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帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】

北海道

北海道開拓使の時代

蝦夷共和国:wiki
江戸時代後期、慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。徳川慶喜の静岡下向を見届けた海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組や彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷地全島を支配下に置いた。

戊辰戦争の最後の残り火が蝦夷共和国であった。旧幕府の残党による独立地域政権ではあるが、wikiにもあるように具体的な政権が日本最初の入札(選挙)で確立されたのは明治新政府より早く、皮肉というべきかもしれない(^^;)

開拓使:wiki
開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために明治2年(1869年)7月8日から明治15年(1882年)2月8日まで置かれた日本の官庁である。
樺太開拓使が置かれた明治3年(1870年)2月13日から明治4年(1871年)8月7日までは、北海道開拓使と称した。開拓使設置前の北海道行政は箱館府(箱館県)が行なっていた。開拓使の廃止後は札幌県・函館県・根室県が設立された。

北海道から樺太までを想定した大規模かつ広範囲な開拓事業であったが、あまりにも広大な土地と厳しい自然の前に明治8年(1875年)ロシアと千島樺太交換条約を結び樺太を放棄、領土を確定することになる。この際樺太に居住していたアイヌ族は半ば強制的に北海道内に移住させられた。本土からも広く居住者を募り、北方の国土防衛兵力確保と開拓の労働力の供給という2つの目的を持つ屯田兵が配備された。

余談だが、戸籍(除籍簿の写しによると)私の先祖、曽祖父の代に函館に移住した記録が残っていた。詳細な書類が紛失状態でうろ覚えなのだが、その地で祖父は生まれ、祖父の代に本土に帰着(関西地方)し、父が生まれているようだ。一般の開拓民としての入植だったとは思うが、ひょっとしたら曽祖父は屯田兵の一人だったかもしれない。その確認をしたかったが、残念なことに肝心の記録書類がどこにしまいこんだのか誤って廃棄してしまったのか不明である。(後日発掘できればここに追記する場合があるかもしれない)

北方警備と開拓の両立を考えたのは明治新政府だけではなく、坂本龍馬なども明治維新以降、失業した士族の雇用対策として考えていたようだが、国民皆兵を意図する新政府では当初こそ「屯田養子」と呼ばれる「士族身分を与えることで意欲・責任感の向上」を図っていたものの、後に開拓移住者として北海道に渡る者も増え有名無実化していったようだ。

国全体が「新しい国家としての高揚感」を持ち合わせていた時代ならではのことだとも言えるが、同時に移民によるアイヌの同化政策としての側面も有り、必然的に北海道における彼らの生活圏は縮小させられることになる。

開拓の風景:明治の礎 北海道開拓
「開墾は、それはもう厳しいものでした。木の根があり、石があり、支給された鍬は、すぐ歯がボロボロになり何の役にも立ちません。まず木を切り倒し、薪にして売りに出します。その後、根を掘り起こし、大きな根は火薬抜根でおこしていきます。樹齢100年以上と思われる桂の木や、楢の木が何のためらいもなく次々と薪にされていったのです。やっとの思いで拓いた土地に、麦、トウキビ、イナキビ等を植えましたが、斜里岳下ろしの強風にあおられ、なかなか収入には結びつきません。(中略)お風呂は下駄をはいて入るドラム缶、外には、熊、きつね、たぬき、へび等がこちらの動きを伺っています。(中略)卵を得るために飼ったニワトリは寒さのため卵を生まず、肉を得ようと飼った豚は、食糧不足のため太らず、(中略)1間しかない掘っ立て小屋は、真ん中に炉が切ってあり、薪を燃やして暖をとり、夜はおき火に灰をかけ、四方から足を入れ炬燵にして休みます。朝起きると、布団の衿が凍っていたり、ふぶきの日には、布団の上にも雪が白く積もっていまいます。もう少しましな家が欲しい、と皆さんに手伝ってもらい、柱を建て終わったところで、強風のため吹き飛ばされてしまったのです。この時に、開墾をあきらめ山を下りる決心をしました。」

「家といっても、小さな拝小屋でした。板、柾、釘等何もないので、やちだもの木の皮をむき、ぶどう蔓でゆわえて屋根にし、熊笹とか松の枝をぶどう蔓で巻いて壁にし、床は土間でした。真ん中に炉が切ってあり、大きな丸太んぼを常時くべ、火種を絶やさないようにしていました。くべる木は、なら、いたや、しころ等で、おんこや松ははねるので使いませんでした。何にしろ、寝るところが笹の葉をしきつめ、ムシロをしいていましたので、火がはねると大変なのです。(中略)海水は命の水でした。浜へ遊びに行く時は、それぞれが一升びんやがんがんを持って行き、帰りには必ず海水をいっぱい入れて帰って来ました。塩、味噌、正油が手に入るまでは、この海水が唯一の調味料でした。」
開拓移民
「ストーブもなく、川辺に石を積み、かまどを作って天気の良い日には外で食事、雨天はやむなく家の中で、煙突もない、かまどなので煙が家の中にたちこもり、天窓はありましたが開けられず、飯川さんの仏像が燻製になるのではと思いました。雨もりにも悩まされ、濡れては困るものを抱えて、一晩中逃げ回ったこともたびたびでした。ランプもなく、作業用ガス燈が一つだけでしたから、海岸でトッカリ(アザラシ)を捕り、その油を貝殻に入れて灯しました。肉も大切な栄養源でした。初めは、浜から拾った貝殻を食器替わりにしていました」(以上斜里女性史をつくる会発行『語り継ぐ女の歴史』より)。

これらの手記は昭和20年代に網走へ移民した女性たちの記録ですが、昭和時代でさえ、開拓民は縄文時代さながらの暮らしを強いられたことが分かります。明治の開拓民の厳しさはおそらく今の私たちの想像をはるかに超えるものであったと思われます。

昭和20年代ということなので、終戦後の飢餓のリスクが最も高かった時代、政府の支援は受けられず、さらに北海道沿岸にはソビエト軍が北方4島を占拠し住民を追い出した時期で、いつ彼らが上陸してくるかもわからない時期である。明治時代よりも移民自体が楽であったはずはないのだが、明治時代でもやはり生活の基盤となる集落や耕作地の開墾から全てやらなければならないわけで、状況はあまり変わらなかったかもしれない。

そして何より、移民たちが苦しめられたのは、北海道の土壌が作物を育てるには不向きな特殊土壌(泥炭土・重粘土・火山性土)だったことである。開墾はもちろんだが土壌改良も行う必要がある土地が多く、収穫を得るまでには想像を絶する労働力と時間の消費が必要だった。

このような自然環境があったために、この北の大地は長らく開拓されず、近代まで原始時代の自然が温存されたと云えるのだろう。

「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士を頂いた札幌農学校では、この厳寒の地で日本人のアイデンティティでもある稲作への挑戦が繰り返されたが、結果が出せずにいたものの中山久蔵によりようやく厳寒地に適した品種の開発に成功、明治10年(1877年)には第1回内国勧業博覧会に出品し、大久保利通内務卿より褒章を受けるほどになっている。

第1回内国勧業博覧会〜殖産興業のために:博覧会・近代技術の展示場(国立国会図書館)
1877(明治10)年の8月、西南戦争開戦の中、日本で初めての内国勧業博覧会の開場式が行われた。本会は、日本が参加した1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたものである。

博覧会と銘打ったものは、以前にも存在したが、そのほとんどが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的であった。この博覧会は、特に「勧業」の二文字を冠していることからも明らかなように、出品物の中から殖産興業推進には不必要な"見世物"のイメージを厳格に否定し、欧米からの技術と在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を前面に押し出している。

リンク先の記事中にもあるが、北海道の土壌は本州に比べても土地の性質が異なり、どこでも稲作ができるという土壌ではなかった。それを乗り越えて肥沃な土地へと土壌改良と品種改良を繰り返すことで、実に日本人らしい技術開発によって北海道の発展が始まるわけだが、光がある所必ず影もある。不毛の大地が肥沃な大地へ変わった時、これもまた日本人らしい「暴走」が始まったようだ。

明治型開発の終焉:明治の礎 北海道開拓
明治期における北海道開発の特徴は、資源略奪型の開発であったと言えるでしょう。水田が拡張していく一方で、丘陵地の畑では養分の収奪と土壌の浸食による荒廃が増えてきました。肥料もやらない略奪的農業により、地力の衰えが農地としての維持が困難になってきたのです。畑は有機物の分解が早く、栄養分は作物に吸収される一方で、雨水とともに流亡しやすい傾向があります。地道な土づくりを怠って収穫を続ければ、地力が減退し、やがて不毛の地と化します。略奪的な土地利用は、古代文明衰退における大きな要因のひとつと考えられています。こうした事態を避けるために、外国の畑作地帯では古くからそれぞれの国に応じた土地利用、農法が発達してきた。しかし、日本では畑作を主体とした大規模な土地利用型農業は未熟であり、(耕地が狭いこともあって)畜力の利用すら未発達でした。土地利用とは、人間と土地(環境)との相互関係性とも言えます。開拓者は当初、圧倒的な自然の営みの前に叩きのめされました。しかし、人間が増え、人力でそれを制御できる段階になると、今度は自然に対して無制限な収奪を続けるようになります。そして歳月を経て、再び土地(環境)から強烈なしっぺ返しを受ける。また、開拓事業によって森林の伐採、原野の開墾が進むと、河川の決壊が増えてきました。移民は大正9年をピークとして減少しはじめます。

どうも日本人という種族はイノシシのように猪突猛進し、何かにぶつかるまで暴走に気づかないものなのかもしれない。近代化も開発も災害復興もやり過ぎるぐらいの爆発的スピードと情熱で成し遂げるが、そこから先を読む能力はなく、失速気味に停滞した途端崩壊へと突き進む。

急速な近代化の後に国粋主義や全体主義が蔓延し倫理観を麻痺させ、戦後復興の後に公害や人災で多くの国民を苦しめ、高度成長の後にバブルに踊らされ経済を疲弊させる。数十年ごとに繰り返されるジェットコースターのように荒れ狂う繁栄と崩壊。

北海道の開発にはそんな日本民族の特徴が見えるような気がしてならないのだ。

そしてもう一つ。北海道開拓の歴史には忌まわしい暗部も存在することを記述して置かなければならない。

もうひとつの北海道開拓史へ:月形歴史物語
 日本が近代国家として欧米列強と肩を並べていくためには、まず北海道の天然資源が必要でした。そしてロシアからの北の脅威にそなえるために人口を増やし、農業を広め、工業を起こすことが急務とされました。北海道の開拓は、近代日本が直面したいくつもの課題を解決するために、喫緊(きっきん)の大問題として進められたといえるでしょう。
 今日ふり返ってみると、開拓の形態もまた、大きくいくつかに分けられます。まず、先に述べた移住民による「移住民開拓」。そして、開墾のほかに北方防衛の役割をも担った、屯田兵による「屯田兵開拓」。そしてもうひとつ、重罪人として服役する囚徒をインフラ整備の労働力とした「監獄開拓」です。
 中でも囚徒による開拓は、移住民や屯田兵が入植できる基盤を作るために、人跡未踏の奥地に通じる道路を開削し、橋を架け、森を拓いた過酷で困難きわまりないものでした。滝川、深川、旭川といった、大河石狩川沿いに作られていったまちも、あるいは道東の拠点のひとつである北見なども、囚人たちの凄惨な労働によって作られた道路ができてはじめてうまれたまちなのです。こうした囚人たちを収監したのが、集治監と呼ばれる特別な監獄でした。

開設当初の樺戸集治監
※開設当初の樺戸集治監


北海道集治監の誕生と網走監獄:博物館 網走監獄
征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、明治14年監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めました。

広大で肥沃な大地北海道、ロシアからの北の守りを進めるうえでも北海道開拓は重要な懸案事項でした。北海道に集治監を設置し、廉価な労働力として囚人を使役させ、北海道の防衛と開拓が進み、人口希薄な北海道に彼らが刑を終えたのち住み着いてくれたら一挙両得であるという苦役本分論のもと、明治14年月形町に樺戸集治監、明治15年三笠市に空知集治監、明治18年標茶町に釧路集治監、その分監として明治23年網走囚徒外役所が人口わすが631人の小さな漁村の網走に誕生しました。網走監獄120年の歴史のはじまりです。


網走集治監

後に網走番外地と呼ばれる流刑地としての北海道もまた開拓の歴史には欠かせない事実である。リンク先の歴史を読み進むとこの明治時代の刑としての囚人への強制労働の苛酷さ、人権無視の実態は唖然とするものがある。

一般の移民でも過酷な環境であったのに、それが囚人(政府に反逆した国事犯)ともなれば「使い捨ての労働力」としてひどい扱いを受けたことはある意味では当然だったかもしれない。それでも、それほどの無茶な労働力を投入することで成し遂げる「国家事業を完遂する消耗材としての囚人」の思想は、その後の「国家優先」「人命軽視」を既に内包していたといえるだろう。


<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

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