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帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】

廃仏毀釈と士族の冷遇

明治維新直後に顕著だったのが廃仏毀釈と言われている。実際にはキリスト教などの外来宗教を公式に認めただけでなく、外国文化を広く受け入れた時期だけに、旧来の神仏習合的な日本文化への冷遇は想像できるとはいえ、この時期の廃仏毀釈はそれを超えて極度に仏教が攻撃されたらしい。

私の住む奈良県は仏教寺院が多く残っているものの、明治時代には有名寺院でさえこの廃仏毀釈の被害のため廃寺となったものもあったようだ。

内山永久寺:wiki
奈良県天理市杣之内(そまのうち)町にかつて存在した寺院である。興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。

内山永久寺
<画像元:奈良に住んでみました>

富士登山道の破壊された仏像
富士宮ルート山頂にあるトイレ付近には、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により、首や顔が破壊された仏像がその信仰の歴史を語り続けています。
<画像元:日本一詳しい富士登山の服装・持ち物・装備 初心者向け準備ガイド>

奈良のようなある意味「仏教伝来の原点の地域」や、「民間信仰の対象としての頂点でもある富士登山道」にも痕跡が残る廃仏毀釈。

神道が天皇家に由来する国家神道として保護された分、それらの保護対象から外れた仏教寺院が多く廃棄・破却されたのは、元来信仰心の厚い江戸時代の日本人のメンタリティとは少し違う気がしたのだが、どうやら教科書には載らない背景状況があったようだ。

菊池寛『明治文明綺談』昭和18年:国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』
徳川幕府が、その宗教政策の中心として、最も厚遇したのは、仏教であった。それは、幕府の初期に、切支丹の跋扈で手を焼いたので、これを撲滅するため、宗門人別帳をつくり、一切の人民をその檀那寺へ所属させてしまった。
 そのため、百姓も町人も寺請手形といって、寺の証明書がなければ、一歩も国内を旅行することが出来なかった。それは勿論、切支丹禁制の目的の下に出たものであったが、結局、檀家制度の強要となり、寺院が監察機関としても、人民の上に臨むことになったのである。
 しかも、この頃から葬式も一切寺院の手に依らなければならなくなり、檀家の寄進のほかに、葬式による収入も殖え、寺院の経済的な地位は急に高まるに至った。 
 僧侶を優遇するというのは、幕府の政策の一つなのであるから、僧侶は社会的地位からいっても、収入の上からいっても、ますます庶民の上に立つことになった。
 そして、このことが同時に、江戸時代における僧侶の堕落を齎(もたら)したのである。江戸三百年の間、名僧知識が果たしてどのくらいいただろう。天海は名僧というよりも、政治家であり、白隠は優れた修養者というよりも、その文章などを見ても、俗臭に充ちている。しかも世を挙げて僧侶志願者に溢れ、…しかも彼らは、宗教家としての天職を忘れ、位高き僧は僧なりに、また巷の願人乞食坊主はそれなりに、さかんに害毒を流したのである。

江戸時代は実質的に戸籍と同様な住民管理システムが寺社によって構築されていた。新政府における役所の仕事をアウトソーシングされていたとも言えるが(^^;)江戸時代の仏教がある種の特権階級化して、利権集団の陥りがちな腐敗と堕落の温床となった背景があったことと天皇を中心とする国家を形成する上で、天皇に結びつかない仏教を神道から分離する形で保護対象から排除したことが遠因となって庶民からの反発や報復を受けたというところだろうか。そして旧幕府が保護していた仏教寺院を倒幕した明治新政府が守らなかったという点でも「幕藩体制に繋がった寺社政策」をガラリと転換させた理由があったようにも思える。

廃仏毀釈〜明治期の神仏分離と廃仏毀釈:wiki
一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告(通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。
神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

本来政府管轄の利権を寺社から奪い、寺社の権限を制限することが目的だったとしても、仏教的価値観を根底から否定することはしなかった。それは日本人の精神文化の否定にもつながり、道徳観・死生観に大きく影響することを懸念したのかもしれない。形の上では、一般平民は武士という特権階級に仕える代わりに、天皇陛下を中心とした「御国の為」の忠誠と勤勉・誠実さを求められたわけだから、その「善良な精神規範の一部」となっている仏教の教義を否定するわけには行かなかったことがあるだろう。

結果的にそれまでの既得権益を失った寺社は地域及び民心の求心力を失い、経済的にも疲弊して文化財の破却や喪失が起こった。儒学的清廉潔白(過ぎる)価値観に急激に晒されて民間信仰の対象としては残っても、それ以前の宗教自体への畏敬・尊崇の念は薄れていたと考えられる。そしてその中心にあった思想として、江戸時代それも後期に盛んになった「国学」がある。

国学:wiki
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。
(中略)
国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。
(中略)
儒学に対抗する思想の体系として確立されていき、主に町人や地主層の支持を集めた。この古道説の流れは、江戸時代後期の平田篤胤に至って、復古神道が提唱されるなど宗教色を強めていき、やがて、復古思想の大成から尊王思想に発展していくこととなった。


国学の四大人(しうし)
※国学の四大人(しうし)荷田春満賀茂真淵平田篤胤本居宣長

江戸時代における「日本原理主義」あるいは「discover japan(日本再発見)」もしくは「日本のルネッサンス」でもあるわけだが、武家が中心となった幕藩体制よりも強固な国家のとしての求心力を求めた時、征夷大将軍よりも大きく古くから続く権威である「天皇陛下への回帰=尊王思想」に行き着くのはある意味自然な流れだったのかもしれない。

幕藩体制下、それぞれの藩(家)が思考や価値判断の基準であったものが、国学では天皇を中心として発展してきた日本の歴史や文化全体を意識させ、日本の中心にあるべきものが幕府ではなく天皇であることへゆるやかに変更されていく。そして攘夷論から開国論への鮮やかな転換が行われた時、近代的中央集権国家としての社会的変革のエネルギーが生まれた。倒幕と近代化、国家神道の復権と古い価値観の一部否定が激動の渦となって日本を包んだのが明治維新だったと考えるなら、大東亜戦争敗戦後に訪れた価値観の転換以上にその思想的なギャップは大きかったかもしれないし、この転換こそが後の国粋主義的暴走を呼んだ遠因であるとするならば、中華至上主義(中華序列の中でしか国際情勢を捉えない)思想に染まった中国大陸の政権と同様の病巣を既に内包していたといえるのではなかろうか。

そして昭和20年の価値観の転換が幕末と違っていたのは、その転換に「罪の意識」「負の感情」を含んでいたことなのではなかったか?

庶民にとっての劇的な変化は、生活様式に加えて身分制度の変革があるだろう。実質的に旧士族でも裕福な資産家以外は平民化され、生命の尊厳さえ身分によって支配される不平等から開放されたことだ。その一端として「苗字の使用」を明治新政府が推奨したことだ。

平民苗字必称義務令:wiki
江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層や、庄屋・名主など一部の有力な庶民に限られ、一種の特権とされていた。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が定められた。この布告では初めて「平民」の語を用いて、平民に「苗字」の使用を許した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した。
本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。

明治時代にこの苗字を名乗ることが平民の間で始まった・・・と、私もこのことを調べるまではそう思い込んでいたが実際は違ったらしい。

江戸時代の庶民に苗字はなかったか?:苗字の読み方辞典
苗字の起源についてはさまざまに言われているが、ここでは一つの誤解を正しておきたい。それは、日本人の大半は明治維新まで苗字を持たなかったという誤解である。確かに、江戸時代に苗字を名のることをおおやけに許されたのは一握りの人であった。しかし、だからといって、それ以外の庶民に苗字がなかったと考えるのは、ある時代にある法律が出されたからという理由だけですべての人々がそれを守ったと考えるのと同じ間違いである。実際には江戸時代にも、庶民が苗字を持っていることのほうが普通であった。ただ幕府の政策のため、それを大っぴらには名のれなかっただけの話である。寺や神社への寄進帳などでは、農民の名前にも苗字がついていることが多い。江戸時代より前の室町時代の文献には農民などの苗字が記されているが、その苗字が同じ地域に今も残っている例も多い。

リンク先の記述を見るとその辺りの疑問の説明がある。確かに、明治維新で平民のほとんどが苗字を使い出したとするなら、今のDQNネームまがいの「珍苗字」が全国に数限り無く存在してもおかしくないのだが、そこまで無軌道な事にはなっていない。

没落した貴族や武家の末裔、あるいは低い身分の者でも資産があれば名籍を買って自分の名字にしたり、血縁はなくても「家名」を残そうと養子の形で身分を超えて縁組をしたりと、身分の区別なく苗字が下層の人々にまで広がっていったことは想像に難くない。



明治維新が士族による階級破壊的なクーデターであったことの意味も、この平民への待遇改善に現れているといえるだろう。国民皆兵の富国強兵策の一環として、国を挙げての国策強化を図るための「国民意識の啓蒙」の一つとして捉えることができる。
しかし、そこで有能な兵士となりうる士族を排し、大名クラス以下のものの殆どを平民と同様に扱い(大名の内「華族」として貴族的に扱われた士族もあるが限られた数しか無い)、冷遇したのは少々疑問が残るところではある。

士族:wiki
士族(しぞく)は、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として録を受け取り、華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。士族階級に属する者には、『壬申戸籍』に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後1947年(昭和22年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。
(中略)

士族の解体
江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。
士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。

四民平等となった時点で旧支配階級の武士の多くがその既得権益を奪われる。それは新政府の主たる部分を占めた薩摩藩、長州藩の武士たちも例外ではなく後にそれぞれが新政府に対し武装蜂起している。

つまり新政府にしてみれば、「従順ならざる武力集団」などは、獅子身中の虫に化ける危険性のほうが大きく、新政府の革命的な政治改革への反対勢力に簡単になってしまう。
ひょっとすると士族への冷遇は、武力によって暴発する危険分子を顕在化させ排除しやすくする一つの策であったのではないか?そして国民皆兵による創設軍の黎明期、農民出身の兵士に実戦の経験を積ませる最高の相手として設定したのではないのか?

事実、時を経ずして武装蜂起する士族が続出し、その最大かつ最後の抵抗が西南戦争であったが、これによって新政府に武力で反抗する士族はほぼ殲滅され、残ったのは時代の変化や自らの不遇に耐え、新しい時代に前向きに生きようとする者たちだけであった。
農民出身の兵に鎮圧された反乱士族たち。時代が確かに変わったことを告げるスケープ・ゴートとして新政府は非情にも彼らを捧げたのかもしれない。あたかも明治維新の戊辰戦争時、旧幕府側に属したために徹底的に攻撃され壊滅していった会津藩や旧幕府勢力連合軍が新時代への変革のスケープ・ゴートとされたように。

そして生き残り、新時代に対応しようとした士族でさえ、「士族の商法」と揶揄されるほど、慣れない商売や激変する価値観に対応できない者はやはり淘汰されていく流れから脱却できない。

それでも、明治期の勃興した企業群のかなりの数は、これら士族出身が少なくないし三菱財閥を起こした岩崎弥太郎は下級武士であり、他にもその知的生産性の高い階級に属していた者の中から、新しい時代に適応した企業人として再生したことなどを考えると、旧支配階級の士族を新時代に適応させるべく「乱暴に篩(ふる)いに掛けた」と言えるのかもしれない。

真に時代を切り開くことのできる有能さを持つものだけが生き残る。身分や家柄ではない能力主義の洗礼を最も激しく受けた階級が士族だったとも言えるのではないだろうか。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
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帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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