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帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】

沖縄県民の歴史と感情

先の沖縄県知事選挙では、辺野古への普天間飛行場移設反対派の翁長雄志(おなが・たけし)氏(64)が当選。その結果、辺野古の地元名護市と併せて当該地方自治体の両方が反対に回り、政府の移設工事を了承させる工作が一層難しくなってしまった。

政府の沖縄への対応の不味さは、古い自民党時代に始まり、政権交代後の民主党によって更に拍車をかける形になった。当時民主党代表で首相でもあった鳩山由紀夫の「非現実的な政策」が、却って日本や沖縄の相互理解と協力関係を遠ざけ、問題を複雑化してしまったように私は思っている。ことの重大性や現実性を無視して「勝手なことを言いまくった」民主党(中でも重症だった鳩山由紀夫のリップサービス的外交政策)の幻想がもたらした不幸ではある。

ただ、この一連の動きを含めてこの流れの中で沖縄人が決定的に「本州人(ヤマトンチュ)」への信頼を減退させたことは事実だし、その火に油を注いで回ったのは左翼系の反日(反政府)活動勢力であることは間違いない。

普天間飛行場
※普天間飛行場 Googlemap

辺野古移設反対派の沖縄県知事が誕生 それでも民意を無視する日本の民主主義とは――沖縄タイムス記者 福元大輔:DIAMOND on line
 沖縄の保守の代表格、西銘順治氏が1962年、40歳で那覇市長になった。革新の代表格だった2代前の市長、瀬長亀次郎氏が米軍に徹底的に抵抗し、被選挙権を剥奪された時代だ。西銘氏は市街地にあった米軍住宅の金網をブルドーザーで破った。金網があることで市民が遠回りしなければならなかったからだ。米軍に了承どころか、通告さえしなかった。米軍司令官は西銘氏の考えを理解し、金網を開け、基地内の道路使用を許可した。
 座喜味さんは「理不尽なことは許さない。権力とけんかしてでも県民のために働く。それが沖縄の保守だ。辺野古移設も、西銘さんだったら許さない」と語る。国土面積の0.6%にすぎない沖縄に全国の米軍専用施設面積の74%が集中する現状で、耐用年数200年とされる辺野古の新基地を造らせるわけにはいかない。戦後70年近く苦しめられ、さらに子や孫、ひ孫にまで基地被害を引き継ぐことはできないからだ。

この沖縄人の不公平感や被害意識は、本州人の私が批判する資格すらないだろうが、もし沖縄がいまだ琉球王国の流れをくむ独立国であったとしても、外国軍の駐留を含む周辺大国のいずれかのこういった「力の支配による弊害・影響」は、必然であったと思っている。

まず、その辺りを検証してみよう。

二重支配の国

首里城

沖縄人(琉球民族)は、前回エントリした北海道のアイヌ族とは違い、室町時代前半には独立した国家を運営していた。その独立国家が後年、日本(薩摩藩:島津氏)の侵略によって従属させられたのが歴史的には鮮明に見えるが、実は古代の大和朝廷の時代から琉球の支配者は日本に対し朝貢を行っていて、位階を受けたりしている。

当然、すぐ隣りの中国大陸の王朝にも同様の朝貢を行い、この地域の支配権を保証され、これらの大国とアジアへの海洋貿易によって琉球王朝を形成していた。地域的に特殊だったその影響は太古から現在に至るまで変わることがなかったのだ。

「日本の多様性としての沖縄--歴史・文化の視点から」(高良倉吉・琉球大学教授) :外務省
琉球王国という存在

(12)考古学者の研究によると、今から数千年前の時代から沖縄と日本本土の文化は強い共通性を持っていました。それについては言語学者の見解も同じであり、古い日本語を話す人々が、沖縄の歴史を形成する主体だったことが判っています。つまり、文化や言語の面で、沖縄と日本本土は始発駅が同じだったのです。

(補足)
・日本語は大きく「日本本土方言」と「琉球方言」に分けられること。
・日本本土方言はその下位分類として、東北方言・関東方言・関西方言・九州方言などに分けられること。
・琉球方言はその下位分類として、奄美(あまみ)方言、国頭(くにがみ)方言、首里(しゅり)・那覇(なは)方言、八重山方言などに分けられること。
・日本全体の人口は約1億3千万人、沖縄県の人口は130万人、その1パーセント。しかし、言語としては99パーセントの人々が話す日本本土方言と僅か1パーセントの人々が話す琉球方言は対等であること。
・この問題を時間を遡らせると、古い日本語、つまり「日本祖語」が始めにあって、そこから長い時間をかけながら二つの方言、つまり「日本本土方言」と「琉球方言」に分離した、と多くの言語学者は推察していること。言い換えると、古い時代に二つの方言は共通の祖先を持っていた、と理解されていること。

(13)しかし、同じ駅を出発していながら、走行距離が増えるごとに歴史という電車はしだいに違うレールを走ったのです。14世紀末から15世紀初期にかけて、沖縄の島々には琉球王国という独自の国家が出現し、日本本土の国家とは異なる動きを始めたのです。琉球王国は沖縄の島々をテリトリーに置き、首里城を統治拠点とする支配体制を整備していったのです。

(14)琉球王国は、それから500年ほどの歴史において、中国を始め日本・朝鮮・東南アジアの国々と外交や貿易を展開し、東アジアを代表する海洋王国としての発展を遂げることになります。その間に、アジア諸国の文化を吸収し、みずからの文化的なアイデンティティを発揮しながら、沖縄文化あるいは琉球文化と呼ばれる独自の文化を形成したのです。このような歴史および文化の蓄積を持つ地域は、日本の他の県にはありません。つまり、近代以前において、沖縄は日本本土とは異なる独自の歴史を形成し、文化を発展させたユニークな地域なのです。

(補足)
・アジア諸国との交流の中で、中国との関係は特別なものだったこと。琉球の国王は外交的に中国皇帝の臣下であり、その主従関係に基づく信頼関係を前提に、琉球は対中国貿易で常に優位に立つことができたこと。
・そうした中国との関係は500年も続き、この期間に公式ルートを通じて中国に渡航した琉球人の数は5万〜6万人に達すると推定されること。
・アジア諸国との交流は、日本文化を基礎とする沖縄の文化に周辺アジアの影響が強く加わり、独特の文化形成を促したこと。
・特に、エリート層の間で発展した文化は、音楽や芸能を中心に独特の美意識を含みながら展開したこと。
それらの王国の時代の文化が、現在の沖縄において「伝統文化」として継承されていること。


古琉球/統一王朝の成立「為朝伝説」:沖縄の歴史
源為朝 琉球王府の正史『中山世鑑』に記される舜天(しゅんてん)王は、源為朝(みなもとのためとも)の子であるという伝説があります。
 保元の乱で敗れて伊豆大島に流刑になった源為朝は、島からの脱出をこころみますが、潮流に流され、運を天にまかせてたどり着いたのが琉球北部の今帰仁(ナキジン)でした。それでこの港を運天港(うんてんこう)と名づけました。そこから南部に移り住み、大里按司(おおざとアジ)の妹と結ばれて男児をもうけますが、為朝は妻子を残して故郷へ戻ってしまいました。
(中略)
 これはたんなる伝説にすぎませんが、その背景には、17世紀初頭に島津氏(しまづし)によって侵攻された琉球が、島津氏に従属する理由づけを必要としているということがありました。つまり、琉球を徳川政権下の幕藩体制に造作なく組み込ませるために、琉球の国王が徳川や島津と同系統である源氏の血を引いているとする「日琉同祖論」に利用したのです。


実質的には日本(薩摩藩)の勢力圏に入り、徳川幕府幕藩体制の一部として「琉球王国自治区」とも言うべき間接支配を受けていた。中国の王朝にはそれを隠蔽した形で朝貢を重ね、冊封体制の中にいるように見せかけていたので、二枚舌外交というか両方に「いい顔を見せて」琉球王朝を存続させていたともいえる。それは日本側の都合での形態ではあったが、現実的に琉球王国の存続を考えたならばやむを得ないことだったろう。

今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」も、そろそろ関が原合戦の時期に入ってクライマックスを迎えるが、この当時薩摩の大名だった島津義久(兄)島津義弘(弟)は義久が黒田官兵衛の九州の西軍方大名の攻略戦に対応し、義弘は関ヶ原で敗色濃厚の中、敵中を中央突破しての退却戦を演じるなど武名を轟かせたが、西軍に組したにもかかわらず、この義弘の子忠恒が家督を継ぐ形で存続し、琉球王朝への侵攻を幕府から承認される。

本来敵方のはずの島津家が存続したのも、西軍方にあって少数部隊で参戦した義弘とは異なり、島津義久の主力部隊は温存されていて大規模な戦闘になることが懸念されたことや、幕府が運営を始めた薩摩〜琉球を通じた南蛮貿易の途絶による経済的損失を回避したことがあげられる。また、この時琉球王朝の三司官、謝名親方(じゃなうぇーかた)が、琉球の漁民が漂流し仙台に漂着した際、家康の計らいで移送されたが、以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が琉球王府に繰り返し要求されたことに反発したために、ほとんど無傷で温存されていた島津軍主力部隊の攻撃を受けることになる。

琉球王国という存在が何故必要だったか?薩摩藩に併合して日本国の一部になってしまうと中華序列の中において意味のある「交易権」「中華序列の中にある琉球王国の信頼感」が機能しなくなる。ましてや中華帝国の傘下に位置するがために交易を許可されている部分もあるわけで、日本が新たに中華序列の中に入るためには中国の王朝に対し使者を送り属国としての朝貢を行う必要が出てくる。日本は平安時代の頃に既に中華序列から脱し、独立路線を歩んだがために直接的な中国王朝との交易が廃れていた。今更他国の臣下に身を落とす気もなく貿易がしたいだけなので、名目的に琉球王朝を存続させたと考えるのが自然だろう。

おそらくそれまでも、そういう高圧的な外交的要求が薩摩や幕府からされていたため琉球王国内でも「反日的気運」が高まっていたと見られる。しかしその割には、軍事侵攻に際しては早々に全土の制圧を許すなど、防衛構想としては少々甘い認識があったことやそれに対する備えが不足していたことは否めない。

皮肉なのは、幕府が承認し運営していた交易を利用して、薩摩藩が密輸を行い藩財政を再建させたのみならず、最終的には倒幕活動の軍資金となったことだろう。いずれにしても半植民地化状態の琉球王国は、よくも悪くも徳川幕府とともに存続できた。

しかし間接的に支配していた薩摩藩が長州藩らと共同で起こした戊辰戦争で日本の政治体制が激変すると、実にあっけなく琉球王国は解体されてしまう。

琉球王国:wiki
1429年から1879年の450年間、沖縄本島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、琉球語(琉球方言):ルーチュークク)と称した。
(中略)
外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けたりしていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。

尚泰王琉球処分
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族とした。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。     ※画像は最後の琉球国王尚泰
琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、調印の段階まできたが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、琉球に対する日本の領有権が確定した。
なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の現役軍人も存在している。しかし、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、琉球処分が無効である根拠も明らかではない。


「日本領琉球」という言い方こそが妥当にも思える明治維新後の沖縄。現在沖縄には日本からの独立を模索する動きすら存在する。

もう爆発寸前…“日本からの独立”を沖縄のウチナーンチュは本気で考え始めている!:週プレNEWS
知念ウシという人の『シランフーナーの暴力』という本があります。シランフーナーというのは『知らないフリ』という意味で、日本人は日米安保を守るために、その犠牲や過剰な負担をずっと沖縄に背負わせ続けてきた。日米関係維持とか、安全保障とか、その時々の理屈をつけては、見て見ぬフリを決め込んできた。そうした現状は日本という宗主国による植民地支配としか言いようがないと思います」

軍事的にはさらに日本はアメリカ抜きでは立ち行かない以上、沖縄はかつての中国と日本の2国に支配されたように今も日本とアメリカに支配されていると言えるのかもしれない。実際、沖縄が日本に返還されたのは戦後27年が経過してからである。この間沖縄はアメリカだったのだ。

沖縄返還:wiki
第二次世界大戦の講和条約で、1951年に署名された日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)では、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年4月28日に発効した。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。
1950年6月25日に北朝鮮が韓国に軍事侵攻したことにより朝鮮戦争が、1960年12月に南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始したことでベトナム戦争がおこるなど、1950年代から1960年代にかけて東西冷戦が過熱する中で、アメリカは施政権下においての自治から、ソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対しての抑止力を持った軍事基地、そしてフィリピンやタイの基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての重要性の方向に変わっていく。
アメリカ軍はその間にも施政権を元に各地に半ば力ずくで基地や施設を建設し、またアメリカ軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し県民の死傷者も相次いだ。このころから県民はアメリカの施政に落胆し本土復帰(日本復帰)を訴え、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、ベトナムへの軍事介入を拡大したジョン・F・ケネディ大統領や、ケネディを継いでベトナム戦争を泥沼化させたリンドン・B・ジョンソン大統領は、エドウィン・O・ライシャワー駐日大使などによる沖縄の本土復帰についての助言を受けたにもかかわらず、沖縄返還を全く考慮しなかった。
日本の第3次佐藤内閣は1970年に予定される日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約延長と共に本土復帰を緊急の外交課題としたが、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は本土復帰を訴えつつも、安保と同列の沖縄返還論に反発した。さらに一部の新左翼や学生運動、各種労働組合は反安保・反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。
1970年12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、アメリカ軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃からアメリカ軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

沖縄県民の征服者アメリカに対する独立への戦いがここにある。現日本政府がこのまま沖縄県民が抱き続ける不公平感を放置し、自分の利益のみを求め続けるならば、「日本からの独立戦争」も大げさな話ではなくなる可能性があるわけだ。

では、このような中途半端な状態を脱し、完全に日本の支配下にあった大日本帝国時代はどうだろうか?

沖縄県の歴史〜近代化政策:wiki
正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10〜25年遅れて施行した。
(中略)
戦前の沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、昭和時代に入ると道路整備の発達により、新たにバス会社が参入すると、鉄道の輸送人員は減少し、1930年代後半に次々と廃業、さらに追い打ちをかけるように、沖縄戦によりレールなどの鉄道の全施設が破壊された。そして、戦後になっても2003年に沖縄都市モノレールが開通するまで復旧することなく消滅した。


嘉手納駅(沖縄県営鉄道嘉手納線)
<画像元:沖縄県の鉄道〜昭和時代戦前 嘉手納駅(沖縄県営鉄道嘉手納線)>

時期的には差はあるが、沖縄にも近代化の波は訪れ、政府主導による交通機関や各制度の整備が行われていた点では「日本国内」として平等に遇されていたように思える。

宮古島島民遭難事件:wiki
日清修好条規の結ばれた1871年(明治4年)、琉球王国の首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち、宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾東南海岸に漂着した69人のうち3人が溺死(1名は高齢のため脱落説あり)、台湾山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。現在の日本史教科書では、「琉球漂流民殺害事件」と記述されている。日本では長く「琉球漁民殺害事件」と記述されてきたが、「宮古島民台湾遭難(遭害)事件」、「台湾事件」などと称され、統一した呼称はない。
(中略)
日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。

清国領内であるにもかかわらず無責任な回答に思えるが、当時の清国が欧米列強の侵略に疲弊し、外交トラブルにかなりずさんな対応をせざるを得なかったようにも思える。彼らにとっては台湾は日本における沖縄のような土地の認識だったのかもしれない。早い話「原住民が勝手にやったことだから、清国の意思とは関係ない」ということなので、日本側としては「そちらが対処しないならこっちで勝手にやっていいんだな?」とばかりに出兵したわけである。

台湾出兵:wiki
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
(中略)
当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある。

日本側にも出兵の事情はあったにせよ、「国内の不平不満をかわすために国外に敵を設定するやり方」は、今の特亜国家たちとやることは同じである(^^;)結局、台湾のような明らかな自国領での紛争責任を回避したツケは、新興の日本によって武力行使の理由になり、その後の顛末として「沖縄を日本領として認める」ことにつながったのは、清国にとっては上策であるとは言えなかっただろう。

ただ、その結果沖縄が「日本化」「皇民化教育」という日本民族への同化政策を余儀なくされたことは、後の大東亜戦争時の沖縄戦の悲劇につながったことは否定出来ない。

現在のようなミサイル攻撃が主流に考えられる時代とは違い、辺縁の島々が次々と攻略されていく中で、小笠原諸島の硫黄島の戦いで甚大な被害を出したアメリカ軍が、より遠方の沖縄から北上する戦法に切り替えた理由に、日本人の沖縄に対する「冷遇ぶり」を見破られていたという説も存在するほどであった。

硫黄島の激戦は、小笠原諸島を北上すればそのまま東京に行き着く以上、激烈な抵抗を伴うことを肌身に感じて「より直接的でない地域から攻め上がることで精神的重圧を強めて行く」狙いがあったというものである。

沖縄戦
<画像元:星の金貨プロジェクト>

遺骨
※戦後発掘された沖縄戦戦没者の遺骨<画像元:世界遺産・白神山地で暮らす>

硫黄島での抵抗戦があまりに激しかったために、沖縄ではアメリカ軍は徹底的に島を焼き払った。日本側もあくまで本土への進行を食い止めるべく、皇民化政策により沖縄県民を皆兵化する国土防衛の最前線にした事は否定出来ない。こんな地域は他に無く、「沖縄県民が捨て石にされた」と後年思われても不思議ではない。

唯一の救いは、沖縄戦の最終局面で打電された沖縄根拠地隊司令官:大田実中将の海軍次官宛の電報での一文であろう。

大田実大田実:wiki
米軍の攻撃により司令部は孤立し、大田は豊見城にあった海軍壕内で拳銃で自決した。死後海軍中将に特別昇進する。自決する直前の6月6日に海軍次官宛てに発信した電報は広く知られている。当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。
人物
穏やかで包容力に富み、小事に拘泥せず責任感の強い人物であった。いかなる状況に遭遇しても不満を漏らさず、他人を誹謗するような言動はなかったといわれる。
・辞世の句
大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり
・11人の子供がおり、長男大田英雄は社会科教師で平和運動家。湾岸戦争後の自衛隊ペルシャ湾派遣の際の指揮官である落合完貪海佐(当時)は3男。大田豊一等海佐は4男。3女板垣愛子はパーフェクト リバティー教団(PL)の教校長。


海軍次官宛の電報
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官
左ノ電??次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ?中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ
是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ????与ヘ?コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形?一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

※「?」は判読不能文字


電報の現代語訳
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

大田実中将は、共に戦った沖縄県民を日本人として認めていたし、沖縄県民による特攻とも言える戦いぶりに謝辞と謝罪の念を感じていたとも思える。それはこの地にあって彼らと生死を共有したからであって、これほど直接的に「沖縄の悲劇性を知る人物」もいなかったのではなかろうか。

近代史をおろそかにする今の日本史教育では、こうした沖縄の歴史すらロクに知らされて(教えられて)いない。加えて本州を含む主要4島に住む我々は、地域住民や親兄弟からの伝承すら無いわけである。沖縄県民とは「歴史認識が完全に違う」のだ。

国際情勢における現状を考えた場合、沖縄の抱えた問題を解消するのは困難と言わざるをえない。

この場所に沖縄があるかぎり、アメリカでなくてもいずれかの国が戦略的要衝として軍事基地を作らないはずがないからだ。アメリカ軍の規模を縮小させたり基地使用の土地を減らしたりすることは可能だが、代替としての国防力(抑止力)の増強は必須となる。少なからず自衛隊の基地に置き換わることも覚悟しなければならないし、そういう意味で「沖縄から軍事基地を完全になくすことは現実的に不可能」だからである。

しかし我々が少し沖縄の基地問題をかじって理解できる現実以上に、沖縄県民の抱える不遇に対する不満もまた理解しなければ問題解決には絶対に至らない。沖縄の基地問題を語る上でも、今後の沖縄県民(ウチナーンチュ)と本州人(ヤマトンチュ)の相互理解を進める上でも、この歴史は日本人がもっと深く知るべき内容だと思うのだ。

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帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

JUGEMテーマ:歴史
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