TSUTAYAの会員の更新を年初に行い、その時にもらった割引券を使わずに忘れていた。
そこで3本のDVDを借りてきた。そのうち2本はアニメがらみだ。大友克洋監督、
実写版「蟲師」と押井守監督
「スカイ・クロラ」である。
もう1本はこのブログでも
以前エントリを上げた平成版「日本沈没」だったが、見直してみてさほど印象は変わらなかった。良くも悪くもわかりやすく、通り過ぎていく映画で、日本人のメンタリティを単純化して見せてくれたその味わいに変わりはなかった。
「蟲師」は初見であり、数々のブログでもとっくに語りつくされていて、概ね「理解しづらい」「雰囲気は悪くない」「監督の自己満足」と少々厳しい目だが、今回見たところの感想を述べるなら・・・映像の出来は確かに悪くない。VFXをかなり使っている割には昨今のケバい(キャシャーンとかゴエモンとか、はたまた「嫌われ松子の生涯」あたりのゲップが出るくらい重く暑苦しい映像)仕上がりにならず、大友監督なりの「蟲師」の世界観の表現は成功しているようだ。残念なのは、やはり脚本だろう。時代設定をわざとぼやかしてる原作に比べ、「電気」の存在を会話の中に入れ、実際の時代考証の枠に入れ込もうとしたり、ギンコの恋愛観を会話に混ぜたり、そりゃ「野暮」ってもんでしょ(^^;)と突っ込みを入れたくなるような表現があったのはやはりイマイチだ。
また、1話完結のオムニバス作品群である原作をつなぎ合わせて整合性のある展開にもっていこうとするのは理解できるが、「狂言回し」・「語り部」としての役割を持つギンコの使い方を誤り、「蟲師:ギンコ」の誕生秘話からつながる話の顛末でくくるのは少々無理がある。原作でギンコの現在に至るエピソードは数少ないが、それをある程度忠実に追っていくことで、因果な宿命と能力を背負った人間の葛藤や心情の変化・成長をつむぐことも出来たはずだし、もっとギンコから引いた視線で「未知なる<蟲>とそれにまつわる人々の群像劇」でまとめた方がまだ入りやすかったのではないか?
この映画は、人間ギンコの掘り下げも中途半端、群像劇としても中途半端。脚本の練り上げが足りないと言う印象だ。その結果「余韻を持たせる意図があっての(?)あのラストシーン」までが中途半端。蟲師ギンコの終わり無き旅(希望的な含みのある未来)を見せたいなら、山の中の道をどんどん入っていく後姿(遠近法の1本道で退場していく主人公)のようなラストの方が印象的だし、その直前のシーンで別れた虹郎の叫びも投影できる。
もしくは右から左へ通り過ぎていくギンコをどんどんズームダウンし遠景の中に埋没させることで、「通り過ぎていく傍観者」としてのギンコの役割を際立たせても良かった。アニメが本業の大友監督の映像センスが意外と悪くなかっただけにこれらのマイナス部分はとても惜しい。少なくとも「一度見れば十分な映画」にしかなっていないのは残念だ。
さて、いい意味での「難解さ」で定評の(^^;)押井監督の
「スカイ・クロラ」は、私にはとてもわかりやすかった。
生きる意味を求め、キルドレたちが空であがく――「スカイ・クロラ」
「攻殻機動隊」や「イノセンス」での小説からの引用フレーズの多さや、やたら聞き取りづらい音響エフェクトで余計に把握しづらくなっている翻訳調で哲学的な「長い台詞」がなかった分とても楽だった(爆)
まぁ、これは原作の森博嗣のおかげかもしれない(^^;)
「スカイ・クロラ」で一番印象的なのは、やはり「空」「飛行中の浮遊感」の表現に尽きる。キルドレと呼ばれる「不老不死の子供の姿の戦士たち」などはいかにも日本の戦闘系アニメの王道を行くような設定だし(^^;)活躍の場が宇宙でなく「空」であったことも象徴的だ。
大人になっても「子供のころ夏休みの青空」は忘れない。無限に広がる時間と空間、限りない憧れの象徴こそが空なのだ。これが宇宙になってしまうと孤立感・孤独感〜隔絶された環境が意識されすぎて生身の実感に乏しくなる。それを証明するように登場する戦闘機もプロペラ機。ファッションも第二次世界大戦頃のテイストにまとめられ、何故か懐かしさのあるとてもハートフルなパーツしか存在していない。100%の絵空事にしない、皮膚感覚に近い情緒感を残しつつ感情移入を易しくする仕掛けが施されている。音楽も感傷的で癒し系のやわらかい音楽だ。いや、悲しさ・哀れさまで漂っているし、どこか諦めきった「厭世感」にも通じるように思えてくる。
世界観の構築手法の意味では先述の「蟲師」も同じ手法だ。肌になじみやすい純日本的な世界観の中で虚構を作り上げている。アニメ版「蟲師」は音楽も秀逸。アニメ版の作品全体にアンニュイな雰囲気が漂う点も「スカイ・クロラ」と共通点がある。
私のように余命の方が確実に少なくなったオヤジには、若者の無限に広がる「空」はもはやいくら望んでも手に入らない最高の宝だ。しかし、あれほどの青い空を持つ子供たちは「その無限さの中に閉塞感と限界を感じている」と言う皮肉。死ぬ以外に逃れられない境遇のキルドレの葛藤は、生きるための戦いを繰り返し、戦うことに違和感を感じなくなっていく大人の忘れた感覚でもある。
そういう意味で彼らの苦痛や葛藤は「大人」とて共有しているものだし、違うのは「終わりのある時間」の有無であり、そこに向かっていく自分自身の
アイデンティティ(自己同一性)が形成されるまでの期限付きの痛みである。まさにキルドレの悲しみは「終わりの来ない<永遠のモラトリアム>たる葛藤」であり、それこそ今の我々や若者に共通で抱く<先が見えない閉塞感>という深く刻まれた傷なのだ。
「スカイ・クロラ(Sky Crawler)」とは「空を這うもの」の意味だ。戦いの空に生きるキルドレ(永遠の子供)そのものであり、その憧れの時空で格闘する若者たちの総称でもある。
明日死ぬかもしれないのに大人になる必要があるの?
主人公が何気に問う台詞がある。この映画(というかドラマ)の根幹を言い表してる台詞でもあるが、私がもし主人公に返す言葉があるとしたら、
必要であるかどうかは君次第。そもそも外見的な「大人」に意味はないだろう?
生きてきた密度とそれで得られる成熟度を人間としての君自身が自覚し、望むかどうかだけだ。
と返すだろう。面白くもなんともない回答だが、「スカイ・クロラ」が表現している「荒涼感」に対抗するには、現実を直視する強さと、常に変化を求める「澱(よど)まない心」しかないのだ。それでも、空に憧れても高所恐怖症の私が実際に空を遊ぶことはまずない(^^;)
永遠の時空を持たないオッサンはひたすら「グラウンド・クロラ(Ground Crawler)」=「地を這うもの」として生きるだけなのだから(^^;)