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帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】

大日本帝国憲法の本性

回数を重ねた割には急ぎ足で「明治維新」を検証していたために、大日本帝国憲法をしっかり検証していなかった(^^;)順序が逆かも知れないが今回は日本初の近代憲法である大日本帝国憲法について調べてみよう。

と言っても、近代法典としての憲法論などは専門家の領分であろうし、素人の私が文献をあさったところで真の理解に繋がるかは心もとない(^^;)なので、明治維新の一つの到達点としての大日本帝国憲法とそれに至る道筋を考えてみたいと思う。

明治維新の特色は、旧来の日本的政治体制を捨て全てを西欧列強の近代的方法論を日本へ適用すること(西欧の文明論や国家観のローカライズ)である。となれば、国内でいかに情報収集をしようとしても限界があり、幕末から明治維新後にかけて、有名無名の使節や留学生が絶えずヨーロッパや米国に渡って西欧列強のエッセンスを学んでいた。

●日本からの渡航者年表
和暦西暦渡航先内容参加者
万延元年1860年アメリカ日米通商条約
批准書提出
幕府使節団
小栗上野介、咸臨丸での随行者の
福沢諭吉、中浜(ジョン)万次郎
らを含む77名
文久元年1862年ヨーロッパ開港延期交渉
幕府使節団
福沢諭吉、寺島宗則ら38名
文久2年
※旧暦
1862年オランダ幕府留学生榎本武揚、津田真道、西周(日本人
最初のフリーメイソン)
文久3年1863年ヨーロッパ長州藩留学生
(長州五傑)
井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、
伊藤博文、井上勝
文久3年1863年ヨーロッパ横浜鎖港談判
幕府使節団
池田長発ら35名
元治元年1864年アメリカ密航新島襄
慶応2年1865年イギリス幕府留学生14名
慶応2年1865年ヨーロッパ薩摩藩留学生森有礼、五代友厚ら15名
慶応2年1865年ロシア樺太国境
画定交渉
幕府使節団
小出秀実、石川利政
慶応2年
※旧暦
1866年アメリカ薩摩藩留学生6名
慶応3年1866年ヨーロッパパリ万博出展
幕府使節団
徳川昭武(御三卿清水家 徳川慶喜
の実弟)、渋沢栄一
明治2年1869年ヨーロッパ軍備視察山県有朋、
西郷従道(西郷隆盛の実弟)
明治3年1870年アメリカ
〜イギリス
契約交渉など上野景範、前島密
明治3年1870年アメリカ
〜プロシア
普仏戦争視察大山巌、品川弥二郎、
中浜(ジョン)万次郎ほか
明治4年1871年アメリカ金融関係視察伊藤博文と
銀行家一行
明治4年1871年アメリカ〜
ヨーロッパ
明治新政府
岩倉使節団
木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、
伊藤博文、大久保利通など留学生
を含む107名

※慶応4年/明治元年(1868年)〜明治4年(1871年)にも明治の元勲達の子弟が多数留学。また、外国発注の船舶(蒸気船:軍艦)の買い付けや受け取りに向かった幕府使節がある。
※慶応4年/明治元年(1868年)〜明治6年(1873年)にかけての5年間に、500人以上が日本から海外へ渡り、1871年1年間のみで350人。うち150人が政府の公費留学生、120人が諸藩からの公費留学生、残りの80人が自費で渡航している。
参考資料:犬塚孝明『明治維新対外関係史研究』 、宮永孝「万延元年の遣米使節団」、「幕末遣欧使節団」

表内のリンク日米修好通商条約は、安政5年(1858年)に調印されたが、ペリー以来の砲艦外交に加え、イギリス・フランスの清国侵略の現状を訴えて、外交上の時間稼ぎのためにも「友好的なアメリカと条約を調印することにメリットが有る」との救済的意味合いを幕府に吹き込んだため成立したらしい。

不平等条約と称されるほどに関税自主権がなく、領事裁判権をアメリカに握られた点が独立国家同士の対等な関係でない条約だったが、アメリカに上手く言い込められた印象は拭えない。

日米修好通商条約:wiki
条約
(堀田)正睦は自ら(岩瀬)忠震を伴って安政5年2月5日(1858年3月19日)に入京し条約勅許に尽力したが、3月12日(1858年4月25日)の武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。また孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、3月20日(1858年5月3日に勅許を拒否した。
一方のハリスも、アロー号事件をきっかけに清と戦争中(1856年 - 1860年)のイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早くアメリカと条約を締結すべきと判断した。

老中首座堀田正睦をはじめとする幕閣の多くは色を失い焦っていたように見える。大老に就任した井伊直弼は腹の座った人物だったようで、最後まで勅許を優先する意向を示したが、勅許を得ないまま条約調印を下田奉行井上清直らに行われてしまう。

列強との条約調印もその後雪崩を打ったように調印してしまい、

安政5年(1858年)6月 日米修好通商条約(アメリカ)
安政5年(1858年)7月 日蘭修好通商条約(オランダ)
安政5年(1858年)7月 日露修好通商条約(ロシア)
安政5年(1858年)7月 日英修好通商条約(イギリス)
安政5年(1858年)9月 日仏修好通商条約(フランス)

安政7年(1860年)8月 日葡修好通商条約(ポルトガル) 
万延元年(1861年) 1月 日普修好通商条約(プロイセン) 
慶応2年(1866年)7月 日伊修好通商条約(イタリア)
明治2年(1869年)9月 日墺修好通商航海条約(オーストリア=ハンガリー二重帝国) 

と、西欧列強との不平等条約をほとんど明治維新までに結んでしまう。幕府の要人としては清国の惨状を知り、列強の武力に怯えきって「攻められないための安全保障」としての側面が強いわけだが、やがて留学生が多数西欧に留学して学ぶにつれ、差別的な待遇(不平等条約)である認識が深まり、対等な外交関係を求めて改正交渉が始まる。

開港延期交渉や横浜鎖港談判などがそれだが、結果は不調に終わり明治新政府に変わってからはその改正が大命題となった。その明治政府の最初の外交使節が岩倉使節団だが、長期間の渡航のうちに日本国内の実情と西欧列強との力の差を見せつけられ、急進的な改革(近代化)路線を模索することになる。その一環が大日本帝国憲法だった。

岩倉使節団

いわゆる「西洋かぶれ」によって「文明開化」と呼ばれる西欧文化の模倣が始まり、日本の文明国ぶりをアピールする鹿鳴館も作られて日本での西洋文明の習熟度を知らしめて「不平等条約の対象にするような野蛮国ではない」と思わせようと躍起になった。

鹿鳴館:wiki
鹿鳴館
鹿鳴館(ろくめいかん)は、国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。

鹿鳴館の建設と欧化主義を主導したのは長州ファイブの1人だった井上馨である。しかし本物を知る外国人の目には「まるでどこかの温泉街のカジノのようだ(ピエール・ロティ『江戸の舞踏会』)」程度の認識でしかなく、一部の渡航経験のある婦人たちが話題になったものの「猿真似」の汚名は中々消せない。大山捨松(大山巌夫人)井上武子(井上馨夫人)陸奥亮子(陸奥宗光夫人)などは今日までそのエピソードが伝わるほど評価の高かった人だが、さすがに彼女たちだけでは全体の評価を底上げするには至らない。

三婦人

この時の明治新政府の焦りあるいは欺瞞を描いたようにも見える文学がある。

三島由紀夫の『鹿鳴館』:うたかた日記
影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。
朝子:一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません、
影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子:世界にもこんないつわりの、恥知らずのワルツはありますまい。
影山:だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。
朝子:それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ。

明治時代、それまで着物に髪結いをしていた習慣を打ち捨て、ドレスに身を包んで宝石で着飾り、慣れないワルツを踊る。
まるで早く一人前の扱いを受けたいと背伸びする子どものように、西洋諸国の仲間入りをせんと身の丈を超えた涙ぐましい頑張りを続けていた日本。
どんなに馬鹿馬鹿しいと思おうとも、本音を隠す仮面をかぶって、自らの理想を演じ続ける…。
そうした国の有様が、美しく象徴的に描かれた場面です。

やがて不平等条約のなかの領事裁判権による日本側の不満を噴出させる事件「ノルマントン号事件」が起き、その顛末をめぐって井上馨は失脚、鹿鳴館に代表される欧化政策も見直される。

西洋に媚びを売る「媚態外交」とまで酷評されるに至って、全く真逆の方向性が土台となる「憲法創設」が脚光を浴びる。それ以前の不満士族の残滓を糾合した「自由民権運動」による私擬憲法草案作成が盛んに行われていたが、憲法制定に関する勅命が出たこともあり、政府内でも様々な憲法案が議論されるも乱立するばかりで収拾には程遠かった。やがて伊藤博文を中心とする要人が1882年(明治15年)に欧州の憲法を改めて研究するため渡航、帰国後には議会の設置の準備にも着手する。

大日本帝国憲法:wiki
憲法発布
大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法。明治憲法(めいじけんぽう)、あるいは単に帝国憲法(ていこくけんぽう)と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法(きゅうけんぽう)とも呼ばれる。
短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けばアジア初の近代憲法である。1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、第73条の憲法改正手続を経て翌5月3日に日本国憲法が施行された。

維新を成し得た明治の元勲たちだが、それぞれ憲法(立憲君主制)に対する考え方は差があり、議論百出するもまとまる兆しが見えなかったことも「憲法研究のため」再渡航して専従チームに一任する形になったものと思われる。

wikiの記述を見る限り、草案作成には法律の専門家である外国人学者の監修も受けていたようで、戦後制定された日本国憲法同様「日本人だけで作成された」とは言いがたいものがあるが、唯一異なるのは、最終的な決定権を大日本帝国憲法の際は日本側が有していたことで、戦後の日本国憲法の際は「占領軍の意向が色濃く反映」されたものであったことだ。

そろそろ、日本人だけで「一から新しい日本国憲法を起草しても良い頃」ではないかとも思うのだが・・・。

明治維新当時、世界を支配していたのは激しい植民地争奪戦を演じ覇権争いをしていたイギリスとフランスである。幕末期にはそれぞれ薩長側・幕府側に肩入れするなど明治維新以降も影響が最も強くなりそうな両国だったが、何故か憲法のモデルとしたのはプロイセン(プロシア)王国だった。
理由としては諸侯国家だったドイツ〜ポーランドの国家群を統合し、統一ドイツとしてドイツ帝国の基礎となった国家だった点である。日本における幕藩体制を中央集権国家に改造する上での国の成り立ちに共通点が多い事や、君主国家であり民主的議会を持つ近代立憲君主制のお手本として、また強国と思われたフランス(この当時はナポレオン3世の第二帝政期)との戦争にプロイセンが勝利したこと(普仏戦争)が大きく影響したと思われる。
とは言え、プロイセンの憲法をまんまコピーしたものではなく、欧州各国の憲法から「いいとこ取り」したようなものに仕上がっているらしい。日本人の「新しもの好き」な感性と「極めようとする」求道的意識が反映されたものと見たほうが自然だろう。

イギリスは日本と同じく海洋国家であり、君主国家である。世界最強の海軍を擁し覇権国家としての地位を築いていたが、維新に至るまでに日本と接点が多すぎることもあって政治的侵略(介入)を警戒したのか憲法や政治のシステムについては影響が強いとはいえない。
ただ、薩英戦争以来の軍事部門の影響力は強く日本海軍はイギリスの影響が色濃く出ていると言われている。しかし陸軍は当初最強と思われていたフランスがプロイセンに負けると、プロイセンの陸軍を見習った。

日和見といえばそうかもしれないが、イギリスやフランスのようにすでに海外に植民地を多数持っていた覇権国家に対し、プロイセンのように急速に成長を続ける途上にある国家に自分たちの日本を重ねてイメージしやすかったのかもしれない。ドイツ人のような勤勉さを持つ日本人であるがゆえに、ドイツの祖先とも言えるプロイセンに同じ気質の存在を見ていたようにも思えるのである。

帝国憲法
<画像元:国立公文書館>

ポイントを抑えたつもりで見てきたが、憲法起草と成立に関しては上記のようなところだろうか。最後に法律論的な部分を少しだけ検証しておきたい。大日本帝国憲法の特徴的な部分は、天皇大権と呼ばれる国のあらゆる決定権であり、行政の執行官である内閣や総理大臣の権力を規定していないと言われるところである。
あくまで国の行うことは天皇に権力があり、内閣や議会は天皇の統治を輔弼(ほひつ)する機関であって天皇に変わってこれを執り行う権利を持たせないと云う考え方である。

これは旧幕府などの「天皇親政代替機関」に見られる「朝廷(皇室)軽視」や実権の委託による天皇の権威の形骸化を排除するためであったと思われるが、昔より天皇親政は事実上形骸化しており、時の権力(政治的・軍事的実力)者が天皇の権威を背景に立法・行政・軍事を仕切る体制が取られてきた。

明治新政府は「天皇親政代替機関」ではなく「天皇親政の補助代行機関」という位置づけと考えていいだろう。あくまでこれは「建前」ではあり、実際は内閣や政府内の要人が合議の上決定した政策を天皇の裁可を得るという部分での決定権でしか無い。天皇陛下自らが政治に関わり政策を提言して行政を管理し(指揮し)責任をもつと云う性格のものではなかった。

昔から日本における政治的権威の最高峰が天皇であり、その意思は尊重しても意見・立案・具申するのは臣下である。この形態は基本的に変わらなかったと見るべきだろう。第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記述されたのは天皇主権を明記したとも取れるが、「万世一系」という神話的な表現を取り入れた部分からも「天皇を最高権威と戴く思想的な表明」を謳ったものと考えるのが妥当なようだ。

昭和十二年五月に文部省が刊行した『国体の本義』(文献8)にも、「天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。」とあり、当然のことながら帝国憲法の告文にも「皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ条章ヲ昭示」とあり、「祖法の確認」をしたのが帝国憲法である。これを「欽定憲法」と呼ぶが、「欽定」とは、天皇が憲法制定権力者(主権者)として創設したといふ意味ではない。「欽」とは、「つつしみかしこまる」といふ意味であり、皇祖皇宗の皇裔である明治天皇が皇祖皇宗に対して、つつしみかしこまつて遺訓を明徴して定められたといふ意味である。
南出喜久治:國體護持(こくたいごじ)第1章より抜粋

主権と書くとどうしてもそれが特定個人に向かう場合は「支配者」「専制君主」「独裁」的なニュアンスが出てくるが、大日本帝国憲法で書かれた「天皇主権」は少なくとも「暴君」を生み出す主権ではなかった。暴君になるのはいつの時代も「主権者の威光を笠に猛々しく主張する者達」なのだ。
デモ
<画像元:とろ速報>

大日本帝国憲法〜大日本帝国憲法の問題点:wiki
大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」とアドバイスした。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になった。これが後に日本に大変な災いをもたらすことになった。この欠陥に気づいた軍部が政府を無視して暴走しはじめたのである。「陸海軍は天皇に直属する」という規定をたてに政府の言うことを聞かなくなった。これが「統帥権干犯問題」の本質でもある。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える。

どんなに美しい品物も人の目にさらされる場所では埃が溜まり汚れがついてしまう。汚れがつかないようにガラスケースに入れれば埃はつきにくいがその品物に触れることもメンテナンスすることもできなくなる。
行政に影響する立法は頻繁に行われ、短期間のうちに時代の流れに即して変化させ不具合を生じないメンテナンスが行われる。
しかし憲法は最初から最後までタダの一度もメンテナンスが行われず、放置されるがままであった。欠陥がありながらそれに手を付けず屁理屈をこね回して有名無実化してしまうあたりは、今の政権が解釈改憲で形骸化を促進したのと同じだし、「不磨の大典」と奉って改正を許さなかった考え方もまたその現実的対応を否定し、「骨董品的(理想主義的)価値」に思考停止した現代の護憲主義と何ら変わらない。

憲法は大日本帝国の時代も「磨かれること無く錆びるがまま」に捨て置かれた。現代もその点では変わりない。大日本帝国憲法はある意味で欠陥憲法であった。現日本国憲法も同じである。時代や世界情勢に合わせて、自国を法の精神において誠実であるように磨き続ける努力が必要なのだ。

世界の国々はその意味で勤勉に「憲法を磨きこんで改正することを恐れない」。我が国は「何を恐れて不磨の怠慢を貪っている」のだろうか?「本当に守るべきものを履き違えて」いないのだろうか?

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想

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