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帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】

日本軍の黎明

明治維新を実現するために薩長土肥の諸藩から徴集されたものが主力であった官軍は、北へ進軍する途上で恭順する各藩の戦力を吸収しながら拡大していったが、これは一時的なもので維新成就後に改めて薩摩・長州・土佐藩から中心部隊としての天皇直属の近衛隊(当時は御親兵と呼称)として明治4年に組織される。これが実質的な日本軍(陸軍)の創設になるが、その監督官庁として明治2年7月8日に設立された兵部省(ひょうぶしょう)は、明治5年2月27日に廃止され陸軍省と海軍省に分離・改組される。

明治への年号改元が慶応4年9月8日(旧暦)に行われたため、実質的には約4ヶ月の明治元年と明治2年7月までの約10ヶ月で軍務に関する役所が設立されたがこの間は「官軍」としての薩長軍の混成部隊のままであった。

この時期の日本軍の兵士は、士族出身者で国民皆兵を基本とする近代軍とはかなり隔たりがある。実際、御親兵の発足時には薩摩・長州・土佐藩の士族が中心になっており、それぞれが元々の出身藩から禄を得ている「出向兵士」であった。

「君が代」が初めて演奏される:「明治」という国家

伝習隊1870年(明治3年)9月8日、東京越中島に於て開かれた常備兵観兵式に臨席した明治天皇は、薩・長・土・肥らの四藩の兵を閲兵されました。

当時の錦絵にもあるように、各藩の兵何れも洋式の軍服に鉄砲を担いで整然たる練兵を行っていますが、あいにくと天候が悪く、時化のために玉座の近くまで潮が襲ってきて、御閲兵の事も急に取り止めになったのでした。

ここに記憶すべきは、この栄えある式場に、薩摩の伝習隊(軍楽隊)が初めて「君が代」の演奏をしたことになります。

ただし当時の君が代は軍楽隊の教官でイギリス人のジョン・ウイリアム・フェントンの作曲に成るものであまり評判は良くなかったようです。

ちなみに現在の奏唱する君が代は、宮内省の雅楽家林広守の作曲に成るものです。



※国歌「君が代」=旧バージョン(明治3年:1870)

君が代ver1.0とでも言うべき動画はおまけだが(^^;)あわや国歌にならんとする曲までが当初は外国人の作であったり、日本のカタチがまだまだ固まっていないことを伺わせるエピソードである。

御親兵:wiki
御親兵は名目上は兵部卿有栖川宮熾仁親王を長とし、公称は1万人であったが、実質は8,000人もしくはそれ以下であったと言われている。

だが、皮肉にも御親兵を維持するための財政的余裕が無く、早くも3月には宮内省の予算から10万両が維持費の名目で兵部省に移されている。それが、木戸・大隈の主張する地方行政組織と税制の改革着手の主張を後押しした。また、大久保・西郷の主張する維新功労者の登用の先駆けとして明治3年の大蔵省・民部省分離の際に、木戸・大隈派に楔をうつために大久保の推挙によって日田県知事から民部大丞に起用された松方正義からも財政問題の打開には最終的には地方行政組織と税制の改革しかないとする意見が寄せられると、大久保・西郷側も次第に木戸・大隈側に歩み寄りを見せた。7月14日の廃藩置県の断行には御親兵そのものの威力もさることながら、その整備を巡る諸問題の浮上があったのである。

御親兵は廃藩置県とともに名実ともに近代日本最初の国軍として機能することになった。その後、徴兵令の施行とともにその役目を新軍隊に譲って本来の業務である皇居警護に専念することになり、明治5年(1872年)には近衛(このえ)と改称され、明治24年(1891年)には陸軍の近衛師団となった。

世襲制の職業軍人とも言える士族を特権階級から引きずり下ろし、四民平等を謳い文句にしたのは、政府が扶養する「職業軍人」から旧体制の藩籍や主従関係に縛られた士族を除外し「生え抜きの日本軍」を創設することでもあったはずだ。そこでの主君とは天皇だけであり、幕藩体制における二重支配を解消するとともに「国家としての日本が育て養う軍隊」が必要だったのである。

国家としての体制(王政復古:天皇親政)を支え守る治安軍としての御親兵=近衛兵でありそれらを中心とした明治新政府を守り明治新政府を信奉するもののために武力を振るう軍隊。

おおよそ、どこの国家でも似たようなものだろう。軍はそれを作った体制のためにまず存在し、それを破壊しようとする者たちを攻撃する。それが他国なら戦争となり、自国の反乱勢力であれば内戦となる。それは図らずも戦国時代の武将たちが保持した武力と同類の性格を有し、矛先は内にも外にも向かう諸刃の剣となりうる。

それが証明されたのは士族反乱(1874年:明治7年2月 - 1877年:明治10年9月)に対する政府軍の鎮圧行動だが、皮肉にも征韓論での政治闘争が戊辰戦争以来の歪みを顕在化させ火を吹いた格好である。

士族反乱:wiki
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった。政府は反乱軍の2倍以上の兵力を投入し鎮圧したが、兵数、装備、兵站など、政府軍はあらゆる面で西郷軍より有利な条件を有していたにもかかわらず、同等の戦死者数、戦傷者が発生するなど、政府の軍事的な弱さを露呈する結果ともなった。この戦いは日本のその後の富国強兵政策の礎になった。また、いわゆる薩長土肥出身者による藩閥を生むことにもなった。

神風連の乱
<画像元:神風連の乱(wiki)>

日本陸軍発足当初尽力したのは長州藩の大村益次郎が有名だが、その意を継いだ山県有朋が実質的な「陸軍の顔」となっていく。帝国議会の成立とともに第1次伊藤博文(初代)内閣に内務大臣として閣僚入り(実質的な治安維持業務)してその後の陸軍を育てていくが、各段階ごとに国軍としての課題が表面化してはそれに対応する形で軍は整備されていく。

士族反乱も元々は西郷隆盛らの海外視察残留組による外遊組(岩倉使節団:岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大久保利通、山口尚芳、他留学生を含む107名)の帰国を待たずに李氏朝鮮に対し使節を派遣する外交上の政策論争が発端で、主戦論を説く西郷らが帰国した外遊組の強硬な反対で頓挫し、それに抗する形で下野したのをきっかけに次々と新政府に対し反旗を翻したものである。

明治新政府になってことごとく既得権益を失った士族の不満を解消する一つの策としての征韓(対外戦争に発展することも辞さず)である側面や、士族としての尊厳を取り戻す場所(あるいは死に場所?)としての海外出兵をも視野に入れた不平士族のガス抜き策の可能性もあるが、死活問題として声を上げずには居れなかったというところか。
時代は下って昭和16年。八方塞がりに陥った日本が起死回生を狙ってアメリカに戦争を仕掛けたのは暴発とも言えるし、自衛戦争だったとも言える。士族反乱の殆どは、士族にとっての自衛戦争だったのかも知れない。

いずれにしても国軍としての日本陸軍は上記のwiki引用の太字の部分にもあるように徴兵制による召集直後の内戦では、精強な士族部隊に苦戦を強いられた。それ以前に出兵したのは清国領の台湾に遭難後漂着した沖縄(琉球)島民が虐殺された事件に対応すべく派兵したぐらいで、この時も戦闘による死者よりも病死(熱帯地域の感染症に罹病)が大多数であるなど、ここでも兵站や健康管理など多くの問題をさらけ出している。

台湾出兵:wiki
台湾に漂着した琉球島民54人が殺害された事件の犯罪捜査などについて、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件(清政府が実効支配してない管轄地域外での事件)」として責任回避したので、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への犯罪捜査などのための出兵である。54人が殺害されという大規模な殺戮事件であるから、警察ではなく軍を派遣した。日本軍が行った最初の海外派兵である。
(中略)
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
管理人注:病死者 531人

とりあえずどちらの戦いでも「勝利」の格好はついたものの内容はとても国防軍として満足できるものではなかったろう。

明治維新初期の国軍は士族中心の兵であり、国民皆兵・徴兵制を推し進めようとした「日本陸軍の祖、大村益次郎」が反発する士族に暗殺された後、山縣有朋が継承してようやく形にしたものだったが、練度も不足し近代軍としての育成システムには圧倒的に知識と人材が不足していた。

竹橋事件:wiki
竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動ともいわれる。

竹橋事件

動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた。
(中略)
のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。 近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている。

西南戦争以降、不平分子は武装蜂起を諦め、言論による思想闘争へ方向を転換させていた。その急先鋒は土佐藩出身の板垣退助である。軍人の労働争議が事件の発端であることは、その後の「皇軍」思想とは随分かけ離れたものではあるが、五・一五事件(海軍)二・二六事件(陸軍皇道派)に通じる武装反乱が、明治期の西南戦争以降の混乱期にも起こっていたことは衝撃的である。具体的に政府を転覆させるクーデターと言う性格ではなかったものの、「国家のあり方を問う」と言う意見具申のための決起が身内の軍内部から出た点は、士族反乱の流れを汲むものとして政府内部を動揺させたことは間違いない。

軍人勅諭の意味:明治・その時代を考えてみよう
 はじめに「竹橋事件」であるが、一言でいえば 近衛兵による反乱事件である。当時は、徴兵制度が発足して間もない時期でもあり 制度が追いつけない状態だった。そういった時期に「一将校が自分の意思で部下を率いて上官を殺害する」という事件が発生した。これは、山県有朋らを困らせるのに十分な効力を発揮している。
 仮に、自分の上官が反乱を起こした場合 それまでの制度であれば上官の命令どうり反乱軍とならざるを得ない。逆に、上官の命令に反して(命令に従わず)反乱に参加しなかったら・・・。
 この見極めが非常に困難なのである。「どこまでの命令ならしたがわなくてはならないのか?どのような命令には従わなくてよいのか?」という相反する状況に対応する為、『軍人訓戒』が配布された。これにより、一軍人の個人的な意見による行動に ある程度の制限をつける事が可能になったのである。

 次に、「四将上奏事件」であるが 鳥尾小弥太谷干城三浦梧楼曾我祐準ら四人の将軍達が、黒田清隆らによる『北海道官有物払下げ』事件を知り、『このような不正がまかり通るような腐敗した政治を改善しよう』として、天皇に上奏してしまったのである。

北海道官有物払下げ事件は、2015年度下半期放送のNHK朝ドラ「あさが来た」で関西貿易商会の五代友厚が汚職事件として窮地に立たされる場面で描かれている。この上奏事件は軍人が政府の政策に意見したり、政府の要人でもない一軍人の意見具申先として天皇が目標にされてしまうこと(天皇の政治利用)が非常に問題視された。またこの四将軍は軍方式では反山縣派(フランス派)で、山縣(ドイツ:プロイセン派)に対抗する軍内部の派閥抗争の表面化でもあった。

この事態に陸軍卿の山縣有朋は慌てて「軍人訓戒」を発布、後の「軍人勅諭」に通じる「天皇の絶対神聖」「軍の政治的中立性」を規定して、軍内部の意識改革・思想統一を図る。

そして近代国家の軍隊における先進的な統率モデルとしてプロイセン(ドイツ)方式を採用し、教官を招聘する。

クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル:wiki
メッケル少佐陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はドイツに兵学教官派遣を要請した。ドイツ側は参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校(de)の兵学教官のメッケル少佐を派遣した。彼は1885年3月に来日した。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は望外の喜びであった。もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。

日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。


東條英教(とうじょうひでのり)は東条英機の父、秋山好古(あきやまよしふる)は日露戦争の奉天会戦で陸軍の騎兵隊を指揮しロシア軍のコサック騎兵隊を撃破して日本の勝利に貢献した人物。海軍の連合艦隊作戦参謀で日本海海戦に於いて奇跡的勝利を実現する作戦を考案した秋山真之(あきやまさねゆき)は弟。

師団の編制と編成の推移:帝國陸軍部隊[師団]総合インデックス
師団編成以前に、日本には6軍管に鎮台と歩兵連隊を置いて常備軍としていた。

しかし、沖縄や韓国を巡っての清との対立により、将来生起するであろう清国との戦争において兵力や戦備が不足されることが予想された。明治15(1882)年に陸軍は「軍備拡張計画」を立案し、十ヵ年計画で約2倍の兵力を整備することとした。また同年、鎮台条例を改正して歩兵連隊2個で旅団を編成する(これ以前は連隊は大隊に分かれて旅団に所属)し、更に21(1888)年に鎮台を廃して師団を編成した。
(中略)
この時の師団平時編制は、歩兵旅団2個(各2個歩兵連隊)、騎兵大隊、砲兵連隊、工兵大隊、輜重兵大隊
総人員は9199名(歩兵連隊は1721名)である。
この時に定められた[師団−旅団−連隊−大隊−中隊−小隊]という編制が、以降の陸軍編成の基本となった。なお、近衛都督(近衛兵)も、明治23年に師団編成となっている。明治27年からの日清戦争は、これら師団が戦時に増員充足され、戦時編成(戦闘序列)となって戦った。

組織がまだ小さく育成する人材がまだ乏しい時代の先駆的帝国陸軍の兵力は、軍予算の少なさもあってせいぜい総勢2万人以下の弱小軍だった。上記の台湾出兵でさえこの当時の軍の規模としてはかなりの兵力を割いたものであり、実質的に海外派兵する力は無かったと言って良いだろう。

年度歩兵砲兵・工兵・他合計人数
明治4年17大隊・19小隊計9隊14,249名
明治7年25大隊計11隊31,626名
明治10年16連隊計16隊33,544名

※参考:陸軍沿革要覧、(「歴史人」2014年11月No.50:KKベストセラーズ)

帝国陸軍の名が冠せられるようになった1889年(明治22年)以降、軍編成上の変更点が明確になる。それまでは国内治安維持部隊であった陸軍が、帝国主義的領土拡大路線へ組織的膨張を始める。

対外的な安全保障上のリスクを考えた日本は、明治維新当初より朝鮮半島の李氏朝鮮政府に開国と近代化を促し、南下政策を取るロシア帝国の脅威に備えようとしていた。それが一因となって西南戦争まで起こり、1882年(明治15年)の甲申政変が起点となって日本と清国の対立が激化したことが「軍備拡張計画」という帝国主義の軍事的展開を加速させる。

帝国主義を政体に取り入れた以上、この流れは不可逆でありその当時の国際感覚としては当然であった。帝国主義である以上、国益を最大理由とする武力介入は必然だが、実質的に現在の国際的倫理観と何も変わらない。その意味で、世界の覇権国家であったアメリカはその特徴を現代でも最もよく示していると言えるし、そのポジションを狙わんとする野望を抱く中華人民共和国は今や最も先鋭的な帝国主義的倫理観を有していると言って良いかもしれない。

これまでの当シリーズでも触れたように、この時期の日本の主要外貨獲得手段(貿易主力産物)は生糸と米そして人間(海外売春婦・人身売買)であった。

からゆきさん:wiki
からゆきさんとして海外に渡航した日本人女性の多くは、農村、漁村などの貧しい家庭の娘たちだった。
(中略)
こうした日本人女性の海外渡航は、当初世論においても「娘子軍」として喧伝され、明治末期にその最盛期をむかえたが、国際政治における日本の国勢が盛んになるにつれて、彼女らの存在は「国家の恥」であるとして非難されるようになった。1920年の廃娼令とともに海外における日本人娼館も廃止された。多くが日本に帰ったが、更生策もなく残留した人もいる。

ある意味で富国強兵政策の犠牲者と言えるかも知れないが、その当時の日本の安全保障を確保するためになりふり構わない方法を取らざるを得なかった点では、こういう「身を切る」痛みを当時の日本人は少なからず共有していたのではあるまいか。

現代では容認できそうもないこうした政策も、当時に残っていた主従の関係を重視する儒教的倫理観や、自然災害に対峙するための運命共同体維持の共有意識としての「公(おおやけ)」あるいは「同調強制」が、天皇制の神聖化とともに国家神道と結びついた「敬神崇組」「報恩感謝」「滅私奉公」の教育強化によって「必要悪」と言うよりは「国に尽くす誉(ほまれ)」として賛美された面は否定できまい。

他国を侵略して国と国民を富ませるために自国の民を売る。本末転倒のようなこの状況も当時の日本人には「国のために自分が役に立つ」という名誉意識、公共意識によって支えられたと考えれば、現代の疑心暗鬼に満ち満ちた国民意識に比べればなんと純粋でひたむきな楽観的共有意識だったのだろうか。

しかし、それがいずれ致命的な帝国崩壊の一因となっていくことを、この時の日本は全く気づいていなかった。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

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