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帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】

明治新政府の統治能力と藩閥

明治維新による中央集権体制の形成には、段階的な制度改革を必要とした。急進的で破壊的な制度改革よりも現実的で効率的な制度設計を模索していたとも言えるが、どうしても掬いきれない既得権益を喪失する層が出てくる。下級士族など失職し収入を絶たれた武士などは大いに混乱し、それにともなって庶民の生活(主に商業の形態)も変化を余儀なくされた。現代でも技術革新による業種の栄枯盛衰があるように、長らく変化のなかった江戸時代を過ごしてきた多くの日本人には、非常に激烈な「淘汰の時代」を迎えたことになる。

その一つが版籍奉還と廃藩置県による税収の収益構造の変化である。基本的に江戸時代は幕府に税金のような形で上納金を支払う制度は存在せず、幕府の行う公共事業への参加を義務付けられる「御手伝普請(おてつだいふしん)」を課せられた。幕府は工事を命令するが資金は命じられた藩が負担する。支配下の各大名に経済的な負担をさせることで謀反などの資金を蓄えさせない意味を持っていたが、収支決算報告書を幕府に出すわけでもなく、自国を富ませるために地域特産品や工芸品などの奨励、開拓・開墾による米の増産(実質石高の増加)で地域経済の振興を行っていたものの、どの藩も経営には苦労をしていて赤字経営から脱却できない藩も多数あった。

大久保利通像
※大久保利通像:鹿児島市<画像元:風景壁紙.com>

明治維新が天皇親政による徹底した中央集権化と近代的帝国主義体制へ移行する上で、国家税収を確実にするためには「版籍奉還」の名のもとに各大名が支配していたあらゆる既得権を奪う必要がある。名目上の支配権を版籍奉還で返上させても「知藩事」という政府から任官された「地方支配の長」には家禄としてその藩の石高の十分の一を支給され、実質的には「藩主時代に比べて窮屈」にはなったものの大名としての権威はとりあえず保たれるものであった。

秩禄処分:wiki
明治政府の中央集権化など改革を行うに際しての財源確保のため、禄制改革が課題の1つとなっていた。また、四民平等においては武士階級の身分的特権は廃止の必要があり、軍事的にも伝統的特権意識は軍制改革において弊害となっていた。

政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一が行われ、旧武士階級は士族と改められた。1869年(明治元年)には大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄することとなる。1870年には公家に対する禄制改革が実施される。

廃藩置県:wiki
廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。

だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。

廃藩置県
<画像元:「だすだす」のぐんのび 中学社会 テストに出る時事問題>

それを抜本的に改革したのが廃藩置県であり、旧領主はかつての支配地域における特権をすべて失うことになる。大名家(知藩事)は華族となって政府からの金録公債を受ける。
言ってみれば明治政府が華族にその領地相当分を借り受け、金利を含めた配当を支払うことで生活資金とすることであり、明治政府が最初に作った国債ということもできよう。

華族はそれまでの所領による蓄えや新政府での任官など役職を得ることで安定して「名家」を残すことができただろうが、所領を持たない華族や役職につけない一部の華族は貧困救済のため特例として政府から支給を受けているなど必ずしも裕福ではなかったようである。

一例として当時の華族の収入額を推定してみよう。

明治,大正期の華族と庶民の収入を比較したい。:レファレンス協同データベース
『もういちど読む山川日本近代史』
・金録公債(p.35) 
 明治10年 金録公債 1人平均 華族64000円 士族500円 (当時の米価は1石約5円)
・労働時間と賃金(p.124)
 重工業の男性労働者、東京砲兵工廠や石川島造船所では、明治30年ごろ、1日10〜11時間労働で、日給30〜35銭(現在の3000円くらい)程度であった。当時の米価は、1升(約1.5圈烹隠粥腺隠義程度。

米1石は1000合=当時5円として現在の米価に換算すると1石=1000合=約150kg=6〜7万円(約14000倍)で

明治10年 金録公債 1人平均
・士族=500円(700万円)
・華族=64000円(8億9千6百万円)

となる。金額的にはこれが年収であれば一般士族は中堅企業のサラリーマン並、華族はその経営者一族あるいは成功途上にある企業家くらいとも言えるが数十年後に償還される債権である以上即時的な収入には程遠く生活は困窮したことが想像に難くない。地方の旧家で大地主も同じ程度の資産を持っていたことを考えると領主時代、または士族が江戸時代はその10倍の収入(資産)であるだけにかなり「屈辱的な待遇」であったことは想像できる。

一方庶民も日給3000円程度(現在の価値)は月額約90000円。米10kgが今の金額で約400円と考えれば裕福ではないにせよ、士族との格差は縮まっていたと考えていいかもしれない。(ただし官営の重工業施設の従事者は当時の労働者階級でもかなり上位の階層と思われる)

家禄制度は明治6年の徴兵制導入により士族のための支給を行う根拠がなくなり(武装維持のための費用支給)その後金禄公債支給に伴い完全に廃止されるが、これらは既得権の剥奪に等しく、これも後の士族反乱の遠因となる。

秩禄処分〜士族反乱と士族授産:wiki
秩禄処分によって武士の生活が苦しくなったのもまた事実である。金禄公債の金利(下級武士に充てられた7分付き公債の場合)の日割額は当時の東京の労働者の最低賃金の1/3であったとされており、金禄公債を売って生活の足しにする人も少なくなかった。それは、1882年に鳥取県より出された、全士族のうちの9割が既に金禄公債を売却してしまったという報告書に現れている。1883年の統計によると、全士族約41.8万人のうち現職官公吏(軍人含む)もしくは府県議会の選挙権を持つ有権者(地租5円以上で非官公吏)の合算が全体の37.6%であったという。逆に言えば全体の2/3が没落士族に相当すると言えるのであった。

支配者であった武士階級は新時代に適応できるものもいたが適応できずに没落していったものもおり、楽には行かなかったようだが、それは適応出来たものとて例外ではなく、新政府の重鎮でも大久保利通は私財をなげうって新国家建設に邁進し、紀尾井坂の変による暗殺後、残されたのは借財だけだったという。

時代を変革させたことにより困窮する元士族たちの事を思ったか、新政府で高位に居るといえども蓄財を考えることがなかったというのは早世した明治の元勲には共通する部分でもあったろう。

ただ、早世した元勲たちが薩摩閥に多く、長州閥が多数生存したことは、少なからずその後の明治政府の方向に影響を与えたとも言えなくはない。

藩閥:wiki
1871年(明治4年)の廃藩置県後に整った新しい官制で、薩長土肥の出身者が参議や各省の卿の大部分を独占したため、藩閥政府が形成された。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、特に最高指導者層は、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の独り勝ちとなった。薩摩閥は、特に中堅層ではこれに対抗するだけの勢力は維持したものの、幕末期をほぼ無傷で乗り切って維新を迎えたころの優位は失われ、やや劣勢に立たされる形となった(長州はこの間に多くの人材を失っている)。1885年(明治18年)に内閣制度ができたあとも、薩長出身者の多くが内閣総理大臣、国務大臣、元老となった。

現在の総理大臣安倍晋三も出身こそ東京だが山口県(長州)の系統だし祖父の岸信介、親族の佐藤栄作元首相も山口出身、なんとまさかの菅直人まで出身は山口(選挙区は東京)だ(爆)のべ97代中62人の首相経験者の内、9人が山口県に関係していて現首都の東京(13人)に準じる多さだ。鹿児島(薩摩)に関する首相は山本権兵衛以降いないのも面白い。

藩閥の内閣総理大臣
伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
黒田清隆(薩摩藩)2代目
山縣有朋(長州藩)3・9代目
松方正義(薩摩藩)4・6代目
大隈重信(佐賀藩)8・17代目
桂太郎(長州藩)11・13・15代目
山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
寺内正毅(長州藩)18代目
田中義一(長州藩)26代目

軍では薩摩・長州ともに終戦時まで藩閥の色が残っているがこれは別の機会に検証してみたい。

明治新政府での影響力は旧士族の中でも維新勢力であった薩摩・長州のほぼ独占で、他の藩に出番はなかったという印象だが、一昨年意外な系統が実は介在していたという痕跡が示されていた。

なぜ今「ロスチャイルド家と徳川家」なのか? 明治維新の真相とそれが導く明日の世界:yahooニュース
徳川+ロスチャイルド東京にあるコンサート・ホールで一風変わった演奏会が実施される。題して「徳川家・英国ロスチャイルド家 世紀を超えた奇跡のコンサート&対談」ということだ(主催:「世界平和コンサートへの道実行委員会)。

出演するのは我が国における徳川家の宗家を継ぐ立場にある徳川家広氏と、欧州系国際金融資本として知られるロスチャイルド家の中でも英国系のファミリーの一員であるバロネス・シャルロット・ドゥ・ロスチャイルド女史である。

(中略)

それほど事情に明るくない読者は「なぜ今、ロスチャイルドが?しかも我が国の徳川と?」となってしまうに違いなのだ。

だが、私自身はこうした企画が行われると偶然耳にした時、「なるほどな」と思った次第である。なぜならばかつて刊行した小著(「世界通貨戦争後の支配者たち」)の中で、史料の検証を通じ、次のように論じたことがあるからだ:

●一般に「幕末の志士たちによる偉業」として語られることの多い明治維新であるが、より大きなフレームワークで当時の為政者である徳川家が中心となって行った一大プロジェクトであったというのが事実である。グローバル・マクロ(国際的な資金循環)のシステム構築が米欧によって進められている現実を目の当りにした徳川幕府が決心をしてこれに適応し、我が国が生き延びていくためのプロジェクトであった

●具体的には1862年に派遣された文久遣欧使節がカギを握っている。福沢諭吉も参加したこの遣欧使節については、なぜか我が国においてその後語られることが少ない。だが、この時、使節団はロンドン・シティ(City of London)の金融街においてロスチャイルド家と面会し、世界の現実を知った経緯がある

●このことは当時から現在まで我が国において刊行された史料には一切記述がない。そのため、国史学の世界では完全に無視されてきた。だがロスチャイルド家がインターネット上で閲覧に供している歴史文書館(Rothchild Archive)ではこの時、徳川幕府から使節がやって来て会見した旨明記されているのである

●そしてこの会見において日本側が悟ったのは米欧によって構築されつつあるグローバル・マクロのシステムと、それまで我が国と華僑華人ネットワークが「日本=中国=東南アジア」にまたがって構築してきた資金循環システムとの間で「金銀の交換比率」を巡り大きな差が生じてしまっているということであった。このままでは前者が後者を押しつぶすことが明らかであったため、徳川幕府はそれ以外の国内諸勢力と語らって、国内外が「納得のいく」体制転換劇を演じることにした。それが明治維新の真相である

●「明治維新後、影響力を失った」とされることの多い徳川家であるが、そうした認識は決定的に誤っている。なぜならば戦前期の我が国が最も円熟し、新しい大国としての威信を持つに至った1913年から1933年までの実に20年にもわたる時期において、貴族院の議長を務めていたのは徳川家達だったからである(ちなみに徳川家達は最終的に「返上」することになる1940年夏季東京オリンピックの組織委員長であった)。当時の貴族院は現在の参議院とは大きく異なり、実質的に政治的な決定を下す機関として機能していたことから、その影響力は極めて大きかった。そして正にこの時期にロスチャイルド家は我が国に対して盛んに投資を行い、利益を上げていたのである

ちなみにロスチャイルド家は公開されている史料を見る限り、1930年代の前半で我が国に対する投資を止め、資金回収を完了させている。その後、我が国において吹き荒れたのは戦争への嵐であり、日中開戦(1937年)、太平洋戦争への展開(1941年)、そして二つの原子爆弾が投下され、終戦を迎えるという惨劇であった(1945年)。あたかもそうなることを見越してロスチャイルド家が動いたかのように見えてしまう。

何やら前回のエントリにも通じる明治維新の黒幕の1人が、外でもない徳川慶喜だった可能性まで出てきた(^^;)

地政的な部分以外で、商業(金融)的な見地でも内戦を起こすことの愚を察知して幕府(将軍である慶喜)が大規模な内乱を回避する方向で動いたのは、朝敵となり逆賊の汚名を着ることを恐れたのが主なポイントであるように言われていたが、統治者の現実的感覚を最大限発揮した場合、大政奉還も不戦・恭順の行動も「有り」だったのかも知れない。
結局は幕府側倒幕側の両方に居る武士たちがそれぞれの価値観をぶつからせた、新しい時代を迎えるための産みの苦しみとしての「淘汰」として戊辰戦争は北海道(函館戦争)まで継続されたが、支配層の一部はその国際的背景を認識していた・・・。

酷いといえば酷い話だが、裏側を聞いたとしてもその時代の武士たちはすんなりとは新時代に適応できないだろうし、やはりあの殺戮は不回避な戦争だったのかもしれない。

いずれにしても明治維新とその政府には、西欧列強の政治・統治システムを日本にローカライズして導入する意思を西欧列強の象徴たるロスチャイルドに吹きこまれていたと言う見方もできる。

いやはや歴史というものはつくづく奥深いものである。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

JUGEMテーマ:歴史

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