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工作員の黄昏【こうさくいんのたそがれ】

近代史探求シリーズで旧大日本帝国の詳細を調べて回ると、少なからず軍直属の情報機関や工作員(いわゆるスパイ)と呼ばれる暗躍する人々の影が浮上する。直近の「帝国の功罪(11)」では、日本軍慰安婦の件を取り上げたが、日本側に甚だしく人道上逸脱した客観的事実が残っていないのと反面、相当ひどい待遇や環境でも「犯罪にならないかぎり」周知されない、あるいは検挙されないこともあって、必ずしも日本側に一切の非はないとは言い切れないものもある。

時代的背景として、いや、現実的な問題として、それを問題視したところで、誰もどうにもできない絶対的な社会悪の存在がある。現在においても売春や強制的労働は根絶してはいないのだし、それ以外の犯罪的脱法行為は地下でほそぼそとでも命脈を保っている。そういう「蛇の道は蛇」に通じた情報取得ルートはいつの時代でも必要とされ、地下(アンダー・グラウンド)にアクセスできる部分も残して置かなければ、重大事件や犯罪の抑止さえ支障をきたすからだ。

昔からそういった「非合法的な情報伝達ルート」では、ブラフ(餌としての偽情報)やリーク(暴露情報)など珠玉混合の情報が取引されて、社会を裏側から動かす陰謀または世論操作の媒介者として存続してきた。

一番有名な例としては、日露戦争時の明石元二郎が挙げられるだろう。

明石元二郎
明石元二郎:wiki
日露戦争が開戦すると中立国スウェーデンに移り、以後この地を本拠として活動する。明石(当時の階級は大佐)は日露戦争中に、当時の国家予算は2億3,000万円程であった中、山縣有朋の英断により参謀本部から当時の金額で100万円(今の価値では400億円以上)を工作資金として支給されロシア革命支援工作を画策した。この点について2013年に西部邁(評論家)は次のように述べた。「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」[西部邁、黒鉄ヒロシ 『もはや、これまで: 経綸酔狂問答』 PHP研究所、2013年、152頁。]
※管理人注:ツアーはツァーリ=ロシア皇帝を意味し、ツァーリズムと書けばロシアの絶対専制君主制度を指す。
主にヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。後に、明石の手になる『落花流水』を通して巷間伝えられるようになった具体的な工作活動としては、情報の収集やストライキ、サボタージュ、武力蜂起などであり、明石の工作が進むにつれてロシア国内が不穏となり、厭戦気分が増大したとされていた。
(中略)
明石は日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図したものであった。陸軍参謀本部参謀次長・長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」と言って称えたと紹介する文献もある[半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛『歴代陸軍大将全覧(大正篇)』 中公新書ラクレ]。


体制側に付け入られる隙があってのことではあるが、莫大な予算と裏側から仕掛けられた情報戦で日本はロシア帝国を上回っていた。ロシア帝国の巨大な力は内乱抑止と対日戦に分断され、アメリカやイギリスなど列強の敵対国も巻き込んでの揺さぶりにかなり影響されたことは否めない。

小説などでは英雄的に描かれてはいるものの実際の成果としては疑問視されていたり、その評価は分かれるところではあるのだが、ロシアの公安警察にマークされていたり、潜在的な反政府勢力を刺激し、数年後のロシア革命に多少なりとも影響を与えたその役割は無視できないだろう。

昨年朝日新聞によって「ようやく」否定された吉田清治の「慰安婦関連フィクション」だが、この吉田清治という人物のルーツを辿ると結構興味深い事象がある。

吉田清治:wiki
吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - 2000年(平成12年)7月30日)は福岡県出身とされる文筆家。
1980年代に、太平洋戦争中、軍令で朝鮮人女性を強制連行(「慰安婦狩り」)し日本軍の慰安婦にしたと「告白」。これがメディア、特に朝日新聞に長らく真実として取り上げられたことにより、国際問題化している「慰安婦問題」醸成の大きなきっかけとなった。しかし、後の追跡調査では吉田の証言の客観的な裏付けは取れず、寧ろ反証が得られるなど矛盾点を指摘されるなか、1995年になって自らの証言が主張を織り交ぜた創作であることを認めた。その後、1998年頃を最後に消息が長らく不明だったが、2014年になって既に2000年7月に死去していた[週刊新潮2014年3月13日号]ことが判明している。その来歴には謎が多い(後述)。
(中略)
後述するように、吉田の出自や経歴は時と場所で頻繁に内容が変わったり、矛盾が多く含まれており、はっきりとしていない。
新聞では1983年段階で70歳と報道されており、生年月日は1913年10月15日としている。また、本人の著作では本籍地を山口県と自称していたが、実際には福岡県芦屋町西浜であるという。門司市立商業学校(現・福岡県立門司大翔館高等学校)の卒業生名簿に、吉田清治の本名とされる「吉田雄兎」の名があり、それによると1931年に同校を卒業したことになるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。2014年8月5日、朝日新聞が吉田証言にもとづく過去に報道を誤報と認めた後、同年8月28日付けの読売新聞は、2014年時点で60歳代の吉田の長男によると、1977年の吉田の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』(人物往来社刊)執筆の際、出版社とのやりとりの中で本名「雄兎(ゆうと)」ではなく、ペンネーム「清治」を使うこととなった、また著書出版により「これで家計が楽になる」と語ったのを記憶している、などと報じている。

吉田清治
※南鮮で記者会見する吉田清治(92年)<画像元:東アジア黙示録>

何故吉田清治が今更工作員としてあげられるのかを訝(いぶか)しがる人もいるかもしれないし、そんなの反日に凝り固まった左翼の謀略にすぎないだろと一刀両断に切り捨てる人もいるだろう。

wikiにも書かれている通り秦郁彦氏の著書などで吉田清治に略歴が虚偽に満ちていること、本名とされている吉田雄兎(よしだゆうと)名義の人物は、門司市立商業高等学校卒業名簿では死亡とされていることなどから見てもまともな日本人であるとは思えないのは明らかであり、共産党員であり、自分と4歳しか違わない朝鮮人の養子を迎えていたりとおよそ不自然な経歴が多すぎる。

吉田清治の息子は朝鮮人…在日成り済まし説を追う:東アジア黙示録
吉田清治とは何者なのか…プロフィールを調査していた秦郁彦氏は、学歴を辿る過程で、衝撃的な事実に出くわす。吉田雄兎は、戦前に死亡していたのだ。

昭和初頭、吉田雄兎は地元福岡の門司市立商業高等学校に入学した。同校は大正7年創立の伝統校で、現在は福岡県立門司大翔館高校へ名称を変更している。
その門司市立商高の昭和6年度卒業生名簿には、吉田雄兎「死亡」と記されていたのだ。何らかのミスがあったようには思えない。不明ではなく、ハッキリと死亡だ。

吉田清治経歴正誤表
▲秦氏が作成した正誤表(『慰安婦と戦場の性』245頁)※クリックで拡大

我が国の戸籍制度は戦前から厳格で、軽々に市民を死亡扱いとすることはない。公的な資料とも言える公立校の卒業名簿で死亡者になっていたことは、素性を探る上でスルーできない。

福岡は吉田の出身地である。親兄弟・親類縁者が身近に居れば、卒業名簿で「死亡」と誤表記される事態には至らないだろう。非常に不自然である。実際の戸籍上では、どのような扱いなのか興味が尽きない。
そして、高校での死亡扱いから40年余り、吉田雄兎の本名を持つ、異形の架空戦記作家が世に現れる。果たして、吉田清治の筆名を名乗る男と卒業名簿で死亡扱いだった吉田雄兎は同一人物なのか…

「成り済まし」「背乗り」というキーワードが浮かぶのは筆者だけではないだろう。物証は何一つないが、ズバリ直言しておこう。吉田清治は在日朝鮮人である可能性が存在するのだ。

吉田が24歳の時に養子にした李貞郁は、実の弟なのではないか? 密かに九州に渡った朝鮮人が死亡扱いの日本人の戸籍を乗っ取り、そして実弟を養子として入籍した…そんなストーリーだと辻褄が合う。
吉田本には、両親や他の家族にまつわるエピソードが殆ど登場しない。偽りの個人史の片隅に出てくるのは、唐突に養子にした“息子”李貞郁と昭和19年5月に結婚した妻のフサエだ。

ドキュメントを偽装する小説として、少年時代や家族の逸話をバッサリ削ることは構成的に不自然。渡日前だった為に吉田清治は、少年期について描写することが出来なかったのではないか。

つまり戦前に朝鮮人として生まれた男が日帝支配下の朝鮮で日本語に習熟し、終戦前に日本に潜伏していた。そしてその男は共産党員でありソビエトと通じて戦後の日本に何かしらの政治工作を行おうとしていた?

そのヒントの一つになると思われるのが、吉田清治は当初から慰安婦をターゲットにしていなかったということだ。

●吉田清治の対マスコミ発言
秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』236頁〜238頁より抜粋

1963(昭和38).8.23 
「週刊朝日」公募手記で佳作「私の八月十五日」〜下関での労務調達風景
1977(昭和52).3.1
「朝鮮人慰安婦と日本人 -- 元下関労報動員部長の手記」刊行〜慰安労働報国会下関市部で朝鮮に出張して「男子労働者の狩り出し(強制連行)」や慰安婦調達(強制連行ではない)の体験談
1982(昭和57).6.29
「The Pople」6.18大阪府立ピロティホールで講演〜済州島での慰安婦強制連行

1982朝日新聞L
<画像元:ときたま日記>

1982(昭和57).9.2※上記画像
朝日新聞(大阪版)大阪での前日の市民集会での講演要旨〜済州島での慰安婦強制連行(写真入り)
1982(昭和57).9.3:11.30
東京地裁「第一次サハリン裁判」での証言〜済州島での慰安婦強制連行
1983(昭和58).7.31
「私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行」刊行〜済州島での慰安婦強制連行
1983(昭和59).11.10
朝日新聞「ひと」欄〜強制連行した謝罪碑を韓国に建てるニュースの紹介(写真入り)
1988(昭和63)1.15〜16
「吉田清治さん証言会」講演(8月に事務局より印刷物刊行)
1991(平成3)5.22
朝日新聞(大阪版)〜「木剣ふるい無理やり動員」(写真入り)


1991朝日新聞1991(平成3)8.11
『朝日新聞』が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)
※管理人追記 吉田清治とは直接的な関連はないものの、朝日新聞と植村隆が吉田清治証言に飛びついて慰安婦問題を拡大化させる流れを作ったのがよく分かるタイミングである。

<画像元:従軍慰安婦の正体 >

1991(平成3)10.10
朝日新聞(大阪版)〜慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供を引きはがして連行、政府は資料をかくしている(井上裕雅編集委員のインタビュー、写真入り)。「女たちの太平洋戦争」(3)にも収録
1991(平成3)11.22
北海道新聞夕刊〜アフリカの黒人奴隷狩りと同様の狩り立てをした。
1991(平成3)12.6
東京新聞夕刊〜慰安婦狩りは軍命令(写真入り)
1992(平成4)1.17
赤旗〜「朝鮮人慰安婦と日本人 -- 元下関労報動員部長の手記」「私の戦争犯罪 -- 朝鮮人強制連行」要点紹介
(以下略)

朝日新聞が発火点となり、共産党系左翼の支援もあってかつて無い旧日本軍の戦争犯罪糾弾の気運が高まっていくわけだが、当時は当の韓国でも否定されていたのである。

済州島新聞
<画像元:秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』233頁>
吉田著の韓国語訳への許記者による書評:一部翻訳(済州新聞1989年8月14日)
 しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で15〜16人を強制徴用したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏づけ証言する人はほとんどいない。
 島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(85歳の女性)は、「250余りの家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
 郷土史家の金奉玉(キム・ポンオク)は、「1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。


消えかけた火を朝日新聞や日本のマスコミが必死になって大火に育て上げ(^^;)韓国で炎上させようと世論操作を試みていたのが何ともはっきりしてくる。しかし、当の韓国ではそんな日本の「内ゲバ」を侮蔑の目で見ることはあっても「そんな虚偽に乗っかってまで日本を貶めることを恥とする」ような傾向が見られていたのにいつから完全に乗っかってきたのか、何故証拠を突き合わせれば不利な話を無理やり捏造にかかったのかが、私の中ではずっと謎だった。

それに一つの答えをもたらしてくれたのが親日韓国人ブロガーシンシアリー氏の著書第3弾「韓国人が暴く黒韓史 (扶桑社新書)」であった。

韓国人が暴く黒韓史この本では、韓国人の「正当性・正統性」が解説され、自分たちの「正しさの根拠をどこに求めているか」が解説されている。お国柄による差はあるとはいえ、どこの国でも多少は自分たち(の民族)が他に劣るとは思わず、むしろ優良であると思いたいのは理解できるのだが、韓国の場合はその拠り所とする根拠が少し変わっている。いや、はっきり言って「そんなものを根拠にするな」「中身がなさすぎる無意味な体裁に縛られすぎだ」と日本人なら言いたくなるようなことが何度でも出てくる。

なるほど、これでは日本人と韓国人が相容れないはずだと、皮肉にも韓国人に教えてもらうことでようやく合点がいくのだ(^^;)そういう意味でもシンシアリー氏の存在は非常に大きいと思える。そんな氏が韓国の建国からの近代史において反日的状況が形成されていく流れを解説してくれるわけだが、そこにこの慰安婦問題が出てくるのだ。


その前に、韓国の建国からの歴史は多くの場合「大統領がクーデターで失脚(暗殺)」「政権交代後に前大統領を訴追・糾弾」の繰り返しである。前大統領の李明博が未だに逮捕も処刑もされないのが珍しいくらいだ(^^;)

とにかく建国以来実質的に軍事独裁政権の体制にあった韓国は、それでも民主化のうねりを宿して「人民革命党事件」「6月民主抗争」といった多数の死者を生む民主化運動と強権政治の激突が有り、民主化の実現が必須になってきた時期、ようやく時の大統領全斗煥(チョン・ドファン)は憲法を改正し大統領の直接選挙制度を導入した。

盧泰愚そして生まれた次期大統領が盧泰愚(ノ・テウ)だった。民主化を求めて多くの血を流したにも関わらず、左派ではなく軍出身の反共右派の大統領が選出された背景には、1987年11月29日の大韓航空爆破事件が影響したと言われているらしい。

日本名蜂谷真由美と名乗った北朝鮮工作員金賢姫(キム・ヒョンヒ)等によるテロ事件だが、10月改憲→11月爆破事件→12月選挙という「反共」を継続させるには絶好のタイミングとのことで「韓国政府による自演」と言う憶測まで生まれるほどだった。それでもその後1988年ソウル・オリンピック開催、1990年ソ連と国交正常化、1992年には中国と国交も結び、それまでの頑強な反共姿勢をゆるめ、柔軟な外交を展開したのも盧泰愚大統領であった。


1990年5月24日盧泰愚大統領は日本を訪問し天皇陛下(昭和天皇)の「痛恨の念」のお言葉や、海部俊樹首相から謝罪を受け翌25日に「未来志向的」な関係を構築すべく、「すべての過去の不幸な問題を今回の謝罪で精算」する演説を行った。

「これ以上の謝罪は要求しない」政策がキャンセル:韓国人が暴く黒韓史 第5章 日本を貶めた「反日工作」
 しかし、これまた不思議なタイミングで、一方では「未来志向」を台無しにする話が盛り上がっていました。ある日本人が、併合時代に朝鮮半島から女性をさらって性奴隷にしたと告白し、懺悔しまわっているということです。
 その人の名前は「吉田清治」。
 これが後に「いわゆる慰安婦問題」と呼ばれる騒ぎの始まりです。朝日新聞が吉田清治氏の発言を報道するようになったのが1982年で、日本で吉田清治氏の著書『私の戦争犯罪』が出版されたのが1983年、同じ本が『私はこのようにして朝鮮人を連れ去った』という題で韓国で出版されたのが1989年、朝日新聞、北海道新聞など日本のマスコミが慰安婦問題と吉田清治氏の証言を積極的に報道するようになったのが1990年を前後してのことです。
 韓国で慰安婦問題が注目されたのも、1990年からです。

(中略)

1989年、彼の本が韓国で発売された時には、たいして話題になりませんでした。彼が女性を拉致したという済州島の「済州新聞」(1989年8月14日付)も、現場の住民と郷土史学者の話を載せ、本の真偽に疑問を投げかけました。記事には「本を売るための日本人の商売術」と言う指摘もありました。
 なにせ、韓国では1990年代初頭まで、慰安婦という言葉が普通に「軍を相手にする売春婦」の意味で使われていました。公文書などにも、米軍を相手にする売春婦のことを「慰安婦」、施設を「慰安所」と書いていることが確認されています。
 しかし、他でもない日本のマスコミが騒ぎ出したこと、そして、「利用価値」があると思ったのか、韓国の反日主義者たちが吉田清治氏を積極的にバックアップしたこと、ドラマ「黎明の瞳」の大ヒットなどから、慰安婦問題は「性奴隷だった」と言うイメージで急速に広がっていくことになります。
 盧武鉉政権の「これ以上に謝罪は要求しない」政策がキャンセルされたのは言うまでもありません。

「黎明の瞳」と言うドラマについてはブログに解説があった。至れり尽くせりのシンシアリー氏である(^^;)

暁の瞳(黎明の瞳):シンシアリーのブログ
1991年、暁の瞳というドラマがそうでした。日帝時代から朝鮮戦争までを描いたドラマですが、特に人気を集めたのは、慰安婦のシーンです。

案の定、「挺身隊」と「慰安婦」の区別すらちゃんと出来ていないこのドラマで描かれた無残な慰安婦を通じて、多くの韓国人はこれを「慰安婦の姿」として認識しました。

1991年10月から36話が放送されたこのドラマは、平均視聴率44%を記録しました。

「韓国現代史散策」という本によると、高等学校などで、歴史教育の視聴覚教育材料として使うためにこのドラマのビデオテープを放送局側に要請することもあったとか。

(中略)

「暁の瞳」で描かれた731部隊、南京虐殺、慰安婦・・それら全ては、今日の韓国人が持っているイメージそのものです。

戦前に日本人になりすました朝鮮人。実はソ連の共産主義教育を受けた工作員で、戦後選挙に出るなど左翼に加担した後、戦後30年のタイミングで「強制連行」などの「日本軍の戦争犯罪を懺悔する活動を展開」、一旦不発に終わるかに見えた反日プロパガンダは朝日新聞等日本のマスコミに拾われ、反共反日が緩みかけ、融和政策をとろうとしていた韓国政府を日本から引きはがし、反日に引きずり戻した・・・。そんな筋書きが描けるではないか。

とするならば最も吉田清治を支援したのは北朝鮮だったかもしれない。韓国と休戦ラインで対峙している北朝鮮にとって、韓国が積極外交で周辺国と緊張緩和していく状況は、北朝鮮が孤立する危険性の高まりを意味するからである。
韓国のオリンピック開催を妨害する?意図で仕掛けたテロ(大韓航空機爆破事件)も犯人が捕まってしまったことで当初の目的を達せず、オリンピック成功と相まって世界と結びついていく韓国と近隣国の日本が合同して北朝鮮に敵対することを恐れたと考えるのは誤りだろうか?また、韓国内の反日派・親北派が主導し、良いネタを提供してくれた「日本人」を持ち上げた事も考えられる。

もちろん吉田清治が元々は食い詰めた思想家のアルバイトとして始めた著述業で、フィクションを交えた暴露本を出し小遣いを稼ごうとしたことは考えられるし、それに反日左翼が目をつけ、韓国の反日派に売り渡し、いいように「日本軍の犯罪暴露話」をふくらませていった事もまた考えられるのだ。

吉田清治と踊ったKCIA…民潭の“強制連行”覚書:東アジア黙示録

【印税数十万円の優雅な住まい】

「その頃住んでいた都内のマンションには頻繁に記者が訪ねてくるようになりました」(週刊新潮’14年9月18日号)
吉田雄兎の長男は、そう回想する。2作目の小説『私の戦争犯罪』を出版した昭和58年当時の話だ。ちなみに、この長男は、養子に迎えた4歳下の朝鮮人・李貞郁とは別の人物である。
(中略)
「父の証言が政治問題になっても、たいして本は売れず、父が手にした印税はせいぜい数十万円程度でした」(前掲誌)
2作目の小説は、金学順裁判を始め、慰安婦捏造で重大な役割を担ったが作者の実入りは微々たるものだった。その6年前に出版した小説デビュー作もセールス的には大失敗していた。
「講演料は最高でも5万円、大抵は数千円でした」(前掲誌)

小説の出版後、吉田雄兎の元には講演依頼が舞い込むようになったが、それで急に羽振りが良くなかったわけではないようだ。実際、長男によれば生活は苦しく、自分が支えるしかなかったという。

盛大に矛盾している。吉田雄兎自身の収入が少なく、長男が結婚すら出来ない程、生活は優雅とは程遠いものだった…それなのに何故、都心一等地の高級マンションに住居を構えていたのか?
息子宅に同居していただけとも解釈できるが、当時の吉田に「スポンサー」がいたと考えられる。理由は体裁である。南鮮・捏造碑の設置にあたり、メディアや反日組織が吉田行脚を始めることが予想された…
そこでは、吉田がそこそこリッチな暮らしをしている必要があったのだ。生活が困窮していれば、一部の者はカネの為に嘘を吐いていると疑ったろう。訪ねた先が高級マンションであれば、疑いは掻き消える。
(中略)
そして、実態と矛盾する吉田の生活ぶりは、高級マンション暮らしのミステリーが初めてのケースではない。

【家賃滞納の苦境で連続ソ連留学】

「高校生活を終えた後、私は自らの希望もあって、ソ連のモスクワ大学に留学しました」(前掲誌)

吉田雄兎の長男は、衝撃的な履歴を明かす。ゴルバチョフら有力な政治家を輩出したソ連の名門・モスクワ大に留学した経験があるという。年齢から推定すると昭和42年頃である。
半世紀近く前のことだ。庶民の子女が旅行気分で留学するような現在とは時代背景が違う。外貨の持ち出し制限などもあり、海外留学のハードルは高く、多くの困難が伴うものだった。
長男がモスクワ大に留学した当時、吉田雄兎は北九州市・門司にあった「小野田セメント」の子会社で住み込みの管理人をしていた。その前は、家賃が払えず、下関市内を転々とする有様だったという。

家賃の支払いに四苦八苦する生活と子供の留学…これも矛盾が甚だしい。しかも、長男に続いて次男もモスクワ大への留学を果たしたという。住み込み暮らしと子供2人のソ連留学は余りにも不釣り合いだ。

【モスクワ追放の転落劇】

「労組が『こっちには、息子をモスクワ大学に留学させたバリバリの共産主義者がいるんだぞ!』と経営者側を突き上げ、そのせいで両親はクビになってしまった」(前掲誌)

留学から2年、失職した両親の面倒を見る為に長男はモスクワから日本に舞い戻ったという。名門大を退学してまで帰国する必要があったのか…当時、父・雄兎は50代半ばで働くことは可能だったはずだ。
息子が退学した本当の理由は、両親の失職などではない。吉田雄兎の立場に大きな変化が起きたのだ。ソ連共産党サイドが吉田を切り捨て、その為に息子2人がモスクワから追放されたと推測する。
(中略)
▼1963年当時のモスクワ大学
モスクワ大学

クレムリンの覚えめでたい吉田雄兎であったが、中ソ対立を経て、関係は完全に断絶したと見られる。だが、長男が解説している通り、吉田がバリバリの共産主義者であることに変わりはなかった。
これまでの調べによると吉田雄兎は、昭和22年4月に行われた下関市議選に代々木(日本共産党)から立候補し、得票129票で落選。その後も党員だった見られるが、代々木側は党籍をひた隠しにしている。

【“強制連行”で民潭と覚書】

ソウルに近い南鮮・天安市に吉田雄兎が設置した“謝罪の碑”がある。昨年夏の朝日新聞による吉田清治の社葬後も、この捏造碑は文面そのままに残っている模様だ。撤去されたという報道はない。

▼吉田が自費で建てたとされる捏造碑
吉田清治建立の懺悔碑

吉田がこの場所を訪れ、派手な謝罪ショーを演じたのは、冒頭の記事で紹介した通り、1983年(昭和58年)の暮れことだった。碑文に記した名前は「清治」で、いきなり嘘がある。

売れない小説を2作発表しただけの人物が、南鮮に碑を建てたことに誰しも違和感を覚えるだろう。もちろん現地に案内し、発案・準備に関係した大きな組織があった。それが民潭だ。

「現在東京の品川区に居住しておられます吉田清治という方(略)在日本大韓民国婦人会中央本部とも覚書を交わされてまして、送還事業の協力を求めて、現在真剣に取り組んでおられる」
昭和60年3月8日に開かれた衆院予算委でのやり取りだ。この婦人会は昭和20年代に創設された民潭の下部組織。捏造碑の建立にあたって、吉田雄兎は「覚書」を交わし、支援を受けていたのである。

「覚書」の内容は分からない。当時、吉田は「強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会」という実体不明の組織で会長の職にあった。民潭が“強制連行”を捏造する為にデッチ上げた協会に違いない。

「民団と朝鮮総連の両方から依頼が来るのは俺だけだ」(前掲誌)

吉田は長男に対し、そう豪語していたという。総連も民潭も“強制連行”の捏造で対立することはなかった。双方に都合が良かったのだ。しかし南鮮入国は、民潭の判断だけでは実現しない。

吉田の背後には、もっと大きな組織が蠢いていたのだ。
(中略)
吉田清治

“強制連行”という捏造史は、総連の朴慶植が拡散したものだが、民潭も追従する。不法入国の履歴を消し去るのに都合が良かった。そこで南鮮政府は、済州島虐殺などの黒歴史を隠す為に積極的に後押しした。

吉田雄兎は捏造慰安婦だけではなく、朝鮮男の“強制連行”でも「実行責任者」を詐称した人物である。そのことで南北の在日組織から「唯一の加害者」と祭り上げられた。

1960年代、吉田はクレムリンと緊密な関係を保ち、やがて切り捨てられた。そして80年代には南北朝鮮から重宝される“告発者”となった。いずれも極秘エージェントなどではなく、表の存在だ。

なるほど、かつてソ連の工作員として日本での活動を行っていた吉田清治。その資金源が絶たれ生活に困窮した彼は創作の戦争犯罪をでっち上げて左翼仲間に売出し、韓国の反日勢力や親北派の日韓分断工作に目をつけられて韓国御用達の反日活動家に転身・・・詐話師らしい吉田清治の生涯が浮かび上がってくるではないか(^^;)

食い詰めた吉田清治に騙されたのか、自ら反日利権を構築しようとしたのかは知らないが、マスコミの能力の低さに少々呆れるとともに、このまま信用を落としていけば、マスコミという工作員もまた彼同様に黄昏れていく運命を感じる(^^;)

幾分マシな読売や産経はそれでもまだ何とか持ちこたえるかもしれないが、ネットというメディアを民衆が得た今、いよいよ朝日を筆頭にした反日左翼メディアの断末魔が聞こえてきそうな気もするし、できるだけ早く聞きたいものだと思ってやまない私なのである(^^;)

JUGEMテーマ:歴史
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