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帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】

日本軍の慰安所と慰安婦

世界がそうであったように日本にも歴史的に「体を売る」職業が存在していた。日本が近代化した時も、性の近代化は、世界的な「奴隷解放運動の一環〜廃娼運動」としてその精神は輸入したものの、実態はそれ以前の状況からは中々変化しなかったと見るのが妥当だろう。それでも規制や法令が整備され、犯罪性の強い「強制」は排除される流れになっている。

ここでの問題点は唯一つ。人身売買あるいは売春の廃絶といった問題解決がその主目的ではなく、「近代国家としての世界共通の倫理観を持つアピール」「世界へ向けて体面・体裁を取り繕う事」が最重要であって、実質的な倫理観の啓蒙や不遇な女性たちへの支援などが殆どなかったことである。

日本の慰安婦〜明治時代:wiki
朝鮮での遊郭業と日清戦争
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった。
(中略)
娼妓取締規則と婦女売買国際条約
1900年には娼妓取締規則が制定され、娼妓の年齢を18歳以上とし(従来は15〜16歳),住居や外出に制限を加えた。翌年の1901年に軍医の菊池蘇太郎は「軍隊ニオケル花柳病予防法」を発表し、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している。
廃娼運動は国際条約に結実し、1904年5月に欧州12カ国で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が、ついで1910年5月に13カ国間で「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締約された。国際連盟では規約23条でこれら取決めの一般監視を行うとしたため、1921年9月の第二回国際連盟総会において婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約として再締約された(23カ国)。
(中略)
日露戦争と妓生制の崩壊
1905年の日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降はさらに日本の売春業者が増加した。(中略)日本人売春業者が盛んになると同時に朝鮮人業者も増加していくなか、ソウル警務庁は市内の娼婦営業を禁止した。1908年9月には警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、朝鮮の伝統的な売春業である妓生を当局許可制にし、公娼制に組み込んだ。1908年10月1日には、取締理由として、売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためと説明された。
日本統治下の朝鮮
1910年の韓国併合以降は統監府時代よりも取締が強化され、1916年3月31日には朝鮮総督府警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定された。
他方、併合初期には日本式の性管理政策は徹底できずに、また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多く、のちの1930年代にみられるような誘拐して娼妓として売る事例はまだ少なかった。

法整備という形で極端な人身売買の非道を防いだとは言うものの、借財によって身柄を拘束し売春を強制する形は旧来の風習から変わっていなかったし、「人権」という概念が希薄な時代においては「賃金さえ支払えば奴隷ではない」と言った詭弁に近い理屈が通用していた事実は否定出来ない。

日本軍慰安所のモデルは中国人経営売春宿:反日勢力無力化ブログ
韓国が捏造した「日本軍の慰安所」は、朝鮮人女性が強制連行され、あるいはダマされて連行され、強制連行の途中で日本兵に強姦され、慰安所に監禁されて逃亡を謀れば拷問され、というのがハズせないポイントになっていますが、実際にそういうひどい目にあったのは、誘拐されて中国人経営売春宿に売り飛ばされた日本人女性たちでした。
明治時代、満洲の中国人売春宿に売られて行った日本人女性が逃亡を謀ったのち、連れ戻されて裸にされ、陰部に薪(まき)を差し込まれ、尻には切り落とした牛の尾を突き刺されて人目にさらされるというむごい殺され方をしました。
元従軍慰安婦らも、本当は中国人経営売春宿に売られ、中国人にされたことを「日本軍がやった」と証言しているのではないでしょうか?
(中略)

【中国では売春宿を「書庽(館)(しょかん)」という】
中国では売春を「密犬売」といった。アジアの売春宿が全部、日本軍の慰安所だったわけではない。
桃源書館
写真出典:1932(昭和7)年 岡村書店 鹿山鶯村著 「明け行く満蒙の透視」 381ページ 桃源書館 
<画像元:近代デジタルライブラリー>
(中略)

明治時代、村岡伊平治という人物がいました。村岡氏はアジアを放浪しながら日本人の前科者を更生させたり、中国人に誘拐された日本人女性を救出したりといったことをしていました。

1887(明治20)年、村岡氏は陸軍士官のお供として、満洲に商業視察に出掛けます。満洲には売られて行った日本人女性があちこちにいて、村岡氏はその女性たちの境遇を記録に残しています。


1960(昭和35)年 南方社 河合 譲著 「村岡伊平治自伝」 第一編 南支時代 第五章 上海 三 満洲視察

北票 ここにも日本人の女が七、八人おる。産物は阿片(アヘン)と大豆、商店もかなりある。上原閣下は専門のほうに熱中され、拙者は商業に熱中で、暇さいあれば外出。
市場で一人の女に出会う。その女は「ここに五年おりますが、日本へ手紙を出すことができず、お金を送ることもできず、連れだしてください。前の旦那が死んだのでお金は私のものになりましたが、帰ろうと思っても帰えられず、とうとうまた旦那を持ちました。それがお役人様だと思っていると、土匪(管理人注:山賊のようなもの)の頭ですからいやで、いやで、いやで」と話しておった。

周家屯 日本の女十人以上、いずれも旦那は七割以上が土匪、長いのは七年もおるが、たいがい一、二年であるという。

義州 この地にも女四、五人おる。一人の女がホテルへまいり、一人につき五百円ずつあげますから、わたしたちを連れだしてくださいと頼まれた。
この辺におる者は武士のお子さんが多いようです。旦那は役人ですが、手下はみな土匪だそうである。いちばん可哀そうなのは、子供を連れてきて二万円とか五万円とかをゆすり取ることで、その金を分けるのがいやでたまりませんと話しておった。

溝帮子 この地も大原野を控え、すべてがよろしい。当地には日本人女十一人おる。先日一人の女がむごい目におうたことをはなした。それは長崎の女で、逃げたのを連れ帰って裸にし、陰部に薪を差しこみ、尻には生々しい牛の尻尾(しっぽ)を突き差し、町の四つ角に数日さらして残酷な殺しかたをしたということである。
どの女も千や二千の金を持っておるから、金はいくらでもさしあげますから、どうか連れ出してくださいと泣きつかれた。
(中略)
黒山 当地にも女は七、八人おる由を聞く。いずれにおる奴も連れ出してやりたい思い、それが頭に残り不憫がると、上原閣下はお笑いになり、「君はよっぽど人に不憫をかける性だなあ」といわれた。

彰武 ここにも商店は相当にあり、広い原野を控え、実に愉快なところだ。ここにも女四、五人おり、いずれも監禁されておる。
(中略)
郭家店 日本人の女四人のうち一人がわれわれのところにまいり、日本へ帰れる方法を教えてくれと、泣いていった。六年前に支那人に連れられて八百円で売られ、子供一人おる。昨年その主人が死亡いたしたので、帰ろうとしても、どちらを指していけばよいのかわかりません。もっとも乗物なしで、ドンキ馬か、チョウツウよりほかにはないですといった。

翌明治21年、村岡氏は今度は厦門(アモイ)で、中国人に誘拐された日本人女性500人を救出しました。中国人は美形を好むので、日本人の手下を使って官吏、豪農、士族、商家の娘ばかりを誘拐させたり、「外国で働けば高い給料がもらえる」とだまして、中国に連れて来ていたのです。少女たちの年齢は14歳から19歳でした。

村岡伊平次はwikiでは売り飛ばす側の女衒と紹介されているので(^^;)上記の記述がどこまで真実を語ったものなのかは不明である。アジアを渡り歩き、いろんな事業を行って大陸を行き来し活躍したようなので、あるいは女衒になる以前の話かもしれない。ただ、女衒であるならば救出という名目で日本人の女を買い取って他へ転売した可能性もある。そして自伝にある「売り飛ばされた女性の悲惨な状況」は、商売上の経験を積む上で目にした、耳にした実話である可能性は高いと思われる。

日本の慰安婦〜第一次世界大戦:wiki
第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけての朝鮮京城の花柳界は全盛を極めた。朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。1918年の京城・本町の日本人居留地と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている。1918年6月12日の『京城日報』は「京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた」と報道した。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった。

日本による朝鮮統治が進み、人口増加や産業振興が活発化すると経済活動も盛んになる。それと連動して娯楽や風俗産業が活性化するのは世の常でもある。そうした世情に人材補給が追いつかなくなってきたのか、花柳界(売春業界)で犯罪的な手口で売春婦を集める事例が増えてきたことをwikiの記述は伝えている。

突撃一番
<画像元:統一教会の裏真実>※陸軍で配布・使用されていたコンドーム

日本の慰安婦〜満州事変前後:wiki
上海慰安所
1932年には上海事件が起こり、満州国が建国宣言を行う。同じ1932年に長崎県の女性を「カフエーで働くいい仕事」と騙して中国上海の日本軍慰安所に連れて行った日本人斡旋業者が、婦女誘拐海外移送罪(刑226条)に問われ逮捕され、のちの1937年大審院判決(及び下級審・控訴院判決)で有罪とされた。

朝鮮における人身売買・誘拐事件
1930年代の朝鮮では10代の少女らが誘拐される事件が頻発し、中国などに養女などの名目で売却されていた。斡旋業者は恐喝を行ったり、また路上で誘拐して売却していた。朝鮮総督府警察はたびたびこうした業者を逮捕し、1939年には中国への養女供与を禁止している。当時の人身売買および少女誘拐事件については警察の発表などを受けて朝鮮の新聞東亜日報や毎日新報(毎日申報。現・ソウル新聞)、また時代日報、中外日報で報道されている。
(中略)

朝鮮総督府統計年報によると、略取・誘拐での検挙数は1935年は朝鮮人2,482人・日本人24人、1938年は朝鮮人1,699人・日本人10人、1940年は朝鮮人1,464人・日本人16人となっている。

この辺りに後に強制連行と言われる売春婦集めの実態が垣間見えるようだ。この種の犯罪に手を染めたのは圧倒的に朝鮮人が多く、日本人も皆無ではないものの実数では桁違いである。ただ、この日本人が「朝鮮人を使って略取・誘拐させた教唆犯」である可能性は否定出来ないのだが・・・。

日本の慰安婦〜支那事変(日中戦争):wiki
南京事件と日本軍慰安所
1937年12月の南京攻略戦の後、南京市を占拠した日本軍による南京事件が発生した。
事件当時、南京市内の安全区(難民区)の設置に関わり、被害にあうことを怖れて安全区内にあった金陵女子文理学院にやってきた女性難民の保護にあたったミニー・ヴォートリンの日記には、強姦事件の被害者からの聞き取り内容や、強姦目的で金陵女子文理学院のキャンパスに侵入した日本軍の兵士とのやりとり(追い払った、女性難民が拉致された、構内で強姦に及んだ兵士を制止した、など)が記録されている。
(中略)
陸軍が視察を依頼した精神科医早尾乕雄の論文である『戦場心理の研究』によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「皇軍に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長がいたと報告している。こうした強姦の多発により、慰安所の設置を急いだことが『飯沼守上海派遣軍参謀長の日記』『上村利通上海派遣軍参謀副長の日記』『北支那参謀長通牒』などの史料から分かる。また小川関治郎の陣中日記の1937年12月21日条には「尚当会報ニテ聞ク 湖州ニハ兵ノ慰安設備モ出来開設当時非常ノ繁盛ヲ為スト 支那女十数人ナルガ漸次増加セント憲兵ニテ準備ニ忙シト」との記述が見られる。
日本軍慰安所設置は主に強姦対策のためになされたが、強姦は跡を絶たなかったともいわれる。

売春斡旋業者の取り締まり:1937-1938
日中戦争がはじまった1937年(昭和12年)から1938年にかけて売春斡旋業者の取り締まりに関する通達等が多数出された。1937年(昭和12年)8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された。1937年9月29日の陸達第48号「野戦酒保規程改正」では「必要ナル慰安施設ヲナスコトヲ得」とある。
(※詳細は元リンクを参照)

日本の陸軍省による注意命令(軍慰安所従業婦等募集に関する件)
朝鮮で頻発する人身売買・誘拐事件に対し、陸軍省 兵務局 兵務課は1938年(昭和13年)3月4日に軍慰安所従業婦等募集に関する件』(陸支密第745号)を発令した。この通達では女性を「不統制に募集し社会問題を惹起する虞あるもの」「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くる」などに注意をせよと命じた。
2月23日の内務省発警第5号支那渡航婦女の取扱に関する件に応じて作成されたこの通牒が北支那方面軍及中支那派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠であると吉見義明が主張した。

(※元リンクにはその他誘拐・人身売買等の事件およびそれらに関する規制・政令発布の記述多数あり)

支那事変の経験より観たる軍紀振作対策
1940年9月19日、『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』を各部隊に配布。その内容は、以下に引用するように、軍慰安所は軍人の志気の振興、軍規の維持、略奪・強姦・放火・捕虜虐殺などの犯罪の予防、性病の予防のために必要であると説いている。

慰安所
<画像元:国民が知らない反日の実態>

慰安婦を軍が必要としていたことは間違いがなく、彼らは頻発する兵士たちの性犯罪を何とか制御しようとしたことが伺える。兵士たちの暴走は朝鮮人や中国人など日本が支配した地域・民族への差別意識と無縁ではないだろうし、それらを統率する軍や政府の側にも少なからず「日本人以下の劣等民族」の感覚は持たれていたことは想像に難くない。

上述したように形式的に「賃金を支払う」ことで「奴隷的人権侵害を労働に偽装する手口」は多くの場合使われたと思われる。欧米における「奴隷制」と比較した場合、東洋における「奴隷的人権侵害」は、そうした理屈の上での抜け道を使った搾取の一形態として存在した。

ただ、それを現代の価値観・倫理観で断罪するのであれば、公的機関に依らない私娼を主に使った欧米型の性政策や、強姦などの性犯罪を容認していた事実も見逃すべきではないだろう。また、現代でも残っている過重労働の強制(いわゆる「ブラック企業」による強制的労働)なども人権侵害として非難されるべきである。

この辺りは当ブログでも以前エントリ「slave【すれいぶ】」で取り上げている。ブラック企業に関しては、ここ数年日本国内での非難が高まり一部の企業を業務改善に追い込んだ効果は上げるものの、日本的な職業観「滅私奉公」「勤勉の美徳」を利用した過重労働を強いる体質は相変わらず現存している。そういう意識が近代国家となった明治期以降も「報国」の概念と結びついて、現在よりも強く従事者にのしかかっていたことは間違いないと思えるのである。

日本の慰安婦〜大東亜戦争(太平洋戦争):wiki
朝鮮における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言
当時の日本で使用された「挺身隊」と「慰安婦」のことばはそれぞれ、まったく異なるものである。「挺身隊」は主に工場などでの勤労労働に従事する女性を指し、「慰安婦」は戦地内地等での公娼・売春婦を意味していた。しかし、戦中当時にも朝鮮社会ではすでに両者が混同されてパニックに陥っていた家族もあった。

米軍報告における慰安婦(ビルマのミッチーナーの慰安所)
1944年9月にインドのレドで作成された日本人戦争捕虜尋問レポート No.49では、ビルマの戦いのミッチーナー陥落後の掃討作戦において捕獲された慰安所経営者の日本人夫婦及び朝鮮人慰安婦20名に対する尋問内容が記録されている。この報告では「慰安婦」とは日本軍に特有の用語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower) と述べられ、1942年に日本の斡旋業者が東南アジアで「慰安奉仕」をする女性を募集した際には業務サービスの内容の正確な説明がなされないままに勧誘されたこと、署名による契約で前借金数百円が与えられたこと、応募した女性には娼婦もいたことや、ミッチーナでの生活環境は買い物や外出などが可能で、比較的良好であり、将兵と共にスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナー等、蓄音機も楽しんだこと。接客を断る自由もあり、軍人が泥酔していた時には断ることもしばしばあったこと。避妊用具が支給され、軍医による週1回検診などで彼女らの健康状態は良く、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安所経営者は借金額に応じて彼女らの総収入の50〜60%を受け取っていたこと。彼女らは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を経営者に返済していたこと(当時の日本兵の月給は二等兵で6円、少尉で70円、大将で550円)。彼女達は十分なお金を持ち、衣服、化粧品、タバコといった嗜好品を購入できたこと。一方で、経営者は食事や品物に高値を付け、彼女らの生活を厳しいものにしたといったこと。日本軍が借金を返済した慰安婦は帰国することができるようにせよとの命令書を発行したために一部の慰安婦は帰国することができたことなどが記録されている。

ビルマのミッチーナーの慰安所の待遇は、これまでの奴隷的待遇の記述から見て少なくとも「天国のよう」に見える(^^;)一部不当な搾取もあるものの、この時代にしてはかなり良心的?(^^;)な慰安所だったのかもしれない。

慰安婦の真実
戦争中の出来事について私達は何を知っているのだろうか?
実際には何も知らないで、それは強制であったとか、強制でなかったとか、 商売であったとか、無かったとか言っているだけである。しかし、満州事変の暴走以来、軍の要求は何でも通ると相場は決まっていたのである。ゆえに多くの人達に とって、徴兵は強制的であったし、鉄が必要だと各家庭にフライパンなどを出させたり、朝鮮の農家には、割り当てとしてコメを出させたりしたが、これは全て強制であった。
この時代の軍の要求は、ほとんど全て強制だったのに、慰安婦だけが強制で無いなどと言う事があるだろうか?

Fight for Justice 日本軍「慰安婦」−忘却への抵抗・未来への責任
国際社会では、被害者の証言と歴史研究の成果をふまえ、「慰安婦 “comfort women”」と呼ばれた女性に対して、日本軍による慰安所で性行為の強制があったこと、即ち「慰安婦」制度とは「性奴隷制度 “sexual slavery”」であったこと、略取や誘拐、人身売買などによる強制連行があったことは明確になっています。

上記2つのサイトは、慰安婦問題に関してそれぞれ日本軍及び現在の日本政府の対応を批判するサイトである。目的がその時代の現実を直視し、日本の責任の明確化とそれら戦争犯罪への贖罪を意図していることは明白である。その部分に関して、私は反対はしないのだが、そこだけに着目して結果的に日本を貶めることにしか執心していないように見える点は極めて不満であり、不適切であると考えている。

今や軍による非人道的行為の象徴として一部の勢力に唱え続けられる「日本軍慰安婦制度」だが、前回までの検証で、その時代背景やそれに至る人類の歴史的事実に照らした場合、確かに酷い話ではあるのだが、戦争と言う国家の命令による殺人行為以上に糾弾されるべき事象ではないように思えて仕方がない。

強いて言うなら、前回の検証でも記述した連合軍兵士による戦地での性犯罪と比べても、そちらの犯罪性や人道上問題のある事象に対し、管理する側の姿勢として政策的に放置した責任がクローズアップされずに日本軍慰安婦だけが問題視されるのは、どう見てもフェアではない。

慰安婦
<画像元:ガールズちゃんねる>※画像は朝鮮戦争時のものと思われる。

一方で慰安所の実態に関しては貴重な証言がネットでも拾える。昨年亡くなった元陸軍少尉:小野田寛郎氏の寄稿文だ。(元記事は正論2005年1月号掲載のもの)

小野田寛郎小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」:悪の教典 永遠の謎 第四章
 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

<画像元:僕らの国、日本>

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。
(中略)
 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。
(中略)
 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。
(中略)
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。


※是非リンク先の元記事を全文参照いただきたい。

結局のところ、どんな業種でも同一業種の職場環境が完全に一致することは珍しく、その場所ごとに明確な差が生じていたということなのかもしれない。待遇面や訪れる客層などでも従業員の職務内容と負担は変わってくる。慰安婦という職業上、その差が極端に現れたとも考えられるし、個々の慰安所の経営者の人格的な部分が大きく影響していたことも考えられるのである。


慰安婦問題に関して業務委託した軍や政府関係者の道義的責任は免れないが、慰安婦を集める際の強制的手段のすべてにおいて責任を追わせるのは適切で無い以上に反日煽動の類の悪意を感じる。

なぜなら慰安婦が日本軍に存在した事情の背景には、世界中にリアルに存在した売春婦たちの現実が切り離せない事は明らかで、軍の慰安所にかぎらず売春宿の人身売買の現実は、その強制的労働環境や搾取の酷さにおいて日本軍慰安所以上の苛酷さは珍しくはなかったからである。

日本軍の慰安所に不利と思われるのは、それらの私娼による売春と違い、より効率的に管理し(狡猾あるいは悪辣にと表現することも一部では可能かもしれないが)彼女たちを支配していたと言う一面が「政府・官権力」による強制性を強調している点だろう。

ただ、この問題をより複雑にしているのは、被害を訴えている元慰安婦のそのほとんどが韓国・朝鮮人であり、彼女たちの証言の信頼性・立証性が非常に低い事である。以下はその一部の検証である。

金 学順
金学順:wiki
金 学順(キム・ハクスン、김학순、1924年 - 1997年12月16日)は韓国人の元慰安婦。1991年に自ら元慰安婦として名乗り出て多くの証言を行った。各々の証言の真贋については議論のあるところだが、彼女が慰安婦であったことは確かとされている 。
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の原告の1人。判決を得る前に金学順本人は死亡、その後最高裁で原告の請求を退ける判決を受け、敗訴が確定する。

<画像元:いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から検証するサイト>

慰安婦問題の原点でもある彼女が求めていたものは、個人の(経済的・精神的)救済だったのだろうが、結果的には今の韓国が求めているものと同じような気がしてならない。完全なる日本の屈服とそれに伴う金の無心だ。そういう意味では彼女もまた反日勢力に利用された「二次被害者」と言えるのかもしれない。

被害者証言の検証:阿修羅
一番、最初に名乗り出た慰安婦被害者

金学順(キムハンスク)※原文まま「キム・ハクスン」の誤記と思われる。
1923年 中国東北(満州)の吉林省に生まれ
1991年8月14日、慰安婦被害者として初めて名乗り出る。
1991年12月16日、日本政府に対して謝罪と賠償を求めて提訴。
1997年12月16日死去

1)1991年8月14日の記者会見での最初の証言
 「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」
引用元)「ハンギョレ新聞」91年8月15日付

2)1991年12月16日、東京地裁に提出された訴状内容
 1923年、中国東北(満州)の吉林省に生まれたが、生後まもなく父が死亡したので平壌へ戻った。母は家政婦などをしていたが、貧困のため学順は小学校を四年で中退、金泰元の養女となり、14歳から三年間キーセン(妓生)学校に通った。注釈)キーセン=芸者・公娼の意味

1939年、「金儲けができる」と説得され、一歳上のエミ子とともに養父に連れられ中国へ渡った。

 北京を経て鉄壁鎮という小集落で養父と別れて慰安所に入れられ、日本軍兵士のために性サービスを強要された。軍医の検診があった。同じ年の秋、知り合った朝鮮人商人(趙元チャン)に頼んで脱出し、各地を転々としたのち、上海で夫婦になった。
 フランス租界で中国人相手の質屋をしながら生活、2人の子どもを得て終戦の翌年、韓国へ帰った。
 朝鮮戦争中に夫は事故死、子も病死し、韓国中を転々としながら酒、タバコものむような生活を送った。
 身寄りのない現在は政府から生活保護を受けている。
 人生の不幸は、軍隊慰安婦を強いられたことから始まった。日本政府は悪かったと認め、謝罪すべきである。

3)いつの間にか、「親に売られた」が「日本軍に連行された」に変更
 金さんは旧満州(現中国東北地方)で生まれ、平壌で育ったが、十七歳の時の春に、日本の軍人に強制的にトラックに乗せられ、中国大陸の前線に連れて行かれたと証言。「その日から将校の相手をさせられ、抵抗するとけられた。日に何十人もの兵隊が来て、そこにいると死ぬしかないと思った」と語った。半年ほど後に逃走し、日本の敗戦後に韓国に帰国した。
引用元)共同通信(夕刊) 1997年12月16日付
*もともと彼女は、キーセン出身であり、「親に売り飛ばされ、軍隊相手の売春をさせられていた」と語っていた。彼女の訴えは、「強制連行」に対するものではなく、「人生の不幸」に対する補償だった。

もう一人の被害者・文玉珠。実は、三年足らずで、莫大な蓄財を築いていた。
毎日新聞 1992 年5 月22 日の記事

第二次世界大戦中『従軍慰安婦』として強制連行されたミャンマー(旧ビルマ)で預けた軍事貯金の支払いを求めていた韓国・大邸市在住の文(ムン) 玉珠(オクス)さん(68 歳)が11 日、山口県下関市の下関郵便局を訪れ、預けた貯金の原簿があったことが分かった。(中略)文さんは『個人の請求権は消滅していない。
当時「日本人として貯金した個人のお金だから直ちに返して」と訴えている。(中略)
原簿によると43 年6 月から45 年9 月まで12 回の貯金の記録があり、残高は26,145 円となっている。
(中略)
*強制連行され、強制売春させられたといいながら、わずか二年三ヶ月間で、陸軍大将の年俸の四倍近い額を稼いでいた。彼女が稼いだ額は、現在の韓国の貨幣価値に変換すると約10億WON。日本円では一億円相当に当たる。
(中略)
黄錦周(ファンクムジュ)
2)1995年7月24~27日(夕刊)に、朝日新聞に四回に渡って掲載された証言の矛盾点と嘘
1922年生まれと証言。しかし、彼女は過去に1927年生まれと称していた。
17歳(1938~39年)の時に、“国民徴用令”で軍事工場に動員され、慰安婦にさせられたと証言。しかし、朝鮮で、国民徴用令がしかれたのは 1944年であり、ありえない。
C羚颪竜販咾之海琉岼舵悗砲気譴燭半攜澄しかし、吉林は戦場ではなく、公娼制度が導入された歓楽街。わざわざ軍が慰安婦を設ける必要はない。
ぅリスマスの日は、一番客が多かったと証言。しかし、日本軍にクリスマスを祝う習慣はない。
参考)「戦争論2」 小林よしのり著書 幻冬舎出版 2001 第12章
*証言の度に、内容はおろか、年齢や生まれた年まで変わっている。

金順徳(キムスンドク)
1)2003年4月4日、高槻市立総合市民交流センターでの証言
 「日帝時代、『準看護婦』として韓国から連れられた」

2)朝日新聞 asahi.com 2003年6月12日付
 金順徳(キムスンドク)さんは1937年、17歳のとき、「日本の工場で働く娘を募集している」という言葉にだまされ、中国・上海の慰安所に連れていかれた
*これも証言が矛盾。ちなみに、内地(日本)の企業が朝鮮での求人活動が許可されたのは、国家総動員法が成立した1938年からである。


李 容洙2015年時点で生存している元慰安婦で、最も韓国人元慰安婦共通の特徴的な証言を行っているのが李容洙である。

李容洙:wiki
李 容洙(イ・ヨンス、이용수,1928年12月 - )は、韓国の大邱(テグ)生まれの韓国人女性。1944年に日本軍に慰安婦として強制連行され、1947年まで台湾の慰安所で日本軍から強姦・暴行・拷問を受けたと主張している。1992年から岡崎トミ子参議院議員らの支援を受けて、日本国の総理大臣と天皇に対して、誠意ある謝罪と賠償を求める政治運動を行っている。アメリカ合衆国下院121号決議の審議では法案反対派の米国議員たちの前で泣き叫ぶパフォーマンスを見せて圧倒し、法案成立の一助となった。現在は韓国京畿道広州市にあるナヌムの家に拠を構え、韓国や日本の市民団体などの招聘に応じて政治運動のパフォーマンスを行っている。

下はウィキ内記載の証言内容を当時の年齢ごとにまとめたもの。

李-容洙(イ・ヨンス)の証言の変化
※クリックで拡大
李容洙〜証言の内容について:wiki
●1993年、ソウル大学教授の安秉直ら「挺身隊研究会」が慰安婦と名乗り出た女性らに聞き取り調査を行った。安は慰安婦として名乗り出た人の中には事実を歪曲している人もいた事を記し、調査の対象となった40人のうち、19人についてはそうした事はなく証言の信頼性が高いことを以下のように書いている。
「調査を検討する上で難しかったのは証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。すでに50年前の事なので、記憶違いもあるだろうが証言したくない点を省略したり、適当に繕ったりごちゃ混ぜにしたりという事もあり、またその時代の事情が私たちの想像を越えている事もあるところから起こったことと考えられる。(略)私たちが調査を終えた19人の証言は私たちが自信をもって世の中に送り出すものである。(略)証言の論理的信憑性を裏付けるよう、証言の中で記録資料で確認できる部分はほとんど確認した。」
<証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち 韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993年>

後日(2006年)に安は、「強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つもない」「無条件による強制によってそのようなことが起きたとは思えない」と述べ、日本のケースでの「自発性」を強調し、現在の韓国における私娼窟における慰安婦をなくすための研究を行うべきであり、共同調査を行った韓国挺身隊問題対策協議会は慰安婦のことを考えるより日本との喧嘩を望んでいるだけであったと非難している。<(朝鮮語)“教科書フォーラムの安秉直、「慰安婦は自発的」妄言で波紋 ”. デイリー・サプライズ (2006年12月6日). 2008年12月9日閲覧。>
(中略)
●秦郁彦は雑誌記事
[幻の「従軍慰安婦」を捏造した河野談話はこう直せ! 秦郁彦 諸君 [2007.5]]で李容洙の1992年挺身隊対策協議会への証言および2007年アメリカ下院公聴会での証言から、慰安婦になった経緯は民間業者の甘言、朝鮮人による騙しによるものであり官憲による強制連行ではないとし、家出が正しいとしている。また、週刊新潮の取材に対して、「彼女が初めて元慰安婦として公の場に出たのは92年。当時は、慰安婦にされた経緯を“満16歳の秋、国民服に戦闘帽姿の日本人男性から赤いワンピースと革靴を見せられ、嬉しくなった。母親に気づかれないように家を出た”と語り、米国の公聴会でも同じことを喋っているのですが、これまで何度も来日している彼女は、今年も日本で数回、会見を開いています。で、2月には“日本兵が家に侵入してきて、首を掴まれ引きずり出された”と言い、3月には“軍人と女に刀をつきつけられ、口を塞がれ連れ出された”などと内容が変わっている。要するに、家出と強制連行と、2つの話があるわけです」「連行された時の年齢が、14、15、16歳と、実に“3種類”。時には「44年、16歳で台湾に連行され、慰安婦の生活を3年間(1944年-1947年)も強いられた」と語るのだが、それでは終戦後も慰安婦として働いていたことになってしまう。」と、その証言に疑問を示している。<週刊新潮(2007年)4月5日号P.62>

どう見ても「必要以上に盛った話」である印象は拭えない。日本を敵視し、貶める連中の意向に沿った証言をしようとするから、記憶の内容が常に変化する。時期的なものや大筋の流れが多少揺らいだとしても「不変」であれば、実際の記憶に基づいた話として信用する気にもなろうというものだが、あまりにも振れ幅が大きすぎる。
ソウル大学教授の安秉直の2006年のコメントが如実にそれを物語る。冷静かつ問題解決の核心をついている・・・はずなのだが、糾弾する側は中々直近である現代の問題・課題に目を向けようとはせず、解決がほぼ不可能な過去の問題をことさらに責め立てるばかりである。

日本と慰安婦 — 売春婦はどこにでも:Michael Yon JP
この件について,いろいろな国で調べれば調べるほど(すぐにフィリピンに戻るが),このウサギの巣穴はどこまでも深く続いている.日本はアジアで数十万人をセックス奴隷にするために誘拐したと,韓国と中国は言っている — 20万人から40万人だ — しかし実際のところ,当時,日本軍や米国海軍が海を越えてやってくる前から,そこではどこを見ても巨大な売春婦産業が存在した.

カリフォルニア,グレンデールの慰安婦像に,そこには二度訪れたことがあるが,フィリピンとタイの国名がプレートに記載されている.さも日本に対して苦言を呈しているかのように.私はタイに住んでいる.ここで日本の慰安婦の件について調べているのだ.慰安婦についての文句を言う者などタイにはいない.

今月,フィリピンへの調査から戻った.今後,調査を続けるためにまたフィリピンに戻る.他の国にも調査に行く.

フィリピンは数百年に渡って売春婦で有名である.スペインなどは活気に満ちた売春婦ビジネスをフィリピンで展開していた.米国はそれをもっとでかくしたが,第二次大戦中は日本軍が数年間にわたって支配し売春婦を使役した.それからマッカーサーが戻ってきて米軍がもっとでかくした.そして多くの米国人が残ったが,あいかわらずフィリピンは売春宿で有名だ.

冗談はよしてくれ.日本は韓国人やフィリピン人をセックス奴隷にするために誘拐する必要なんて無かった.彼らは売春婦が入ってこないように基地をガードしなければいけなかったろう.アメリカの入国管理局は,2015年,韓国の売春婦が米国内で巨大な売春婦ビジネスを展開しないように目を光らせることで手一杯だった.

この学術論文は多くの説明と引用文献を含んでいる.
「植民地時代のマニラにおける売春婦」
http://philippinestudies.net/ojs/index.php/ps/article/download/974/961

「フィリピンにおけるアメリカの植民地支配は,その国の売春婦問題を一層悪化させた.1899年,フィリピンとアメリカの戦争がおこった.双方の戦闘部隊の焦土作戦ポリシーにより,多くの財産が失われ多くの人々の生活が極貧へと追いやられた.米国支配の初期の頃,タフトは,フィリピン人から得たこの状況の情報を報告した.」
つづけて
「アメリカン人によるフィリピンの占領に続いてやってきたのは日本人だ.道路,橋,軍事施設などを建設するために安い労働力が必要だった.
しかしマニラのおける日本人社会の占領で,最も繁栄したビジネスは売春宿の事業だ.日本人が経営していた35の売春宿のうち,32軒がマニラのサンパロックにあった.」

「米軍兵士のための売春婦の役割は「軍事上の必需品」であるとタフトは認識していた.」
終わりに,
「アメリが軍兵士の間に性病が蔓延するのを防ぐため,アメリカ軍当局は憲兵司令所を通じて,1901年,赤線区域を定めた.[脚注]」
===

ここにだれか清廉潔白な者はいるか?

戦後アメリカは、日本が周辺国と結託して反米に傾かないよう、周辺国との領土境界を曖昧にして将来の紛争の種を仕込んだと言われている。そう考えれば、あえて反日的な政権を承認し(韓国:李承晩政権)北朝鮮や中国共産党の躍進に目をつぶり、ソ連の北方領土への侵入も不介入としたのも頷ける話であるが、中東におけるイギリス・フランスもその地を植民地支配していたにも関わらず、現在に至るまで具体的かつ実際的な中東和平への活動はしないし放ったらかしの無責任ぶりだ。さすがにIS(イスラム国家)に関しては有志連合に加わり抑制に動いているが、これもアメリカが積極的に動かないためやむを得ず代行しているかのような消極的参加でもある。

そんなアメリカも自国内に慰安婦像が乱立する不快感に、ようやく腰を上げる人物が出始めた。当ブログでも以前紹介した軍事ジャーナリストのマイケル・ヨン氏である。

ヨーロッパ戦線で開放したフランス女性を襲いまくり暴虐の限りを尽くしたアメリカ人(^^;)に70年後に助け舟を出されるとは少し意外でもあったが、中韓の日本叩きの異常性にようやく気がつく人が増えてきた証でもあろう。

松井やよりが語ったフィリピンの米軍慰安所:続・慰安婦騒動を考える
米軍慰安所松井やよりの「女たちのアジア」から。この引用は初刷り(87年)ではなく94年発行の19刷からだが、87年の初刷りから変更がないとすれば、「慰安婦騒動」が始まる前に書かれたものである。(写真は現在のアンヘレスの売春婦たち)
(中略)
松井は、貧しいアジアの女性たちが家父長制や植民地主義の犠牲になり性的搾取を受けているとして、米軍も日本軍も区別なく糾弾していたのである。にも関わらず、平気で「性奴隷制を持っていたのはナチスと日本だけ」といったような伝説が作られていくのである。プロパガンダに利用されていたことを松井が知らなかったはずはないが、多くの「良心的日本人」同様、彼女は見て見ぬふりを続けたのである。


これは仮定だが、「女たちのアジア」の出版元である朝日新聞出版の恣意的な操作・誘導に松井やよりも出版と引き換えに沈黙させられたというのであれば、借金をカタに自由を奪われた慰安婦たちと根は同じではないか。

<2017年5月16日追記>
松井やよりはその経歴(wiki)を見る限り、反日左翼の典型たる家系に育ち一家諸共に「批判のための批判」を生み出した人物でもあるようだ。「見て見ぬふり」ではなく、元朝日の記者らしく「伝えない自由」を行使しただけだったようだ。
<追記終わり>

日本人が行う告発は「日本批判でなければならない」ということなら、朝日がもっと喜びそうな「自国批判」は別の人が別のところで書かれている(^^;)それが嫌韓本の中にあって、当の韓国人ブロガーが自国の欺瞞を暴くユニークな存在「シンシアリー」氏である。
新刊本も先ごろ発売されたが、その第1作でもこの問題に触れている。冷静さとは、こういう多面的に公平さを保って問題を検証する姿勢こそ言うのだろう。

韓国が主張する「日本軍慰安婦」の矛盾点:シンシアリー著「韓国人による恥韓論 」(扶桑社新書)第三章第一節
1.韓国は、朝鮮戦争で韓国軍も慰安所と慰安婦を運用していたのに、なぜそれを同じ慰安婦問題として扱わないのか。
2.韓国は、在韓米軍相手の慰安所と慰安婦を韓国政府が直接管理していたという文書まで公開されたのに、なぜそれを同じ問題として扱わないのか。
3.韓国は、過去の慰安婦にはそんなに気を遣うのに、なぜ借金漬けで性奴隷になっている現在の韓国人売春婦たちを無視するのか。

 ある主張に対して、肯定するか肯定しないかは、人それぞれです。しかし、その主張に明らかな矛盾があって、明らかなダブル・スタンダードがあって、そこを指摘するとなると、話は別です。

 韓国が主張している慰安婦問題には、“おまえが言うな”という美しい日本語で解決できる明らかな矛盾点が存在しているのです。この三つの側面は、それを明らかにしてくれるでしょう。

現代の問題という点では、日本においても状況は左程変わらない。実質的に「売春は絶滅していない」し、形を変えて現れる風俗産業の中でより隠された形で存続している。

【韓国の反応】 慰安婦を「自発的売春婦」と表現した朴裕河『帝国の慰安婦』、韓国で事実上の発禁処分となる裁判所決定:【韓国の反応】みずきの女子知韓宣言(´∀`*)

帝国の慰安婦裁判所「本『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』は従軍慰安婦の名誉を毀損」

いまどき発禁する国ですよ。事実上の発禁。
日本じゃ考えられません。
日本においては、いくら韓国側の肩を持つ本が出版されようが、発禁になることはない。

朴裕河さんはねー、、、、
私は正直いうと好きじゃない。好きじゃないけど一定の敬意は持ってます。
で、ぶっちゃけ「今の朝日新聞」にとって一番都合のいい話をしてくれるのが彼女のような方なんじゃないかなと思ってます。
それでも韓国はこの方の論を受け入れられないわけで、朝日的にどうなんでしょうね。


例によって過剰反応気味の韓国の司法である(^^;)出版社が「朝日新聞出版」なので本来は味方についても良さそうなものだが、朝日は韓国から見放されたのだろうか?(爆)

<2017年4月26日追記>
今頃の追記ではあるが、『帝国の慰安婦』著者・朴裕河教授に対する裁判が「慰安婦に対する名誉毀損」と言う理由で行われていたが2017年1月25日に結論が出ていた。

『帝国の慰安婦』著者・朴裕河教授に無罪 韓国の裁判所、名誉毀損を認めず:ハフィントンポスト
The Huffington Post | 執筆者:吉野太一郎
投稿日: 2017年01月25日 18時39分 JST 更新: 2017年01月25日 18時39分 JST
著書『帝国の慰安婦』が元慰安婦への名誉毀損にあたるとして起訴されていた朴裕河(パク・ユハ)世宗大教授に、一審のソウル東部地裁は1月25日、無罪判決(求刑・懲役3年)を言い渡した。

朴教授は2013年8月に『帝国の慰安婦』(韓国語版)を出版。慰安婦問題の経緯を解説して韓国の支援運動の問題点などを指摘し、解決への道を提案した。この中で、旧日本軍に動員された慰安婦が、軍人と「同志的関係」にあった人もいたと述べた。また、文中で使われた「売春」などの表現を巡り、元慰安婦らから2014年6月に「名誉を傷つけられた」として刑事告訴された。元慰安婦側と朴教授の事前の調停手続きが決裂し、韓国の検察当局が起訴していた。

ハフィントンポスト韓国版によると、判決は「被告人が本で開陳した見解については批判と反論が提起されることも予想され、慰安婦が強制的に動員されたことを否定する人々に悪用される恐れもあるが、あくまでも価値判断を問う問題であり、刑事手続きにおいて法廷が追及する権限や能力を超える」とした。

さらに「公的な事案について表現の自由はより広く認められなければならず、名誉毀損について厳格に審査しなければならない」とする最高裁の判例を引用し「名誉毀損は認められない」「学問的表現は正しいものだけでなく、間違ったものも保護しなければならない」と結論づけた。

最早八つ当たり(あるいは言いがかり)に近い裁判だったが、法理論など二の次で屁理屈を捏ねてでも情緒的な判決を優先していた彼の国の司法としては珍しく(^^;)常識的な判断を下した。
<追記終わり>

世界に売春婦を輸出している韓国がやるべきことは日韓基本条約で解決済みの請求権を反則的に蒸し返すことではなく、自国の恥を輸出する現状を改善することである。かつて日本でも「からゆきさん」に代表される人身売買が国を支えた時代があった。根本解決ではなく体裁・体面を重視する形で日本はそれを激減させたが、同じことを最も早急に行い国家・民族のイメージを改善すべきは韓国なのである。

韓国政府が作り上げた米軍向け慰安婦制度、元慰安婦が国を告訴―英メディア:レコードチャイナ
基地村での売春従事者122人が「国が米軍相手の慰安婦制度を作った」と政府を告訴。1人あたり1000万ウォン(約107万円)の賠償を求めている。「国が強制したわけではないとはいえ、国が売春制度を作った」と責任を問うている。

韓国軍慰安婦:wiki ※洋公主(ヤンコンジュ、ヤンカルボ)
韓国軍慰安婦(かんこくぐんいあんふ)、または大韓民国軍慰安婦 (だいかんみんこくぐんいあんふ、한국군위안부、대한민국군위안부、Korean Military Comfort Women)とは、日本が大東亜戦争で無条件降伏した後における韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。現在も坡州市のヨンジュコル(용주골、en:Yong Ju Gol)などに存在している。

基地村政策沿革
1947.11.14 公娼制度廃止
1950-1954 韓国軍慰安婦設置

1961.11.9 淪落行為等防止法(ko:윤락행위 등 방지법)制定
1962.6 米軍基地近隣104ヶ所を特定(淪落)地域に指定し売春取締除外
1971.12.22 政府主導で基地村浄化委員会発足
1970-1980年代 強制性病検診、基地村女性人権侵害がひどい
1990-1991年 梨花女子大元教授の尹貞玉が日本軍慰安婦問題を新聞で初めて告発。
1992年 尹今伊殺害事件(米軍兵士が基地村女性殺害) 
1996年 性病管理所閉鎖(韓国政府による管理売春終わる)
1990年代後半 フィリピン等外国人女性に代替(民営化)
(中略)
強制連行
韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている。 韓国における慰安婦はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった。
国連軍による性暴力と強制連行
崔吉城は論文「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」において、朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたことや、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたことを紹介している。性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった。
北朝鮮人女性の強制連行
朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった。
韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた。
捕虜となった朝鮮人民軍女軍、女性パルチザンゲリラ、そのほかに朝鮮人民軍や中国の人民志願軍の占領地内の住民である朝鮮人女性のうちまだ疎開しなかった女性などが、共産主義者を助けたとの名目で強制的に性奴隷にされた。

最も特筆すべきは、公娼制度廃止の後に韓国政府自ら禁を破って慰安所を設置していることであるし、性病検査の継続を要求するなどそれをアメリカが望んだことも記録に残っている。
アメリカが積極的に韓国の日本軍慰安婦糾弾にコメントをしてこなかった理由がここにある。下手に言及すればかつて米軍が行った残虐行為・非人道的行為の存在を指摘されるからである。少なくとも韓国の主張に加担している者は、これらの事実を知らないか韓国人と同様「相手より大きい声で訴えれば自分たちの主張が通る」とでも思っているのだろう。この韓国軍や米軍の行為は数多くの著作で取り上げられ、日本軍慰安婦の事実立証とは異なり一次資料の多さでも信用性は高い。

朝鮮産・洋公主のヤミ歴史…朴正煕が設計した国家売春:東アジア黙示録
【朴正煕が作った赤線地帯】
1950年に朝鮮戦争が始まると、駐留米軍の急増にあわせて洋公主も膨れ上がった。記録によれば、激戦中の51年に釜山だけで慰安所の新設は74件にのぼっている。

洋公主の“活躍”は、朝鮮戦争が休戦しても終わらなかった。駐留兵士向け性産業が拡大する中、米軍は性病の蔓延に悩み始める。1957年にはOEC(米経済調整官室)も参加し、政府間協議が行なわれた。
米側の申し出によって南鮮政府は、社会保健部直轄の性病診察所を基地周辺に47ヵ所設置。洋公主を一定のエリアに隔離するなど国家による統制・管理を進めた。
米軍基地周辺の性病診察所付き隔離エリアは「基地村」と呼ばれ、東豆川やソウルに近い議政府(ウィジョンブ)は、急速に繁栄した。議政府は2002年に米兵の装甲車ひき逃げ惨事が起きた場所だ。

そして1961年、軍事クーデターで李承晩を追放した朴正煕は「基地村」の本格的な整備に乗り出した。朴正煕が制定した観光事業振興法は、ドルを稼ぐ洋公主を公式に認めるものだった。

この観光振興法は、売春を禁じた「淪落行為防止法」に抜け道をつくり、いわゆる「赤線地帯」に法的根拠を与えたのである。朴正煕は梨泰院(イテウォン)など全国36ヵ所の基地村を赤線地帯に指定した。
朴正煕は、セマウル(新しい村)運動の提唱で知られるが、それ以前に売春村を開発していたのだ。64年には米軍向け施設の売り上げは、900万ドルを超え、国家の外貨収入の10%に及んだという。

▼クーデター直後の朴正煕ら
クーデター直後の朴正煕ら

また70年代になると京畿地方だけで年間800万ドルの外貨が洋公主の収入になったという京畿道観光運輸課の公式調査も存在する。基地村は、南鮮経済を支える巨大売春産業であったのだ。
朴正煕は70年代に基地村浄化運動に取り組んだとされる。しかし、それは性病検査を徹底し、行政組織が洋公主の英会話教室を開くなど、性産業の発展に寄与するものだった。

この韓国軍慰安所は紛れも無く日本軍慰安所の影響を受けていた。伝統的な韓国(朝鮮半島)の性風俗の流れを汲んでいるものでもある。しかも最も激烈に日本に対して慰安婦問題を訴えている朴槿恵韓国大統領の実父が直接「韓国軍慰安婦」を組織していたのだから皮肉なものだ。
日本の陸軍師範学校出身でもある朴正煕元大統領の娘である朴槿恵現大統領は追求するならば自身の父親から断罪せねばならなくなるわけである。

また、今なお現存する自国の問題を放置して過去の他国の責任を追求する偽善は、この国の得意とするところではあっても容認することはできないし、日本軍の戦争犯罪を糾弾するなら、ベトナム戦争での韓国軍の行った戦争犯罪を封印することも許されない。韓国もさることながら、アメリカもまた日本のことを言う資格はないのだ。
上述のマイケル・ヨン氏の「ここにだれか清廉潔白な者はいるか?」とは、この事実をも暗喩しているのである。

多くの場合、(韓国・中国のように)他国に問題を押し付ける行為の殆どは、自国の問題の裏返しでしか無い。歴史認識問題で虚構を主張し続ける行為は、事実が暴かれることへの恐怖心でもあり、他国へそれを要求する行為は「隷属を強要」していることと変わらない。

特殊慰安施設協会:wiki
特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい)は、第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本政府によって作られた同軍兵士の相手をする売春婦(慰安婦)がいた慰安所である。

日本が政府レベルで直接関与した唯一の慰安婦施設もまた、日本軍慰安婦制度の延長線上にあったことだろう。それでも日本は(名目上の)軍備の解体とともにこうした慰安婦制度も順次縮小し撤廃に動いていく。売春防止法<1957年(昭和32年)施行>によって正式に「容認されていた売春行為」「公娼制度」が廃止された。現在では性風俗産業の一部で「売春的行為」が確認できるものの、公式に存在する国に比べれば「女性の人権保護」の観点では前進していると言えるだろう。


最後にもう一度書く。日本の帝国主義的政策に起因する日本軍の朝鮮や中国大陸の進出に伴い発生した「慰安所と慰安婦」に対する道義的責任は間違いなくあるだろう。しかしその「当時の朝鮮もまた日本の一部」であり、その売春婦集めに多くの朝鮮人が加担したこともまた間違いが無い。その当時の女性が享受せざるを得なかった過酷な運命には男性のひとりとして真摯な同情を禁じ得ないものの、その時代の女性たちの不遇・悲惨な人生に対するすべての責任と罪悪感を現在の日本人だけが背負うのはあまりにも不当・不公平であると。

また、当時の売春婦=慰安婦たちが「一定の抑圧的人権侵害状況にあった」事は認めても、それがすなわち「性奴隷」と言う極端な非人道的待遇を伴っていたかに関しては、「強制連行」を含めて個別に存在した可能性は否定しないが、それがすべてであったような主張は到底認められない。ということである。

大日本帝国時代の事実関係としての慰安婦検証は以上である。しかしこの問題をさらに複雑にしているのは慰安婦問題が顕在化した1980年代末期〜1990年代の日本と韓国の背景状況も加味しなければならない。

しかし、これは本項目の「大日本帝国」時代とは外れるので別の機会に再検証する予定である。その際のポイントとしてヒントを一つ出すとするならば、つまり、慰安婦が「問題」となることで色々メリットが有る勢力が居るということだ。

これら一連の話は、日本人としては「面白く無い話」のはずなのだが、裏話としてはソッチのほうが面白いかもしれないのが何とも忌々しく腹立たしい・・・とだけ今は言っておこう(^^;)

<2015年4月14日追記>
韓国側のダブル・スタンダードを指摘している動画があったので戦後の話が中心だが史料として追記する。



<2015年5月12日追記>
WJFの関連動画『慰安婦神話の脱神話化』全編を追記。現在従軍慰安婦問題で「最大の問題とされている強制性の部分」の事実関係を詳細に検証している。



<2015年7月28日追記>
工作員の黄昏【こうさくいんのたそがれ】慰安婦問題の原点とも言える吉田清治に関する考察

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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