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帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】

売春婦と人身売買

明治維新は主に支配階級の革命であったとはいえ、武家政権の交代による動乱以上に庶民生活も激変した。直接的な生産活動は変化が比較的緩やかではあったが、納税方法が米を直接納める「年貢」から「租税」に変更される。現在の固定資産税の原点である。地租として実質増税されたことで農民の負担は増し地租改正反対一揆まで起こる事態となる。

地租:wiki
地租改正によって明治政府は秩禄処分や常備軍設置、殖産興業の行うための安定した財源を確保したものの、農民の負担は従来と変わらず、むしろ小規模農家の没落による小作農への没落と一部富農による地主制の形成、小作農の子弟や離農者の低賃金労働者化の促進など、国家及び一部階層の資本蓄積と低廉な労働者・小作農形成によって日本の資本主義発展の基礎を築いた。この傾向は松方財政によるいわゆる「松方デフレ」によって一層進むことになった。

いわゆる格差の拡大によって底辺層の困窮は以前以上に増すこととなり、極貧農家では人身売買などで口減らしを行い家計を支える場合も出てきた。こういう方法は古来よりしばしば行われ、農家出身の婦女子が全国のみならず海外にも売られたことは多くの文献が示している。

人身売買〜日本:wiki
日本での人身売買に関する最古の記録は『日本書紀』676年(天武天皇5年)の売買許可願いである。下野の国司から凶作のため百姓の子どもの売買の申請が出され、不許可となっている。しかし、この許可願いの存在から、それ以前の売買の存在が推認されている。大宝律令・養老律令でも禁止はなされていたが、密売が行われていた。また奴婢の売買は公認されていた。人買いの語が多く見られるのは鎌倉時代、室町時代である。
山椒大夫「撰集抄」には幼童、青年、老人さえ金で売られることが記され、「閑吟集」には「人買船は沖を漕ぐ、とても売らるる身ぢやほどに、静かに漕げよ船頭どの」という歌がある。謡曲では「隅田川」「桜川」などが、古浄瑠璃の山椒大夫とともに有名である。戦国時代、安土桃山時代には、多くの日本人が、大名やポルトガルを始めとするヨーロッパ商人たちによって、奴隷として世界中に売り飛ばされていた。これが豊臣秀吉によるバテレン追放令や、江戸幕府による鎖国体制の原因の一つになったとも言われる。


<画像元:映画「山椒大夫」ポスター:溝口健二監督(wiki)>※説話「さんせう太夫」をもとにした森鴎外による小説。騙されて人買いに売られた姉弟を虐待し、姉を殺された弟の山椒大夫への復讐を描いた物語。


からゆきさん:wiki
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。彼女たちを海外の娼館へと橋渡ししたのは嬪夫(ピンプ)などと呼ばれた斡旋業者、女衒たちである。代表的な女衒として長崎出身の村岡伊平治がいる。こうした女衒たちは貧しい農村などをまわって年頃の娘を探し、海外で奉公させるなどといって、その親に現金を渡した。女衒たちは彼女たちを売春業者に渡すことで手間賃を得た。そうした手間賃を集めたり、投資を受けたりすることによって、みずから海外で娼館の経営に乗り出す者もいた。
こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍(じょうしぐん)」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。
(中略)
からゆきさんの労働条件
からゆきさんとして有名な北川サキの、大正中期から昭和前期のボルネオの例では、娼婦の取り分は50%、その内で借金返済分が25%、残りから着物・衣装などの雑費を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せたよ」というから、検査費を合わせると月130人に相当する。(余談だが、フィリピン政府の衛生局での検査の場合、週1回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)
普段の客はさほど多くないが港に船が入ったときが、どこの娼館も満員で、一番ひどいときは一晩に30人の客を取ったという。一泊10円、泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった。
現地人を客にすることは好まれず、かなり接客拒否ができたと見られる。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、そんなときに休みたくても休みはなかったという。

【予告篇】サンダカン八番娼館 望郷 投稿者 Rui_555
※「からゆきさん」を世に知らしめた山崎朋子『サンダカン八番娼館』を原作とした映画の予告編。

女衒:wiki
女衒(ぜげん)は主に若い女性を買い付け、遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業である。歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、現在でも国や地域によっては半ば公然と行われているところもある。

村岡伊平治:wiki
18歳で朝頼丸で、香港に渡り、中国各地、シンガポール、カルカッタ、香港、ハノイ、台湾、東インド諸島を転々とし、さまざまな仕事、事業を経験した。宿屋、理髪店、女郎屋、行商、真珠貝採取、通訳、食堂、労務者の周旋、野菜栽培、製菓など。その後旅館や製紙、製菓などの事業を手がけ、その傍ら遊郭で働くからゆきさんと関わるうちに、自らも女衒となり若い女性を言葉巧みに騙して海外に売り飛ばす側となる。さらに遊郭経営にも乗り出す。彼の悪行は明治から大正初期までは隆盛を誇ったが、1919年(大正8年)に廃娼制度開始、1937年(昭和12年)に海外売春婦廃止令が出されてからは立ち行かなくなり、日本に引き上げ、神戸に住んだ。

今もなお「悪党」として名を残すくらい、悪どい仕事をしたということだろうが、この手の手配師は少なからず裏稼業(地場のヤクザ:暴力組織)と無縁ではなかろう。現代なら就労条件が募集要項と極端に異なる場合、法に訴えることもできるが文明開化期にあるとはいえ、警察権力はもっぱら「治安維持」が最優先だし、民事的な訴訟案件に対応できる廉価なシステムもなければ、その案件処理にかかる費用・報酬を払うだけの経済力が被害者たちになかったことは明らかである。さらに相手がヤクザ絡みともなれば、いくら話が違うと思っても報復を恐れ、泣き寝入りせざるを得ない場合も多くあったと思われる。

大正末期のある女郎の実態:はてな匿名ダイアリー
300円の借金で難儀している実家を救おうと1,350円で身を売っただが、そのうち周旋人に250円、実家の借金返済したあと残った800円が家に残った金。6年の年季の間に1,350円は返せると考えていたが、とんだ誤算
朋輩の多くがいつまで経っても一向に足を洗うことができないのを不審に思ってが謎はすぐに判明。客から入った10円のうち7割5分を楼主に取られてしまい2割5分が玉割と称して娼妓の手取りだがその中から1割5分が借金返済のたけ天引きされ残り1割(1円)だけで生活。彼女の稼ぎは月に300円程度、手元に残るのは僅か30円、これに対し呉服代、化粧品代、洗濯代、電話代、客用の茶菓代、銭湯や病気の際の治療費に至るまで諸掛一切が娼婦の負担。
これが月に40円をくだらないので、楼主から追借をせざるを得ず借金は減らない仕組み。さらに、特定の日を「しまい日」と称して割高の金を客かた取れるが、この日に客がつかない娼妓には1日2円の罰金が課せられた。売れっ子でない普通の娼妓では到底抜け出せない仕組みになっていた。

人身売買は純粋に奴隷労働と変わらない。人間をモノ扱いして人権(と言う意識・概念すらない時代)など最初から存在せず、それが借財の形としての専属労働者と言う扱いだったとしても、極端な制限を伴う「奴隷的隷属」を伴うものだったのは間違いない。はてな匿名ダイアリーの記述は出典が明記されていないが、紀田順一郎著「東京の下層社会」の中の一節のようだ。

大正末期の無名の娼妓の手記と近代公娼制度について:Kousyoublog
例えば、女工に比べれば娼妓は好きな着物来て、性欲にも不自由せず楽なもんだろうと偉そうに見下して言ってくる客に対しての痛烈な返し。

妾(わたし)達を御覧なさい。出られないのは牢屋と一寸も変りはありませんよ。鎖がついていないだけよ。一寸出るにも、看守人付で、本なんかも隠れて読むんですよ。親兄弟の命日でも休むことも出来ないで、どしどし客を取らせられて、尊い人間性を麻痺さして、殺して了(しま)う様なものじゃないの。罪人よりか酷いと思うわ。そんな所で、どんな立派ななりをしたって、チットも嬉しいとは思いませんよ。仕事が楽ですって?寝ていればよいのだって?殺されるかも知れない医者のメスを横になって待つ病人は、寝ているから楽でしょうよ。何?苦労も、怖しさも、心配ないでしょうよ。性慾に不自由ないなんて、まさか、蝮や毛虫を対象に、性慾は満足出来ないでしょう。却って妾なんか女工の方が、羨ましいと思っているのよ、女工にでもなって、婦人運動の中にでも入れてもらって、うんと働きたいわ。呪わしい世の中ね。(P220-221)

男はぐうの音も出ず、「君は仲々の雄弁家だね。誰にそんな理屈を教わったんだ」と負け惜しみを言うのが精いっぱいだったらしい。女工は女工で非常に苛酷な労働環境に置かれており、女工は娼妓に憧れ、娼妓は女工に憧れ、しかしどちらもが地獄という袋小路にあった。

「からゆきさん」の労働条件の項目を見ても売れっ子でない普通の娼妓では到底抜け出せない仕組みと言う記述は大げさではないように考えるのが妥当だろう。リンク先の後半部分はその当時の女性の社会進出状況も紹介され、男尊女卑思想の残る中、女性の就労場所が極端に限られていたことなどを挙げ、必然的に「女性にしかできない職業としての売春婦」が挙げられている。

「東京の下層社会」によると、大正末期から昭和初期の全国の公娼数は約五万人、それと別に酌婦と呼ばれる料理店で客に酒を注ぐ女性たちが十一万人おり、その酌婦のうちおよそ七万人は売春に関係があると推測され、さらに私娼やカフェーの女給のうち売春に従事していると思われる者などを含めて十万人、計十五万人が売春に関っていたとみられている。これは芸妓を省いた数で、実際はこれより多いと思われている。当時の女性人口は三千万人で十五歳から三十五歳の女性人口約千百四十万人なので、控えめに見積もっても女性の七十六人に一人が売春に従事していたことになる、という。

これは当時の女性の職種が非常に限定されていたことにも要因があり、同時期紡績女工が百六十万人で、同じく十五〜三十五歳女性の七人に一人が女工であり、一方で「事務員」や「バスガール」などが憧れの職業であったが、これはごく限られた人々が選ぶことが出来る狭き門であったため、文字通り「女工か女郎か」という選択肢の低さであった。

公娼制度は明治五年(1872)の娼妓解放令に基づき、「個人の自由意思」を前提として人身売買の防止を目的としたものだったが、その実態は人身売買そのものだった。上記の通り、楼主と娼妓との間で貸借関係が結ばされ、しかもそれは返済が非常に困難な契約であった。廃業は所轄の警察署の事務管理下にあったが、せっかく逃亡して警察に廃業を申し出ても、借金を踏み倒す者として楼主に連絡が行ってしまう。警察と遊郭との癒着も見られていた。紀田によると

昭和の初期にあって自由廃業に成功した娼妓は全廃業者の〇・五パーセントにすぎなかった(P187)。

これらは文明開化の名のもとに制度や社会認識が激変していた時代でも、こと女性に関する認識が中々開放的に変化しなかったことを表している。それを現代の倫理観でとやかくいうのも少々傲慢だと思うのだが、現代の(特に左巻きの)人権主義者はそうは思わないらしい(^^;)ましてや現代にも残っている悪癖とも言うべき風俗産業の欺瞞には目をつぶって、取り戻すことのできない過去ばかり問題にしている部分などは最終的に何がしたいのか理解に苦しむばかりだ。

・・・それはさておき、一方で江戸時代からの伝統的遊郭に関しては、少し違う見方もある。

恋愛は究極の贅沢品だった!? 男性が高いお金を払ってでも吉原に通い続けた理由:マイナビ・ウーマン(堀江宏樹)
花魁江戸時代前期の男女比率は男性:女性が7:3で、複数の女性を妻にする男性もいるため、4割以上もの男性が生涯の伴侶を見つけられないわけです。また、複数の妻がいるからといって、彼女(たち)が身も心も惹かれ合う「運命の相手」というわけでもないのですね。

<画像元:花魁(wiki)>

江戸初期の吉原のお客は、もっとも金まわりもよければ、地位も高かった武士たちです。彼らは政略結婚中心で正妻とは結ばれます。側室も持てますが、それは正妻の公認した女性に限られ、しかも「自分の好み」で選べるというより、政治的なかけひきで部下や上司の関係者の女性に来てもらう……というイメージが強いのですね。つまり男女生活もビジネスの延長線上だった、と。

だからこそ、そういうのとは無縁の純粋な恋愛をしたい!……と思うのなら、男性同士のシリアスな愛である衆道(男色)に走るか、あとは吉原で大金を出して、愛の幻想を買うしかなかった……のであります。実にしょっぱい。

江戸時代、恋愛は普通に生きていたら手に入らないものでした。究極の贅沢品=恋愛なのです。だからこそ、吉原で恋愛の幻想を買う。悲劇の愛の主人公を演じたいと思ったのでしょ。それゆえ吉原に通う男性のことは、「風流な人」なんて意味で数奇者(すきもの)と呼ばれたりしました。現代のように「エッチな人」という意味ではありません!


婚姻が「家」の縁結びであり、家系を継続させる目的を再優先させたため、自由恋愛には程遠い男女の恋愛事情があった。そういう日本の場合、男性の性欲の発散場所という以外にも「仮想恋愛」「恋愛の疑似体験」を遊ぶ場所として売春業者の存在意義があったわけではあるが、吉原はいわば「ブランド化された歓楽街」であり、そういう為政者公認の「遊郭」以外にも単純に性行為を売っていた私娼は少なからず存在していたので、吉原が江戸時代の「人身売買」「売春」を代表していたとは言い難い。また有名遊郭の場合、特有のルールはあったにせよ制限された居住空間・労働環境内でのことであり、やはりそこには不遇過ぎる女性の存在は否定出来ないのである。

公娼〜日本の公娼制:wiki
明治時代になって、遊郭はさらなる発展を遂げるようになった。横浜では外人目当ての遊郭の港崎遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに築地鉄砲洲遊郭の設置をした。

世界的にも国軍の性病羅漢の危機管理を目的に、国家奨励による管理売春業者の制度化と保護を行っていた時代、副産物として「欲求を処理する施設の設置」により強姦などの性犯罪の予防効果もあるとはいえ、その就労に関する部分はいつの時代でも「人権侵害」と切り離せないグレーゾーンであることは疑いがない。

そして一度その道に入ってしまえば、自力で抜け出す術が殆ど無いという点では「監獄同様の人権制限」があり、一般企業の就業規則以上に「強権・強制的な人格の支配」が行われる。上記の大正末期の無名の娼妓の話などは如実にそれを物語っている。

現代の就業環境も程度こそ人に優しくなったとは言え、ストレス性の心身症などが蔓延する状況は、かつての「野蛮」「非人道的」とされた時代と「個人の尊厳や人間性が否定される部分において」大差無いようにも思えるのである。

それでもこの人身売買に関しては表向きにでも改善の方向が出てくるのも明治時代の特徴だ。

売春〜歴史(日本):wiki
転換点となったのは1872年(明治5年)である。この年、マリア・ルーズ号事件が発生し、日本政府はペルー船籍の汽船船内における中国人(清国人)苦力に対する扱いを「虐待私刑事件」として日本の外務省管下で裁判を行ったが、この裁判において被告側より「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」との主張が為された。この主張に対して、特命裁判長を務めた神奈川県権令大江卓は「日本政府は近々公娼解放の準備中である」と公娼廃止の声明を発し、1872年10月2日、芸娼妓解放令が出された。これにより、女衒による遊女の人身売買は規制されることになったが、娼婦が自由意思で営業しているという建前になっただけで、前借金に縛られた境遇という実態は変わらなかった。また、この時期に数多くの女性が女衒の斡旋により日本の農山漁村から東アジア・東南アジアなどの海外に渡航し、遊郭で働いた。こうした海外渡航した女性たちはからゆきさんと呼ばれた。このように海外への渡航を手配した女衒として有名な人物に村岡伊平治などがいる。
戦後の1946年(昭和21年)、日本の軍政を担当していたGHQは公娼廃止指令を出し、女給による売春を行う赤線を除いて遊郭は廃止されることになった。また、上記「人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約」を批准するための国内法である売春防止法が1956年(昭和31年)5月に公布、1958年(昭和33年)4月1日に施行され、これによって赤線も廃止されることになった。

まず「体裁有りき」な法改正であったため、実質的な性風俗産業の改革とはならずむしろアンダーグラウンド化を促進した部分は否めないが、一番大きいのは売春そのものがこの時代はまだ公的に必要と思われていたことであり、むしろ民間業者などに公権力が衛生指導を行うなど「半ば公認」されていた部分は否定出来ない。

芸娼妓解放令:wiki
1872年(明治5年)、マリア・ルス号事件(マリア・ルーズ号事件)が発生。人権問題の解消を促す流れの中で、芸娼妓解放令が出された。
同令、および、同年10月9日(11月9日)の「前借金無効の司法省達」(明治5年司法省達第22号)より、前借金で縛られた年季奉公人である遊女たちは妓楼から解放された。ただし、両令は売春そのものを禁止しておらず、また、元遊女たちの次の就職先が用意されてあったわけではないため、私娼になったり、貸座敷として届けた妓楼で自由意思に基いて個人的に契約をして遊女に戻ったりすることに障害は無かった。
強制的な年季奉公の廃止など、公娼制度を大規模に制限する法令であったが、準備期間が全くないまま唐突に発せられた点は否めず、解放された女性の転職、収入面の補償などのケアは個々の地方に任される状態であった。このため、法令としてはあまり機能せず、女性がおかれた状態はあまり変わらなかったという。
芸娼妓解放令は直接的に機能したとは言い難い状態であったが、同令がきっかけとなり、貧農の娘の身売りを防ぐために、女性に対して教育や軽工業に対応する技能習得の場が設けられた地方もある。これらの中には、明治時代中期以降に女性労働力に着目した工場制手工業の基盤を形成したものも多い。

さらに上述のKousyoublogのエントリによると、1931年(昭和6年)国際連盟が「東洋に於ける婦人児童売買の実情調査」の調査団を派遣するなど、売春婦が存在している欧米よりも日本における借金をカタにとった人身売買あるいは売春宿への就労の強要が酷かった(と国際的には認識されていた)ことを物語っている。

「東洋ニ於ケル婦女売買実施調査ノ件(国際連盟『ジョンソン報告書』関連文書)へのアクセス:はてなグループ*Stiffmuscle@ianhu

アジア歴史センター

アジア歴史資料センター


ジョンソン報告書について:市川房枝の解説
国際連盟婦人児童問題1931年(昭和6年)5月、国際聯盟から派遣されて婦人児童売買実状調査団が来日した。一行のジョンソン団長は米国社会衛生協会の役員で弁護士、ピンドール委員はポーランドの東洋通の外交官、サンクエスト女史はスウェーデンの医師で性教育の権威、廃娼運動にも参加している。国際聯盟社会部のシュミーデン氏とマーシャル秘書、ジョンソン夫人の6人である。前年9月にジュネーブをたち、シンガポール、バンコック、サイゴン、マニラ、中国、朝鮮を調査して日本に到着した。調査団の来日は、民間の廃娼運動家たちには激励となり、政府には廃娼への緊張感を持たせ、遊廓側には警戒心を強めさせた。一行は救世軍や矯風会を直接訪問して事情聴取し、関係官庁を調査訪問、新橋の芸妓学校、吉原の妓楼、吉原病院の見学などを行なった。廃娼運動家たちは歓迎会を開き、同じころ開かれた第6回全国廃娼同士大会も意気あがり、「婦女禁売条約*1の適用地域より帝国が今尚朝鮮、台湾、関東州、樺太等を除外し居るは条約の効果を減じ帝国の体面を損するものにつき、政府は速やかに之を廃止すべし」と決議して政府におくり、合わせて決議と大会資料の英訳を調査団に提出した。1ヶ月の滞在中、一行は各地を視察したが、大阪では婦人ホームで、その朝駆け込んだ娼婦2人を見舞い、飛田遊廓を視察、レスキュー・ミッションでは収容中の自由廃業娼妓の手内職を見学するなど的を射た視察をしている。
 調査団の報告書の、日本に関する部分が六−32*2である。調査団の主目的は国際的婦女売買の調査にあったから、国際売買被害者としての国外醜業婦、接待婦が最初にとりあげられ、次に国内状況に及んでいる。「日本には醜業婦のための特別紹介業が法律で許可されている。・・・・・この周旋業者を通して支那の妓楼にも紹介される。故にこれら周旋業者は何ら非合法、又は秘密な方法を用いる必要はない」「妓楼の存在は人身売買を激化するものである。故に国際人身売買を撲滅せんとせば、公認妓楼を廃止せねばならない」と、報告書にあり、日本は世界に公娼国たることを喧伝されたことになり、政府に対してはよき警鐘になったと思われる。この報告書の発表が機縁となって官民合同の売笑禍防止協会が組織され、内務省は警察部長会議で廃娼断行を積極的に討議している(六−34*3)など、廃娼の気運は盛り上がっていった。
市川房枝 編集・解説『日本婦人問題資料集成〈第1巻〉人権 (1978年)』ドメス出版、1978年、60〜61ページ


1931年(昭和6年)は満州事変が勃発し国情が不安定な時期である。翌年には五・一五事件が起こる。その遠因として昭和恐慌による金融崩壊と農村部の極度の困窮が挙げられている。青年将校たちは有効な施策の打てない政党政治に強い不満を持っており、事実、裁判においては民衆から事件の首謀者たちの助命嘆願運動が巻き起こるなど腐敗した政治に対する抗議として評価を得ていた。

どんな境遇であろうが進んで「汚れ仕事を望む」者はいない。しかし現実的に選択肢がない場合、そこに活路を見出すしかなかった女性たちがいた。明治時代という革新的な変革を伴った時期でも、悲しいかな彼女たちを社会は救えなかったのである。自分を含めた家族を襲う一方的な不遇を救済するもの。情けないことだが唯一の方法が「一家の犠牲となり売られ(売春)て金を得ること」だった。

「〈身売り〉の日本史: 人身売買から年季奉公へ」下重 清 著:Kousyoublog
江戸幕府が倒れ明治時代になっても借金でがんじがらめにされて自由を奪われた娼妓・女工たちの存在が社会問題として残り続けたし、帝国政府が焦土とともに瓦解しても、例えば売春防止法など戦前の人身売買に関連する諸々の職業の禁止や未成年者略取・誘拐罪など本人の意思に反して自由を奪う罪の禁止はなされても人身売買そのものは禁止されなかった。

いわば日本は「身売り」の伝統を堅持し続けてきたといえる。人身売買が法的に禁止されるのは2005年のことだ。2004年に米国務省が「人身売買白書」を作成して日本をレベル2監視対象国に認定したことを受けて、2005年に遅ればせながら国連の「国際犯罪防止条約」の人身取引補足議定書・密入国議定書を批准、刑法改正し人身売買罪を新設・直ちに施行した。律令制以来慣行として残り続けていた身売り(人身売買)が法として初めて禁止された。とはいえ、例えば外国人研修生の問題など、人身売買は現代日本社会に未だに存在する問題である。

法整備がこれほどまでに遅かった点はおどろくべきことだし、現在にも残る日本の問題であることは間違いないが、同時に、世界の問題であることも間違いない。職業としての売春婦が存在するのは、公認・非公認の区別なくほぼ全世界に存在するからだ。

売春〜各国の状況:wiki
近年、世界的に売春は合法化の流れがあるとされる。アジアでは、タイ、台湾で合法化され、中国でも合法化が検討されている。欧米では、売春自体は合法である国がほとんどである。ただ、斡旋を違法としている国も多いが、2000年にオランダが斡旋を含む売春行為を完全に合法化したのを皮切りに、デンマーク、フランス、スイス、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランドなども斡旋合法化に踏み切っている。ギリシャ、ハンガリー、チェコなどにおいても合法で、オーストリアなどでは外国人が働くために売春ビザで滞在許可を得ることができる。

合法化の理由
合法化の理由としては、性病対策、性犯罪対策などがあげられる(各国の合法化については各節を参照)。タイや中国などアジアでは、現在でも、特に地方での貧困から、少女・少年が都市部の闇で売春をするケースが多いといわれ、エイズなどの性病が蔓延し、大きな社会問題となっている。タイでは、性病の蔓延を防ぐため、衛生管理を徹底し、かつ税収を確保する目的で昨今、国の許可の下での管理売春が合法化された。ドイツでは斡旋を伴う売春を完全に合法化し、売春地帯を一定の場所に隔離し、政府が性病管理をすることによって性病が減少したとされており、タイはドイツを参考にしたといわれる。

売春の合法性に関する世界地図
売春の合法性に関する世界地図
緑:合法であり公認売春宿が存在する 青:合法だが公認売春宿は存在しない 
赤:非合法

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これほどまでに世界は日本人並みに建前と本音を使い分けている。日本の近代国家が女性を救えなかったのも無理は無い。世界中が救おうとしていなかったし、今も救おうとは考えていないのかもしれない。

しかし、現在でも風俗産業に自ら身を投じていく女性は後を絶たない。貞操観念が弱く、金銭欲の旺盛な女性ならば「割のいい仕事としての売春」と割りきって勤労に励んでいるのかもしれないが、すべてが全て「女性が被害者ではない事例」も実際はいることだろう。「借金の形に女郎屋へ身売り」という図式は「風俗産業に就労」と形を変え生き残っては居るかもしれないが、過去の女性たちに比べて少なくとも今、女性の選択肢は増えているからである。

個人的には、私が成人し就労した業界は男女差の非常に少ない業界だった。フリーランスや独立起業する女性もたくさん見てきたし、発注する大企業側にも女性管理職は少なからず居た。男女差といえば初任給に若干差があったり、出世のスピードや仕事の評価で多少は不利だっかたも知れないという程度で、そんな実力主義・能力主義の業界においては「ダメな男性社員」の方がよほどしっかり冷遇されていた(^^;)

現在の私のように、非正規の職場は女性の天下と言っていいくらいである(爆)彼女たちが正社員の身分と引き換えに、それに見合う責任を負わされても十分やっていけるであろうことは私が十分実感している。要は男社会の中に自ら望んで入っていくバイタリティ溢れる女性がいるかいないかの違いであって、残念ながらその点で女性の多くに「弱者のままでいたほうが都合がいい」と思ってるようなフシが伺えるのである。

売春も人身売買も始まりは貧困である。格差社会が今再び過去の様に広がっていくのなら、貧困から派生してくるあらゆる社会不安の種は尽きることはないのだろう。

明治という大転換の時代、戦後という「民主主義と人権」の時代においても根っこは同じ。貧困の嵐が再びこの国を覆うならば、人権を侵す悲惨な状況がはっきり出現する恐れは、今この現代においても存在するのである。

次回は関連して「戦時売春婦」いわゆる「慰安婦」について検証を試みる予定である。

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●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
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帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
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帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

JUGEMテーマ:歴史
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