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帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】

侵略という思想

ここまで明治維新に関連する事象をいろんな視点で考察してきた(つもりである)。が、それでも「奇跡的」とも言えるこの近代化に、アジアに深い傷跡を刻み続けた西欧列強が直接的に介入してこなかった理由がいまいち合点がいかなかった。

帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥

過去のシリーズ内でも同じことを検証してきたが今一度「侵略する側の視点」で見直してみる。

アジアに西欧列強が侵略を始めたのは、新大陸と称されたアメリカが独立し(1778年:日本は徳川将軍第10代家治〜側用人田沼意次の時代)、そこで得られていた植民地利権を失うことによって他の地域に「植民地としての搾取対象を求めた」のが原因であった。

しかしそれ以前の大航海時代の頃から西欧とアジア諸国の公益は盛んになっており、種子島へのキリスト教・鉄砲の伝来もその一つの現われである。

鎖国:wiki
鎖国完成まで
「鎖国」体制は、第2代将軍秀忠の治世に始まり、第3代将軍家光の治世に完成した。
・1612年(慶長17年)幕領に禁教令
・1616年(元和2年)明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する。
・1620年(元和6年)平山常陳事件。英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる。
・1623年(元和9年)イギリス、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
・1624年(寛永元年)スペインとの国交を断絶、来航を禁止。
・1628年(寛永5年)タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
・1631年(寛永8年)奉書船制度の開始。朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となった。
・1633年(寛永10年)第1次鎖国令。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
・1634年(寛永11年)第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
・1635年(寛永12年)第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた[参考 8]。
・1636年(寛永13年)第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
・1637年〜1638年(寛永14年〜15年)島原の乱。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
・1639年(寛永16年)第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している[参考 9]。
・1640年(寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
・1641年(寛永18年)オランダ商館を平戸から出島に移す。
・1643年(寛永20年)ブレスケンス号事件。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される。
・1644年(正保元年)中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続けた。
・1647年(正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
・1673年(延宝元年)リターン号事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。

武士の時代。主従関係を中心とした価値観と体制を危うくさせる宗教や思想に対して絶対的な拒絶を行って鎖国を完成させたことがわかる。それは経済支配を含む西欧列強の進出を結果的に止め、清国の侵食をウォッチするに最適な環境でもあったとも言えよう。

1800年頃の植民地
※1800年頃の植民地(クリックで拡大)<画像元:植民地主義(wiki)>

西欧列強は新大陸発見と同時にアフリカに進出し黒人奴隷の供給地として一部支配していたが、部族社会で国家としての体をなさないアフリカ大陸の殆どの地域は産業革命後の近代化された欧米には未整備の広大な土地でしか無く、開発投資から入らなければならない「手のかかりすぎる土地」でしかなかった。すでに多大な投資をした挙げ句独立されてしまったアメリカの轍を踏むよりも、「既に完成された国家を乗っ取る」方がコストパフォーマンス的にも優れているわけだ。

アフリカ大陸に比べると文化的経済的に自立し民族・宗教・文化の集合体としての国家を形成していたアジア地域は、欧米列強の進出(侵略)対象として好適地であったことは間違いない。

1850年頃の植民地
※1850年頃の植民地(クリックで拡大)<画像元:マスコミに載らない海外記事>

体制が確立した他国を征服するには「軍事侵攻」が一番早い。経済進出し、そこで経済抗争を発生させ現地国側の蜂起を誘発すれば軍事侵攻の口実は手に入る。あるいは侵略国同士が現地で対立し戦争に発展させてその地での優劣を決すると同時に支配権を強奪、または戦勝国への依存体制を深める戦略がある。実質的な支配に至りさえすれば、もともとある体制を一部利用しつつ効率的に「侵略度」を深めることが出来る。

地図を見ればわかるが航空機がない時代、物資の輸送ルートは当然陸路と海路しか無い。つまり海路上の中東からインド、ベトナムやインドネシア、中国と大陸沿いの周辺国が軒並み植民地化されている。インドの綿花やスパイス、中国の茶・陶磁器・絹の輸送ルートは現在でも石油などの輸送ルートでありインド洋から南シナ海・東シナ海は交易の要衝と言える。日本は資源もなく、これらの国に比べて自給自足がやっとの貧しい小さい国であったため、貿易拠点を確保し他の西欧列強を排除して貿易を独占するような旨味がない。血を流してまで征服する魅力に欠けるという点もある。

あと、西欧列強が日本を手に入れるにあたって逡巡したとすれば、支配体制の分かりにくさだったかもしれない。

権威の最上位にある朝廷と軍事経済を牛耳って実質的支配権を有する幕府の二重支配構造は、西欧列強の近代的支配体制である立憲君主制に似てはいるものの、独裁的な実権を持つ将軍が天皇の勅許を得なければ、内政以外の政治課題(外交権・安全保障など)を処理できないという不可思議。日本的な体制故に最終的な実権がどこにあるのか不明瞭である。

だから日本の近代化を援助し、支配体制を西欧型に作り変えて(侵略しやすく変更させて)時間を掛けて慎重に進めていったようにも思える。なぜなら他のアジア諸国よりも複雑な体制と興味深くならざるをえないほどの国民の識字率の高さ(知的水準の高さ)、シンプルで独特の文化に支えられた美意識と好戦的な武装階級(武士)の数の多さ。

力攻めでは採算が合わず、上手く立ち回って経済支配を目論むほうが有利と考えたことだろう。

実際に、当時の日本の貴金属の価値基準(交換比率)が西欧とは異なったために貿易をして日本から「金銀」を入手したほうが単純に儲かったことも大きい。

幕末の通貨問題:wiki
外国人商人が1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換し、両替商に持ち込んで4枚を小判に両替して、国外に持ち出し地金として売却すれば莫大な利益が得られることとなった。地金としての1両は4ドルに相当する。従って、1ドル(メキシコドル)→3分(一分銀)→0.75両(天保小判)→3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで利益を上げることができた。実際には、開港直前の1859年6月25日(安政6年5月25日)の触書の中で、その当時小判として最も多く流通していた天保小判は一分銀5枚の増歩通用と、は8枚から9枚と跳ね上がった。それでも一年間にこのような両替を5〜6サイクル程繰り返し、利益を上げることが可能であったという。結果、大量の金(小判)が海外に流出することになる。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしたことを、日記に記している。幕末の通貨問題

金の流出対策として通貨の改鋳なども行われたが、国内経済にはインフレの発生という副作用を伴うなど不平等条約とあいまって幕府を悩ませた。実際の金の流出量に関しては諸説あるが、金融業者にはこの上なくオイシイ話に違いない。金融や流通の社会インフラを有し、国民の知的水準の高い国ならば、外国人が入り込む余地はむしろ「知的な部分」が最もコストパフォーマンスが高い。つまり情報や資金・武器そして技術の提供で十分利益を挙げられる。自らの血を流して奪い取るよりもリスクが少ない。

生麦事件を機とした薩英戦争や下関戦争こそ外国軍と日本側の武力集団が交戦したものの、その後の戊辰戦争には直接介入しなかった点でも、直接的侵略から方針転換したと見るのが妥当だろう。

日本人だけが知らない戦争論:苫米地英人フォレスト出版(2015年)
日本人だけが知らない戦争論じつは、1864年から始まる長州戦争から1868年からの戊辰戦争の流れも、クロムウェルのイングランド内戦をひな型にして周到に計画されたのではないかと疑うだけの充分な材料があります。
 そのひとつは、資金源。

 薩州や長州で討幕運動が活発化し、戊辰戦争に至るまでの膨大な戦費は、イギリスの銀行家が提供していたと見られます。いっぽう、幕府は幕府で、フランスの銀行家からそれを受けていたと考えられます。
 このように書くと、戊辰戦争がイギリスとフランスの代理戦争だったかのように見えますがそうではありません。当時イギリスは第1次産業革命のさなかで、「世界の工場」と呼ばれ、世界中に綿製品などを輸出していました。幕府が買っていたのも当初は綿製品でした(後に武器が主になっていきます)。つまり輸出でお金を稼いでいる国でしたが、イギリス国家そのものは度重なる戦争による破産状態で、戦費を銀行家から借りている借金国家でした。
 ですから、薩長にお金を貸していたのは、イギリス政府ではなく、イギリスの銀行です。フランスも全く同じ状態で、幕府にお金を貸していたのはフランスの銀行です。もちろん、フランスもイギリスも銀行の株主は同じ人たちです。

つまり株主はそれぞれの国のロスチャイルド家一族ということになる。上述の薩英戦争や下関戦争は、尊皇攘夷思想に凝り固まった(反幕府的)外様の雄藩の起こした衝突だが、これらの藩で尊皇攘夷を藩の行動基準として主流派を形成したのは、藩上層部ではなく若い下級武士たちだった。

日本人だけが知らない戦争論:苫米地英人フォレスト出版(2015年)
 彼らは、脱藩という天下の重罪を犯してまで京に出て潜伏し、隙(すき)あらば敵対する浪士を殺傷しあうなど暴動を繰り返しました。これは、イングランド内戦やフランス革命のさいに、どこからともなく現れた得体の知れない民兵の存在を想起させます。
 日本の小説やテレビドラマは、彼らをさも国家の未来を憂える若獅子の群れであるかのように描いてきましたが、実態は必ずしもそうではないように見えます。むしろ、「世相の混乱を演出するために京の町に送られた傭兵」というほうがぴたりときます。
(中略)
 また、高杉晋作の奇兵隊も実態は同様だったようです。町の地蔵の首を切ったり、無銭飲食する輩などがかなりいたようです。ちなみに5000人以上いたとされる奇兵隊御楯隊遊撃軍などの諸隊の資金の出所は、一切の記録が残されていません。
 坂本竜馬の新政府綱領八策にみられる民主的な国家統治の視点は、イングランドやフランスの革命においても、改革の要諦とされた内容です。これは、竜馬に、おそらくグラバー(幕末に活躍したスコットランド出身のイギリス人の武器商人・実業家)達がレクチャーした知識をもとにしたものでしょう。議会政治を実現し、王から通貨発行権をもぎ取らなければ、いくら中央銀行の設立にこぎつけても、ヨーロッパの大銀行家が貸した戦費を回収し、さらに巨額の利益を独占することはできないからです。

他のアジア諸国には直接的な戦争を仕掛けたりしていた西欧列強が、日本だけ直接的な支配を実行しなかった背景が、「国家として西欧程ではないが成熟していた点」であるとしたら、イギリスやフランスのような内戦を誘発して経済支配を狙う<ロスチャイルド一族>の思惑が、「これ以上の戦費を出したくない英仏両政府側の意思と連動した結果」だとしたら、実に狡猾な手法によって日本は近代化させられたものだと言わざるをえない。

ロスチャイルド私に一国の通貨の発行権と
管理権を与えよ。
そうすれば、誰が法律を作ろうと、
そんなことはどうでも良い。


マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1790年の発言)
なぜ反ロスチャイルドなのか

国家が常にその繁栄と国民の幸福を希求し実現する上で、あるいは独裁者の絶対権力で欲望を満たす意味でも、必ず必要なのは資金である。産業振興であれ軍備であれ福祉政策であれ、その国の経済状況とは切り離せない。だからこそ下手な為政者よりも絶大かつ絶対的な影響力を行使できるのは、金を生み出せる権力者だけなのだ。金をコントロールできるものは戦争もコントロールできる。つまり世界をもコントロールできる。その意味で、明治維新に彼らの意思が無関係であるとは思えないのである。

彼らがレクチャーした近代化と帝国主義的世界観(倫理観)がその後日本をアジア唯一の近代国家ならしめたのは間違いないが、やがて朝鮮半島や中国大陸に目を向け始めたのもはたして純粋に国家の安全保障上の問題だったのかが疑問に感じてきた。つまりそこにも「西欧列強(ロスチャイルド金融財閥)に誘導された戦争」の可能性があるのではないかという疑問である。

少なくともその後、(対外戦争に勝利したこともあるが)日本が領土拡張主義に陥ったその原点とも思える文章がある。明治維新に大きな影響を与え、反幕府の姿勢を崩さなかったため刑死した長州藩の吉田松陰によるものである。

幽囚録:wikisource
吉田松陰日が昇らなければ沈み、月が満ちなければ欠け、国が繁栄しなければ衰廃する。よって、国を善良に保つのに、むなしくも廃れた地を失うことは有り得て、廃れてない地を増やすこともある。今、急いで軍備を整え、艦計を持ち、砲計も加えたら、直ぐにぜひとも北海道を開拓して諸侯を封建し、隙に乗じてカムチャツカ半島とオホーツクを取り、琉球を説得し謁見し理性的に交流して内諸侯とし、朝鮮に要求し質を納め貢を奉っていた昔の盛時のようにし、北は満州の地を分割し、南は台湾とルソン諸島を治め、少しずつ進取の勢いを示すべきだ。その後、住民を愛し、徳の高い人を養い、防衛に気を配り、しっかりとつまり善良に国を維持すると宣言するべきだ。そうでなくじっとしていて、異民族集団が争って集まっている中で、うまく足を上げて手を揺らすことはなかったけれども、国の廃れないことは其の機と共にある。

※リンク先に原文記載あり<画像元:吉田松陰(wiki)>
幽囚録
<画像元:樹冠人蔵書目録>

ペリーの来航に刺激され、密航を企てるも失敗し、故郷の長州藩「萩城」内の野山獄に収監されたときに綴った事件を起こすに至った「思想の変遷」の記録である。後の大東亜共栄圏構想に通じる「西欧列強とは違う日本主導の新秩序づくり」が既に現れており、学問上の師であった佐久間象山の「海防八策」(海軍力を整備して西欧列強に対抗する国防論)以上に突出した膨張主義になっている。師の佐久間象山も吉田松陰も頭脳明晰ではあったのだろうが、人物的には問題の多い人格でその評価は賛否が激しく交錯する。

薩摩閥が減退し、長州閥が政権中枢を占める時期が続いたこともあって、松蔭の壮大な安全保障政策と未来へのビジョンが帝国主義と合流し、(他国から見て)日本の独善的な国際感覚の発露である「大東亜共栄圏構想」が芽吹いたといえるのかもしれない。

こうなると最早「侵略被害国予備軍=被侵略国」としての視点では捉えられない。対外的な形勢不利も飛び越えて、完全自主防衛独立のその後に、帝国主義的侵略国への脱皮にまで飛躍していたのだといたら、海外の金融資産家の調略を得なくても「近代国家とは対外膨張(侵略)国家」と誇大妄想的に解釈を膨らませていたようにも見える。

佐久間象山も吉田松陰も幕末期の英才であったが、西欧列強の帝国主義思想に染まり「自主独立と国威拡張」という「独善的侵略・支配」を「後進国に対する開化支援」の美名の中に覆い隠そうとしていたのかもしれない。それは尊皇思想から来る少中華主義ならぬ新中華思想(というか日本中心主義)的な自国の国益を最大限に希求して、周辺国もろともに近代化して西欧列強の侵略に対峙するという、ある意味でご都合主義的または強迫観念に支配された選民思想の発露と見えなくもない。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書

陰謀史観-戦前期日本の膨張主義-
十九世紀半ばから二十世紀初頭にかけての帝国主義時代には、国家が生存するためには武力の行使や威嚇で領土や勢力圏を拡張するのは当然とするのが、国際社会の通念となっていた。食うか食われるか、という弱肉強食の論理である。
 ところが、長い鎖国体制を解いて開国はしたが、列強に植民地化されそうだという危機感のなかで幕末、維新の思想家や志士たちは早くも日本の対外膨張を夢想していた。清国・朝鮮など他のアジア諸国には見られない特異な現象だった。


上述の吉田松陰の幽囚録などは対外膨張を妄想したものとして代表的だが、秦氏の著作を読むと同様の膨張主義が開明派と呼ばれた名君や思想家によって提示されている。例えば吉田松陰の幽囚録(嘉永7年:1854年)に遡ること約30年前には、もっと壮大な膨張主義を掲げた人物もいる。

宇内混同秘策:wiki
佐藤信淵佐藤信淵が1823年(文政6年)に著した、日本国内の統治論および世界征服論を開陳した奇書である。混同大論、巻一、巻二、泉原法略説から成る。

<画像元:不二草紙>

「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也故モ能ク其根本ヲ經緯スルトキハ即全世界悉ク郡縣ト為スヘク萬國ノ君長皆臣僕ト為スヘシ」で始まる本著は、強烈な自民族至上主義と、国内の統治及び世界征服の方法に関する極めて詳細な記述が大きな特色となっている。
本著で佐藤信淵は、世界を征服するために日本国内を固めることが大事だと説き、江戸に遷都し、日本の政治機構を3台(東京〈江戸〉・西京〈浪華つまり大阪〉・京都)14省(駿府・名護屋〈名古屋〉・浪華〈大阪〉・膳所〈大津〉・高知・松江・萩・博多・熊本・大泊〈鹿児島〉・金沢・沼垂〈新潟〉・青森・仙台)に分けた統一国家を作り、八丈島や小笠原諸島を開発し、さらにフィリピンを取ってその資源を利用し、かつ東京の防衛に備えることを主張した。

海外征服について、彼は「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と書き、中国征服を世界征服の第一歩として捉えた。軍事的及び経済的に満州以北を征圧した後に、中国本土へ台湾と寧波から侵攻し、そして南京に仮の皇居を定め、明の皇帝の子孫を上公に封じて従来の祖先崇拝を認めた上で、神社や学校を建てて教育せよと彼は述べている。中国を征服した後は、周辺の国も容易に征服出来ると彼は考え、最後にヨーロッパへ侵攻せよと主張している。

いや〜「皇大御國(日本)ハ大地ノ最初ニ成レル國ニシテ世界萬國ノ根本也」「日本は歴史上最初の国家であり世界の根本になる国である」とは、韓国起源説同様のトンデモな主張であるが(爆)海外渡航経験もなく書物などの耳学問を昂じた結果の結論であるなら「井の中の蛙」でしか無い。これが自国愛(愛国)の結実点とするなら笑うしか無いのだが、それだけで済まないのはこの論説に一部符合するかのように江戸が東京と改名して首都になり、朝鮮半島を経て満州国の建国、日中戦争から仏印進駐、太平洋戦争へと繋がる流れは、正に佐藤信淵の世界征服路線をなぞっているかのように実現しているからだ。

そういう意味では、西欧の帝国主義を日本に導入した場合の侵略のグランドデザインを描いたとも言えるし予言したとも言えるではないか(^^;)
皇国が中心となった「八紘一宇」の源流となる考えも示されている点では、トンデモな学者というより先見性のある優秀な思想家と見るべきかもしれない。

他にも同じような思想を提示した書物が多数発表されていて、それらは多かれ少なかれ佐藤信淵の影響と無縁ではないと思えるのだ。

山縣有朋陸軍卿:外征三策(『陸軍省沿革史』)1874年(明治7年)
「三数万の兵を率い、江蘇を蹂躙し機に乗じて……天津を突き城下の盟を」

桂太郎中佐:対清作戦策(故桂公伝記参考書(三))1880年(明治13年)
「まず海軍が福州を攻略し、陸軍は3個師団が遼東半島より天津、ついで北京に進撃し、城下の盟を求める」

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書

城下の盟(じょうかのちかい)とは、春秋時代の中国の歴史書で思想家の孔子が加筆したとされる「春秋左氏伝」の中の一節で「敵に首都まで攻め入られてする、屈辱的な降伏の約束。」の意味。

上記の山縣有朋・桂太郎らの言葉に似たものが後年、日本を窮地に追いやることになる。日本の世界征服の陰謀を記述したとする「田中上奏文」である。

田中上奏文:wiki
田中義一昭和初期にアメリカ合衆国で発表され、中国を中心として流布した文書で、第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)に昭和天皇へ極秘に行った上奏文とされ、内容は中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服する手順が説明されている。日本では偽書とされ、当時中国で流布していることに対して中国政府に抗議したところ、中国政府は機関紙で真実の文書ではないと報じたが、その後の日中関係悪化にともない1930年代に中国は反日プロパガンダにこの文書を利用し、日本は国連などでも答弁を求められるが各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し外交的に敗北することになった。1927年当時にはすでに死去している山県有朋が登場する等、事実関係の誤りが多いため日本の歴史家のほとんどは上奏文としては怪文書・偽書としているが、作者については諸説あり不明である。また、田中上奏文を本物と考える人は現在でも特に日本国外に存在している。
田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorial。


これらを見る限り、田中上奏文の作者は昔からつながる「膨張主義」の流れに沿っている点でこれらの著作物を参照・参考にしたことが考えられるし、史実に反する記述に関しては歴史的整合性や事実関係の把握が甘く、政策論文というよりも過激な思想を持つ人間が書いた不完全な思想論文を誰かが利用した可能性が高いと思う。ただし、これを書いたのが日本人である可能性は低くない気がするのだ。

しかし、秦郁彦氏によると田中上奏文を書いた真犯人らしき人物が指摘されている。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書
1980年頃のことだが、私は中国の大学に勤務する友人から王家禎(1899-1984)※管理人注:wikiが1960年に執筆し、北京の『文史資料集』に収録された「日本の二大機密文書翻訳の来歴」と題する回想記のコピーを入手した。王は慶応大学に学び、張学良政権の外交秘書主任をつとめ、三十代で国民政府外交部次長登用されたのち、中共時代には政治協商会議の委員になった人物である。
 その王は、1929年に日本の浪人や台湾系日本人の工作員(蔡智堪※管理人注:wikiが手に入れた材料に加工して上奏文を偽造し、政府部内へ配布した経過を記述していた。「真犯人」しか知らないはずの証言が含まれ、他の断片的記録とも符合するので信頼性は高いが、中国の歴史家でも知る人は一部に限られていたせいか、奇妙な現象が起きた。

本書では中国やその影響下にある国々(主に共産国家)では一時期、史実として扱われ、王家禎や蔡智堪は上奏文に関係する「上奏文否定派の一説」とされていたことが書かれている。被侵略国の中国を始めとして「日本を悪役に仕立てたい国には好都合な筋書きをまとめた田中上奏文」は、格好のツールでもあったのだ。ただ、これは少なくとも日本と西欧の歴史家では「偽書」として「怪文書」の扱いがされているし、最近では中国内でも偽書とする考えが主流となりつつあるようだ。

しかしそれでも、田中上奏文〜田中上奏文の来歴:wikiには他の説も網羅されているが、江戸末期から明治維新以降に継続して語られる誇大妄想的な膨張主義の一つの帰結点として秀逸であったとは思えるのだ。

陰謀史観(秦郁彦):新潮新書
 スケールがもっとも大きいのが佐藤信淵、ついで松平慶永で、後年の「八紘一宇」につながる世界制覇を夢想しているが、多くは列強の分割が未確定段階にあった朝鮮、清国を主目標とする東アジア大陸と南洋の一部にとどまる。
(中略)
 他にも、この種の勇ましい論調は珍しくなかった。林房雄が『大東亜戦争肯定論』(1964)で、「同じ意見は同時代の学者、政治家、志士の書簡や著書の中に見出すことができ、その数の多いのにびっくり」したほどだ。
 それを「日本の東亜侵略の第一歩」(井上靖)と見るか、「西力東漸(※管理人注 せいりきとうぜん:西の勢力が東の方へ押し寄せてくる意)に対する思想的反撃」(林房雄)とか「熱烈なる愛国心と民族的の自信からくる対外経綸(※管理人注 経綸-けいりん:国家を治めととのえること。その策)の萌芽」(『東亜先覚志士記伝』)と評するかは分かれるが、私にはどちらの指摘も当たってるように思える。

幕末期の武士たちの誇大妄想は、鎖国状態の事情に対する反動のようにも、「井の中の蛙」的な現実感の欠落にも見えなくはないが、自主独立を可能にする軍事力とは、当時においては帝国主義的拡張路線を現実化する点で切り離すことができないものだったのかもしれない。やるかやられるか、食うか食われるかの弱肉強食の戦国時代のような苛烈な環境に身を置く「自己陶酔的な高揚感」すら感じられるのである。

<関連記事>
●第一期
帝国の功罪(1)【ていこくのこうざい(いち)】大日本帝国の成立と発展
帝国の功罪(2)【ていこくのこうざい(に)】明治維新初期の産業と貿易
帝国の功罪(3)【ていこくのこうざい(さん)】江戸〜明治時代の教育レベル
帝国の功罪(4)【ていこくのこうざい(よん)】国民病「脚気」と「結核」
帝国の功罪(5)【ていこくのこうざい(ご)】北海道の光と影〜先住民族アイヌ
帝国の功罪(6)【ていこくのこうざい(ろく)】北海道開拓使の時代
帝国の功罪(7)【ていこくのこうざい(なな)】沖縄県民の歴史と感情
帝国の功罪(8)【ていこくのこうざい(はち)】廃仏毀釈と士族の冷遇
帝国の功罪(9)【ていこくのこうざい(きゅう)】売春婦と人身売買
帝国の功罪(10)【ていこくのこうざい(じゅう)】職業売春婦と慰安婦
帝国の功罪(11)【ていこくのこうざい(じゅういち)】日本軍の慰安所と慰安婦

●第二期
帝国の功罪(12)【ていこくのこうざい(じゅうに)】明治維新以前のアジア情勢と日本の安全保障
帝国の功罪(13)【ていこくのこうざい(じゅうさん)】明治維新の黒幕たち
帝国の功罪(14)【ていこくのこうざい(じゅうよん)】明治新政府の統治能力と藩閥
帝国の功罪(15)【ていこくのこうざい(じゅうご)】大日本帝国憲法と帝国議会の構成
帝国の功罪(16)【ていこくのこうざい(じゅうろく)】大日本帝国憲法の本性
帝国の功罪(17)【ていこくのこうざい(じゅうなな)】「天皇」の冤罪
帝国の功罪(18)【ていこくのこうざい(じゅうはち)】日本軍の黎明
帝国の功罪(19)【ていこくのこうざい(じゅうきゅう)】日本海軍と軍内部の抗争

●第三期
帝国の功罪(20)【ていこくのこうざい(にじゅう)】明治時代に勃興した財閥と軍事産業
帝国の功罪(21)【ていこくのこうざい(にじゅういち)】侵略という思想
帝国の功罪(22)【ていこくのこうざい(にじゅうに)】自由民権運動の変節

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