品の長期推移-輸入総額に占める構成比の推移:社会実情データ図録
 江戸時代末期の開港までは日本の繊維産業は国内で完結していた。綿作−繰棉−綿糸−綿織物、養蚕−生糸−絹織物といったプロセスが農家の中、村の中、あるいは国内の産地間で分担して進められていた。開港後、こうしたプロセスが世界貿易に組み込まれ、国内は一部を分担することとなる。明治維新当時には生糸を輸出し、綿織物を輸入するようになっていた。輸出がはじまり生糸の価格高騰と原料不足により国内の絹織物産地は大きな苦境に立たされた。 また綿作から綿織物までの国内産地も綿織物や毛織物が輸入されて困難に陥ったところがあった(輸入綿布である金巾と競合した因伯木綿、紀州木綿、真岡木綿)。

図録▽主要輸出品の長期推移
主要輸出品の長期推移-輸出総額に占める構成比の推移:社会実情データ図録
 戦前を通して、長く輸出品1位の座を維持していたのは生糸であり、まさに製糸女工のおかげで機械設備や軍艦などを購入する外貨を獲得してきた。
 開港・明治維新ののち、しばらくは、生糸の他、茶、米、水産物、石炭といった1次産品が主要な輸出品であった。
 安政5(1859)年開港から幕末までの主要輸出品としては以下の表の通り生糸の割合が明治以降にまして高かった。これは既に国内機業地向けの製糸業が国内で発達していたからだった。開港以来、国内の生糸産出量は2倍となったと推定されるが、生糸輸出の急拡大により、原材料である生糸の価格高騰と原料不足によって、西陣、桐生、米沢など全国の絹織物業者が未曽有の苦況に陥ったといわれる。


リンク先の解説にもあるように、日本の主力輸出品である生糸の増産のため世界遺産にもなった「富岡製糸場」が作られ、その結果国内需要に対し供給不足になったため高嶺の花となり却って絹製品の加工産業には打撃となった。また、数は少ないものの国内で綿花を生産していた地域は輸入綿花による値崩れで同様に打撃を受ける。
日本初のグローバリゼーションである明治維新によって国内産業形態に大きな影響を与えたと言ってもいいだろう。

それでも生糸を輸出して外貨を稼いでは軍備や国内で不足する鉱物などの素材の購入に当てざるを得ず、女工哀史に代表される女性や労働者の犠牲によって日本の殖産興業が成長していくあたりは、日本というのは昔から「ブラック企業体質」なのかと少々苦々しい思いも禁じ得ない(^^;)

日本が外貨を稼ぐもう一つの輸出品としては「人身売買」があった。奴婢(ぬひ)と呼ばれ、平安時代までは商品と同様に売買された。末期には禁止されたが、生活苦からの口減らし、借財のカタに「年季奉公」として生活の一切を管理される就労形態はその後も近代まで続いていた。商品として輸出された私娼「からゆきさん」の存在は有名だが、このあたりの詳細は別の機会に検証するとして、日本の近代化の象徴とも言える明治維新だが、工業を見てみるとそれ以前から近代化の波は訪れていた。


小栗上野介幕臣小栗上野介は、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国した男だが、その際の見聞を活用し洋式軍隊を整備、横須賀製鉄所を建設するなど、日本での実務的に最初の近代化に着手した人物とも言える。

渡米の際、ワシントン海軍工廠を見学し製鉄・金属加工技術など当時の先端産業に触れ驚愕したことが帰国後の数々の近代化の着手につながった。このワシントン海軍工廠来訪時には記念に「ネジ」を持ち帰ったという。

この逸話は、第二次世界大戦後に自転車にエンジンを取り付けたバイク製造から勃興した本田技研工業の創始者本田宗一郎がバイクの世界的レースに挑戦すべくイギリス「マン島TTレース」の視察に行った際も当時の日本になかった「+(プラス)ネジ」を持って帰ったのに通じていて面白い。

洋行帰りとあって、外国との折衝や幕府財政の再建にも従事していたが、1863年には横須賀での製鉄所建設を幕府に承認され建設に取り掛かる。設備の殆どは幕府が懇意にしていたフランスからの輸入品であった。1865年(慶応元年)に完成し造船所に拡張する計画もあったが、幕府が明治維新(戊辰戦争など)で消滅したため明治新政府に接収され引き継がれる。後の横須賀海軍工廠である。

清輝1876年(明治9年)には早くも国産初の蒸気軍艦「清輝(せいき)」を竣工している。それまで初期の海軍は幕府からの接収艦や外国での建造艦(発注)で編成されていた。※画像クリックで拡大→

ペリーの黒船の蒸気軍艦からしばらくは内燃機関は石炭を燃やして蒸気機関を動かすいわゆるSL(蒸気機関車)と同じ原理で動いていた。その後蒸気でタービンを回す形式に変わるが、日露戦争(1904年:明治37年)当時は、ほとんどが旧型の蒸気レシプロエンジンだったと思われる。

小栗は製鉄・造船のみならず銃・大砲・弾薬などの兵器類の国産化も推進し結果的にはすべて明治新政府がその遺産を受け継ぐことになる。小栗上野介はこれらの軍事および財務面でも優秀な官僚として倒幕派も認めるところだったが、戊辰戦争の余波を受け幕府側の要人として斬首されたのは何とも惜しい話である。


明治新政府が真に英明な政権であれば、旧幕臣の中からも優秀な人材であれば積極的に登用すべきであったが、明治初期においてはまだまだ「報復的人事」が多く、旧幕臣の中で新政府において要職にありついたのは、最後まで抵抗していた榎本武揚という点も皮肉である。(投獄されるが新政府軍内部の助命工作もあり特赦の後、1874年:明治7年駐露特命全権公使に就任)

明治期には文明開化とともに勃興した財閥が数多くある。土佐藩出身の岩崎弥太郎を創業者に持つ三菱が代表格だが、巨大企業にのし上がったのは海運業を皮切りに造船・鉱業・鉄道・貿易など多岐にわたって事業を拡張していったことと無縁ではない。明治新政府に近い人脈を利用して最大限に成功した財閥と言えるが、独占的で同族世襲の経営が「独裁的」と批判を受けることも少なくなかった。

すでに江戸時代に豪商に成長していた三井財閥住友財閥はそれぞれ平安時代の藤原氏や桓武平氏をルーツに持つ名家であり、三菱とは敵対関係にあった。安田財閥は江戸末期に金融業から急成長した財閥だが、他の財閥と異なり経営の多角化が一番遅いものの豊富な金融資産を背景に急速に成長した。

これらの財閥は政治と深く絡みながら利益を得、それが政府の新しい事業を起こす際の原資ともなった。現代ならさしずめ「政・財・官」の癒着と騒がれスキャンダルになりそうな話だが、新しく国が興る時には必要な共同作業と言えるのかもしれない。

また、明治時代の産業界の発展に渋沢栄一の名は外せないだろう。

渋沢栄一:wiki
大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。

そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。

渋沢栄一渋沢栄一の思想は、ややもすると公平性を拡大視した左翼的なものにも見えるかもしれないが、明治時代はまだ産業の勃興期であり、市場の成熟も自由競争も政商などの台頭で阻害されかねない状況を考えればごく自然なものであったろう。寡占状況を嫌い、官の奢りを嫌った渋沢らしいプロディース哲学と言える。その辺りを見ると渋沢は日本の資本主義の父であると同時に、正当な市場原理・競争原理を育てた名コーチであり、企業間競争を根付かせたマッチ・メーカーとして手腕を発揮した人と言えるのではなかろうか。

何より武士階級の中でも貧しい家から身を起こした岩崎弥太郎が貪欲に事業を拡大し、渋沢栄一のような「公平性」「公共性」「倫理性」にはあまり配慮しなかった点は、企業のエゴイズムをある意味で象徴していたし、この時代において日本が幸運だと思えるのは、渋沢栄一のような「人格者」が日本の近代化・産業革命時に大きな影響力を持ったことであろう。

今STAP細胞関連で話題になってる理化学研究所も渋沢栄一による創立であるのを見ても、現代の企業群の大半は渋沢の影響を抜きには語れない。それでもこの日本の近代化が急速に進捗した時代、光に影がつきもののように闇の部分も内包されていた。


チッソ(日本窒素肥料):wiki
戦後の高度成長期に、水俣病を引き起こしたことで知られる。旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、センコー、日本ガスなどの母体企業でもある。
主な子会社・関連会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがある。また、日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。

日本窒素肥料は野口遵の創立した企業の一つで、野口もまた渋沢のように数多くの企業の創立に関わった。

野口 遵野口遵:wiki
野口 遵(のぐち したがう、1873年7月26日 - 1944年1月15日)は、日本の実業家。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者でもある。
朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州、海南島にまで進出した。森矗昶、鮎川義介などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた。


後に水俣病を起こした原因企業だが、水俣病一つでこの企業の存在を否定するのは早計である。ここから別れて日窒コンツェルンを構成する企業群の成果を考えれば、現在の日本に至る全てを否定する事につながってしまうからである。

足尾鉱毒事件:wiki
足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。

足尾銅山
(中略)
足尾鉱毒事件に関しては、主に被害者側の視点での記述が多いが、中立性を確保するため、古河側の主張も併記する。ただし、古河側が直接、鉱毒に関して言及している例は非常に少ない。古河側の直接的な文献で、鉱毒に関する言及が多い文書には、古河鉱業刊『創業100年史』(1976年)がある。なお、古河鉱業は鉱毒という語を用いず、「鉱害」という語を用いている。
これによれば、1740年に既に渡良瀬川沿岸で鉱毒による免租願いが出されていることが当時の文献から確認でき、鉱毒は古河の経営になる前から存在したと主張している。また、当時は圧力があって文献では残っていないが、1821年に鉱毒被害があった、という研究も紹介している。
古河側の主張によれば、(第1次)鉱毒調査会による鉱毒防止令による工事と、大正時代までに行われた渡良瀬川の治水工事により、鉱毒は「一応の解決をみた」(『創業100年史』より)と述べている。この時代、待矢場両堰普通水利組合などが鉱毒に言及していたことについては記述がない。

明治時代に勃興した財閥の一つである古河財閥の根幹企業である古河鉱業による日本の近代史上最初の公害と言える足尾銅山鉱毒事件だが、それ以前からも鉱毒の存在は知られていたり企業だけの責任を問うよりも、国民の生命・厚生面よりも経済発展を優先していた当時の国情を反映していると言えなくもない。

現代においては、福島第一原発の東日本大震災の影響での事故は、「原発推進」「国産エネルギーの確保」という官庁主導の産業施設が及ぼした被害構造としては似ているような気もする。被害の因果関係や最悪の状況がそれなりに想起しうる時点で最適かつ最良の対策を講じず、結果として甚大な被害を後世にわたって残すことになったからである。

豊かさや利便性を大多数の国民が享受する時、そこには必ず犠牲となった人々がいる。過去においてはそれらの人々は十分には救済されず、解決は遅れに遅れた。現代でもその構図は全く変わっていないように感じるわけだが、ただひとつ状況として異なるのは、被害者救済がいつの時代でも試みられてはいるものの、現代においては被害者救済よりも優先して「被害を生み出した企業や官庁への攻撃」が行われ、それが「反社会的利権」と結びついている実態がある。

巨額の倍賞費用が見積もられ、その結果、柏崎刈羽原発の再稼働が必要になる:座間宮ガレイのキラーメルマガ!
仙谷由人の著書「エネルギー・原子力大転換 電力会社、官僚、反原発派との交渉秘録」にも、それが現れている。政治家は、原発の被害者賠償についてどのように考えているんだろうか。それは一般人の生理とどのようにズレているのか。

『例えば交通事故の場合、誤解を恐れずに賠償する立場でいうと、被害者が亡くなった事案のほうが負担は小さい。ご遺族に大変心苦しいが、慰謝料を支払い、一定の保証レートに基づき、まとまった金銭の償いをすれば一応話は終わる。
しかし、重大な心身障害が残った場合、治療代・介護費用のほか、多くの逸失利益の補償が延々と続く。生活を破壊された被害者の存在賠償、とりわけ、大量被害者の事件処理は困難なのだ。

私は法務大臣を兼務していた官房長官時代、和解金総額が最大3兆2000億円となったB型肝炎集団訴訟の和解協議にも当たっていたので、「この問題はこじらせてはいけない」と考えていた。

おそらく賠償額は1世帯あたり1億円をくだらないだろう。10万世帯ならばざっくり10兆円、というのが当時の私の直感だった』(P87、88)


この箇所は、福島原発事故の賠償金額の見積もりをする時を振り返って、仙谷が記した箇所だ。命を試算し、その賠償金額を税金で賄うというのが政治家の仕事だということだ。そういう心理で、そろばんを弾いているわけだ。

前回のメルマガでも書いたが、倍賞費用が大きくなると試算することで、柏崎刈羽原発の再稼働をはやめようという方針にもつながってくるわけだ。

※管理人により改行位置を変更しています。


被害者救済にかこつけた「ゆすり」「たかり」レベルの賠償金訴訟ビジネスが左翼(市民派・人権派)勢力によって運営されれば、企業側の倍賞ビジネスもまた存在する。どうも両者の綱引きが水面下で起こり着地点を探る途中で様々な情報戦が展開されるようにも見えるのだが、これでは誰が何をしようとも被害を受けた人々の救済はひたすら遅れてしまう。
被害に遭うことがなければ正に「運の良い人生」と呼べることになるが、これだけ科学や文明が進化した(とされる)現代でも人々を純粋に助ける術が進化しないのは何故だろう。これもまた近代化という産業革命のもたらした宿命なのだろうか。

福島第一原発先ごろ朝日新聞が「誤報」として謝罪した福島第一原発の故吉田所長による「吉田調書」の捏造疑惑に代表される「巨大企業=巨悪」にすり替えられ、過剰な営利主義が呼んだ捏造が誤報として受け入れざるをえないのなら、この件(情報産業である朝日新聞の不祥事)をも含めて遠く明治時代の産業勃興期にすでに「企業倫理観の鈍感さまたは希薄さ」という点で内包されていたのかもしれない。

歴史に「if」は禁物というが、政界や財界、言論界にもう数人の「渋沢栄一的公平性を重視した哲学・倫理観」の持ち主が関わっていたら、日本の未来は変わっていたのだろうか?


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帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】

日本の近代史を語る上で絶対に無視できない存在が「大日本帝国」である。戦後70年にもならんとする現代に至るまでその影響は深く、近隣諸国はもちろん世界的にもこの時期の日本という存在は興味深い存在である。以前「特亜国家考察」シリーズで近代史を国別に振り返ってみたが、今回は「大日本帝国」が行ったこととその後(現代)の影響を中心に掘り下げてみようと思う。
前回と同様に不定期・不連続のシリーズとなる。まだ私自身もどの程度の規模になるか想像がつかないが(^^;)よろしければお付き合いいただきたい。

大日本帝国の成立と発展

近代化日本の象徴でもある国体としての「大日本帝国」というのは、当然ながら明治維新直後、最初からの政治体制ではない。はっきりと形になったのは1889年(明治22年)に発布され翌年施行された大日本帝国憲法からである。

大日本帝国:wiki
大日本という表記は「オオヤマト」としては古来用いられており、明治時代に国名として初めて使用されたという訳ではない。 帝國も訓読され「スメラミクニ」(皇御国)として古来我が国の通称として用いられてきたものであり、古代に始まる天皇国家たる事実に基づくもので、政治や思想、主義、規模等に基づく「Empire」(帝国)とは一線を画している。


明治維新直後の日本は、天皇親政を名目に数名の総裁・議定・参与の三職を中心とした薩長連合政府であった。政治思想的にも「帝国」の概念は薄く、欧米列強の侵略・内政干渉を排除するために近代化を優先、殖産興業を振興し「富国強兵」をひたすら求めた時期でもある。
この日本の歴史上最も急変的な制度改革の弊害は、西南戦争に至るまでの国内での反政府暴動(蜂起)に見て取れる。

西南戦争
「田原坂合戦の圖」<画像元:西南戦争錦絵美術館>

この反政府行動の遠因に士族の不満の爆発というものがあるが、最後にして最大の内戦となった「西南戦争」の場合は、西郷隆盛を代表とする「国内残留派」と岩倉使節団などの海外視察組である「洋行派」の考え方の違いが決定的な対立を招いたと見る考え方もある。言わば「保守」vs「革新」の戦争であり、この場合は「革新」派の明治新政府が勝利した。

海外を見た「洋行派」は、急激過ぎる変化をもたらし弊害が出たとしても、それを乗り越えなければ世界に取り残されるどころか、欧米列強の支配に屈するリスクが高いと考えたのは当時としては無理もないと思われる。しかし西郷の急ぎすぎることを危惧する考えも当然であるし西郷はそうした「新しいものへの拒否反応を全て引き受けて心中する」くらいの覚悟はあったようにも思われる。

岩倉使節団
<画像元:彦九郎と歩むページ>

そういう「損な役回りでも国のためになるなら一命を惜しまず」という心情は、当時の士族階級には強くあったことは、幕末の討幕運動や戊辰戦争が最後に北海道で終結するまでの戦いで幕府側・維新側の区別なく感じられる特徴でもある。

この西南戦争で不平士族集団を粉砕したことで、これまでの武士の時代が完全に終わったことが日本人の共通認識になったことは間違いがないし、それまでの身分制度が崩壊したことに庶民レベルでの高揚感は非常に高くなったことは想像に難くない。

実際は旧士族や公家などの貴族階級は官位・爵位を得て、大きなくくりでの身分制度に塗り変えられただけであったが、表向きにでも絶対権力者たる階級が天皇(宮)家以外には無くなり、「無礼討ち」など身分の差だけで生命を奪われる差別が無くなったことは庶民には相当な開放感があったのではなかろうか。

日本の近代化の功績を数字で見てみよう。

日本の人口統計〜歴史人口学による推計:wiki
現代の歴史人口学研究者の推定では、日本の人口は8世紀には450〜650万人。1000万人を越えたのは中世後期、早くとも15世紀以降と考えられている。江戸時代前半の17世紀に急増し、18世紀から19世紀は3000万人前後で安定化した。


江戸前期
享保17年(1732年)3110万人※推定値+補正含む
天明 6年(1786年)2935万人

江戸後期
天保 5年(1834年)3166万人
弘化 3年(1846年)3148万人

江戸末期
嘉永 5年(1852年)3106万人
文久 2年(1862年)3288万人

明治維新以降
明治 5年(1872年)3480万人(+ 192万人)
明治15年(1882年)3726万人(+ 246万人)
明治25年(1892年)4051万人(+ 325万人)
明治36年(1903年)4555万人(+ 504万人)
大正 3年(1914年)5275万人(+ 720万人)
大正13年(1924年)5888万人(+ 613万人)
昭和 9年(1934年)6830万人(+ 942万人)
昭和19年(1944年)7306万人(+ 476万人)
昭和29年(1954年)8830万人(+1524万人)

国勢調査以前の日本の人口統計〜全国人口:wiki

年齢(各歳),男女別人口(各年10月1日現在)−総人口(大正9年〜平成12年)※Excel書類ダウンロード:e-Stat政府統計の総合窓口

江戸時代は自然災害も多く飢饉などで人口減少もあったため3100万人程度を上限に増減を繰り返していたが、明治維新による文明開化・経済政策の効果で福祉的医療環境の充実により人口が急激に増えていることがわかる。
ただしこのデータにはかなりの誤差があり江戸時代のものには琉球(沖縄)は含まれず、戦前の植民地である台湾・朝鮮・樺太の人口は含まれない。

ちなみに朝鮮の人口推計を見てみると、

1904年(明治37年) 710万人 ※日露戦争(1904年〜)李氏朝鮮による調査
1907年(明治40年)1167万人(+ 457万人)※日本(朝鮮総督府ほか)による調査
1910年(明治43年)1313万人(+ 146万人)※韓国併合
1942年(昭和17年)2553万人(+1240万人)※日本敗戦の3年前

日本統治時代の朝鮮〜人口推移:wiki
※李氏朝鮮による調査は徴税を目的としているため申告式であり、身分と収穫率にしたがって軍役と無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層は申告から除外されたり漏らされたりしているので、実際は調査結果の1.5倍程度の人口があった可能性がある。


1904年からたった3年で450万人も人口が増えるのは不自然なので、やはり李氏朝鮮政府の調査が不正確であったと考えるべきだろう。保護国にして行政をコントロールし始めた途端に人口が増え、併合から約30年後にはほぼ倍増しているところを見ても日本側の近代化政策による恩恵は、朝鮮半島でも如実に現れている。併合による民族差別などはあったにせよ、それまでの李氏朝鮮政府ではなしえなかった多岐にわたる近代化と福祉政策は朝鮮民族の生活の向上に役立ったことは間違いない。

南大門通り
1888年 ソウル 南大門大通り<画像元:http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html>

GDPグラフ
※クリックで画像拡大

1人当たりGDPの歴史的推移(日本と主要国):社会実情データ図録
 明治維新で富国強兵の道を進んだ日本に比べ、中国や韓国は近代化に遅れ、欧米との格差が広がり、世界平均を大きく下回る軌道となった。韓国は1980年代に世界平均を上回り、大きく成長し、今や先進国水準となった。中国もなお世界平均には届かないものの1990年代以降成長軌道に乗った。


成長率
※クリックで画像拡大
<画像元:図録▽経済成長率の推移(日本の戦前及び戦後直後):社会実情データ図録 ※歴史的事象は管理人により追加>

朝鮮半島の植民地経営に関してはまた別項で検証するとして、日本としての経済はGDPの伸び率に比して成長率は驚愕するほどの乱高下を繰り返している。戦争や災害、世界経済の影響を受けるとはいえこれでは国家経済の脆弱性が中々解消できるはずがない。

日本の経済史〜明治政府と富国強兵:wiki
 明治政府が成立して徳川幕府を倒すと、明治政府は「富国強兵」「殖産興業」政策によって、軽工業を中心に工業化・近代化を遂げ、株式市場での直接金融による資金調達をおこなう近代的な市場経済を発達させた。主な輸出品は絹糸、マッチ、電球などの軽工業製品であり、特に絹糸は、第二次世界大戦終結まで「外貨獲得産業」ともなった。又、1900年代には鉄鋼など重工業も始まったが発達せず、輸入超過が続いた。
財閥と呼ばれた巨大企業は、1900年代から多くの分野に手を出し始めた。日清戦争と日露戦争と、度重なる対外拡張政策などにより、日本の対外債務は膨張。1905年から1914年にかけての時期は不況となり、明治維新以来の経済体制は崩壊の危機に瀕した。
又、第二次大戦終結まで続いた「富国強兵」時代の経済指標として、軍艦の保有数が目安にされていた。


国家歳出中に占める軍事費
※クリックで画像拡大
<画像元:日本の面影 ※歴史的事象は管理人により追加>

国家歳出の85%が軍事費になっている大東亜戦争時は別格としても、大きな戦争を行っている場合は歳出の大部分が軍事費ということになる。戦争特需で国内産業は短期的なバブル状態かも知れないが、戦争が終われば反動を受けて景気の縮小が起こり、不況になる繰り返しとも言える。

戦前の主要国GDP
※クリックで画像拡大
<画像元:UNITED DEFENCE(第二次世界大戦前・戦中の主要国国力)※図表を一部改変>

後の第二次世界大戦時の枢軸国と連合国のGDP比較である。国力の差は歴然で富国強兵を進め、世界的には軍事大国になりつつあった日本だが、日米戦争開戦時にアメリカの20%のGDPにまでしか到達していない。枢軸国のドイツもわずかに日本を上回る程度で、アメリカを敵にすることがどういう結果を招くか、理解できない政治家はいなかったろう。

経済的には日本民族の得意(?)とする一極集中型の急成長ぶりは、戦後復興や災害復興でも見られるが明治維新という劇的な変化の中でも同じように「日本人の民族活性化」が起こっていたといえるかもしれないし、それによって富国強兵は成果を出したといえるかもしれない。

2度の対外戦争と間接的な参戦(第一次世界大戦)で軍事大国化に成功した日本だが、国内的には帝国憲法を制定する時点で「帝国」という言葉を用いたことで、日本の求める国家像を明確化したとも言える。

帝国主義:wiki
帝国主義(ていこくしゅぎ、英語: imperialism)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策。


植民地主義:wiki
植民地主義(しょくみんちしゅぎ)とは、国家主権を国境外の領域や人々に対して拡大する政策活動と、それを正当化して推し進める思考を指す。
政策活動に際しては、資源、労働力、そして市場を経済的に支配することが原動力となる。さらに、植民地主義を正当化するのは、植民者が被植民者より優れており、また、植民地支配はその近代化に必須の経済基盤・政治基盤を発展させることに繋がるので、被植民者にとって利益になるのだという考え方である。


日本にとっての脅威とは、日本に直接外交使節を送り込んできた欧米列強の中でも日本に一番近く「南進」の野心を露わにするロシア帝国であったろう。

だが、上記wikipediaの定義を見る限り、欧米列強はもとより新興帝国の日本もまた「侵略的」な国威拡大路線を求めていたことは間違いなかろう。当時でももちろん平和共存の思想は有り、普遍的には肯定的ではない考え方ではあったが、世界的に植民地主義の時代であり、国家的には大義名分さえ得られれば財政の許す限りこれを求めることが当然とされた「弱肉強食」の時代でもあった。

上述の韓国併合や中国大陸への度重なる出兵は、当時の日本の独立と安全保障上の危機管理や資源を持たない国としてのエネルギー政策・経済振興など多岐にわたる国内問題の活路を国外に求めざるを得なかった点と、軍事力に物を言わせて国益を追求するのが、当時の国際的な競争力の自然な形であった点は、日本が「侵略的野心」をもたせる最大の要因になったことは想像に難くない。

以上おおまかに経済面をなぞってみたが、次回以降はもう少し細かいディティールを追いながら、大日本帝国の歩みを見ていこうと思う。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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出任せ【でまかせ】

出任せ:語源由来辞典
【意味】でまかせとはいい加減なことを言うこと。
【語源・由来】でまかせは口から出るに任せることである。
すらすらと口から言葉が出るのは、感情がこもっていなかったり、いい加減な話をしているときが多いため、「出るに任せる」と言うようになり、「出任せ」となった。

この言葉を聞くときに真っ先に思い浮かべる人物がいる。

ふるたち

顔も見たくないほどに私の嫌いな人物なのでモザイクをかけている(爆)しかしテレビ朝日の「報道ステーション」をご存知ならすぐに分かるだろう。以前放送されていた久米宏の「ニュースステーション」終了に伴い、メーン・キャスターとして「報道ステーション」の看板キャスターに抜擢された人である。私はこの人を報道人とも思っていないしキャスターとも思っていない。アナウンサー出身だが、アナウンサーとしてもあまり評価していない。
「言葉を弄ぶ芸人」
としてならかろうじて認めることができるが、ここ数年は報道番組のイメージのために他の番組への出演を控えているらしい。
私のような「彼を嫌う視聴者」に取ってはむしろ幸いだ。CMにも出ないので「報道ステーション」さえ見なければ、彼が存在しない世界に生きることができるからだ(爆)

近頃例によって「馬鹿丸出し」のコメントを披露したらしく、ネットで肴にされていた(^^;)

報ステ古舘氏の自宅の扇風機は手動式? 雷雨で停電、エアコン使えず「扇風機で暑さしのいで」:J-CASTニュース
「あの落雷の影響で、東京、千葉、埼玉で、夜の9時の段階で5000軒の停電ということですから。停電しているとなるとエアコンとか使えなという状態で、湿気を含めて暑いとなると、また熱中症の心配とかが出てきますから。扇風機を付けるとか、できる限り。窓を開けていただいて風を通すとか、治安のこととかあるんですけど、工夫してもらいたいなと思いますね」

停電の意味を知らないわけではないだろうし、団扇や扇子のことを言いたかったのかもしれないが、誰でもすぐに突っ込めるボケを真面目な顔でいうあたりの痛々しさ(あるいは天然ぶり)は、この人の右に出るものが・・・最近では思いつかない(^^;)

台本に無いコメントを言う時がこの男の弱点のようだが(^^;)もう少し自分の発言は「考えてから言う」様にした方がいいだろう。そうでなくてもこれまでのコメントには少なからず批判を受け、その知性のほどが本人の自意識ほどには高くないのが丸わかりなのだから(^^;)

古舘伊知郎氏 情報を処理できずピント外れの発言を繰り返す:NEWSポストセブン
 例えば池上彰のような、事象の複雑な背景や専門家のコメントを整理し、問題の本質を視聴者にわかりやすく伝える情報処理能力が古舘にはない。他の出演者に話を振るキャスティング能力も乏しく常にひとり相撲。挙げ句、「空模様の4Kテレビ」といった意味不明の日本語を発する。

古舘伊知郎氏 番組で都合のいい「権威」を見つけてひれ伏す:NEWSポストセブン
 かつて一世を風靡したプロレスやF1実況での古舘スタイルは、アントニオ猪木やアイルトン・セナら「権威」を手放しでヨイショして、敵や手下を脇役にするものだった。
 例えば、セナを『音速の貴公子』とする一方、ライバルのプロストを悪代官に仕立て、『勝ちゃあ、いいんだろう走法』と揶揄した。世界の複雑さをデフォルメし、単純な勧善懲悪ドラマを仕立てるのが「古舘ワールド」の基本形なのだ。
 しかし、報道では政治家や官僚をヨイショするわけにもいかない。そこで、朝日新聞という権威(恵村)にひれ伏して「そうですね」を連発し、卑屈なイエスマンぶりを発揮する。一方、恵村が批判する対象には傲慢さを見せる。

SAPIO
上記はいずれもメディア論が専門の関東学院大学教授・新井克弥氏のSAPIO8月号への寄稿からの抜粋だ。
私はSAPIO8月号をたまたま買っていたので、改めて読むと以前から彼に感じていた「偽物感」をきちんと分析してくれていて清々しくさえある(^^;)やはり「背伸びしてお利口さんに見られたい」セコさは誰にでもわかるようである。

彼のファンはそれでも少なからずいるらしく、彼の描く「単純明快・勧善懲悪図式化」でしか物事を見られない「面倒くさがりな人」には丁度いいのかもしれない。
多少偏向してるものの、「わかり易い言葉におきかえて説明する池上彰」ほどのサービス精神またはその能力もなく、事実・事象に偏狭なイメージ付けをして、視聴者にわかったつもりにさせるあたりはもはや犯罪的でさえある。少なくとも私はそう思っているし、彼が出演しているTV局「アサヒ」の基本理念を考えればそれはむしろ必然なのだろう。

天下の大捏造反日売国メディア大アサヒ様を唯一の食い扶持にしている以上、彼の役割は「キャスターを演じられるタレント」で十分。池上彰のような「ジャーナリスト出身」は、局お仕着せの情報を垂れ流すだけの「演者」になることを嫌うから、自力の取材内容を盛り込める週一の番組のMCは引き受けても、毎日のキャスター役は決して受けることはないだろう。だからこその「池上彰ブランド」なのだが、朝や昼間のニュース・ワイドと同じに毎晩流される「お昼よりは高尚な雰囲気を醸し出したい報道ステーション」ではあっても、実務能力よりも「タレント・キャスター」としてのネームバリューが優先されたのだろう。

私は「報道ステーション」は、お天気コーナーやスポーツコーナーをチャンネルを変えた時にたまたま見ることはあるが、報道部分の本編をまともに見た事は無い。この人が画面に現れた瞬間にチャンネルを変えるからだ。番組をちゃんと見ずに批判しているわけだが(^^;)看板男を変えただけの「ニュースステーション」とほぼ同じ作りであるなら、まず間違いはないだろう。

そして(もう見なくなって数年経つが)関口宏が看板男の日曜朝のニュースワイド、TBS「サンデーモーニング」も同じだ。関口宏の方が自分が「ジャーナリストではない自覚」がある分まだマシだが、番組全体で訴える「反日売国的」論説のオンパレードは、特定の主観のもとに公平性を装った「口から出任せ」にも似た底の浅さが垣間見えてくる。

訳知り顔のコメンテーターのお説はいつも「批判的」「理想論」「現状分析のすり替え」でしかなく、国の政策の進むべき方向の提言は皆無で、懐疑的で悪意的な詭弁や針小棒大な問題提起によって、ピントがずれた結論へ視聴者を導くように見えて仕方がない。まともに見たことはないが多分「報道ステーション」も対して違いはあるまい(^^;)

「お利口さんになりたい」願望の彼だが、一応やってる方はそれなりに思うところがあるらしく変なところで暴露話を展開していた(^^;)
古舘伊知郎が懺悔告白“テレビはウソしか伝えていない”:リテラ
 と、書いてはみたが、古舘に頼らざるを得ない状況というのも、なんとも情けない話ではあるよなあ……。

リンク先で内容を確認してもらっても構わないが、結論は引用した部分だけを読めば十分だろう(^^;)

この記事の筆者は彼を擁護したいらしい。以前、「原発関連」で妙に噛み付いたことも確かにあったが、読み捨ての新聞メディア以上に一過性なメディアである「テレビのニュース」には、継続して情報分析をするのは不向きである。そういう意味では月刊誌のSAPIOなどの媒体の方が、新聞よりはまだ分析の選択肢が広く、記事の書き手が実名で出ていることも有り、よほど「ワイド」なニュースの背景が読み取りやすい。

その月刊誌SAPIOでさえ、ネットで情報収集に慣れていると「目新しい記事」とは思えない物がほとんどで、図表・写真がネットよりは充実していたり保存性が高い以外は、わざわざ買うメリットがないのも確かだ。

ここまで書いて私がそれでもニュース番組を見る(特定の事柄でいろんな局のニュース番組をはしごしてまで見る場合もある)のは、各局の微妙なニュアンスの違いを比較する意味もあるが、殆どの場合ネットニュースで読んだ内容の確認であり、「音声読上げソフト代わり」に利用しているようなものかもしれない(^^;)

その程度の認識で「テレビのニュース」を見るならば、最初から「真実の報道」など期待しない(爆)各メディアがニュースのどこに力点をおいてどういう方向づけをしたいのかを知るためのツールとしては非常にお手軽である。

そんな「ニュース・キャスター」になった彼が、プロレスの実況アナとして人気を博した時、すでに私はアンチの領域に入っていたのだが(爆)その原因の最たるものは「彼の開発した新語のめちゃくちゃさ」である。

古舘伊知郎の名(迷)実況・フレーズ・キャッチコピー集:喪女ぶろ

「燃える闘魂」「音速の貴公子」などは代表的で彼の語録の中では名作と言えるものではあるが、「音速の貴公子」はwikiによると「空気中での音速(およそ速340m、気温により変化)とフォーミュラカーの最高速度(およそ速340km)の単位を混同していた」というくらい無知のなせる技でもある(爆)

私がプロレス実況での「馬鹿フレーズ」でもっとも印象に残っているのは、

逆下克上(ぎゃくげこくじょう)

なのだが、日本語としても漢字の意味するところとしても明らかにおかしい。

下克上:wiki
下剋上 / 下克上 (げこくじょう)とは、日本史において下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為をさす。

「下克上」という下位の者が上位の者を倒すことの「逆」だから、上位の者が下位の者を倒す・・・。潰しにかかる。圧力を掛ける。
あったりまえじゃん!それ普通じゃん(爆)
何言ってんのお前(爆)

彼の言葉の無意味さは、彼の出世番組だったプロレス実況時代にすでに現れていて、現在に至るまで何も変わっていないことがよく分かる。ただし、だからといって彼の番組を見るなとは言わない。彼の本質を知った上で、「生暖かい視線」よりは「冷ややか」な、「生ぬるい視線」あたりで楽しんでいただければいいのである(^^;)

どうせ私は死んでも見ないし、私のように見ない人間が増えて、彼が番組を降りたりキャスターが変更されでもしたら、他の番組などに露出してくる可能性が高くなる。

私にとってはこれほど迷惑なことはない(爆)

今のようにあの番組に隔離してもらっていたほうが有難いのだ(^^;)いやホント(爆)

どうせ「口から出任せ男」よろしく「トーキングブルース」という「漫談ライブ」もやる彼なので、そういうつもりで受け流してやれば実害はほとんどなくなるし、今回のような天然ボケを愛好する方には、貴重な生ける標本でもある。

某隣国のように、深入りせず、半ば無視するくらいの認識で、それでも生存権(視聴率)は与えてやるあたりの視聴態度でお願いしたいのだ(爆)

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